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命と心の健やかなる成長のために!
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言葉の革命(No.41)

                     新しい天の故郷シオン




私はまた、新しい天と新しい地を見た。・・・・更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降って来るのを見た。その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である・・・・事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水から価なしに飲ませよう。勝利を得るものは、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり、その者は私の子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全て嘘を言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である。
                                                                                【黙示録21章1~7節】


黙示録21章が示すこと
 ご存知のように「黙示録」は、イエス・キリストの十二弟子の一人ヨハネが、パトモス島に流刑されていた頃に記述したものです。彼はこの地で、主イエス・キリストの「来臨の時」を、こよなく待ち続けました。そして愛する主との再会を、激しい霊的叫びをもって祈り求め、涙を伴う飢え渇きの中で懇願し続けた時に、聖霊を通して更に奥深い天上の「至聖所」の中に迎え入れられ、そこで「地球の終末」に起こる預言的啓示を見せられました。


 この21章は、「黙示録」の終章とも言える内容が記述されていますが、私たちはこの章を単なる「終末の時に(私たちに)もたらされる、新しい神の国(御国)の到来」などの概念(イメージ)で把握するのであれば、聖霊様はわざわざヨハネに「詳しい描写」を見せることで、私たちに預言的に示す必要はなかったでしょう。


 何故、聖霊様はヨハネの「霊」の中に、「新しい天」と「新しい地」の幻を、預言的啓示として示したのでしょうか?聖霊様は、私たちの人生及び生活全般に渡って、如何に父なる神がご自身の「計画」として、私たち一人一人に素晴らしいものを用意して下さっているか、このことを「正しい方向」で知らしめ、神の新しい「変革の時」が最終(完成)段階に至った時に、実は私たちが想像できないほどの、麗しく素晴らしい「ある式典」が用意されていることを、「知る」ようになるためです。


 仮に聖霊様が、私たちに対して「終わりの時には、様々な出来事が起こります。しかし、あなた方は天の御国に引き上げられ、最終的には新しい御国において、祝福の栄誉を授かることでしょう!」などの内容で、「預言」が示されるのであれば、ヨハネに示された21章のような、「詳しい描写」は必要ありません。つまり、「天の御国に帰ったら、あなた方は必ず分るでしょう。だから天を求めなさい!」などの、単純な福音を示すだけで十分ではないでしょうか!しかしこの章を読む限り、あえて父なる神が終末に生きる、私たちの「信仰生活」から様々な「人生(生き様)」、そして「生き甲斐」などの全般に渡って、神ご自身の「計画」通りに、「救い」の事業を進めておられることが示されています。


 即ち、「事は成就した。」(6節)の御言葉にあるように、父なる神の「ご計画」が「完成の時」に至るまで、今も尚「御心」が進行中である!ことが分ります。父なる神の「ご計画」は、私たちが考えるような「時間概念」にはありません。つまり「終わりの時」に至ったからと言って、即「最後の審判」が一機に行われ、「白・黒」の判定を付けるなど、いわゆる「予定説」が示すような、迅速なプログラム処理ではないことです。ノアの「大洪水の時」、そしてソドムとゴモラの「裁きの時」もそうでありましたが、父なる神はご自分の立てられた「計画」を進めるに当たって、必ず事前の「準備段階」を用意されています。ですから、ヨハネに示されたこの21章の記述は、天上における最後の「完成段階」というより、イエス・キリストがこの地に再臨される前にもたらされる、神の「ご計画」の「準備段階」の具体的内容と把握した方が、より理解し易くなるのではないでしょうか!


霊の故郷を求めて
 ところで私たち「人」は、常に「ふるさと(故郷)」を求めて「帰りたい!」、又そこで「安心して暮らしたい!」などの願望を持っています。日本人は、歴史的に古代から現代に至るまで、他民族の侵略によって「故郷」を追われるなど、日本以外の土地へ強制移住させられた経験が全くありません。


 しかし、ユダヤ人にとって「故郷」という概念は、他民族以上に差し迫るものであり、生活全般を支配する「生きる希望」であると把握した方が、私たち日本人には分かり易くなるでしょう。つまりユダヤ人にとって、「シオン」こそが「生きる目標」であり、この地に帰還して住み続けることが、「生きる意味付け」となっているのです。自分の住み慣れた故郷を追われ、世界中に離散して生活せざるを得ないなど、そのような苦難の歴史を辿らなければならなかった民族は、ユダヤ人の他にはありません。


