バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.12)

                          神の御心を飲む




主の霊がエフタに臨んだ。・・・・エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人を私の手に渡して下さるなら・・・・私を迎えに出て来る者を・・・・焼き尽くす献げ物といたします。」・・・・主は彼ら(アンモン人)をエフタの手にお渡しになった。・・・・エフタが家に帰った時、自分の娘が・・・・踊りながら迎えに出て来た。・・・・エフタは立てた誓い通りに娘を献げた。
                                                                               【士師記11章29~39節】


エフタの潔い「生き方」
 「我が子」が、何かの犠牲にならなければならない時の、「親」の辛さは想像を絶するものではないでしょうか!今回の記事に登場する、一人の父親エフタの捧げる「祈り」は、普通でしたら理解できないものです。


 エフタの人生(生き様)は、一言で言うならば「芯の通った堅物」の如きものです。それは信仰の父である、アブラハムの「人生」を彷彿させる程、正直かつ潔い人物でした。


 しかしエフタの人生の前半は、出生的に見るならば「妾(遊女)の子」ということで、恐らく本妻(正室)及び他の兄弟から、何らかの「差別」と「いじめ」を受けるなど、喜ばしいものでなかった(不遇な人生であった)ことが伺えます。


 成人したエフタは、その後「本家(イスラエル民族)」が、異邦人(アンモン人)によって、様々に苦しめられる現状を知らされ、遂に重い腰を上げる訳ですが、実のところ心底では、敵の持つ「軍事力」を恐れました。


 それでも、エフタが実際に戦いに臨んだ理由は、幼少の頃より常々「神に(躊躇無く)従う!」ことを、強く望んでいたからです。それが今回の信仰告白(30節)に繋がりますが、それまでのエフタにとって、自分の「人生」イコール、自分の「一人娘」でした。


 ところが今回の「祈り(誓約の言葉)」は、いよいよ彼の信仰を問う、つまり「何」をもって神に従い続けられるか?その真価が問われるものでした。アンモン人という、巨大な軍隊を前にしては、自分たちの「戦い」の先にあるもの、それは「死(全員の討ち死に)」だけです。


 今回の「戦い」に当たり、主なる神の「御心」を知らされた時、「自分の人生の全てを捧げます!」と告白します。その時に「自分の人生」の中に、最愛の「一人娘」の為に生きてきた、今までの「歩み」が映し出されました。


神の「御心」に従い通した父と子
 さて敵との「戦い」に、実際に勝利した後のプロセス(エフタに対する聖霊様の取扱い)、これが私たちにとって非常に重要となります。一見私たちは、主なる神はアブラハムに為さった如くに、信仰を試したとしても、最終的には「である。イサク」の命を、ギリギリのところで助けて下さる!だからエフタの「一人娘」も、ただの信仰のテストで良いのでは?と思いがちです。


 しかし実際には、主なる神はエフタに対して「無言(沈黙)」を貫きます。この時のエフタの気持ちは、次のようなものでした。「主よ、私はあのような祈りを捧げましたが、どうか願わくば最愛の一人娘ではなく、別の者が最初に出迎えてくれますように!」


 ところが実際に出迎えたのは、最愛の一人娘だったのです。その様を見た瞬間に、エフタはその場に呆然と立ち尽くし、「主よー!何故このような恐ろしいことを、私は祈ったのでしょうか?このことをさせないで下さい!」と叫びました。しかし依然として、主なる神は沈黙したままです。


 いつもとは違った、気が狂ったかの如くに叫び続ける、父親の様子を見た娘は、「もしかしたら?」と気付きました。私は当初、この記事を読んだ時、「(アブラハム親子と比べて見ても)エフタ親子ほど、不幸な人生は無い!エフタの信仰の試練は、私たちの人生には絶対あり得ない。彼は別格である。」と認識していました。


 しかし、主なる神の「御心」の側面から見ますと、エフタの「父親」として、「一人子(娘)」を捧げる信仰行動は、「父なる神」として、「独り子(御子)」を十字架上に捧げる時と同様のものです。つまりエフタは、主なる神の「真実の愛」の雛形です。


 それと同様に、捧げられる「一人子(娘)」の側面から見ますと、あの御子イエス・キリストの苦闘した、ゲッセマネの「祈り」が、今回のエフタの娘の「葛藤」にも見受けられます。イエス・キリストが苦闘した、ゲッセマネの「祈り」の最後で、「父よ!もし叶うならば、この杯を取り除けて下さい。とても耐えられません。・・・・(暫くしてから)しかし、これが父の御心であるならば、私は従います。」と、自分の「杯(願い)」ではなく、父の「杯(御心)」を優先しました。


 主なる神の「御心」に従うべく、一人娘を捧げきった、エフタの勇気ある信仰行動は、私たちには到底、真似出来るものではありませんが、聖い生きた「生贄」として、神の祭壇上に捧げる!という信仰目標は、私たちは決して疎かにしてはなりません。


 どうぞあなたが、エフタの一人娘の如き、キリストの花嫁として、香ばしい祈り(礼拝)を捧げる者に、聖霊様が益々仕立てて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する