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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.11)

「肉の眼」を閉じ、「霊の眼」を開けなさい!




盗人が捕えられて辱めを受けるように、イスラエルの家も辱めを受ける。・・・・彼らは・・・・災難に遭えば「立ち上がって私たちをお救い下さい」と言う。・・・・何故、私と争い、私に背き続けるのか、と主は言われる。・・・・この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。私はイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。・・・・乙女がその身を飾るものを、花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、私の民は私を忘れ、数え切れない月日が過ぎた。・・・・何と軽率にお前は道を変えるのか。・・・・主はお前が頼りにしているものを退けられる。彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。
                                            【エレミヤ書2章26~37節】


娘を叱る父親の真摯な「言葉」
 今回の神の言葉は、非常に厳しい指摘が多く示されています。例えば「災難に遭えば『立ち上がって私たちをお救い下さい』」(27節)と、所変われば態度が変わる!ように、霊的に移ろい易い私たちの信仰行動、そしてある時は、神に対して「不平」や「不満」を吐いたり、不信仰かつ否定的態度を示すなど、その最大の原因が、32節に記されている点で、神ご自身を「忘れた」ことにあります。


 神ご自身を「忘れる」とは、私たちの様々な「歩み」の中において、神の偉大なる「恵み」の取扱いがあったにも関わらず、それを正しく見ようともせずに、目の前の「現実」だけを見て、ブツブツと不平をこぼし、ネガティブに捉えることです。これらは、私たちの中にある、罪の「弱さ」から来ます。


 これは、確かに当時のイスラエルの民が、異国の愚かな神々(偶像)に、簡単に心が傾倒して行くなど、まるで「娼婦」の如き、軽率な信仰行動の「喩え」を示していますが、父親(父なる神)が結婚前の娘(イスラエル)に対して、真剣に向き合っているイメージで捉えて下さい!例えば「私は真面目に生きているわ!なのに頑固親父は、私の言い分を聞いてくれない。」と、娘が反論するのに対し、父親は「わしの言うことが、全く分からないのか!駄目なものは駄目、今すぐに生き方を改めよ!」などと激怒するイメージ。


 しかし覚えて下さい!主なる神の場合は、御怒りの「表明」を現しつつも、御怒りの矛を収めながら、私たちに「いい加減に目を覚ましなさい!」と、霊的に「正しい道」へと促されます。そうです!真実の神は、イスラエル(私たち)のことを、決して見放すことも、見捨てることも為さらずに、忍耐の愛をもって見守って下さる方です。また真実の神は、私たちの元を幾度も訪ねて下さり、「目を覚ましなさい。そして決断をしなさい!」と、霊的に叱咤激励して下さいます。如何なる「決断」でしょうか?「愚かな次元に頼って生きることから、もう(いい加減に)目を覚まして、賢い神の次元に立ち返る!」という決断です。


私たちの霊的「弱点」
 さて、アダム(エバ)の犯した「罪」の結果、私たちは如何なる「弱さ」の中に、霊的に引きずり込まれ、様々な「愚かさ」を露呈しているか、私たちはこの点について、先ず知る必要があります。私たちの被った最初の「弱さ」、それは「肉の眼」に写る情報にのみ、全ての判断が左右されることです。「肉の眼」は三次元的情報を知る器官ですが、これが捉える物理的範囲が、あくまでリアル(現実的)なシーンに過ぎない!にも関わらず、それを私たちは「事実」としか見ません。


 例えば、リンゴの実が落下するシーンを見たら、「あ!落ちた。傷んで食べられないかも・・・・」などとネガティブに捉えること、これが三次元的「事実」に左右される、私たちの肉の「弱さ」です。しかし、このシーンを霊的に捉える、つまり「霊の眼」で見ようとする人は、「うん?もしかしたら、風が強く吹き始めたかな。」などと、見えざる「風」の動きに対して、何らかの「備え」をするなど、前向きな捉え方をする傾向にあります。