 特に、その「シオン」への帰還の行動が、歴史上具体的に起こされたのが、旧訳期で言えばモーセに率いられた、「エジプト脱出」の時でした。彼らは一つのスローガン、「我らの故郷、カナンの地に帰ろう!」を掲げつつ、エジプトの支配から逃れるため、苦難の末に脱出しました。勿論、このことは彼らの「計画」ではなく、神の「ご計画」通りに、神の「恵み(導き)」の中で成功します。エジプトに住んでいた頃の彼らは、どれほど「シオン」を恋い慕っていたことでしょう!彼らにとって、「シオン」という言葉を失うことは、「生きる希望」を失うことに等しいものでした。


 そして、紀元後の19世紀後半に始まった「シオニズム運動」は、ローマ帝国によりイスラエル国家が完全に破壊され、世界中へと離散していったユダヤ人が、千七百年以上の流浪の歴史の中で、祈り続けていた「生きる希望」の集大成でした。そして神の預言(摂理)通りに、1948年に「イスラエル共和国」が再建されました。このように、ユダヤ人にとって「故郷」という概念は、非常に「重要な言葉(Key word)」であることが分ります。


 これは、経験した者にしか分らないことですが、「故郷」に対する何らかの「イメージ」は、その地から遠く離れた地にて、暮すようになってみて初めて、少しずつ客観的に見られるようになり、又その「有り難味(存在意義)」が分ってきます。つまり私たちが、生まれた土地「故郷」に住んでいる間は、全く何もイメージしなかったことが、離れざるを得ない状態(状況)になり、実際に故郷を離れて「よその地」に暮らし始める時に、「故郷」に対する何らかの「思い(慕情)」が出て来るのです。日本の民謡にある次の歌詞が、このことを物語っているのではないでしょうか!「♪夕空晴れて、秋風ぞ吹く。月陰落ちて、鈴虫鳴く。思えば遠し、故郷の空。あー我が父母、いかにおわす。♪


 「人」は何故、このように「故郷」に対して、不思議な感情を抱くのでしょうか?とりわけ私たちが、「故郷」の中で一番懐かしく思う場所は、やはり「生まれ育った土地(或いは風景)」ではないでしょうか?ところが、離散したユダヤ人にとって「シオン」という故郷概念は、自分の「生まれ育った土地」でないにも関わらず、自民族の発祥地「シオン」を求めて止みません。彼らは、生まれてこの方見たこともない「シオン」について、親から代々教え継がれてきた共通イメージを描くことで、そこに帰還できる「その時」を、心待ちにしながら生活しています。


 彼らの描く「シオン」の共通イメージは、「乳と蜜のしたたる祖国」です。実は私たちキリスト者も、三次元という「異郷の地」に住みながらも、「天」の領域にある「御国」という天の故郷を、霊的に求めていることをご存知でしょうか?私たちの霊的故郷は「天」にあります。それ故私たちの「霊」は、「天的なもの」を求める霊的特質があります。そして私たちは、かつて地上の「御国」のフォームであった、「エデンの園」を同時に求めていることを知るべきです。つまり、「エデンの園」で為されていた「天的な交わり」が、私たちの人生及び生活全般に渡って、再び現されることを欲しているのです。もし私たちに、その霊的飢え渇きがないのであれば、本当の意味で「イエス・キリストの救い」にあずかっていません!


 イエス・キリストは、弟子たちに教え示された「主の祈り」の中で、「御国を来たらせ給え。御心の天に為る如く、地にも為させ給え。」と祈りました。この「御国を来たらせ給え」とは、どういう意味でしょうか?これは、「私は御国に帰りたいのです!ですから、早くその時が来ますように!」などと祈る、いわゆる「人の願い」ではありません。神の「命の息」を授かった私たちが、常に「天的なもの」を自然と求めるように、「天的なもの」が神の「ご計画」通り、この地に豊かに現されること、つまり「回復されたフォーム(姿)」を待ち望む、「とりなしの祈り」に当たります。


