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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.10)

           真実なパートナーシップ




あなたは久しい昔に軛(くびき)を折り、手綱を振り切って「私は仕えることはしない」と言った。・・・・私はあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えたのに、どうして私に背いて、悪いぶどうに変わり果てたのか。・・・・どうして、お前は言い張るのか。私は汚れていない。バアルの後を追ったことはない、と。・・・・素足になることを避け、喉が渇かぬようにせよ、と言われても、お前は答えて言う。「いいえ、止めても無駄です。私は異国の男を慕い、その後を追います」と。
                                             【エレミヤ書2章20~25節】


真実の「関係」とは?
 今回の記事に示される、主なる神の強烈な「メッセージ(戒め)」は、私たちに語られていない次元だと思われますが、これはイスラエル全体の「罪」を指し示しています。しかし私たちは、「今の霊的キリスト者には、今回の記事は当てはまらない!」等とは、決して考えないで下さい。今回のテーマは、「真実なパートナーシップ」です。パートナーシップとは、信頼関係に基づく「関わり方」に関する言葉で、夫婦の如き「関係性」を指します。良き伴侶と始終(永遠に)付き合って行く、また寄り添って行くなど、聖なる「関係」を保ち続けること、つまり「真実の関係」のことです。


 ご存じのように、昨今様々なニュースが飛び込んで参ります。特に昨年から続いている、世界的パンデミックのニュースに関しては、嫌と言うほど様々な情報が流れています。世界が疫病に負けてる訳ではないにも関わらず、「偽り」の情報だけが拡散しています。普通マスメディアというものは、中立の立場から取材すべく、危機を回避する人々や、困難を乗り越える人々に焦点を当てながら、バランス良く報道すべきですが、今の彼らは逆に、「危機」をあおる情報しか伝えていません。


 明らかに「情報操作」が、意図的に行われているものと思われます。人々を「恐怖」で縛り、人々を「ある流れ」に従わせようとするなど、明確な「悪意」があります。ある言葉(情報)が、果たして「真実」なのか、それとも「偽り」なのか、あなたは如何にして見分けますか?私たちは「聖書」の御言葉、つまり真実の神の「命の言葉」から、物事の全てを見分けるべきです!


 ところが、私たちは「真実」を探求すべく、完全なる「真実」を現わして下さる、イエス・キリストを求めるべきところを、この世の三次元的情報に、左右(翻弄)されながら生きているのも事実です。この点に霊的に気付く者と、ぼんやりと過ごす者とでは、その差が180度変わってきます。「この世」の出来事(事実)は、決して三次元で測るのではなく、「霊の次元」から測るべきです。


 はっきり申し上げて、私たちは「言葉の法則」に勝利している者とは、決して言い難き状態にあります。聖霊様は、私たちに強く促します。「もっと奥深い次元にある、命の水を渇き求めるべく、命の源なるイエス・キリストに信頼し、この方のおっしゃる御言葉に、純粋に聞き従うことが、何よりも重要なことです!」と。


言葉の「真偽」を見分けるには?
 後述しますが、イスラエルが代々犯した、三つの霊的に誤った「方向性」を、私たちは聖霊様から教えて戴く必要があります。そして直ちに「その通りでした!」と悔い改めて、今までの「方向性」を改めなければ、私たちも最終的には、この世の「恐れ」に支配され、ネガティブなことを語り続けるなど、サタンから逆に「あなたは、この私を礼拝しているのだね!私の造り上げた、偽りの神々に拠り頼む限り、あなたは益々栄えるから。」と、愚かな花嫁に仕立てられることでしょう。


 しかしあなたの語る言葉が、99.999%以上の割合で、イエス・キリストの「命の言葉」に満ち溢れ、人々をイエス・キリストの言葉(福音)によって、例えば「神は必ず、あなたを祝福して下さり、今の状況から贖い出して下さいます。あなたがイエス様!と、救いの御名を告白するだけで、砂漠(荒地)がオアシスへと変えられますから。」等と信仰的に励ます時、確信に満ち溢れた「真の礼拝者」へと、あなたは造り変えられるのです。


