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正しい生き方(No.28)

                    信仰の「秤」




さて、夫エルカナが・・・・年毎の生贄と自分の満願の献げ物を主に捧げる為に(神殿に)上って行こうとした時、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでも留まらせましょう。」夫エルカナは妻に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。・・・・」ハンナは留まって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。
                                              【Ⅰサムエル記1章21~23節】


二つの「秤」
 シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中に、次のような有名な言葉があります。「このまま生きるか否(死ぬ)か、それが問題だ!」。私たちが様々な選択をする場合、それが三通り以上ある中から、一つを選択する時には、それらの内「最良(一番)!」と思えるものを、あれこれと探り求めながら、最終的に確信出来るものを選びます。


 しかし例えば、それが二通りの選択しかない場合、特にどちらも良く見える場合は、大抵の人が何らかの「葛藤」を覚えます。それは二つの物質を、「天秤」の受け皿に載せて、その「質量」や「見た目」を、様々に測る(探る)行為に似通ています。本来「天秤」というものは、ある物質の「重さ(重量)」を、正確に測定するものであって、物の「良し悪し」を判定するものではありません。


 今回の記事から、私たちが覚えておくべき第一ポイント、それは目に見えざる、二つの「天秤」に関することです。先ず第一の「天秤」は、三次元的な選択をする場合に用いるもので、「肉の秤」と呼びます。文字通りそれは、五感的な肉の判断によって選ぶことですが、この三次元的な選択は、うまく事が運ぶ場合もありますが、大抵の場合「失敗」に終わります。


 しかし第二の「天秤」は、「霊の次元」に照らし合わせて、霊的な判断から選択する際の方法ですから、決して「肉の次元」を優先して判断しない、つまり「信仰の秤」を用いて、神の「御心」と自分の「判断」を照らし合わせることで、神の「御心」に重きを置いてるか否かを、正しく量って行くことが重要となります。「信仰の秤」を用いて、全てを神の「御心」に委ねる際は、必ず神の「祝福」の次元が、豊かに切り開かれることになります。そして神の「祝福」を必ず得るなど、素晴らしい「結果(霊的産物)」を生み出します。


ハンナの四つの「葛藤」
 この「信仰の秤」を常に優先し、自分の「肉の秤」からではなく、神の「御心」に委ね切った、ハンナの優れた信仰行動を、私たちは今回の記事に見出すことが出来ます。先ず覚えて戴きたいことは、サムエルを出産した後に始まった、ハンナの信仰上の「葛藤」が、如何なるものであったのか?という点です。このことを私たちが、霊的に正しく知ることにより、実は「葛藤」の中には、例えば霊的ジレンマを経験したり、中々先に進むことが出来ない状況、或いは選択し辛いケースに遭遇するなど、信仰的に葛藤することが多々ある訳ですが、ハンナの場合、彼女はそのような葛藤も、最終的には神の「御心」に委ね切ることを選択しました。


 具体的にハンナが、サムエルを育てて行く上で、様々に葛藤した点は四つあります。第一の葛藤は、①いつ我が子(サムエル)を、神に対して捧げるべきか?つまり「時間(時期)」に関する葛藤です。しかし具体的な時期を、神から指示されている訳ではありません。彼女は例えば「〇〇歳になったら、この子を献げます!」とも表明していません。それ故に「いつ!」という、時間的葛藤が始まったのです。これは、人間的な「時間の秤」です。しかしハンナの場合は、決して人間的な「時」を計っているのではなく、「いつ神の御心が、この子に現れ出るのかしら?」という信仰上の期待感と、決心すべき自分の「決断の時」を、正しく見極めていたことが伺えます。


 第二の葛藤は、②彼女が一番に心配する葛藤、それは「母親」として様々に思い悩む次元ですが、実際「この世」に生み出されて来た「我が子」が、どのように育って行くかなど、つまり健康面に関することです。神に捧げる時まで、その子が健康的に逞しく成長してくれるだろうか?或いは自分の体内から出る「母乳」のエネルギーが、この子にとつて益となっているだろうか?などと。


