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神のご計画(No.16)

    南ユダの「過ち」は私にもある!




主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝する為に、神殿の門に入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。・・・・お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿・・・・という、虚しい言葉に依り頼んではならない。・・・・お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自らの災いを招いてはならない。そうすれば、私はお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」
                                                        【エレミヤ書7章1~7節】


霊的な「錯覚」という罠
 今回の記事から、「南ユダ」に関する内容になります。実はこの南ユダの中に、私たちが霊的に学ぶべき、非常に重要となる「霊的錯覚」が示されています。私たちも下手をすると、悪魔サタンがもたらす、この霊的錯覚の罠に陥る可能性があります。サタンは私たちに対して、柔和な羊の如くに近付き、様々に騙して来る訳ですが、私たちの「霊」の只中に巣食う、様々な「過ち」に働きかけることで、自分の歩む「道」や「生き方」が、あたかも正しいものであり、神を喜ばせているもの!と思わせるなど、この「霊的錯覚」には、十分注意を払う必要があります。


 それ故に主なる神は、そのような騙されやすい私たちに対して、むしろ悔いた砕かれた魂を捧げるよう、強く願っておられます。そうです!私たちの「心(霊)」と「魂」が、神に対して真剣に向き合っているか否か、それが重要となります。北のイスラエルは、放蕩息子(弟)の如くに、好き勝手な歩みを行ってきました。しかし主なる神は、慈愛に富んだ父親として、偉大なる「救い」の計画を用意し、この放蕩息子(北イスラエル)が霊的に立ち返るよう、父親として優しく抱きかかえ、「回復の時」を与えて下さいました。


 では彼の兄に対して、父親(主なる神)の「真実の愛」は、弟同様に与えられるのでしょうか?それが今回からの学びです。実は兄の方にも、主なる神は「救い(回復)の時」と「癒しの時」を与え、そして何よりも兄に対して、もっと奥深いものとして用意する、麗しい「ご計画」がある!ことを、彼に知らしめています。それは最終的に、背信の北イスラエルを、完全に包み込む程の、神の偉大なる「寛容さ」が、兄の方に必ず備わるなど、「取扱い」としては、非常に手の込んだ方法で為されています。


神の「アナウンス」
 このように、放蕩息子を「北イスラエル」と喩えるのであれば、父親に対して献身的に仕える兄は、「南ユダ」と捉えることが出来ます。エレミヤに対して、主なる神が神殿の門から、具体的に指示し命じたことは、「神殿の門の前に立ち、アナウンスしなさい!」というアクションでした。それは「警告」や「預言」を発する類のものではなく、単純に神の「原稿(檄文)」を、神殿の門から読み上げなさい(アナウンスしなさい)!ということでした。主なる神が、南ユダの住民に対して、如何なる熱情の「思い」を抱いているのか、それをアナウンスすることが、今回のエレミヤの「務め」でした。


 ところで、エレミヤが立つように命じられた「神殿の門」、これには非常に重要な意味があります。実は私たち自身にも、この「神殿の門」という霊的キーワードが、霊的に立つべき重要ポジションとして、常に示されています。預言者であるエレミヤ自身が、「神殿の門」の前に立ち、南ユダの人々に対して、大胆に神の「アナウンス」を発することで、彼らに対する「神の事実」を、正確に通知することになります。


 何故なら、彼らは「自分たちだけは違う。北イスラエルが犯した背信とは違う。自分たちこそ、選ばれた民族の霊的継承者であり、自分たちは常に正しく生きている。彼ら程の愚かさは、私たちには無い!故に主なる神は、南ユダを今も守られ、祝福して下さっている!」などと、霊的な錯覚に陥っていたからです。そこで、彼らの「霊的錯覚」を知らしめる為に、エレミヤの唇を借りて、主なる神ご自身が「神殿の門(霊的な唇)」から、アナウンスを発しました。「あなた方の事実は・・・・である。この事実を受け入れて、変えるべき所は変え、そして行いとして改めるべき所は、徹底的に改めなければならない!」と。


 不思議なことに、今回の神のアナウンスは、「従わなかったら~なる!」などの、条件的命令ではありませんでした。単純に「変えるべきポイントは〇〇であり、行いとして正すべき点は□□である!」という、具体的な「処方(取扱い説明書)」の如きものでした。しかし南ユダの人々は、依然として騙され続けています。つまり彼らは、自分の内側から発する、「肉なる声」に騙さていました。覚えて戴きたいことは、サタンが私たちの「霊」の中に、巧妙に働きかけながら、「あなたは正しい。あなたの行いは神を喜ばせている!」と思わせる、「自分の声」があるという点です。このように、「自分」を自己正当化するなど、肉なる「罪」が必ず働きかけることを、私たちは謙虚に認めなければ、いつまでも騙され続けるのです。