 このように「罪」の結果、私たちが被った最大の霊的弱点は、「肉の眼」で(悪い意味で)ストレートに、見たままの「情報(現実)」を受け入れて、三次元的に判断してしまうことです。しかもそれが、自分の意図すること、即ち信じたいと願っていることとは、逆の出来事が起きる時に、私たちはそれをネガティブに捉えるのです。


 私たちの霊的「弱点」の特徴は、具体的に三つ挙げられます。第一に①私たちは「現実」を、そのまま見てしまうことです。これは一見、正しい事のように思えますが、私たちの肉の「思い」が、この「現実」の情報に付加され判断する時に、如何様にも左右され、その殆どがネガティブな判断です。第二に②人の語る「言葉」に対しても、私たちは「そのまま」取り入れる傾向にあります。第三に③自分のものを、他のものと比較することで、その価値の優劣を付けるようになったことです。その結果、人は「肉の眼」の情報により、正しい「立ち位置」から離れて、物事を様々に見る(羨んだり、見下す)ようになる、つまり霊的に「浮ついた状態」に陥りました。


 本来の人である、アダム(エバ)が「罪」を犯さなければ、肉体的な五感の働き(能力)と、霊的次元を司る「第六感」の働きが、完全に調和された状態にあった訳ですが、「罪」を犯した結果、即霊的「第六感」の能力が失われ、五感だけで肉体全てを取り仕切るなど、「不完全な体」に成り下がりました。それが故に、私たちは「現実」という、三次元的「情報(事実)」を鵜呑みにして、「そのまま」受け入れてしまうのです。そして、あたかも「他のもの」が美しく見え、最高のものに思える、だから益々「他のもの」を求めようとするなど、汚れた「欲」の思いに満たされて行くのです!


「ネガ」と「ポジ」の奥義
 「ネガティブ」の語源である①「ネガ」と、ネガティブの反対語、「ポジティブ」の語源である②「ポジ」とは、実は写真現像の処理過程から派生した言葉です。私たちはこの二つの言葉に、イエス・キリストが勝ち取った、ある素晴らしい「奇跡の御業」を付け加えることで、私たちが更に「解放されて行く次元」が、実は用意されています。


 写真現像における「ネガ」とは、別名で「陰画(逆像)」と言い、「実像」と左右を異にする画像のことです。それは「鏡」に写る像と同じです。それに対して、他人が見ている実像のことを「ポジ」と言います。前述した、「現実」を前向きに捉える人々は、たとえ現実が「マイナス」の如き、ネガティブなものであったとしても、それを霊的に反転させることで、見えざるポジティブの事実を、積極的に捉えようと試みます。


 余談になりますが、トリノの「聖骸布」を、あなたはご存じでしょうか?十字架刑後の、イエス・キリストの亡骸を覆った、別名「聖衣」のことです。大量の血にまみれ、傷だらけの「御体」を覆った布ですから、内側にイエス・キリストの「御体」全体像が、まるで現像写真の如くに、染み込んでいる訳です。不思議なことに、実はイエス・キリストの全体像が、本来であるならば「ネガ(逆像)」として、染み込んでいるべきところを、このトリノの「聖骸布」は「ポジ(実像)」、上から写真撮影した如くに、イエス・キリストの正しい姿、つまり「見たままの」情報が残りました。


 一体、どういうことでしょうか?明らかに人知を超えた、上からの「力」により、イエス・キリストの姿が、そのまま「聖骸布」に、写真(実像)として焼き付いたことが想像できます。そうです!創造主が「天の力」をもって、死んだ亡骸に過ぎない、イエス・キリストの御体を、完全に覆い尽くした、まさに「その時」、「暗闇」を完全に一掃する、偉大なる復活の「力」が光エネルギーとして、イエス・キリストの中から放射され、覆っていた「布」そのものを、神の「事実(実像)」の焼印として残した!と、このように考えて参りますと、私たちの「信仰」の次元にも、イエス・キリストの「復活」という、神の偉大なる「救い」の「事実(福音)」を、決して「ネガ」ではなく、永遠の「ポジ」を与えて下さった、神の「ポジ」として受け留めて行く時に初めて、私たちは更なる「御国」の次元へと、霊的に解放されて行くのです。そうです!私たちが、イエス・キリストの「復活」という、偉大なる神の「事実」の法則を、「霊の眼」を大きく開けて、確実に信仰で捉える者は、復活の次元に生きる者として、「神の国」を御子と共に建て上げて行くのです。