 言葉を「見分ける」とは、「言葉」の真意を霊の眼で捉え、その「真偽」を見分けた後は、「偽りの言葉」であるなら①使わない、②(二度と)聞かないことです。私たちは「真実の言葉」だけを①聞き、②探り、そして③語ることが重要です。アダム(エバ)の犯した「罪」の結果、私たちは「言葉」に関して、サタンがもたらす「古い言葉」の法則に、すぐに聞き従うようになりました。


 「言葉」の法則には、三つの特徴があります。第一に①ある言葉の情報に関して、私たちはこれが「真実」であるのか、それとも「偽り」であるのかと言った場合に、大抵はその情報を発した本人が、真実味のある信頼できる人物であるのか等、私たちは「情報源」の真実性を見ようとします。覚えて戴きたいことは、アダム(エバ)は「罪」を犯す以前は、神によって創造された「完全なる人」であり、私たちのような「不完全な人」ではありませんでした。


 にも関わらず彼ら、特にエバは、蛇の発した「情報」に騙されました。蛇は、あたかも「真実」の如き、付加された(サタンによって作り出された)、魅力ある言葉を提示しながら、エバの「魂」に「偽り(神の御心に反するもの)」の餌を、ものの見事に投げ入れました。本来の彼らでしたら、父なる神の語る「命の言葉」こそが、彼らにとって「最上のご馳走(命の糧)」であり、神との「一体化」の中に、永遠の「喜び」を共有していました。ですから蛇の「誘惑」は、さほど魅力あるものとは、決して言い難いものでしたが、神との「一体化」を超える、悪魔サタンの「反意」、即ち「神のような存在になれる!」という、新しい世界観を提示された時、エバは蛇の発した「情報」に心惹かれ、遂には唇の中に取り込んだのです。


 第二に、②私たちが「言葉」の情報を聞く時、それはある面「言葉を食す(味わい知る)」ことです。その「味覚」が、自分の経験上「知っているもの」であれば、「これは〇〇の食材です!」という、正しい「真実」の情報により、安心して食べ(聞き)続けることが可能ですが、仮に「知らないもの」の場合には、権威ある者の発する情報に基づかない場合は、「危険かも知れない!」と疑い、「偽り」を前提に慎重になります。


 言葉の法則には、二つの異なる世界(次元)によって、二種類に区分されます。人が普段使用する「古い言葉」は、三次元的世界に存在するもので、この世の「縛り」がありますから、所詮「見える事実」のみに、私たちをコントロールしようとします。しかし「新しい(霊の)言葉」の場合は、見えない「神の事実」に存在している為、はっきり申し上げて見えません。つまり「霊の言葉」は、肉の耳(聴覚)からは判断出来ない、神の次元の言葉を紐解くなど、神の国に存在する霊的「情報源」ですから、「肉の耳」で聞いた時に、全く理解できないものです。それ故に、この二つの「言葉の法則」が、実は単純な法則であっても、私たちの「知性」では混乱する訳です。


 その証拠に、私たちは否定的(ネガティブ)な言葉の「情報」に、「否!これは偽りである。」とは排除せず、むしろ「マイナスの要素」として、「知性」で受け留めるなど、結局は信仰がダウンすることが多々あります。では私たちは、どうすれば「言葉の法則」、特に「古い言葉」の支配に対して、勝利を掴むことが出来るのでしょうか?


 「古い言葉」から生じる「マイナス要素」を、「霊の言葉」の源、「霊の次元」にある、神の「命の言葉」によって、霊的に宣言する(制する)時、それまで貯めていた、「古い言葉」の貯水槽が完全に破壊され、天からもたらされる、豊かな「命の水」を流す、霊的な舌(器官)が、あなたの「霊の唇」に付与され、その時からあなたは、「不完全な者」から、神が再創造して下さる、新しい「完全なる者」へと、造り変えられて行くのです!「偽り」だらけの、古い世界の中にあって、私たちが完全に勝利ある人生を、豊かに過ごすために必要な法則、それが「新しい言葉」を語ることです。


 第三に、③神の「言葉」は必ず、素晴らしい「真理」に導きます。それは「見えない事実」を、確実に切り開くことにつながります。神の「言葉」は、三次元的な「情報」に対して、その殆どが「偽り」ですが、神の「言葉」を語ることで、見えざる「神の事実」を必ず切り開き、そして治め(支配し)て行くのです。ですから私たちは、次のように祈るのです。「何故自分が、このような経験をし、日々歩まされているのか?また、これから如何に生きて行くのか?如何なる言葉を語って行くべきか?全ての歩みの中に、自分に託された、神の偉大なる計画があることを、私は信じ続けます!」と。