 しかしハンナは、そのような健康面の葛藤も、人間的な「肉の秤」で、様々に心配している訳ではありません。「神の御心によって、この子がすくすくと成長しますように!私の母乳にも神よ、あなたの祝福のエネルギーを、日々豊かに注いで下さい!」と、謙虚な「祈り」を捧げたはずです。①と②までは、ハンナの「信仰の秤」という、素直な表明が見出されます。ところが、次の③と④の葛藤に関しては、ハンナの「肉の秤」が、霊的な「弱さ」として見出されます。


 第三の葛藤は、③我が子が、物心がつく年月になった時、つまり母の言葉を理解し、それに応える程度の会話力が身に付いた時、我が子サムエルが、神の「ご計画」に対して、素直に従うことが出来るか否か?つまり神の「ご計画」の為に、我が子を神殿(神の宮)に託すことを、果たして本人に伝えるべきか否か!という葛藤です。これは未だ訪れていない、「先(将来)」に対する葛藤です。未だ赤子に過ぎぬ、サムエルに対して思い悩む事ではないのですが、母親という「肉の愛情(秤)」からは、「その時」に果たして伝えることが出来るか、物凄い「悩み(心配)」に思い苦しみ、様々に葛藤する訳です。


 第四の葛藤、それは④「自分」に対する葛藤です。即ち自分自身の「思い」として、「果たしてその時、自分が実行出来るだろうか!」ということです。自分の「弱さ」の中心、つまり母親として、我が子を手放したくない!と、強く願う際の「辛さ」です。これは決して、「罪」から来るものではなく、母親が抱く自然な感情です。


 しかし③と④の葛藤は、あくまで「肉の秤」です。この「肉の秤」で決断しますと、①と②による「信仰の秤」が、もろくも砕け散ることを、ハンナ自身が分かっていましたので、③と④の葛藤を、如何にしたら「神の次元」にまで、霊的に引き上げることが出来るか?そして「信仰の秤」に、自分の「思い(悩み)」の全てを託すことが出来るか?つまり「神の天秤」に、③と④を載せることが出来るか、その葛藤プロセスが、今回の記事に詳しく描かれています。


ハンナの「決意表明」
 今回の記事から、私たちが覚えておくべき第二ポイント、それは夫エルカナに相談することで、自分が為すべき「信仰行動」を、神の次元、つまり「信仰の秤」に託した彼女の決断とは、如何なるものであるか?という点です。「肉の秤」で決断してしまったら、神の「御心」を現さないどころか、結局は失敗に終わります。つまりサムエルが、「神のもの」でなくなり、単なる「母の息子」という存在になるからです。それをハンナは、決して望みませんでした。ですから夫エルカナに、自分の葛藤の全てを託しました。その結果、エルカナと共に神に祈ること、つまり神に霊的な相談をすることで、実は見えて来る次元が必ずある!ことを、ハンナは過去の信仰の歩み(経験)から、度々学んでおりましたから、今回も出産したからと言って、妻が全ての事を決断出来る訳ではなく、夫に相談することで「神の次元」が、必ず夫を通して示されることを、謙虚に待ち望んでいました。


 それ故に、ハンナは次の重要なセリフを、「決意の表明」として、二点述べています。先ず第一の表明は「この子が乳離れしてから」、即ち「サムエルが乳離れした、その時以降は・・・・」という表明です。実際に赤子が乳離れする、「その時」が早いのか遅いのか、具体的には何も分かりません。しかし「その時」が来ることは、紛れもない「事実」ですから、「サムエルは、既に自分の元を離れ行く、神のものである!」ということを、既に覚悟していることが、この表明から分かります。つまり幼子サムエルが、母乳を求めなくなった「その時」から、サムエルが母乳ではなく、新しい神の「エネルギー」を慕い求め始める故に、「その時」には「我が子」を、「神のもの」へと、「信仰の秤」に置くことを、早々に決断しているのです。


 続いて第二の表明は「一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでも留まらせましょう。」という、夫に対して強く願った表明で、夫エルカナと共に「神の宮」に上り、神の御顔を仰ぐことで、神との契約を(夫と共に)果たす!という、ハンナ自身の強い信仰の意思表示です。つまり、神との契約を果たす(実行す)べく、我が子を完全に捧げ尽くす決断に至りました。彼女の「主の御顔を仰ぎに行きます。」という強い表明の中に、我が子が乳離れした以上は、「その時」に急いで夫と共に神殿に行き、神の御顔を仰ぎ見ることで、神との「約束(契約)」を果たす覚悟が、既に為されていた事が分かります。