 ご存知のように、アダム(エバ)が罪を犯す以前は、この地は「神の美」に覆い尽くされ、素晴らしい「天の祝福」が満ち溢れた、神の「聖なるフィールド(畑)」でしたが、彼らの「罪」の結果サタンによって、次々と「悪しき種」が蒔かれるようになりました。それ故「神のフィールド」が地を離れ、「呪い」と「破壊(破滅)」をもたらす、サタンの悪しき「意志」の現れが、この地に蔓延するようになりました。


 しかし、霊的に腐敗しきった「不毛の地」にあっても、神の生ける「御心」の現れが、救われた人々を通して必ず回復されていく、つまり被造物全体が贖われること(ローマ書8章)を、父なる神は「ご計画」をもって進めておられるのです。そして聖霊様は、全てのものが本来の神の「ご計画」に立ち返るよう、「贖いの完成」の時を待ち望んでいます。天の御国の「完全なフォーム」が、地上にもたらされる事ではありませんが、かつて「エデンの園」で為されていた、天上の麗しい神の豊かな臨在が、この地にも回復されていくことを、イエス・キリストは願って止みません。


 ユダヤ人に与えられている、「シオンへの帰還」という目標は、現実の「シオニズム運動」のみを指す概念ではなく、本来神が「人」に与えていた、神との「正しい関係」を指し示すことに他なりません。ユダヤ人は、先祖代々教え継がれてきた「律法」の中で、本来の「人」は神が約束として与えて下さった「土地」において、神が豊かに与えて下さる数々の祝福の実を、いつでも自由に共有し合うことができる、これが「シオン」の「正しい姿(フォーム)」であると学んでいます。


 「シオン」のフィールドにおいては、かつてエジプトで強いられていたような、ピラミッド型の支配(隷属)、つまり「人」が「人」を支配する次元ではなく、「神」が全てのものを統治することが絶対原則です。しかも「神による支配」とは、人間的レベルの支配を意味するのではなく、一人一人を個性ある自由な人格者として、平等に価値ある者として取り扱って下さる(治める)などの、「全幅の信頼関係」が成立しているのです。ですから、ユダヤ人の「シオン」に関する教えには、神の「統治システム」が詳しく描写され、しかも彼らの実際上の政治システムの中にも、「神」を中心とした統治政策が色濃く反映されています。


乳と蜜のしたたる所
 今のイスラエル共和国の風土は、西海岸部は地中海式気候ということもあり、水源周辺部において緑地化に成功した、素晴らしい「土地(フィールド)」を形成しています。しかし山岳部や丘陵地帯は、かつてアブラハムがロトと別れた後、神の「導き」によって選んだ土地の「土質」のように、殆どが過酷な気象に見舞われる、いわゆる「砂漠地帯」です。いったいこの土地が、かつて「乳と蜜が豊かに流れ出るシオン」と本当に言われていたのか?と思えるほど荒々しい環境です。


 ところで、この「乳」と「蜜」のしたたる所(土地)とは、具体的にはどのような豊かな「産物」を、産み出すことを意味するのでしょうか?私は「乳」という言葉から、単純に「牛乳」のイメージを思い浮かべ、牛や羊を至る所で放牧できるほどの、豊かな牧草用の草原に覆われた緑豊かな自然環境、つまりスイス(アルプスの少女ハイジ)のアルプス山系をイメージします。


 そして「蜜」という言葉は、実際に「蜜」が川のように流れる訳ではありませんから、イメージ的には蜜蜂が沢山飛び交い、無理して捜さなくてもどこかに行けば、「蜜」のしたたる蜜蜂の巣が存在する所、つまり一年中様々な草花が咲き香る、豊かな土地(熊のプーさん)のイメージです。しかし聖霊様が、私に「ある夢」の中で示して下さった、「後の雨が降り注ぐシオン」のイメージでは、この「乳と蜜のしたたるシオン」が、今まで単純に描いてきたものとは少々相違点もあるのですが、もっと驚くべき「回復された新しい天の故郷」として、私の「霊」に焼き付けられました。


