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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.4)

                     第3章 三つの方向性



 言葉には、必ず使用する意味付け、即ち目的があります。そして、その言葉の用い方如何によって、方向性が定まってくることを知らなければなりません。


 例えばその目的を、良き目的の為に使用するならば、必ず正しい方向へと動き出します。肯定的な言葉を生み出す環境においては、必ず肯定的な言葉を語る指導者(親、教師、上司など)によって、肯定的イメージをもって仕事(勉学)に励む人々が存在し、そのような環境においては、必ず肯定的な方向に全体が一致して動き始めます。


 ですから言葉を使用する際には、必ず何らかの目的が伴います。そして、使用する者が用いる意味付けを肯定的に把握し、良い目的の為に使用するのであれば、必ず良い方向へと動き出します。しかし、悪い目的をもって使用するのであれば、必ず悪しき実(結果)をもたらし、ある時には中途半端な、何の目的も無いままで使用した言葉が、次第に全ての物事を虚無(無力感)に終わらせることも、私たちは様々な経験から知っています。中途半端な状態とは、良き方向に動くのでもなく、悪い方向へも進まないこと、つまり動きそのものが無くなるという状態を現します。その結果、最終的には無力感へと至らせ、何かを産み出すということは決してありません。返ってマイナスの方向へと傾いていく危険性があります。


 例えば、今日の日本社会全体を覆っている、不景気(マイナス)観の状態に、正しい情報ではなく、風評やデマなどの偽りの情報を、ある人が意図的に使用するならば、その偽情報も次々と伝達されていく中で、いつの間にか真実味を帯び、最終的にある種の破綻(例えば金融破綻)をもたらす実例がありました。


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」・・・・・・・・イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。何故なら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせて下さいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」
                                                                                             【ヨハネ福音書4章13〜26節】
新しい水への渇き
  私たちが聖書の御言葉を読む際には、その文章の中で語りかけられる神からの言葉や、イエス・キリストが福音書で語られてきた様々なセリフを、私たちが普段何気なく使用している、単なる会話レベルの言葉として把握するのではなく、一つ一つの御言葉が天上から発せられている、大いなる「目的(神のご計画)」をもった言葉として受け留める必要があります。


 スカルの女性に語られたイエス・キリストの御言葉も、彼女にとっては当時のサマリヤ地方で使用されていた言葉の一つでしたが、イエス・キリストが語られる言葉の一つ一つが、実は天上から来る神の新鮮な言葉だったのです。


 それに対し、彼女が普段使用している言葉というものは、彼女の生活全般に渡って、彼女と共に生きる言葉でした。しかし彼女に対する、地元住民からの差別的扱いが、とりわけ言葉によるものであったことを考えるならば、いつ枯れ果ててしまうか分らない「古い水」を飲みながら、生き続けなければならない状態の中で、サマリヤ人としての礼拝に甘んじながらも、彼女は本当の真理の言葉、即ち「新しい水」に、常に飢え渇いていたのではないでしょうか!


 「古い水」とは、当時のサマリヤ人たちの生活習慣や礼拝形式などの伝統、そして使用していた方言を意味します。彼女は「古い水」を飲みながらも、「いや違う!こんな生活では満足できない!こんな礼拝では駄目だ!私は、新しい真理の言葉が欲しい!本当の命の水が飲みたい!」などと、常に飢え渇いていました。


 彼女は地元住民、特に女性たちからの差別的扱いと蔑視を受けながら、又悪評が絶え間なく流れるという、言わば「腐り切った古井戸」の状態に耐えながら、「古い水」ではなく新しい真理の言葉を、悪評やデマなどの間接的に聞くようなものではなく、直接自分の耳で聞くことのできる、「その時」を待ち望んでいました。彼女は「古い水」に飽き飽きして、もう我慢できないほど「新しい水」に飢え渇いていたのです。


