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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.11)

                      敵の侵略に備えよ!

 


サンバラトとトビヤ・・・・は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、大いに怒った。彼らは皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした。私たちは私たちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。・・・・私は城壁外の低い所、むき出しになった所に、各家族の戦闘員を、剣と槍と弓を持たせて配置した。私は見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏れるべき主の御名を唱えて、・・・・家(家族)のために戦え。」私たちが気付き、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、私たちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた。
                                                                                                   【ネヘミヤ記4章1節~9節】


「隙間」だらけの現実であっても・・・・
 主なる神の「御心」は、私たちの人知を遥かに優って、偉大なる「ご計画」の中で進められることを、私たちは常に信仰の目で見る必要があります。特に私たちキリスト者の場合は、上部(うわべ)や外側などの、三次元的事実を見て、神の御心を判断してはなりません。


 例えば神の「聖なる油」は、私たちの中に優れたものがある(見える)から、多く注がれる訳ではありません。むしろ私たちが「え!、こんな人が・・・・?」と思う者を、神は突然に選び召し出して、豊かにご自身の「恵み」を現されることがあります。ですから、主なる神が為される「取扱い」を、私たちが肉の判断で取り違えますと、神との距離が益々遠のくことにもなります。


 しかし聖霊様が、謙遜の油注ぎをもって、私たちに臨まれる時には、神は大いなる「恵みの時」を与え、私たちの霊的弱さを修復して下さいます。すると今まで「自分はつまらない(役に立たない)!」と思えていたことが、「だからこそ、私の中にある弱さを、神は恵みをもって建て直して下さった(下さる)!」と、逆に信仰の告白を為すことが出来るのです。


 今回のストーリーから学ぶ第一の奥義、それは城壁の「隙間」が修復される時、果たして何が起きるのか?という点です。敵は今まで、彼らの工事の様子を見て、高をくくっていました。何故なら、城壁の何処を見ても、「隙間」だらけ、つまり「いつでも侵入できる!」と予測していたからです。


 ところが今回の場合、彼らの修復工事の「進捗」が、余りにも人知を超えて、早く完成段階に至っている様を見て、慌てて侵略攻撃計画を立てました。ところで「隙間」は、英語で「gap」と言い、物質的な(或いは人間関係上の)隔たり(空いた状態)を意味します。実は主なる神の取扱いが始まりますと、その「隔たり」そのものが、ご自身の「救い(贖い)」を現すフィールドになります。そうです!私たちの肉眼にとって、「弱さ」と映る「隔たり」が、神にとっては「God’s  Anointing  Place(神の油注ぎが豊かに現される場所)」なのです!


 私たちの目に見劣りする部分、霊的に傷付いた部分などに、主イエス・キリストの十字架の御血潮が注がれる時、そこは神の栄光を豊かに現すべく、神の御心通りに完全に修復されることで、偉大なる神の「ご計画」の完成に至るのです!私たちはとかく、自分の傷付いたところを、人前にも神の御前にも隠そうとします。しかし主なる神は、そこにこそ「私の栄光、私の癒し、私の大いなる恵みを現したい!」と切望しておられるのです。


 神の霊的な御住まいである、私たちの五体(霊を含む)が、「敵」の侵略によって蹂躙されることを、神は決して良しとはされません。それ故私たちは、直ちに「主よ、どうぞ私のギャップ(修復すべき部分)全てに、あなたの聖なる油を、豊かに注いで下さい!」と、常に願い求めましょう!


敵の「攻撃」パターンを知る
 続いて第二の奥義、それは「敵」の策略の常套手段について、私たちは詳しく知る必要があるという点です。具体的に8節で「混乱に陥れようとした。」と記されていますが、「敵」の策略の常套手段、その第一攻撃は「混乱」です。中国の「兵法書」に出てくる、いわゆる「離間の計」です。私たちが、神との麗しい関係(親しい交わり)にある間は、主イエス・キリストを信仰の土台として、揺るぎ無く前進することが出来ます。


 しかし敵が、私たちの霊的「隙間(弱さ)」を攻撃し、様々に攪乱し始めますと、私たちは次第にパニックに陥り、遂には混乱の罠にはまるのです。敵は私たちを混乱させることで、私たちの中にあるギャップを広げ、遂には城壁(神への確固たる信仰)を、再び瓦礫へと崩したいのです。


 さて敵の第一の策略に対して、イスラエルの民は如何なる反応を示したのでしょうか?真っ先に動揺したのが、地元に住んでいたユダ族でした。9節の御言葉は、彼らの「呟き」として聞こえますが、実は一つの「唱(うた)」です。つまり「♪肩をかつぐ力も弱りー、城壁の再建なぞ出来やしないー♪」と唱する、否定的な演歌のたぐいです。


 これに対して、一生懸命に作業に従事する人々は、この歌に呆れ果てる始末。誰一人として「♪主なる神の名に勝利ありー♪」と歌い続ける者は無く、途中からユダ族の否定的演歌に歌い負けする、そんな混乱した反応を示しました。敵は、信仰者たちが前進すべく何かを始めますと、変な「噂話」を起こし、信仰者の歩みを封じ込めようと、様々に攪乱しようと試みます。


 さてネヘミヤは、ユダ族を始めとする、諸部族の混乱に対して、如何なる反応(処置・対策)を示したのでしょうか?彼は真っ先に、「敵を恐れるな!偉大にして畏れるべき、主の御名を唱えて、兄弟のため・・・・、家のために戦え!」と、高らかに宣言(鼓舞)したのです。このメッセージは、イスラエルの全家に向けられたものですが、実際は各家族の「長」に対して、責任ある信仰態度を取るよう、叱咤激励したものです。


 ネヘミヤによる、剣と盾と弓を常に用意して、各家庭の戦闘員が城壁の「破れ目(ギヤップ)」に、昼夜を問わず配置するという、的確な指示を出した結果、敵は城壁の中にまで侵入出来ませんでした。これが、ネヘミヤの指示した防衛戦術でした。


 結論になりますが、敵が侵略を試みる部分(場所)、それは私たちの霊的「破れ目」、つまり「弱さ(劣ったと映る自分)」です!だからこそ、主なる神の油注ぎが、豊かに現れ出る部分は、私たちの誇る「能力(長所)」や「権勢(力)」ではなく、むしろ今まで敵に蹂躙されてきた、傷付いた部分、神から離れていた部分、神に対して疑った部分などの、自分が弱点と見なしていた所を、先ずは主なる神に委ねる必要があります。


 そして「聖霊様、どうぞ貴方様が、この私の破れ目に、イエス・キリストという最高の贖い主を、常に配置して下さり、私の破れ目を完全に修復して下さいますように!私は信仰をもって祈り続けます。」と、昼夜を問わず祈り続けた者は、次第に回復して行くのです。


 敵は、いつでも侵略を試みてきます。しかし主なる神が、いよいよ私たちキリスト者を通して、この日本に偉大なる「ご計画」を現すべく、神の家族の群れ(エクレシア)を再建して下さいます。敵は遂に動き始めましたが、私たちは決して揺り動かされること無く、イエス・キリストの御名を高らかに賛美し、偉大なる神のみを畏れ敬い、聖霊様の取扱い(訓練)を受けて、日々前進出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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