 私の見た「新しいシオン」のイメージは、モーセが遂に民族悲願の故郷であった、「カナンの地」に至ろうとする際に、実際ピスガ山頂から遠方に広がる、「カナンの地」を見下ろした時のイメージと、同じものであったと推測します。私が見た「シオン」のイメージは、物凄く遥か彼方にまで広がった緑地の地平線に、夕暮れ時の太陽光(それは物凄く美しい、オレンジ色に染まった光)が覆い重なり合う色彩でした。そして太陽が沈む、西の空とは逆の方向(東の方)を見渡すと、オレンジ色とは対照的に「虹」が射しかかり、素晴らしい「七色の耀き」を放っていました。


 私はこの夢の中で、「どうして虹が出ているのだろう?」と目を凝らし、「虹」の近くを注意深く見ていると、ナイアガラ瀑布のような「大滝」が、緑に覆われた台地から下に向かって流れ落ち、その時に下の岩地に叩きつけられた水しぶき(霧状の雲)が、見る見るうちに上昇して太陽光に反射し、それ故に「虹」が発生することが分りました。そして、「なるほど!」と納得できるシーンが目に焼き付きました。つまり、この大滝が流れ落ちる様子が、「乳白色」の流れだったのです。


 そうです!「乳」が流れ出るが如くに、尽きることのない生ける「命の水」が、シオンには流れているのです。そして、この「大滝」の本流を見渡すと、まさしく一本の大きな「乳白色」の流れを形づくる大河が、緑色の台地の中を流れ巡っていたのです。暫くして、実際にその大きな大河に近づいて見ますと、「川」の周辺部に豊かな色彩(カラー)を放つ「野の草花」や、様々な「果樹の花」が咲き乱れていました。当然のことながら、これらの美しい花々には昆虫たちが群がり、中でも蝶や蜜蜂たちが悠々と、花から花へと飛び交っていました。そして、私は悟りました。「こ、これはエデンの園と、同じ光景ではないか!?」と。


 とにかく、この時に見たイメージは余りにも、現実の自然環境とは比較にならないほど、神の「完全性」が満ち溢れた自然環境であり、決して尽きることのない「命の水」と、年中枯れることのない「命の美」を現す植物が、シオンの地を豊かに覆っていました。このイメージに描かれている、二つの霊的奥義について言えば、第一に聖霊様が私たちの「霊」から流して下さる、生ける「命の水(Living water)」が「乳」を指しており、第二に私たちの「五体」から流れ出る、聖霊による「命の美」の現れ(香りも含む)が、「蜜」を指しています。つまり私たちの全身が、「神の美」を咲かせる「果樹」や「草花」のような働きをするのです。


 これから、神が私たちに祝福しようとされるもの、つまり神が私たちの「霊」の中に回復して下さる「霊的シオン」とは、まさしくユダヤ人が描いた「シオン」と同じように、「乳と蜜が豊かに流れ出るもの」です!私たちは、聖霊様が流して下さる豊かな生ける「命の水」によって、「霊」の只中から霊的な「乳」が、必ず溢れ流れ出るようになります!そして次に聖霊様は、私たちの人生や生活全般に渡って、又それが他人(隣人)にまで及ぼすことのできる、「イエス・キリストの香り」を放つ「美しい花」として、私たちを霊的に仕立てて下さること、これが霊的シオンに生きる者の、回復された「フォーム(姿)」です!


 「花」は「水」がなければ、生きることも咲くこともできません。それと同様に、私たちが神の「美しい花」に変革されるには、「命の水」を流して下さる聖霊様が必要であり、この方を通して初めて「霊」の只中から、「蜜」が流れ出るようになるのです。「蜜」とは、イエス・キリストとの「親しい交わり」からもたらされる、素晴らしい愛に満ちた「命の言葉」に他なりません!


「新しい創造」の回復
 では私たちが、「唇」から他の「四器官」に至るまで、全身全霊をもって「神の美」を現す存在(器)に果してなり得るのか、つまり回復されるのでしょうか?答えは「然り!」、必ず回復されるのです!天の「御国」がこの地にもたらされる時、全てのものが「新しく」なるのです!勿論、「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全て嘘を言う者」(8節)は例外です。


 しかし「第二の死」を体験しなくてよい人々、即ち霊的に「贖われた民」が存在します。又1~7節には、イエス・キリストが再臨される前に、「回復される花嫁」に対する霊的励ましが、「預言」として記述されています。つまりこの「預言」には、天の「御国」が地上にもたらされる時、何が起きるのか?その霊的方向性が描かれています。第一に、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」(3節)の御言葉通りに、「神の幕屋」が人の間に存在することです。