 それ故に「神殿の門」に立ち続け、今も尚アナウンスされる方、即ち「聖霊様」が、「父が求めておられる生贄とは、そんな偽りのものでは無く、あなた方の生きた、砕かれた魂、有りのままの姿勢である!」と、盛んに発しておられるのです。そうです!主なる神が、南ユダ(私たち)に求めていることは、真心をもって更に捧げる為には、自分がどうあるべきか?を、常に探り求める真摯な「生き方」です。今回学ぶべき重要ポイント、それは「神殿の門」にて、しっかりと立って下さる方、聖霊様が常に「あなたは果たして大丈夫ですか?」と問いかけて下さっていること、これを聞き逃してはならない!という点です。


 エレミヤの働きは、聖霊様の「働き」を表しています。聖霊様は、私たちが神殿の内側に入ろうとする時に、必ず私たちの「霊」を探り極める方です。そして私たちの「霊」を聖めるべく、先ず霊的な「問いかけ」を投げかけます。「あなたは果たして、今のままで良いですか?自分が正しいと思っている所が、沢山あるのではないですか?」と。そうです!私たちの「有りのまま」を、神の前に「生きた聖なる生贄」として捧げるよう、聖霊様は常に促されています。


二つの「チェンジ」と五つの「ストップ」
 エレミヤがアナウンスした、その具体的な内容とは、簡単に言えば二つの「チェンジ」と、五つの「ストップ」です。つまり二つ変えて、五つ停止しなさい!ということです。第一のチェンジ、それは「生き方(道)」を変えることです。私たちが生きている場合に、必ず「何か」を依り所として、それが正しいものである!と、安心して受け留める部分があります。例えば南ユダの人々の場合、「自分たちは選ばれた民族として、神の宮も存在するし、平和を満喫しているから、今の生き方は正しい!」などと、霊的に錯覚しています。


 ところがイエス・キリストが、私たちに対して望む「生き方」は、何処か「一ヶ所」に安座するものではなく、常に流れ続ける水の如きもの、つまり生きた(動き続ける)聖なる「生き方」です。そうです!私たちは「一ヶ所」に留まるのではなく、更に飢え渇きをもって、高き次元の住処を求める、熱情的な「生き方」が問われるのです。


 続いて第二のチェンジ、それは「行い」を変えることです。「行い」とは、「生き方」から生まれるものです。「この世」に安座する生き方は、必ず「行い」として、「~していれば、自分は大丈夫」などと、律法的なものに傾いて、自分の「行い」を正当化しようとします。例えば「什一献金」を捧げているから、自分は必ず祝福されるだろう!などの「行い」。これは人間的な「理性」から生じる、「理屈」や「計算」、そして「ご利益」と何ら変わりません。しかしイエス・キリストの場合は、常に主なる神の御前に遜り、神によって造り変えて戴くなど、自分の「行い」の全てを、神の次元に引き上げて戴くこと、これが「行い」の優先事項でした。


 「律法主義」の罠は、自分の為している事の「全てが正しい!」と思わせ、そればかりか「自分の業」そのものに、神の「栄光」の基準を置こうとします。しかし、本当に正しい「行い」は違います。全ては「霊」の在り様です。「霊」そのものが、止むことの無い「渇き」をもって、妹マリヤの如くに「もっとイエス・キリストの御顔を求め、主のお言葉を慕い求めます!」など、永遠に続く「飢え渇き」です。あの放蕩息子の父親は、息子が如何なる罪を犯したとしても、霊的に泣き叫んで帰って来た際に、真っ先に駆け寄って迎えるなど、その「行い」の変化を愛しく受け留めます。そうです!私たちの主なる神は、私たちの「罪」を見るよりも、先ず私たちの有り様、即ち「態度(姿勢)」を見られます。しかし南ユダには、この放蕩息子の「姿勢」が欠けていました。彼らは霊的に騙さていたからです。