イスラエルの三つの「反意」
 イスラエルが犯した、神に対する最大の「過った方向性(反意)」が、今回の記事には三つ述べられています。神に対する「反意」とは、神の「御心」に反する行動や、反対の意思を表明をすることを意味します。例えば子供が親に対して「反意」を示す場合、「親の言うことなんか、聞いてられるかー!」などと、明確に逆らって行動するのと同様に、霊的に神の子であるイスラエルは、創造主(霊的な親)に対する誤った方向性として、三つの自発的行動を取りました。今回の記事には、彼らが犯した三つの「反意」が、まるで「不貞な遊女」の如くに、その行動が性的描写として述べられています。


 彼らが犯した第一の「反意」は、「くびきを折って、手綱を振り切る」(20節)ことです。「くびき」とは、牛や馬などの家畜に用いられる器具で、農耕や運搬作業時において、スムーズに畑地を耕作したり、重量物を負担なく運搬するためのものです。決して家畜を奴隷の如くに、一生縛り付けるものではありません。イスラエルは神との「正しい関係」を保つ、この霊的な「くびき」を故意に折って、神との「親しい交わり」の絆を切ったのです。これらの行為は、英語で「reject」と言いますが、神の言葉の「権威」に対して、「そんなもの無くても構わない!自分で何とか出来るから。」などと、あえて捨てる(破り捨てる)ことを意味します。


 私たちは「罪」の奴隷から贖われ(買い取られ)、自由人として神の「救い」を受けたにも関わらず、例えば「私は今まで、神の言葉を信じて祈り続けているのに、神は良き事を一つも与えて下さらない。今は苦しみばかりではないか!」などと、自分は一生懸命(神の為に)信じて行動しているにも関わらず、神は何一つ行動を起こされない!と判断する場合、これは自分を「正しいポジション」に置くことで、神を逆に「誤ったポジション」に見下すなど、霊的な「reject」を表明することになります。そうです!「主役」が、いつの間にか「神」から、「私」に切り替わっているのです。


 私たちの「信仰」は、ある面限定的なもので、「従ってはいても、~の場合には、ちょっと無理です!」と、常に霊的な「反意」の芽が出ます。にも関わらず真実の神は、私たちのことを責め立てること無く、「私は常にあなたのことを覚え、真実の愛を惜しみなく与える方、イエス・キリストの十字架を通して、あなたの重荷の全てを負う程に、絶えず守り導き、かつ力強く支えている!この揺ぎ無き、私の命の言葉の権威に、再び信頼して戻って来て欲しい!」と、聖霊様を通して促して下さいます。ところが私たちは、この素晴らしい神の「ラブレター」を、いつしか破り捨てているのです。


 次に第二の「反意」は、「仕えることをしない」(20節)ことです。これは神との「パートナーシップ」という、素晴らしい「関係」から離れて、好き勝手に自分で生きるることです。第一の反意が、「reject」であったのに対し、第二の反意は「refuse」と言います。これは「reject」以上に、強い意思表明の言葉(態度)で、完全に神との「関係」を絶つ代わりに、別のモノ(物質、偶像等)との関係に切り換えることです。これは、自分の信念に基づく行動が、所詮不安定なものである!ことを、私たちが常に忘れてはならいことを、強く教え示しています。自分の「信念」や、一時的な「信仰」というものは、所詮「その時」だけのものです。サタンは「それが大事ですよ!あなたの信じるように生きなさい!そうすれば、そのあなたの行動に、神が祝福を付加して下さるから。」と、私たちの中にある「自信」や、一時的な「確信」に働きかけて、まことしやかに唆すのです。



 例えば「十戒」の中にある、「安息日」の規定に関して、私たちは三次元的「縛り」から、この神の「言葉」の真意に、誤った判断(解釈)をしがちです。「安息日」とは、主なる神の「時間」の中に、あなたの全てを託すことです。神の「御心」の中に、私たちが完全に拠り頼むのであれば、「安息日」に(自分事以外の)何をしても自由です。「拠り頼む」ということは、経済的次元に関することや、健康面の「安定(保証)」も含まれています。