 私たち日本人にとって、「幕屋」という概念は非常に分りにくいものです。「幕屋」とは、「神が臨在される場所」のことであり、神が住まわれる「家(宮)」そのものを表しています。つまり、神が住んで下さる「家」が、私たちの人生や生活全般に渡って、確立される(建て上げられる)ことを意味します。そして、神ご自身が直接「人」と共に住み、「交わり」を営むようになることです。


 第二に、「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。・・・・見よ、私は万物を新しくする」(4~5節)の御言葉通りに、今までの「古い次元」から解放され、「新しい次元」に覆われた「新しい人」が完成していくことです。「最初のもの」(新共同訳)とは、「以前のもの」(新改訳)のことであり、もっと具体的には「古いもの(old thing)」全てを意味します。つまり「新しいもの」が到来する時に、この「古いもの」は全て一掃されるのです!


 アダム(エバ)の「罪」の結果、何が「この地」にもたらされたのでしょうか?それは端的に言えば、「古いもの」の支配がスタートしたことです。父なる神にとって、ご自分の「御心」に反するものは、全て「古いもの」です。又父なる神は、常に「新しいもの」を創造することを欲しておられる方です。ですから神の「意志」は、全て「新しいもの(new thing)」を創造することに現れています。父なる神の創造のイメージは、昨日(過去)のことは今日には持ち越されず、毎日が「より新しく(renew)」、「より新しさに満ちた(refresh)」状態へと完成されていくことです。


 勿論この「新しさ」という概念は、彼らが罪を犯したことにより、「古いもの」と「新しいもの」という、相反する(対立する)概念として生じてきた訳ですが、父なる神の霊的次元には、私たちが考えるような「古い」とか「新しい」という、三次元的概念は全く存在しません。そうです!父なる神の目には、「全てが新しい」のです。常に父なる神が、より「新しいもの」を求めながら、「命の息」を呼吸しているのと同様に、私たちが「神」と交わることによって初めて、「命の息」が私たちの「霊」及び「体」全体を生かすことになるのです。そして、私たちの側から吐き出される霊的な言葉が、「主よ、あなたを更に求めて、深く愛します!」などと、霊的に飢え渇く「命の言葉」になる時、父なる神の「ご計画」通りに、「新しい人」が創造されていくのです。


 普段生活している中で、私たちは「新鮮な空気」を吸いたい!などの、意識を持つことは殆どありません。それは私たちが、いつでも酸素を「呼吸できる」環境にいるからです。しかし、私たちがこの酸素の有り難味を感じる時は、例えば千メートルを超える高い山に登った時です。山頂を目指して、登れば登るほど空気が新鮮さを増し、呼吸する際「美味しいもの」として感じることができます。しかも登れば登るほど、今度は逆に「酸素」の量が少なくなるなどして、逆に息苦しくなるのですが、暫く体を休め大きく呼吸をすることで、「何と空気の有り難いことか!」などと、空気に対する有り難味を覚えます。「空気の新鮮さが、どれほど私の命の活力となっているか!」、このことを理解するには、必ず体験的に次のステップを踏みます。


 先ず最初に分ることは、余り無理して「自分の力」で動こうとしますと、かえって「息苦しく」なることです。それ故次に分ることは、むしろ身を休める為たっぷり空気を吸い込めば、再び自分の体に「命の力」がみなぎり、「安息」を得ていくことです。私たちは「古い次元」に支配されている限り、「いつでも私は自由に生きられる!だから何でも自分で為そう!」などの、傲慢な思いが生じてきます。ところが、神の臨在に浸って生きるようになりますと、「私の業」を停める方向に自然と向かいます。何故なら、神の「命の息」の中にあっては、「私」が動けば動くほどかえって苦しくなるからです。ですから、聖霊様は言われます。「あなたの手の業を、もう停止しなさい!むしろ主イエス・キリストと、更に親密に交わり、主ご自身を霊的に吸いなさい!渇く者は、命の泉から価なしに自由に飲むがよい!」と。