 では次に、ストップすべき五つの事、先ず第一に「戯言」を聞くことをストップすることです。それは例えば、彼らが常々言う「ここに神の宮があるから、我々は大丈夫だ!」などの過信です。第二に今までの、自信と思える「行動」をストップすることです。「主よ、主よ」と唱えることが、御国の門の内側に入る条件ではなく、生まれた乳飲み子の如くに、霊的な乳を慕い求めて、神を激しく追い求めること、これが神の喜ばれる正しい「行動」、即ち霊と真による礼拝です。


 第三に、「自分たちは優れている。自分たちが一番に、神から祝福を受ける民族である!」などの選民思想、これをストップすることです。彼らはいつしか、自国に住む「在留外国人」「孤児」「寡婦」「貧しい人々」を冷遇し、自分たちに対して優先権を与えるなど、非常に恐ろしい愚行を繰り返したが故に、神は強く停止命令を発しました。第四に「無実の者を有罪に貶め、かつ彼らを殺処分した」結果、第五に「異教の神々を礼拝した」こと、これらの罪深い行動をストップすることです。


真実を発信する「キリスト者」として 
 ところで、「真実」を「真実!」とアナウンス出来なくなっている、今の世界情勢にあっても、私たちが今も尚、真実の「福音」を発信し続ける、その理由は何でしょうか?前述したように、悪魔サタンは柔和な「羊」のなりをして、私たちに近付いて来ます。そして、私たちの「霊」に優しく語りかけます。「あなたの行動は、とても神に喜ばれていますよ。だから、このままの調子で、更に頑張って行きなさい!」と。それに対して聖霊様の場合は、「あなたの今の行動は、果たして大丈夫かな?もっと神に向き合うべき時なのに、ちょっと別の方向に、あなたの霊の目は向いてないかな?」などと問いかけ、必ず私たちの信仰の「歩み」の、一つ一つに霊的な修正の「取扱い」を為されます。


 ところが私たちが、悪魔サタンに騙され続けて行きますと、今日のワクチン接種キャンペーンと同じで、「みんなが接種しているから、私も早く接種して、安心できる生活を送らなきゃね!」などと鵜吞みにし、決して「真実」を求めることなく、結局は騙されて「おしまい」です。実際この後、南ユダはエレミヤの「アナウンス」に対して、多少なりとも聞き入れますが、最終的に神の警告を無視(拒絶)した結果、「バビロン捕囚」の憂き目に遭います。


 永遠の神の御住まいである、見えざる「神の宮」に、私たちが霊的に立ち返ることで、また私たちが改めて、エレミヤが提唱した二つの「チェンジ」、即ち「生き方」と「行い」を、ことこどく悔い改めて、神が示す新しい「生き方」に切り変え、正すべきは正し、ストップすべきは完全に停止(排除)して、自分自身の全てを、神に喜ばれる生きた、聖なる「生贄」として捧げることが大事です。そうすれば真実の神は必ず、私たちに霊的な「回復の時」を与え、永遠の約束の保証として、御国の「祝福」を受け継ぐ権利を、直々に与えて下さいます!


 このように主なる神は、私たちの「歩み」の行き付く先の姿、つまり最後の「デザイン(完成形)」も示して下さっています。「偽り事」や「騙し事」、また「恐怖」と「デマ」に満ちた世界の中において、私たちは如何に生きて行くべきか?私たちキリスト者は分かっています。生まれたばかりの乳飲み子として、私たちが霊的な乳(神の真実な言葉)を、何よりも激しく飢え渇き、熱心に求めて行く限り、聖霊様は私たちの「弱さ」に働きかけ、私たちの「生き方」と「行い」の全てを、主イエス・キリストの「血潮」をもって、隅々まで洗い聖めて下さる、その結果私たちは、安心して「正しい道」へと、遂に踏み出すことが出来ることを。


 そうです!私たちは先ず、自分の中にある放蕩息子の兄が持つ、「自分だけは大丈夫!」などの霊的錯覚(過信)を、完全に聖めて戴くべく、真実の父親(神)の御元に帰り、そして父の住まう所を常に求めましょう!神の住まいは、私たちの「霊」の只中に、必ず用意されるものです。この奥義を常に信じて、激しく飢え渇き求め続ける「聖なる花嫁」として、聖霊様があなたを益々、霊的に美しく整えて下さいますように!


 またあなたが「賢い乙女」として、「汚れ」と「悪意」に満ちた世界の中にあっても、圧倒的な「神の美」に満ちた、聖なるキリスト者として、日々力強く神の「真実」を発信できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年5月2日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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