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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.34)

                命を懸けた「闘い」の始まり




モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。・・・・勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食をし、涙を流し、悲嘆にくれた。女官と宦官が・・・・エステルに告げたので、彼女は非常に驚き・・・・モルデカイに衣服を届けた。しかし、モルデカイはそれを受け取ろうとはしなかった。
                                               【エステル記4章1~4節】


命を懸けた「闘い」
 ご存じのように、「闘い(戦い)」は「命」を懸けた動き(アクション)、つまり生きるか死ぬかを懸けた行動です。それは身が震える程の、死の「恐怖」が伴うものです。しかし「闘い」に出陣しなければならない、そんな「危機の時代」に、私たちキリスト者の群れ(エクレシア)が、神の「戦士」として遣わされていることを、改めて認識しようではありませんか!


 私たちは、今の「コロナ禍」を恐れる民ではありませんが、いよいよ私たちの花婿なる方、真の「救い主」なる方、主イエス・キリストが再臨される時には、「決死の覚悟」が必要となります。そうです!「今」はモルデカイの如くに、粗布をまとい、「灰」をかぶり、最後の「闘い」に臨むべき時です。私たちの「闘い」の前線には、王の王なる方、ユダの獅子(イエス・キリスト)が、既に「勝利」に次ぐ「勝利」を勝ち取って下さいます。


 今回の記事に見られる、モルデカイの「心境」は、恐らく「あー、遂にこの時が来たか!」という、身の引き締まる「厳戒態勢」に突入する、そんな緊張状態では無かったかと推測できます。そして「ある(決死の)決断」を下さなければならない、非常事態に入ったことも悟りました。このまま事態を静観していたら、「敵」の仕掛ける様々な策略に陥り、最終的にはエステルを含め、自民族の絶滅という憂き目に遭う。まさに今の時に、「命」を懸けて闘わなければならない!・・・・と。


モルデカイの「闘い方」
 さて、そのようなユダヤ民族の「非常事態」の時に当たり、モルデカイは如何なる「闘い」を為したのでしょうか?率直に申し上げて、彼は自分の「命」を惜しむこと無く、進んで「闘い」に臨みました。彼の「闘い」には、二つの重要な奥儀が示されています。第一に彼の「闘い」は、①「世の衣」を捨ててまで、「決死」の信仰行動を貫いた「闘い」です。「世の衣」とは、私たちが普段置かれている「環境」、「仕事」や「社会的習慣」など、世のシステムに合わさなければ、暮らして行けない様々な「思い患い(気遣い、配慮、心配等)」のことです。


 モルデカイも実際には、「あ、あの方は門衛隊長殿では!」と、誰の目から見ても直ぐに分かる、勲章や階級章の付いた「制服」を着ていました。しかし「その日」だけは、頭髪は灰を被ったボサボサの状態、着てる服は荒布という、気が狂った乞食の如き格好で出仕しました。


 彼の突拍子も無い変人の如き行動には、如何なる意味があるのでしょうか?事実として分かることは、先ず「門衛隊長」の制服(世の衣)を着て、王宮に出仕することを捨てたことです。次にユダヤ人の身分(出生)を隠す制服であったにも関わらず、ユダヤ人が神に緊急の祈りを捧げる際の格好、つまり灰を被り、粗布を着て祈る姿勢を、あえて隠さなかった(公にした)ことです。と言うことは、ペルシャ帝国法により「咎め(死罪を免れない裁定)」を受ける覚悟で、敵との「闘い」に臨みました。


 今後、様々な「災い」が始まりますが、今の「コロナ禍」は単なる、大艱難に至る出発点の如き、「小艱難」の始まりかも知れません。例えば来年(2021年)は、日本列島周辺において、巨大国家(C国)が盛んに、国際法で決められた「境界」を踏みにじり、遂には小国家(台湾)に対して、小規模な軍事侵攻を繰り返すかも知れません。このC国の動きに対して、米国・韓国・日本の連合軍が、果たして防御行動に移ることが出来るか否かで、アジアの覇権勢力図が、がらりと変わる可能性があります。これは、あくまで私の推測ですが・・・・。


 ですから今後の日本の行方は、のほほんと「オリンピック」を開催して、浮かれ気分に浸る時ではありません。物凄いの勢いで、「敵」が激しく動き回り、「災い」に苦しむ人々を囲い込み、霊的に支配下に置くことで、「666勢力」の拡大を謀る、そんな「終末の時」が来ているのです!


