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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.13)

                       えぐり取られる恵み




ペリシテ人は彼(サムソン)を捕らえ、目をえぐり出して、・・・・青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた。しかし、彼の髪の毛は剃られた後、また伸び始めていた。サムソンは主に祈って言った。「私の神なる主よ、私を思い起こして下さい。・・・・」それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探り当て、一方に右手を、他方に左手をつけて・・・・「私の命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。
                                                                     【士師記16章21~22,28~30節】


望まない「人生」の本質
 私たちは人生の中で、「えぐり取られる」経験をしたいとは望みません。また「傷」を受けるような人生も、出来れば少ないに越したことはありません。聖霊様の「取扱い」も、出来るならばソフトに、優しく、緩やかに為されることを望みます。


 しかし覚えて戴きたいことは、自分の望んでいない人生を、果たして私たちは受け入れることが出来るのか?という点です。正直言って「受け入れる」ことは出来ません。そうです!「受け入れる」ことが出来ない、私たちの「咎」というものに、私たちは改めて知る必要があります。


 私たちの「罪」の性分である、この「咎」から望む人生は、決して「えぐり取られる」人生は望まないのです!サムソンの場合、彼は望んだ訳ではないのですが、ナジル人として生まれました。つまり自分の人生が、出生した時から「神のために生きる!」こと、そのために全てを捧げることが定められました。


えぐり取られる理由
 特にナジル人である彼は、「決して自分の髪の毛に刃を当ててはならない!」、つまり整髪という行為が、人生の中に許されませんでした。サムソンは自分の人生の中に、両目がえぐり取られるような経験を、決して望んでいませんでしたが、神ご自身はサムソンに対して、「彼の両目をえぐり取る」という「ご計画」を、実は既に立てていました。


 何故「えぐり取る」必要があったのでしょうか?実はサムソン同様に、主なる神の「恵み」や「御力」に、私たちは全く気付かない部分があります。その為、彼の「両目をえぐり取る」ことは、神ご自身にとって大いなる「ご計画」を開始することでした。そして彼の一番の快楽の源である、「両目」をえぐり取ることは、彼の肉の「強さ」を停止することに他なりませんでした。


 それに対して彼は、神の大いなる取扱いに対して、正しく「理解(反省)」するどころか、「もう自分の人生は終わった!ただの敗北者に過ぎない。」と、自分の「死」を望むようになりましたが、両手両足を縛られている故、自分の「命」を絶つ力も残っていませんでした。


 さて、ここからが主なる神のサムソンに対する、偉大なる「ご計画」の麗しさが展開します。彼の「視力」が奪われた結果、逆に「聴覚」や「触覚」に磨きがかかり、更には主なる神が与える、霊的な「感性(空間認知力、洞察力等)」が増しました。


 そうです!サムソンの「肉の眼」の能力が、完全に消失したことにより、主なる神の「御心」を、霊的な賜物である「霊の眼」をもって、瞬時にキャッチできる、柔軟性(謙虚さ)が養われることになったのです。それまでの彼は、「髪の毛」さえ切らなければ、いつでも神の力を自分で引き出させる!そのような霊的驕りがありました。


 しかし主なる神の「恵み」というものは、「髪の毛」の有無に関わらず、霊的に遜る者に対しては、決して尽きること無く注がれます。サムソンの場合は、むしろ「肉の力」をえぐり取られた時から、新たな神の麗しい「ご計画」を始められるのです。


自分の「命」を奉じる信仰
 そして遂に「その時」が来ます。彼の新しい「人生」の出発点とも言うべき、神の栄光の領域が開かれたのです。聖霊様は「弱い者」に対して、霊的取扱いを開始されます。聖霊様は、サムソンの「霊の耳」に問いかけます。「サムソンよ、あなたが収監されてから、随分と長い月日が経ったが、何故自分の髪の毛を触ろうとしないのか?」


 最初、その問いかけに「お前は一体誰だ!もはや神の力が去った私に問いかけるとは。サタンか?何も出来ない私に、今更何を求めるのか!」と疑う訳ですが、続いて聖霊様は優しく語りかけます。「まあまあ怒るな、サムソンよ。一度で良いから、あなたの手(指)をもって、頭に手を触れてごらん!」と。


