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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.16)

           逆境の時こそ、道近し!




主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し・・・・ レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「何故、私と争うのか。何故、主を試すのか。」・・・・モーセは主に、「私はこの民をどうすればよいのですか。・・・・」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「・・・・見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でその通りした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。
                                              【出エジプト記17章1~7節】


霊的「負の遺産」
 イスラエルに対する今回の神のテストは、私たちの「肉の弱さ」、特に三次元的「現実」を前にして、私たちが如何に無力な存在であるのか、つまりアダム(エバ)の犯した「罪」の結果、①霊的に「負の遺産」とも言うべき、「善」か「悪」かを正しく掴み取ることが出来ない、私たちの霊的「病い」を先ずは認識し、②それを癒して戴くには何が必要であるのか?この二点を聖霊様から、正しく教えて戴く必要があります。


 先ず私たちが、霊的に覚えておくべき第一の重要ポイント、それは「原罪」がもたらす、最大の霊的「負の遺産」とは、一体如何なるものであるのか?という点です。ご存知のように原罪とは、「的(中心)外れ」という意味ですが、即ち神(創造主)の居ます場(中心)から、自己意思の決定により離れることです。


 神と人にとって、最大の中心的「事実」は、主なる神との「一体化」にあります。その神との「一体化」から離れることが、霊的な「的外れ(分離)」、即ち「罪」の始まり(起源)です。神との「一体化」よりも、「別のもの」に傾倒し、そして「別の事実」を求めて行動すること、これが「原罪」のもたらす「罪」の性質です。


 この「的外れ」という、霊的に誤った自己中心的「行動」の結果、人はサタンを通して、自分の行動が「善」であるのか、それとも「悪」であるかを、正しく選択(判断)出来ればよいところを、「善」と「悪」の違い(区別)を、ある時は認識出来ても、ある時は逆にそれが「一体どちらが善であるのか、はたまた悪であるのか?」などと、さっぱり分からなくなり、ある種のパニックを覚えるなどの、霊的混乱状態に陥りました。


 彼らは「善悪の木」の実を食した「その時」から、自分の「肉の意思」によって生きることが、あたかも正しいことであると、物の見事に騙された結果、彼らはサタンから「肉の鍵」を受け取りました。そして彼らは、この「肉の鍵」を使用さえすれば、「善の扉」と「悪の扉」を、自由に開け閉めできる!という、霊的錯覚(罠)に溺れることになります。しかし、この事によって実は、逆に「負の遺産」である、霊的「病い」が進行し、「霊」の中を蝕むようになったことに、彼らは気付かなかった訳です。


マサとメリバという名の「病い」 
 今回の「地名」として登場する、「マサ」と「メリバ」という二つの名が、まさしく霊的「病い」の根拠となる、重要なポイントを示していますが、私たちは「善」と「悪」を、それぞれ如何なる概念として、霊的に捉えているのでしょうか?単純な言葉で表現するならば、「善きこと」と「悪いこと」という、二次元的な捉え方(正反対的判断)を、私たちの「小脳」は行っていますが、実はもっと複雑な次元にあります。


 何故ならば、私たちは「神」にとってではなく、「自分」にとって都合の良いことを即「善」と見なすからです。本来は、神にとって「善なること」を、先ず考えれば良いのですが、自分にとって都合の良いことを「善」、それに対して自分にとって都合の悪い、また不利なことを「悪」と見なすなど、私たちが「肉の鍵」を得た結果、「自分」中心で考えることを優先し、自分に利することばかりに、目がくらむようになりました。その結果、目に見える「現実」に対して、私たちが簡単に左右されるか、これを教え示しています。


 今回イスラエルの民が、まさしく霊的「病い」に患った結果、悪しき三次元の「罠」にかかり、益々パニック状況に追い込まれます。目の前の「現実」は、確かに「荒れ野」のフィールドしか見えません。またそこには、民が十分に喉の「渇き」を潤す程の、「泉」がありませんでした。ですから、彼らは直ぐにモーセに対して、不平(苦情)を申し立てました。


 しかし私たちは、ここで考えてみて下さい!彼らは主なる神の「恵み」を、日々受け取っているのです。天から降り注ぐ、「日々の糧」であるマナを、彼らは毎回食することで、生かされている訳です。そして誰一人として、「荒れ野」で死んでいません。たまたま「レフィディム」の宿営地に来た時、全ての民に供給できる「水源」が、(今のところ)無かっただけです。


 では、この時に「善」と「悪」を、信仰的に正しく捉えるのであれば、例えば「今のこのような状況に導かれた事には、真実の神の次なる計画が、先に用意されているはずである!神がこのまま、私たちを干からびさせることは、決してあり得ない。そうでなければ、今まで導いたことが、全く意味を無さなくなる。」と、神にとっての「善なること」、つまり神の「義(正しさ)」を求めようとします。


 ところが彼らは、自己中心的な「肉の鍵」を、普段から大事に用いている為、彼らにとって「都合の悪いこと」を、全て神の責任として転嫁するなど、神とその僕であるモーセに対して、肉なる「争い」を展開したのです。そして最終的には、恐れ多い事に彼らは神に対して、「挑戦状(悪しき次元から試すこと)」を突きつけたのです。「果たして主が、我々と共におられるのか、試してみよではないか!」と。これがサタンの喜ぶ(誘導する)、霊的な「悪」という実です。