 このようにハンナは、もう以前とは違った、揺ぎ無き信仰に立っています。一応何らかの葛藤はあっても、母親として全てを「神の時」に、また神の「ご計画」の中に、自分の果たす信仰行動を、前向きに把握していると言えます。サムエルの「全て」を捧げるとは、彼の「健康面」から「人生」に至るまで、また親として子に期待する、様々な「希望」と「願い」など、そういったものの全てを、これは「肉の秤」で測るものもありますが、それら全てを「信仰の秤」、即ち「神の時」と「神の計画(御心)」に委ねること、これがハンナの選択した「信仰の秤」です。


 自分自身の全て、またサムエルの全てを、この「信仰の秤」に置くことで、実は自分の「思い」と、サムエルの「思い」、この二つを「天秤」に載せた時、例えば両方に「重き」を置きますと、どちらかが重く(或いは軽く)なった時に、見た目に「重いもの」を、簡単に選択してしまう弱さがあります。これは「肉の秤」で測った状態です。しかし「信仰の秤」で測る場合には、たとえ「肉の秤」から来る、自分の「思い」が強かったとしても、神の「御心」を先ず「天秤」に載せます。その後に、自分の「思い」を載せる訳ですから、必ず神の「御心」が重くなり、そして自分の「思い」は軽くなります。


 勿論、何らかの「葛藤」が生じる時には、双方の受け皿が上下するなど、霊的にブラブラした、不安定な状態になる訳ですが、霊的決断をすることで、例えば「全てを神の時に委ねます!今の状態は、私には計りかねます故、とても思い悩み苦しいです。私自身として・・・・になりたい!という、強い願いもありますが、主よ!あなたの杯を飲みます!と、イエス様が祈られたように、私も神の御心の全てを受け取ります!どうぞ、あなたの為すがままに、全てをあなたの栄光の為に、今の状況をあなたに委ねます。」と、神に対する信仰行動を表明する時に、神の「霊の次元」が、豊かに切り開かれて行くのです!


 即ち「神のもの」であるサムエルは、その後「名前」通りに、神の方法に従うことになります。しかし未だ、「乳離れの時」に至っていません。いつかは来る訳です。いつかこの子は、母乳を飲まなくなります。「その時」には必ず寂しさを覚え、「悲しみ」の念も生じるでしょう。しかしハンナは、未だ始まっていない次元ですが、既に神の「御心」を、霊の眼で確認していました。我が子サムエルが、自分の胸を離れて、すくっと立ち上がり、その時に本人が、何を言うのか分かりませんが、その時に例えば「お母さん!僕はこれから、神様のもとに行って参ります。どうか僕のために、今まで通り祈って下さい。」というシーン。


 そして彼は、「神の宮」に上って行き、新たな「神のもの」を求め始めます。それが「霊的な乳」を慕い求め始めた「神の人」、サムエルの「新たな人生」の始まりです。即ちハンナは、「その時」に為すべき自分の行動が、「神の宮」に上って行く時には、我が子サムエルが「神のもの」という、霊の次元の中に突き進んで行くことを、夫と共に確認しに行く!など、信仰の決断に至ることも、十分に覚悟していました。それは親として悲しく、また寂しく辛いことですが、ハンナは将来において、神の偉大なる御業が、サムエルの中に現れる!ことを確信した結果、神の次元に希望を託しました。


 あなたも三次元的な「縛り」、また三次元的なジレンマや劣等感など、様々に葛藤している部分があるでしょう。しかし主イエス・キリストは、次のように宣言されます。「あなたは常に神の宮に上り、父なる神が与える、新しい霊的な乳を求めなさい!そうすれば、あなたの為すべき信仰行動が、聖霊様を通して正しく示され、豊かな神の次元が切り開かれることで、必ず祝福の領域に至ります。あなたが既に信仰の道を、力強く歩み始めていることを、あなたはきっと確認できるでしょう」と。


 あなたに主イエス・キリストの、豊かなる「導き」と「守り」があり、更に聖霊様の確かなガイダンスにより、主なる神が天から与えて下さる、新しい霊的な乳を、最優先に求め始めることの出来る、キリストの花嫁として、更に麗しく聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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