 渋々ながらサムソンは、自分の手を頭に持って行き、そっと触れました。すると「あること」に気付きます。それは「もう無い(もう要らない)!」と思っていた髪の毛が伸び、その勢いが回復し始めていたのです。しかし未だ手に「神の力」が戻ってはいません。「あ-、やはり駄目か!」と呟く彼に、聖霊様は「それで良い!じゃまた来るから・・・・」と、問いかけの時は終わります。


 その後、何度も何度も訪れる聖霊様との対話を経て、サムソンは遂に悟りました。「もう終わりだ!と思っていた、自分の肉体の中に、髪の毛の成長を促しているものは、今までは自分の力だ!と思っていたが、実は神の恵みの注ぎがあるからではないだろうか!その証拠に、最初は弱った手の筋力が、何と今は元の状態(神の力の時)にまで回復しているではないか。あ-、何と私は馬鹿で、傲慢な者であったことか。主なる神よ、どうぞこの私の中に残っている肉の驕りを、更にえぐり取って聖めて下さい!」と。


 サムソンは「肉の力」がえぐり取られたことで、「神の事実」を正確にキャッチする、「霊の力」が賜物として与えられました。この時からサムソンは、次々と様々なものを触り始めます。そして遂に「その時」が来ます。敵(領主及び住民)が、一堂に集まる宮殿にて、「嘲り」と「罵り」と「蔑視」を受ける時です。


 又そこは、彼が一番「辱め」を受ける場所、即ち宮殿の中心部です。領主や貴族と宦官、また将軍たちが列席する中、かつての勇者サムソンは、イエス・キリストの如くに、唾を吐きかけられ、鞭を打たれます。しかし彼らは、大事なことに気付いていません。手足を縛られたサムソンの髪の毛が、以前の如くに伸びていることを。


 聖霊様は敵国の若き兵卒を用いて、サムソンを宮殿を支える、二本の「大柱」へと導きました。すると聖霊様は、聞こえざる彼の耳に囁きます。「さ-、ここがお前が生贄となる最大の祭壇だ!主なる神の、偉大なる御業がお前を通して現れる、それがここなんだ。用意はできているか?命を捧げる覚悟はあるか?」と。


 すかさず彼は「ありますとも!私はこの時を、ずっと待っていました。ようやく私自身が、あなたの恵みに応える時が来たんですから・・・・」と返答するや否や、二本の柱に両手を力強く伸ばして、今までに上げたことの無い、大音量の声をもって叫びました。「私の命は、お前たち敵どもと共に果てればよい!私の命を、真の創造主なる神に捧げます!」と。


 すると「天」より神の偉大なる御力が、彼の両腕に漲り始め、大理石の中心部に向けて、一気にエネルギ-が加圧されます。その瞬間、二本の柱に縦筋のライン、即ちひび割れがメシメシと音を立て始めると、一気に他の支え柱も倒壊し始め、宮殿全体が屋根ごと崩壊し、中央部に列席していた、敵の「首脳グル-プ」全員が、倒壊する建造石に押しつぶされ、即死したのです。
 
 「えぐり取る」とは、英語で「put out」と言い、「本来あった所から、外部に追いやられる(捨てられる)こと」です。私たちの「肉の弱さ」からは、絶対に体験したくない!次元にあります。それ故、神によって「えぐり取られる」恵みに対して、殆どと言って感謝できないのが、私たちの「弱さ」です。


 しかし後々になって、「あ-、かつての私は(霊の眼で)見えなかった。しかしあの辛い(肉の眼をえぐり取られる)体験があったからこそ、今は(神の恵みの真髄が)見えるようになった。」と感謝できる、そんな取扱いも受けています。そうです!サムソンの霊的取扱いは、(神の恵みを)信じる私たちにも、継続的に注がれています!


 そうです!霊的に「えぐり取られる」ことで、私たちは更に磨きがかかるのです。神の大いなる取扱いによって、あなたが勝利ある人生を歩み、「完成した器」へと聖められることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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