 第Ⅰコリント書13章12節には、「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているように、はっきり知ることになる。」と、パウロが不思議な表現で、「霊の次元」の奥義を記述しています。彼は「鏡に映る情報」を、おぼろな(不確実な)もの、つまり正しくない(偽りの)情報(ネガ)である!と捉えています。


 それ故に、今見ている様々な情報が、神の御心を現わすことの無い、不完全なものであったとしても、「その時」には、つまり私たちが創造主から、イエス・キリストと同じ、「復活の体」を戴いたその時から、「完全なもの(ポジ)」を見ることの出来る、即ち「霊の眼」をもって、「神の事実」を見出し、そこに「神の計画」を推進して行くのです!


 確かに「今日」の世界は、はっきり申し上げて、何を信じて生きたらよいのか、さっぱり分からなくなる程、「偽り」の情報だけが氾濫しています。例えば「ワクチン情報」に関して、ネットの動画サイトにおいて、「これは危ないですね。副反応が出ますから、あまり接種しない方が良いですね。」などと、アップロードした本人がコメントした場合、その動画は運営側から警告を受け、従わない場合は動画が削除されたり、本人のアカウントが一方的に停止されるなど、まるで独裁国家の言論弾圧の如き、恐ろしい「情報統制」が敷かれています。


 しかし福井県に在住する、斉藤新緑さんという一人の県会議員(自民党)が、この「ワクチン騒動」に関して、全国中にその名が広まる程の、勇気ある「情報発信」を実行しました。彼はズバリ「新型コロナワクチンは殺人兵器ですから、絶対接種しないで下さい!」という文面で、地元の支持者に対して「通信レター」を送り届けました。当然の如く、党の上層部から「止めてくれ!」などの警告を受けましたが、彼は断固として「目の前に、明らかに毒が入ったまんじゅうが置いてあり、それを取って食べようとしている人々に、食べたら死ぬから、絶対食べるなー!と言って何が悪い。人の命をあずかる政治家として、今の状況を黙って見過ごす訳には行かない!」と、今でもレッド・シグナルを発信し続けています。


 私たちの「霊の眼」は、聖霊様の取扱いを通して、更に霊的に研ぎ澄まされ、神の「御心」をもって、物事を正しく捉えてゆく、そのような時代に突入しています。三次元的なネガティブ世界を打ち壊し、「神の国」を建て上げる、新しい視点(ポジ)によって、「霊の次元」を切り換えることの出来る「力」は、イエス・キリストの「復活」にあります!これを信じて下さい。イエス・キリストの「復活」の信仰を通して、今の私たちの行動も捉え直す必要があります。


 私たちが「現実」を見て、直ちに「不平」「不満」を吐いたら、誰を喜ばせることになるのか、あなたはご存じでしょうか?それは、サタンを礼拝していることになります。私たちが発信すべき「言葉」は、肯定的に人を建て上げたり、人の徳を高めるなど、「人のネガ」を超えて働かれる「神のポジ」、即ち「命の言葉」です。確かに世の人は、「恐れ」を様々に心配するあまり、目の前の「現実」の中に、不確定な事が起きた時に、「人のネガ」というスイッチが入るなど、「罪」から生じる弱さがあります。だからこそ、私たちは、イエス・キリストの「復活」の事実を、信仰をもって語り続けるのです。


 これから益々、世の中に「人のネガ」だけが氾濫します。そして多くの人が、「あー、もう駄目だ!」と、苦しみ叫び始めています。しかし私たちは、「神の事実」を宣べ伝える神の「使徒」として、彼らの中に遣わされています。どうぞ、あなたの信仰の歩みに、聖霊様が与えて下さる、「上(天)」からの権威によって、神の偉大なる「御力」が日々注がれ、「霊の次元」を切り開く「復活」の信仰が、豊かに増し加えられて行きますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年3月21日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 


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