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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.21)

父の「御心」、その本質を知りなさい!




あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「私の目は夜も昼も涙を流し、とどまることは無い。娘なる我が民は破滅し、その傷は余りにも重い。」・・・・あなたはユダを退けられたのか。シオンをいとわれるのか。何故、我々を打ち、癒して下さらないのか。平和を望んでも、争いは無く、癒しの時を望んでも、見よ、恐怖のみ。・・・・国々の空しい神々の中に、雨を降らし得るものがあるでしょうか。天が雨を与えるでしょうか。我々の神、主よ。それを為し得るのはあなただけではありませんか。我々は、あなたを待ち望みます。あなたこそ、全てを為し遂げる方です。
                                          【エレミヤ書14章17~22節】


父の「御心」を正しく捉える
 私たちが先ず覚えるべき存在、それが父なる神です。その父なる神の「御心」の本質(真意)を、私たちが誤ったイメージで捉えますと、私たちが歩むべき、その霊的方向性が全く違って来ます。私たちが父なる神の「御心」の本質、即ち父なる神の正しい「真実の心」を、聖霊様を通して知らされると、逆に「天のお父様は、御国の麗しい次元で、私たちのことを様々に考えているから、このような場合には、厳しい言葉をもって導かれ、このような関わり方をされる!」などと、その行き着く「先(ゴール)」を、正しく捉えることが非常に重要となります。


 実は放蕩息子の「喩え話」に登場する、真面目一筋の兄の為にも、父なる神は「御心」の真意として、彼の行き着く「先(ゴール)」を、放蕩息子(弟)と同様に用意しています。「真実の愛」をもって、真実の関わり(交わり)を持つこと!、これが父の「真実の心」です。そうです!「真実の愛」に基づいて、永遠の「親しい交わり」を、互いに交わし合うことで完成する、これが父の行き着く「先(ゴール)」です。


 たとえ不良息子(娘)が、悪しき生活(霊的放蕩)を繰り返したとしても、それに対して父親は、時々厳しいことを言って叱りますが、その厳しさの「本質」、即ち行き着く「先(ゴール)」は、「真実の愛」に基づく関係です。私たちが父なる神の「御心」の本質を、正しく、かつ明確に捉える時に、実は重要な一つのライン(イエス・キリスト)が見えてきます。


「真理」はあなた方を自由にする!
 今回学ぶべき第一の重要ポイント、それは「真理はあなた方を自由にする。」(ヨハネ福音書8章32節)の御言葉にあります。この御言葉にある「真理」を、「イエス・キリスト」と置き換える時に、この御言葉の重要性が見えてきます。そうです!イエス・キリストは、あなた方を常に自由にする為に、来て下さって(関わって下さって)いるのです。父なる神は何故、イエス・キリストを十字架に架けてまで、私たちの「命」の身代わりとして屠られた、その「理由(真意)」は、私たちを自由にする為です。


 私たちは、自分が既に自由である!と、声高に宣言しますが、果たしてそうでしょうか?私たちは、使徒パウロが明言するように、不自由さを感じて生きています。私たちは、自分が自由である!と思っていますが、それは返って不自由の次元に、私たちを陥れている、つまり「罪」という霊的縄(縛り)があることに、私たちは気付いていません。この「罪」の縄目から解放される為には、イエス・キリストの「救い」を受け、聖霊の洗礼(バプテスマ)に預かり、天(上)からの力を着せられる!という、霊的「聖め」のプロセスを経なければなりません。


 ところが、ご存知のように「親の心、子知らず!」という言葉もあります。つまり子の側は、親の心の「本質(真意)」を、少しずつ理解したり、知ろうとすることを中々しません。そうです!親(父なる神)の真意(真理)を「知らない」ことは、サタンによる「まやかし」です。「知っている」かのように思わせ、霊的渇きの全てを遮断すること、これがサタンの常套手段です。私たちが「知っている」と思っている、その大半が「偽りの次元」から来るものです。