公に「キリストの花嫁」として生きる
 では私たちキリスト者は、「キリストの花嫁」として、このような激動の時代の中で、今の時の「ハマン(反キリスト)」が台頭した時に、如何なる「闘い」を為して行くべきでしょうか?その「答え(鍵)」となる行動が、モルデカイの「闘い方」に示されています。そうです!彼は②「決死の覚悟」をもって、ユダヤ人であることを顕わにしました。これがモルデカイの「闘い」から示される、第二の重要な奥儀です。彼の行動は、当然エステルの耳にも入り、彼女は養父の異常な行動を、直ぐにでも止めるよう、新しい衣服を届けましたが、彼は頑固として、その受け取りを拒否します。


 何度も何度も王宮の門前にて、「決死の行動」を繰り返す彼の闘いは、今の時代にあって如何なる事を意味しているのでしょうか?それはイエス・キリストの最後の戦い、つまり十字架上に向かうべく、エルサレム入城の際に語ったであろう、彼の真実な言葉(訴え)に鍵があります。弟子たちは、遂に「革命の狼煙(のろし)」を挙げるべく、盛んに師に対して扇動します。「先生、いよいよですね!我らは決死の覚悟で(ローマ軍と)戦いますから、後は天の軍団の手配をよろしく。」と。


 するとイエス・キリストは、弟子たちに「あなた方は、未だ分からないのか。私は屠られる生贄として、エルサレムに行くのだ。どうか私の為に祈ってくれ!」と、彼らの理解できない言葉を何度も繰り返すのみ。弟子たちは、師の語る言葉の「真意」を、全く掴み取ることが出来ません。イエス・キリストは自分が不当に逮捕され、いずれ「処刑」されることを覚悟の上で、祈りの山(ゲッセマネの園)に出陣しました。敵(ローマ帝国及び反対勢力)と戦うためではなく、サタンの「誘惑」、つまり十字架から逃げる誘いかけを、一切封じ込める霊的闘いに臨むためです。


 イエス・キリストの十字架に至る、この一連の「行動」は、実はモルデカイが為した、命を懸けて神に懇願した、決死の「祈り」の行動と同じです。その際モルデカイも、人間的な「方策(逃げる手段)」を考えましたが、聖霊様がストップをかけます。「逃げるな!あなたの命を懸けよ(捨てよ)!」と叱咤激励します。どれ程彼は辛かったことでしょう。しかし覚悟を決めて、エステルの「提案」を拒否したのです。


被造物だけでなく、霊の初穂を戴いている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。
                                                      【ローマ書8章23節】


 この「呻きながら」とは、安易に「早く希望が見えること」を望む次元ではなく、聖霊様も共に呻き祈る霊の次元にありますから、「神の子(エクレシア)が、早くイエス・キリストと同じ信仰、つまり死の恐れの次元ではなく、復活という永遠の命の次元に生きる」こと、即ち生きた「生贄」として、自らを捧げる群れになることを、必死に祈り求め続けることです。


 今から来る時代は、私たちキリスト者(キリストの花嫁)が、大いなる霊的呻きをもって決死の覚悟で生きる、そんな最後の「闘い」の時代に突入しています。モルデカイが、エステルの「提案」を拒否した理由は、「あなたも私と同じ神の子ではないか!」と、あえて抵抗して訴える(気付かせる)ためです。そして彼女に、「ある行動」を採るように促しています。それは「あなたも私たちと同様に、命を懸けて闘いに参戦するように!」ということです。


 そうです!今の「コロナ禍」にあっても、「真の花嫁(神の子たち)」を、聖霊様が迅速に整えながら、最後の「闘い」に参戦するよう、盛んに招集しています!あなたが聖霊様を通して、イエス・キリストの「勝利部隊」として、益々霊的に鍛え上げられ、信仰が飛躍して参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年9月27日のメッセ-ジ)


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