 求め渇く彼女の元を、神の大いなる「目的」を携えて、わざわざ訪問されたイエス・キリストは、「永遠の命」に至る新しい「命の水」を、彼女の枯れかかった「霊の井戸」の中に、天上からの言葉をもって注ぎ込むことになります。彼女は、いつ枯れ果ててしまうか分らない古びた井戸から、「古い水」を汲み上げる度に、いつでも好きな時間に自由に汲み上げることができ、しかも決して枯れることの無い、本当の「命の水」が欲しい!と強く願っていました。そしてその求めが、飽くことの無い飢え渇きになりました。


 ですからヨハネ福音書4章14節で語られている、イエス・キリストの重要な御言葉を、私たちもスカルの女性同様に激しく飢え渇き、私たちの「霊」の只中に注ぎ込まれるよう、常に祈り求めて下さい!決して単なる用語として記憶(把握)するのではなく、今この瞬間にも聖霊様が、天上の窓を豊かに開いて下さり、私たちの「霊」の只中にもスカルの女性が求めたものと同じ、永遠の「命の水」が「新しい言葉」となって流れ出るようになる、このことを信仰で受け留めて下さい!


 このように聖書の御言葉一つ一つを、単なる「言葉(用語)」としてではなく、新しい「真理の言葉」として受け留める時、私たちの「霊」の只中から新しい「命の水」が、尽きることなく溢れ流れ出るようになる!これがイエス・キリストの言われた、御言葉に伴う約束の成就です。


第一の方向性(目的)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
 イエス・キリストが与える「新しい水」を飲む者は、決して渇くことがない!このことを先ず覚えて下さい。「新しい水」とは何でしょうか?この「水」を「新しい言葉」として把握するならば、イエス・キリストが約束として与える、上からの賜物「新しい言葉」を受け取る者は全て、決して渇くことが無い、つまり常に充たされた、満足の状態に導かれることを意味します。つまり「新しい水」とは、新しい「神との交わり」を約束する言葉である・・・・これが「新しい言葉」の持つ第一の方向性です。


 アダムとエバに本来与えられていた「言葉」は、いつでも自由に神と親しく交わることができる言語であり、相互に意思疎通ができる、言わばツー・カーの関係を保障する「天上(神)の言葉」であったのではないでしょうか!つまり彼らの語っていた言葉は、父なる神が語っていた言葉と同じもので、その言葉をもって彼らは神と対話していました。しかし彼らは罪を犯し、「エデンの園」だけでなく、「天上の言葉」をも失うことになります。園を追放された時から、以前のように神と自由に交わることができない、つまり「人」と「人」の間しか通じない、「古い言葉(人の言葉)」がスタートすることになります。


 しかしその「古い言葉」ではなく、彼らに本来与えられていた「命の言葉」が、聖霊様を通して信じる全ての者に、「新しい言葉」として賦与されていく時、「エデンの園」において為されていた、神との「親密な交わり(関係)」が回復し、神の国から流れ出る「命の水」は、決して尽きること無く「新しい水」として流れ、その人の全てを満たし続けること、これが第一の目的です。トミー・テニーは、次のように述べています。「神の最終的な目的はいつも、神の最高の創造物である人間と再び結ばれて親密な交わりを持つこと」(注1)である。


 この方向性は、最終的には御国の再建(再興)につながります。つまり「主の祈り」にある如く、この地上においても神の国の「力」と「栄光」が現されていく、その鍵となるものが「新しい言葉」です。


第二の方向性(目的)
わたしが与える水はその人の内で泉となり
 「泉」とは、川の源を指し示す言葉です。例えば富士山麓には、万年雪によって常に尽きることの無い、こんこんと湧き出る有名な「湧水」、即ち「泉」が多く存在します。イエス・キリストが言われた「泉」のイメージとは、私たちが「古い言葉」によって描くイメージと異なります。私たちが描く「泉」のイメージは、恐らく鹿や小動物が近づいて飲める程度のもの、つまりこの「泉」は、山奥の谷間から流れ出て、岩清水となって溜まった小さな池程度の「泉」の概念だと思います。その「泉」は、たとえきれいな水であっても底が見えるもの、つまり30〜100㎝程度の深さの「泉」に過ぎません。