 彼らが発した、この悪しき「挑戦状」の言葉の中には、「善」と「悪」を自己中心的に捉えるなど、霊的「病い」の更なる悪化が見られます。自分の肉の意思(判断)から、「善」と「悪」を選択する時、結果的に思考回路が正常に機能しないなど、例えば想定外の出来事が起きた場合に、すぐにパニック状態に陥るなどして、思考面でネガティブ化が増大するという、負(マイナス)のスパイラル現象が起きます。「スパイラル」とは渦巻きのことで、「竜巻」や「渦潮」に見られる現象ですが、「マイナス」の事だけを考えると、私たちは「負」の思考の流れに飲み込まれます。その結果一つのマイナス現象が、更なるパニックを引き起こし、「もう駄目かもしれない!」などと、最終的には「駄目(ネガティブ)思考」という、逃れること出来ない「深い淵」の中に、引きずり込まれる訳です。


「ホレブの岩」を打ちなさい!
 では、どうしたら「負の遺産」である、この霊的「病い」から、彼ら(私たち)は癒されるのでしょうか?実は主なる神は、ある方法を通して彼らの「信仰」を、良い意味で試すことになります。モーセとしては「もうやり切れない!」などの思いに、霊的に塞ぎ込んでいましたが、主なる神は逆に、彼らに対する「憐み」の思いを益々抱き、「真実の道(救い)」をモーセに示されます。それが「ホレブの岩」を打つことでした。


 モーセは、神が命じられるままに、「ホレブの岩」を打ちました。「ホレブの岩」を打ち叩く時、如何なる「思い」で叩いたのか分かりませんが、彼は神の「善」を信じて、その通りに実行したのです。主なる神が命じられることは、「必ずその通りになる!」ことを、霊の眼で捉えていたからです。彼はまた、神は必ず解決方法を示して下さるばかりか、彼らの喉の渇きを潤し、彼らの霊的「病い」を癒すべく、神の偉大なる天の祝福を、彼らに対して供給して下さる、そのことを信じて「ホレブの岩」を打ちました。


 「その時」に、何が起きたのでしょうか?突然「岩」の一部に亀裂が生じたのか、詳細な出来事のプロセスは記されていませんが、「ホレブの岩」の中心部から、豊かな「命の水」がほとばしり出たのです。イスラエルの民は、この素晴らしい光景(奇跡の事実)を見て、「不信仰な私たちを赦して下さい!」などと、心から神に悔い改めることはせず、我先に「命の水」めがけて、走り寄ったのではないでしょうか!


 このように、今回の記事から示される第二の重要ポイントは、霊的な「負の遺産」から被った、霊的「病い」を癒す唯一の方法が、まさしく「ホレブの岩」を打つ!という点です。今回の記事に見られるモーセの働きは、聖霊様の私たちに対する、様々な霊的「働き」を示しています。モーセも人の子ですから、肉なる意思によって、その行動が左右されます。恐らく不信仰な彼らの「現実」を見て、彼は一瞬「主よ、いっそのこと彼らを滅ぼして下さい!」などと、肉なる意思から「人の悪」を選択したかも知れません。しかし彼は「神の善」を選択し、神の「ご命令」に従いました。つまり持っていた「肉の鍵」を放棄し、「信仰の杖」をもって、「イエス・キリスト(ホレブの岩)」を打ち叩きました。


 そうです!私たちが、この霊的「病い」から完全に解放され、癒される為に必要な手順(方法)は、先ず①「肉の鍵」を直ちに放棄し、②「イエス・キリスト(ホレブの岩)」を打つ、この二つの信仰行動です。私たちが「救いの巌(岩)」なる方、イエス・キリストに「信仰」を働かせる時、何も生じそうにも無い「現実(荒れ野)」から、「神の事実」が溢れ出る程に、豊かに切り開かれて行くのです!


 「命の水」は、無限に広がる天のフィールドから、渇き続ける「真実の民」に対して、無代価で、惜しみなく降り注がれ、全てを満たし流れ行く、これが「ホレブの岩」を打つ!という、素晴らしい聖霊様の「働き」です。主なる神が今回モーセに示された、この素晴らしい「信仰の法則」に、私たちも「必ずその通りになる!」ことを信じて、聞き従って参りましょう!「無」から「有」を、いつでも生み出すことの出来る、神の国の「御力」の源泉、それがイエス・キリストであり、このイエス・キリストの「御名」を、私たちが信仰をもって呼ばわる時に、偉大なる神の「御業」が、「荒れ野」の中に出現するのです!


 目の前の「現実」が、逆境の如き「荒れ野」であればある程、神の国に至る「真実の道」が、目前に示されているのです!私たちは「その道」に、信仰をもって踏み出すだけで、豊かな「神の事実」が開かれて行きます。私たちが「肉の鍵」を使うことは、とても簡単なことです。しかし「結果」は、パニックに陥るだけです。ある時は成功しても、ある時になったら「負のスパイラル」が、ネガティブ思考を増加させ、最終的に霊的な「深い淵」へと、呑み込まれることになります。


 しかし私たちは、聖霊様の「助け」を通して、「肉の鍵」の全てを捨て去り、「信仰の杖」をもって、イエス・キリストを叩き続け、「命の水」を更に求めて、常に渇き続けましょう!「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22章17節)と言われた、このイエス・キリストの「招き」に、私たちは純粋に聞き従い、「命の水」を求め続け、渇き続け、イエス・キリストの「御名」を告白して、「信仰の杖」で打ち叩いて行きましょう。


 あなたの前に「逆境」が立ちはだかる時、それはあなたを「神の国」の麗しい次元へと、豊かに切り開いて行く「神の道」が、まさに開かれている証拠です!あなたが「信仰の杖」をもって、神が用意される全ての出来事に、大胆に打ち叩きながら前進する時に、神の偉大なる「御業」が、豊かに推し進められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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