 主なる神がアダムに対して、「安息日を休みなさい!」と命じられた理由は、神との親しい「交わり」の時が、その日に最大限に現れ出るからです。それは肉的なものから魂的なもの、また霊的なものに至るまで、完全に新たにされる「神の時」だからです。それ故に「週」の初めの日として、神が直々に用意(創造)しているのです。この日に神との「交わり」よりも、「自分事」を優先しているであれば、それは「安息日」ではなく、霊的な「窒息日」となります。


 再度繰り返しますが、人の語る「言葉」の殆どは「偽り」の情報であって、人を生かす「真実の言葉」ではありません。それはネガティブなことを、周囲の人々に蒔き散らし、否定的な観念で生きる人々を増加させるだけです。しかし私たちが「思うべき次元」、「語るべき次元」、「聞くべき次元」、また何よりも「自分が行動すべき次元」は、イエス・キリストの「御心」、イエス・キリストの「命の言葉」、イエス・キリストの「福音」、イエス・キリストと同様の「信仰行動」です。そうです!私たちが「安息日」に、イエス・キリスト中心の「過ごし方」をする限り、私たちはその「一週間」を、完全に勝利あるものとして、霊的に過ごすことが出来ます。


 最後に第三の「反意」は、「異国の男(神々)の方を麗しく思い、それに礼拝する」ことです。私たちの「霊」の中に巣食う、これら三つの「反意」は、はっきり申し上げて、「自分事(自分にも当てはまる事)」と見なしません。しかし、聖霊様は厳しく明言します。「聞くに耐えられない次元であっても、これらはサタンが醸し出す、偽りのものである!あなたが今日語られる、神の言葉に立つことよりも、(先の不安をチラつかせる)明日の神々に仕えようとする限り、それは偶像礼拝と同じである!」と。


 私たちの信じる神は、「明日」だけの神ですか?いいえ!永遠に「真実の神」です。永遠とは、「昨日」も「今日」も、そして「明日」も変わることが無い!ことです。私たちは知っています。「神の国」と「神の義」を求める限り、「今日」を生かす方が、「明日」になれば、更に御国の「祝福」を増し加えて下さることを。ですから「今日」を大事にして下さい!


 私たちが考える「思い」、聞く「言葉」の全てが、聖霊様を通して聖めて戴くべく、主なる神の御前で「祈り」を捧げましょう。「主よ、助けて下さい!私は、古い言葉の次元(縛り)に疲れました。あなたの思い、そしてあなたの言葉、あなたの麗しい臨在が、私の前に常にありますように!真実の神に拠り頼みます。イエス・キリストのみに従い、私は真実の礼拝を捧げたいのです。」と。


 どうぞあなたが、生ける神の「真実の言葉」に、生きる(拠り頼む)べき方向が、正しく変えられますように。サタンの提示する「偽り」の情報に、決して騙されることがありませんように。「神は実にその独り子であるイエス・キリストを、あなたに贈って下さいました。その理由は、あなたが滅びではなく、永遠から永遠と救われるためです。ましてやあなたに関わる者が、誰一人として滅びることが無いためです。」(ヨハネ福音書3章16節・私訳)


 イエス・キリストこそ、私たちが永遠に拠り頼むべき、「救い」の道標です。この方の「権威」のみに私たちは従い、「真実の礼拝」を捧げるのです。「明日の富」を提示する、「この世」に跪いてはなりません。「この世」が提供する、魅力的な言葉に騙されてもなりません。世の神々は何の力も無き、「偽物(偶像)」に過ぎないからです。


 私たちが信じる「真実の神」は、永遠から永遠へと、私たちに「命の水」を、無代価で惜しみなく与えて下さいます。あなたを「真実な花嫁」として、ねんごろに愛し、豊かに仕立てて下さること、これが「真実なパートナーシップ」です!私たちを「真実の神」と、引き離す者は一切ありません。この揺るぎ無き「神の事実」と、偉大なる神の「ご計画」の中に、あなたの信仰が更にレベルアップし、神の次元に生きる信仰者として、再創造されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年3月14日のメッセ-ジ)


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