 「偽り事」を信じてしまうのが、私たち人間の「弱点」です。サタンは全ての人々に、この「偽り事」をもって、人々の「霊」の中に「恐れの種」を植え付け、縄(鎖)で縛るかの如くに支配し、コントロールするのです。しかし私たちが、一旦「真理(イエス・キリスト)」を知るのであれば、「真理」そのものが、私たちに対して「自由」を与えるのです!何故ならイエス・キリストの中には、一切の「偽り事」が無く、永遠に真実なる方だからです。それ故に、私たちは最終的なゴールを、イエス・キリストという、偉大なる「神の事実」の中に捉える(設定する)限り、私たちは如何なる状態にも、決して縛られることが無く、また如何なる世的な「定め」や「掟」、また「慣習」や「伝統」に支配されることはありません。


主なる神の「悲しみ」の本質を知る時
 では「ユダ」と「イスラエル」の背信に対する、主なる神の「裁き」の目的(ゴール)には、一体如何なる「本質」があるのでしょうか?今回のエレミヤの記事によれば、主なる神はエレミヤに返答する形で、次のように回答しています。「私の目は夜も昼も涙を流し、とどまることは無い。娘なる我が民は破滅し、その傷は余りにも重い。」(17節)と。それに対して偽預言者や偽祭司たちは、「明日になれば必ず・・・・」などと、適当な偽回答を吹聴します。実際のアメリカのキリスト教会においても、「ハッピー・メッセージ(耳触りの良い説教)」しか語らない、指導者(教師、牧師、司祭、伝道者)が増加しています。彼らは、決して「罪」の「悔い改め」は語らず、聖霊様の「聖化」に関しては、一切語ることがありません。


 彼らが語る「決まり文句」は、「皆さん愛し合いましょう!そして助け合いましょう!」です。人が「罪」に縛られて、霊的に苦しんでいる場合に、この種の「偽善メッセージ」は不要で、むしろ緊急的に「そこに行って(とどまって)は駄目!」と厳しく諫めること、これが父なる神の「真実の愛」です。神の「福音」の本質、つまり「ホンモノ」を知る者は、神の御言葉の「真実」のみを、大胆に語るのであって、人間的な博愛精神に基づく、受けの良い「偽り事」は語りません。


 「ユダ」と「イスラエル」の背信に対して、偽預言者は如何なる警告を発すること無く、むしろ人間的なアドバイスしか語りませんでした。しかし、父なる神の場合は「私が今回伝えるメッセージは、ユダとイスラエルの背信に関して、私が憤っているその本質が、怒りではなく悲しみにある!」と、エレミヤを通じて語っています。17節から18節には、主なる神の「悲しみ」について、詳細に記述されています。主なる神の悲しみは、先ず①人々が深く傷ついていることです。娘たち(神の民)が罪によって、霊的にも肉体的にも損なわれる程の、様々な異変が起きているからです。


 第二に②娘たち(神の民)の「心」が、罪の更なる感染拡大によって、酷い状態に悪化する程、霊的に汚されていることです。例えば今日の世界情勢は、如何なる状態になっているでしょうか?まさしく「戦争状態」と言ってもよい程、多くの人々が感染病に倒れたり、ワクチン接種による、原因不明の副反応により苦しんでいます。霊的に目覚めて、暗闇の支配に気付いた人は、本当に幸いなのですが、殆どの人が真実を「知らないまま」、傷ついて生きています。


 ところで、「怒り」以上の「悲しみ」とは、どれ程のものでしょうか?大抵の場合、私たちは「怒り」をベースにして、激しく突き進むことはあっても、「悲しみ」をベースにして、深く傷ついた人々のために、何らかのアクションを起こしたい!と欲する方は、主なる神だけです。「ホンモノ」の神で無ければ、自分の創造した被造物が、如何に呻き苦しんでいるかを知りません。被造物が苦しんでいるからこそ、創造主は悲しまれるのです。