 ですから、私たちの「古い言葉」から思い浮かべる「泉」のイメージは、「底が見える程きれいな湧き水」程度のものであるのに対し、イエス・キリストが示される「新しい泉」は、スカルの女性が通っていた、「ヤコブの井戸」程度の概念でもありません。では、どれ位の規模の「泉」のイメージでしょうか?それは直接現地に赴き、その瀑音を聞くことのできる距離にあり、盛んに降り注ぐ水しぶき、溢れ流れ出る大量の滝水を、ほぼ真下から見た者にしか分らないイメージ、つまり「ナイアガラの瀑布(大滝)」に似通っています。あれは「泉」ではなく、「滝」ではないか!と思われる方もいらっしゃることでしょうが、「ナイアガラの滝」が逆流したイメージ、つまり「下」から「上」へと吹き上がる巨大な「泉」が、毎秒数千万トンもの水量(注2)となって、次から次へと溢れ流れ出る、まるで尽きることの無い底なしの「泉」のイメージ、これがイエス・キリストが彼女に語られた「新しい泉」です。


 即ち、イエス・キリストが示された、私たちの内側から流れ出す「命の泉」とは、底が見える程度の深さしかなく、湧き水がチョロチョロ流れ出る程度の「小さな泉」ではなく、「ナイアガラの滝」以上の莫大な水量が巨大な噴水となって、吹き上がり溢れ流れ出る「新しい泉」です。この「命の泉」が、私たちの「霊」の只中から必ず溢れ流れ出るようになる!と、聖霊様は約束して下さっています。「え?!そんな素晴らしい事が、この私の中に起こり得るのですか?」などと思われる方は、使徒行伝を再度注意深く調べて下さい!あの裏切り者や逃亡者たちの群れ、彼らはいつも軟弱で弱腰、引っ込み思案の弟子たちでしたが、「聖霊革命」以後の彼らは、師イエス・キリスト以上に力ある「御国の働き人」として、至る所において神の御業を、聖霊の導きによって推し進めていることが、はっきりと記述されています。


 この「泉」の持つ特徴から、「新しい言葉」の持つ第二の方向性は、神の奥深い御心(聖域)を知る、変革(革命)の武具(賜物)になることです。「異言の賜物」の方向性に関し、ボブ・ゴードンは次のように導いています。「異言の賜物は、他の賜物を開く手段ともなりえます。例えば、私たちが霊の内で異言で祈るのであれば、神の御心が捉えやすくなり、神の御心に従って働き、正しい方向性を得ていくことができるからです。」(注3)


 神の奥深い「御心」を知ることが無ければ、本来私たちは何もできません。私たちが血肉の努力によって何かを為す、即ち自分の手に「賜物」を掴むならば、必ずそれは人間的な面で成功することはあっても、決して霊的な面で成功することは無く、殆どが失敗に帰します。しかし、神の奥深い「御心」を知った者にとって、天から与えられる霊的な「洞察」や、「知恵の言葉」をもって始めていく時、聖霊様が必ずその人に対して、天上の実を結んで下さいます。その結果、神から戴く「新しい言葉」が、社会を揺り動かし、本当に人々を造り変えることのできる、「変革の武具」となっていくのです。