 このように、「古い人」が完全に「新しい人」へと、造り変えられ完成していく過程は、ある面で「変革」の最終段階に当たります。その後に、聖霊様による最終宣言「事は成就した。」(6節)、この御言葉を聞くことになります。この御言葉通りに、父なる神が計画しておられる「御心の時」が、今まさに明確なものとして現れ、「完成される時」として来るのです!この宣言を聞く時には、遂に「全てのこと」が、「終了(the end)」の時を迎えます。


完成の式典
 「御心の時」が完成した時には、いったい「何」が始まるのでしょうか?先ず父なる神は、聖霊様に次のような指令を発します。
「聖霊様、完成の式典を整えなさい!」
この「完成の式典」とは、まさしく「ある完成」を祝う「宴の時」です。世俗的な祝宴(宴会)ではなく、「神の国」の王宮の大広間にて催される、「花婿イエス・キリストと、花嫁(真のキリスト者)による婚礼の宴」のことです。続いて聖霊様は「その時」、招かれた真のキリスト者に対して、次のように命じられます。
「さー、賢い五人の乙女のように、花婿なる方だけを待ち望み、この時に備えていた花嫁の方々よ!価なしに(無代価で)、婚礼の宴に集いなさい!」


 私たちが、この世の「結婚式」に招待される際には、必ず「ご祝儀」を携えて出席します。何故なら、これを持たずして式典に参加できないという、暗黙の了解があるからです。しかし、父なる神が用意される「婚礼の式典」は、待ち望んでいた賢い乙女たちには、無代価であずかることのできる、素晴らしい特権が用意されているのです。即ち、「渇いている者には、命の水から価なしに飲ませよう。」(6節)と。


 あなたは今、「何」に渇いていますか?賢い五人の乙女は、花婿が帰って来るのを今か今かと待ちわび、花婿が帰って来た時には、最終的に花婿と「一つ」になることに飢え渇いていました。「イエス・キリスト」を激しく追い求める者こそ、聖霊様が特別に招待される「渇く者」です。そして、聖霊様は「渇く者」に対して、イエス・キリストとの「愛の交わり」、つまり生ける「命の水」を豊かに飲ませて下さいます。勿論「完成の式典」において花嫁は、聖霊様が用意して下さる、「天上のぶどう酒」にもあずかるでしょう。


 しかし、「花嫁」にとって一番歓喜することは、愛する方と相まみえること、二人そろって「共に結ばれる」ことを喜びつつ、互いの「愛」を分かち合うことではないでしょうか!それによって、愛する方の瞳の中に自分の姿が写り、自分の瞳の中に花婿の素晴らしい「御顔」が耀き出ます。又、自分の「鼻」は愛する方の香りを十分に吸い、自分の香りが花婿の「鼻」を満たします。「顔」と「顔」が向かい合う時に、花婿の優しき「唇」と花嫁の愛らしい「唇」が重なり合い、「手」と「手」が触れ合う中で、「体」も抱擁し合います。このように、「愛の交わり」の最終段階は、花婿と花嫁が完全に「一体化」することです。


 私たちは、ヨハネに与えられたこの「預言的啓示」を、常に霊的に意識しようではありませんか!何故ヨハネは、今に生きる私たちに対して、預言的励ましを投げかけているのでしょうか?それは、聖霊様が遂に私たちを、神がご計画しておられる最終段階に至った時、霊的に更に奥深い領域へ導き出すなど、神の祝宴の「招待枠」に漏れることが絶対無きよう!強く促しているからです。


 私たちが「賢い五人の乙女」として招待されるのか、それとも招待されなかった「愚かな乙女」として、御国の門前で歯ぎしりするのか?それは、聖霊様のメッセージに敏感に反応し、そして霊的にへり下って「聞き従う」か否かにかかっています。聖霊様は今も尚、あなたの「霊」にメッセージを投げかけています。


「もう時は近づいています!もっとイエス・キリストに飢え渇いて、あなたの唇、目、耳の五体が変革され、全てをもって捧げ尽くすことができるよう待ち望みなさい!私の与える祝福の油を、絶やしてはなりません!花婿イエス・キリストとの、親しい交わりの時を求める、その渇きを止めてはなりません!あなたの唇に与えている、新しい霊の言葉を止めてはなりません!もっと更に激しく求めなさい!無代価で飲むことができる、その日が近いからです!」


「その日(時)」に、私たちは「賢い花嫁」として告白するでしょう。


「花婿よ、来て下さい!」
と。


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