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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.3)

                 悲しみを打ち破る真実の愛






再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
                                                                                       【創世記4章25節】


「家族」という新しい関係
 エデンの園を出立した夫(アダム)は、外(大地)を耕すことで、逆に妻(エバ)は内(家)を守ることで、互いの「苦労」と「重荷」を分かち合う、そんな新しいパ-トナ-シップ関係が、その後築かれることになりました。


 そして、エデンの園に居た時には、余り感じなかった事が、互いに「愛し合う」ことの真実な関係を、より深く知ることになりました。夫が外に出かけ、そして妻は家で待つという、今までなかった時間の過ごし方の中で、彼らはたとえ一時的に離れていても、「神の守りの中で、常に共にある!」という、共通認識のもとに「愛」を確認し合ったのです。


 時満ちて、遂に待望の「第一子(カイン)」を身籠りました。その後に産まれる第二子(アベル)は、彼ら二人にとっては、黄金にも優る「宝物(愛の結実)」ではなかったでしょうか!それは「エデンの園」に居た頃には無かった、初めての「家族」という至福の時となります。


両親の「悲しみ
 しかし彼らが成長し、いよいよ「次世代の祝福」という時に至って、想定外の「事件(悲劇)」が起きたのです。今回の出来事から、私たちが学ぶべき第一のポイントは、二人の息子を同時に失った、両親の「悲しみ」の本質を知ることです。しかもこの「悲しみ」は、父親と母親とでは異なります。


 先ず父親の「悲しみ」は、主なる神の「御心(約束の祝福)」を、次世代として受け継ぐ者が失踪したことです。罪人となったカインのことを思うと、「あ!長男は既に去ってしまった。もうここには、二度と帰って来ない」ことが分かりました。


 それに対して母親の「悲しみ」は、気が狂う程の妄想を掻き立てられる、狂気の叫び(苦痛)を伴うものです。「我が子は、救いから外れてしまった。悪魔が支配する罪の虜になって、もう二度と立ち上がれない程、惨めな暮らしをしているのでは?」などと。


 自分の命を懸けて産んだ、我が子(アベル)の「死」と同時に、両親の元を去って行った、我が子(カイン)の「失踪」という、二つの目に見える「事実」を、「悲しみ」として受け留めたエバは、それ以後百年に渡って、母親(妻)としての生き方を閉ざすことになります。そうです!人は「悲しみ」という事実を受け留めてしまいますと、長期に渡る霊的牢獄に収監されます。しかしその間(同じ百年間)、夫アダムはエバのために、必死にとりなした結果、エバは再び夫の愛を「知る」ことになります。



「救い」の源泉エバの回復


しかし婦人は、信仰と愛と聖さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
                      【Ⅰテモテ書2章15節】


 テモテに当てた、パウロの今回の手紙の言葉は、いわゆる「出産」のみを指しているのではなく、如何なる形であれ「複数の子供たちを授かるのであれば、女性は神の恵みの中で豊かな働きを為すことが出来る」ことを、霊的に指し示しています。


 そうです!エバこそが「(その後)多くの子供を授かったことにより、神の新たな救い(恵み)を受けた」第一人者です。何と、彼らには数百年に渡って、第三子「セト」ばかりでなく、おびただしい数の子供たちが与えられます。


 主なる神の「御約束」である祝福の扉を、「悲しみの鍵」をもって閉ざすことは、霊的に捕われ人(囚人)になります。しかし神の祝福は、その扉を「信仰の鍵」をもって、開け続けることで得られるのです!そうです!「信仰の鍵」は、目の前にある「見える事実」をも、打ち破る程の「天の力」を有しています。


 この「信仰の鍵」を、決して捨てることが無かった、夫アダムの力強い「祈り」は、妻に対して変わることの無い、「真実の愛」を投げかけました。「我が子(カイン)は去って行ったが、主なる神の愛は決して去ってはいない!これを私は信じる」と。


 百年という「長い年月」を要しましたが、遂にある時、主なる神は眠りの中で、エバに対して語りかけます。「愛する私の娘エバよ、私はあなたを尚も愛している。見てごらん!あなたを慕って、数え切れない程の子供たちが、あなたの元に次々と駆け寄って来る。ママ-、抱っこして-!と。」


 その瞬間エバは目が覚めます。「え!今のは一体、何だったのかしら?」そして横で、同時に目覚めた夫に問いかけます。
「あなた、私は今、何か変な寝言でも言ってなかった?」
「いや、何も聞こえなかったけど・・・・。それよりも、いつもと違って何か顔色が良いね!いい夢でも見たのかい?」
「あら、そうかしら。・・・・実は、こんな夢を見たのよ」
と、神からの啓示の如き夢を披露します。その瞬間に夫は、狂喜しながら
「お-!それだ。神様の愛は変わることなく、あなたを通して、いくらでも回復の時を与えて下さる。私は、この時を待っていたんだよ。もう一度信じて、神様の約束を戴こうじゃないか!」


 十月十日の後、エバは「セト」を出産します。セトの名前の意味は「(私は再び)授かった-!」という歓喜の表現です。自分は「授かるのに価しない!」と思っていたのに、主なる神は「はしための如き私のために、新しい喜びを与えて下さった」からです。そうです!まさしく、パウロの言葉通りに「エバは多くの子供を産む」ことで、更なる神の祝福を受け継ぎ、次々に「救い」の源泉となったのです。


 主なる神の「約束」は、決して変わることがありません!私たちは、とかく自分の誤った「判断」等で、正しい道に進み行くことを、「不信仰の鍵」で閉ざします。しかしエバの如くに、私たちが自分の「罪」を悔い改め、「あなたの真実の愛を受け取ります!」と素直にへり下り、神の聖さにあずかるのであれば、再び神の「救い」を授かり、私たちは「祝福の泉」となるのです!


 主なる神の「真実の愛」の中に、自分自身の「全て」を委ね切る、つまり神の「御心」の道に進み行く時に、私たちは神の「救い」を、次々と享受していくのです。ですから、私たちに与えられている「信仰の鍵」を、私たちは絶対に失うことがありませんように。


 そしてあなたが、仮に「悲しみの扉」を開けることがあったとしても、聖霊様が示して下さる、神が導く「正しい道」に立ち返り、神の「真実の愛」を再度受け取り、一歩一歩と前進していく者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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