 ラリィ・クリスティンソンが、「異言を語るとき、神への礼拝は新しい次元へと開かれていく。・・・・異言を語る者は、たとい知性では言っていることを理解しないとしても、神との親密な交わりを持っているということを、鋭く認識するのである。」(注4)と述べているように、「異言」を語っている時は、何を語っているのか殆ど分りませんが、その語られる「異言」が説き明かされ、ある時には「預言」や「知恵の言葉」となって、聞く者の人生を神の方向へと造り変えた「証言」は沢山あります。それ程、この「新しい言葉」の持つ変革の力というものは、神の奥深い「御心」を知ることが無ければ、絶対成就し得ないことを覚えて下さい。神の「御心」というものは、「ナイアガラの滝」以上に奥深い底なしの領域、つまり尽きることの無い永遠の「命の泉」です。ですから、神の「御心」を知れば知るほど、私たちはその奥深さを体験し、更に求めていくのです。又その霊的飢え渇きも、知った者にとって決して尽きることがありません。


第三の方向性(目的)
わたしが与える水は・・・・永遠の命に至る水が湧き出る。
 「泉」というものは、湧き水が出なくなり水が枯れてしまったら、もはや「泉」ではなくなります。それは只の「穴」です。同様に枯れてしまった井戸は、もはや井戸とは言わず、誰からも使用されない、只の「空洞」に過ぎません。ですからこの御言葉は、神の奥深い「御心」を知った者が、約束として与えられる第三の方向性につながります。それは、聖霊を通して与えられる「新しい水」を飲む者、即ち「新しい言葉」をもって、神との「親しい交わり」に入る者は、必ず「永遠の命」に至ることです。


 「永遠の命」とは何でしょうか?神の属性、即ち神ご自身が持っておられる「ご性質(品性)」の中に見られる共通のもの、それが「永遠性」です。神の「愛」、「平安」、「救い」、「贖い」、「喜び」など、様々な「ご性質(品性)」に「永遠性」が支配しています。とりわけ、私たちの「霊」が求める神との「親しい交わり」が、例えば「有限性」のものであるなら、決して「希望」は生まれません。その交わりが「永遠」に続くものである!と確信する時に、私たちの「霊」はその「永遠性」、つまり「永遠の交わり」を求めて止まなくなります。


 仮に「ナイアガラの滝」が、いずれ何十年か先に水源が砂漠化し、この滝の大きな流れが途絶えてしまうと分っていたら・・・・人々はこの「川」の周囲に住まなくなることでしょう。又、日本の近畿地区においても、巨大な水源である「琵琶湖」が、数年後に枯渇したとしたら・・・・この地域に住む人々はパニックに陥り、他の地区に移住せざるを得なくなるでしょう。しかし、この水が永遠に続くものだと分っていたら、人々は何の不安もなく、水域の周辺において生活し続けることが可能になります。ですから、「水」の在る所に「命」が湧き出て、「新しい命」が次々と誕生します。「水」在る所に、必ず「生命」が繁栄してくる!これが、自然界の「水の法則」です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(エゼキエル47・9)この御言葉の如くに、神の川が流れ満ち溢れる所に全ての「霊」が生きること、これが神による永遠の「命の水」の法則です。これは、「生きた霊」だけでなく「死んだ霊」に対しても、イエス・キリストの「復活の力」が約束された言葉です。


 私たち人間は生物学的に見るならば、その組成分の約七〜八割が、「水」によって構成されています。赤ちゃんが出産するまでに、母親の胎の中で生き長らえることができるのも、「羊水」という「命の水」に覆われているからです。赤ちゃんは遂に時満ちて、「破水」して母親の子宮から外界に押し流された後、新しい命の「産声」を上げます。そして、次に求め始める飢え渇きの対象は、「母乳」という新しい「命の水」です。このように人間は、母の胎に命を宿した時から「命の水」に覆われ、胎を出た後も「命の水」を求めるように創造されています。


 自然界にも「水の法則」に従って、生物が「水」を求めて生きるように、私たち人間は神の「永遠性」を求めるように創造されています。この神の「永遠性」という法則に生き始める時、人は本来の創造された時点、即ちアダムとエバが罪を犯す前に、「エデンの園」において賦与されていた、神との「親しい交わり」の時が、完全に回復されていくのです。