 「御怒り」を発して、直ちに裁きたいところを、この時に「ちょっと待って下さい!」と、必死に執り成して下さる方が、実は一人おられます。然り!御子なるイエス・キリストです。御子は「父よ、私を遣わした理由(真意)は、御子を信じる者が、誰一人として滅びることなく、神の救いに預かり、真の自由を得ることでしょう。ですから待って下さいますか?」と、父の前で執り成して下さいます。「今の時」は、放蕩息子の帰りを、忍耐の限りを尽くして、ひたすら待ち続けた父親の如くに、私たちも悔いて砕かれた「魂(心)の祈り」を、主なる神に捧げる時です。


 放蕩息子の兄の心には、「父上は、とにかく厳しい方であり、その裁きから逃れる為には~でなければならない!」などの霊的「縛り」がありました。それ故に、彼は父親から喜ばれることを、一生懸命に為した訳です。これは決して「自由」ではなく、一つの「縛り(束縛)」です。そして宗教的に生きる場合、必ず「律法(戒律)」という縛りが、常に付きまといます。ところがイエス・キリストの場合は、「私自らが、全ての律法を完成する!」と明言されました。つまりイエス・キリストは、私たち自身が「律法」の義務を負う必要はなく、イエス・キリストに全ての「重荷」を置くことで、私たちが霊的に解放される、即ち真の「自由」を得るように促しています。


 このように私たちは、自分で自分を縛る部分が多々あります。また「~しないと・・・・かも知れない!」などの、精神的「縛り」に呻き苦しんでいます。ところが、放蕩息子(弟)やマリヤ(妹)の如くに、神の「ご計画」の中に、自分の「重荷」の全てを委ねる者は、そこには何の「縛り」もなく、真の「自由」があります!二人に共通する特徴は、「隔ての壁」が無い!ことです。待っていて下さる方(父なる神)が、一方的に私たちを抱きしめ、親しい交わりの時を用意し、何よりも喜んで自らの命を、私たちの為に捧げて下さっている!という、素晴らしい「関わり方」を与えて下さる!ことを、正しく「知っている」からです。


 そうです!二人は「隔ての壁」を壊された方が、自ら招いて下さる「神の事実」を、知った時から「自由」になりました。父なる神の「御心」を、私たちはどれ程知っているのでしょうか?神の「御心」の本質は、「真実の愛」です!その中には真実の「悲しみ」や、私たちに対する真実の「希望」も含まれています。あなたは、神にとって掛け替えのない無い、聖められた「乙女」です。この「乙女」が、今後どうなっていくのか、ハラハラしながら神は見ておられます。もう間もなくすると、神の御子イエス・キリストが、あなたの花婿として来臨されます。


 真の花婿が来られた時には、今まで「おぼろ」にしか見なかった、自分自身の真実の姿が、「はっきり」と見える鏡の如くに映し出され、何と自分自身の全てが聖く、麗しい「キリストの花嫁」として、既に整えられていることを、はっきりと知るのです。そうです!私たちは神の似姿に造り変えられるべく、日々聖められているのです。これが神の「御心」の本質です。ですから、今の聖なる「安息の時」を、私たちは大事にしましょう!「安息日」は、私たちが新しく造り変えられるべく、主なる神が創造して下さる、重要な「神の時」です!


 「偽り」だらけの時代にあっても、霊的に先に目覚めた私たちが、「不安」と「恐れ」に縛られた人々に対して、神にある「自由人」として、「真理(イエス・キリストの福音)」を、大胆に語ることが出来ますように!花婿なる方が来られた時に、「美しい花嫁よ、何とあなたは私との大事な時を、決して逃すこと無く、忍耐して待っていてくれたね!そして賢き群れの中に、多くの人々を招いてくれたね。また聖なる油を絶やすこと無く、今まで熱情の愛の炎を灯してくれたね!私と共に御国に凱旋し、偉大なる祝宴の時を分かち合おう!」などと、力強い御手に抱かれながら、私たちは父なる神の御元に帰るのです。


 あなたが是非、いつも変わり無く働かれる真実の神と共に、信仰の「歩み」を為すことが出来ますように!「真理」を日々与えて下さる、御子イエス・キリストを通して、あなたが豊かに祝福され、「助け主」なる聖霊様の「導き」と「守り」の中で、更に信仰が強められ、かつ聖められ参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年6月20日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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