 「新しい言葉」の持つ第三の方向性とは、新しい創造を促す「変革の扉」になることです。「扉」は、開ける為に用意されるものです。「扉」が閉じた状態だと、いつまで経っても「扉」の向こう側にある世界は見えず、只の壁の一部です。「扉」を開けた時、果して何が見えてくるのでしょうか?それは、真っ先に飛び込んで見えてくるもの、「希望の空」が見えます。即ち「天上のもの」が見えてくるのです。天国の「扉」は信じる者全てにとって、いつでも開かれるようになっています。「新しい言葉」をもって、天国の窓の「扉」は開かれるのです。その時私たちは、「古い人」から「新しい人」へと造り変えられます。「古い」限りある命ではなく、新しい「永遠の命」に生きるキリスト者として、古い状態を支配しているこの世にあって、圧倒的な大勝利をもたらし、「新しい創造」をもたらすことができる、これが「新しい言葉」の持つ第三の方向性です。


 「新しい言葉」なくして、天国の「扉」を開くことはできません。「永遠の命」に至ることは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)と記述されてあるように、スカルの女性がその後飲み続けた永遠の「命の水」、即ち真の花婿イエス・キリストを、果てしなき飢え渇きをもって、求める(知る)ことに他なりません。


更なる飢え渇き
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人の所に行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなた方が聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
                                                                                                        【ヨハネ14章23〜24節】


 イエス・キリストが言われる「わたしの言葉」とは、「神の掟」や「律法」を指しますが、今も尚天上から語られる、父なる神の「霊の言葉」として把握するならば、イエス・キリストが私たちに必ず与えると約束された、「新しい言葉」を信じて待ち望み、聖霊を通して「霊」が語らされるままに、「異言」を語り出す約束の実を得た者にとって、それは父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊が常に共にいて下さるという、言わば「永久契約保証書」に当たります。この「新しい言葉」は、神から戴く「約束の賜物」であり、この約束を信じ守り行う者には、「新しい言葉」の持つ、


・新しい神との交わりを約束すること、
・神の奥深い御心(聖域)を知る、変革(革命)の武具(賜物)になる、
・新しいい創造を促す「変革の扉」になる、


という三つの方向性(目的)をもって、イエス・キリストにある素晴らしい人生が、永遠に保障されます。しかし「聖霊の賜物は使徒行伝時代に終わったものであるから、今の時代は必要ない!」などの神学に立ったり、「異言は毎回、聖霊の力を受ける時にのみ必要な言葉であって、それ以上のものではないし、今以上は必要ない!」などのレベルに立つのであれば、まさしく霊的にそれ以上の進歩はあり得ません。ある面で、それは中途半端な解釈(聖書理解)ですから、必ず霊的無力感(何の渇きも無い状態)に陥ります。そのような人々は、天上からもたらされる、本当の力あるキリスト者には成り得ません。ラリィ・クリスティンソンが指摘する次の言葉に、私たちは謙虚に耳を傾けようではありませんか!「この賜物、異言を用いないために私たちが受け損じている更に大きな祝福と力が、他にもあるのではないだろうか。」(注5)


 「新しい言葉」の持つ、奥深い次元にある「神の力」は無限のもの、つまり「永遠性」のものです。ですから、私たちは「飢え渇き」を止めてはなりません。絶えず霊的に飢え渇き、早朝起床した時から「新しい言葉」をもって祈り、夜就寝する時に至るまで神との「親しい交わり」が、「命の水」となって溢れ流れ出るよう更に求め続けて下さい!



注1、トミー・テニー著『神を追い求める』(生ける水の川)108項から引用
注2、実際の水量としては、カナダ滝から毎分1億5千5百万㍑、アメリカ滝から毎分1千4百万㍑が流れ落ちている。
注3、ボブ・ゴードン著『聖霊』(マルコーシュ・パブリケーション)66項から引用
注4、ラリィ・クリスティンソン著『異言』(生ける水の川)128項から引用
注5、ラリィ・クリスティンソン著『異言』(生ける水の川)90項から引用


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