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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.2)

                          閉じられたゲート




主なる神は言われた。「人は・・・・善悪を知る者となった。・・・・」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
                                                                             【創世記3章22~23節】


「ゲート」の持つ二つの役割
 ご存知のように「門(ゲート)」には、①開かれる(開く)門と、②閉じられる(閉じる)門の二つの用途(役割)があります。神の道は一旦開かれ、そこを進み入りますと、必ずその後閉じられる、つまり前進し続けることが求められます。


 本来の人である、アダム(エバ)が住んでいた「エデンの園」には、彼らが罪を犯す以前は、ゲートというものが存在しませんでした。即ち「そこ」に住み続け、主なる神との「親しい交わり」に入る(座す)ことで、彼らは神の永遠の「祝福」に、常にあずかることが出来ていたので、外界を求める必要がありませんでした。


 ところが罪を犯し、初めて園から追放された時に、二度と立入ることが出来ない、つまり「ゲート」が閉じられることになりました。だからと言って、今に生きる私たちキリスト者は、次のような誤った「解釈」をすべきでありません!「神が彼らを園から追放した訳は、彼らがウィルスの如き罪に感染したから、このまま園に置いていたら、罪が蔓延してしまうから」など。


 そのような解釈をもって、聖書全体を理解しようとしますと、それこそサタンの仕掛ける霊的「罠」に陥ることになります。それ程に彼らが犯した罪の結果、私たちも「善悪の木」の実を霊的に食する(知る)、つまり神の視点に常に立つことの出来ない、不安定な理解(判断)の中に生きている訳です。


 しかし、開かれたゲートがあると同時に、閉じられるゲートがあると理解するであれば、「エデンの園」は二度と立入ることが出来ない、不可能な領域を指しているのではなく、私たちが神の「御心」を正しく理解し、神が示して下さる「正しい道」を進む限り、必ず最終的に辿り着く、つまり「開かれたゲート」が用意されるなど、それは目に見えざる霊的領域を指しています。


追放ではなく「遣わされた者」
 ところで「聖書」という書物は、他の宗教が説くような「経典」ではありません。私たちキリスト者は、それが創造主(全能の神)からの、一種の「ラブレター(愛の言葉)」であると信じることが出来ます。


 「聖書」は、成功者や偉大なる人物の「人生」を論じてはいません。むしろ「失敗者(負け組み)」の如き、罪に満ちた人生であっても、必ず神が「救い」を用意し、神の「無償の愛」の言葉を受け取る者には、永遠の命という、得ることの出来ない「賜物」をもって、私たちのことを愛して下さる!という、御国(新しい園)に入るための、「通行許可証(ビザ)」を発行することを提示します。


 聖書には明確に、神が彼ら(アダムとエバ)を追放された訳ではなく、むしろ逆に主なる神が、彼らを遣わした(send)と記述しています。何故でしょうか?自分の血肉の力で生きる、つまり「園」の外に出たことで初めて、罪(善悪の実)のもたらす霊的「呪い」を知り、その限界性を体験することで、「園」の中にある神の永遠の「聖さ(命の木の実)」を、彼ら自身が改めて知る(求める)ようになるためです。


 ご存知のように「命の木」の実とは、永遠の命に至る霊的賜物です。そして「永遠の命」は、「園」の中央にて、神との「親しい交わり」のみを求める者に対して、与えられる極上の賜物でした。しかし彼らは、サタンが与える(勧める)「善悪の木」の実も食べた訳ですが、神は彼らに対して、再び回帰するための、救いの「機会」を与えます。これが「遣わす(send)」の奥義です。


 その証拠として主なる神は、わざわざ子羊の「命」を屠り、その裂かれた毛皮をもって、彼らに「衣」を仕立てて、旅立つ歳の霊的「覆い」を着せて下さいました。故に彼らは、無一文で旅立ったのではなく、世界で唯一の高級ファッション(朽ちざる衣)で、「世(外界)」に出立したのです。


耕すための三つの「道具(賜物)」
 では主なる神が、彼らを「世」に遣わした、その偉大なる「ご計画」の意図は、一体如何なるものでしょうか?聖書は明確に述べています。「彼(アダム)に自分がそこから採られた土を耕すことにされた」(23節)、つまり神は①「遣わす」という大いなる目的と同時に、②そこ(園の外)から取られた土を耕す、この二番目の目的が非常に重要となります。


 次に主なる神は、如何なる場所の「土」を取って、最初の人(アダム)を創造されたのでしょうか?私は当初、「エデンの園」にある土と誤認していました。しかし「エデンの園」は、アダムを創造した後に、主なる神が「人」のために、わざわざ設園それた(創世記2章8節参照)訳ですから、人は「園」とは別の、つまり元々の大地から創造されたのです。


 神の「天地創造」のプロセスから分かる事ですが、神が「人」を創造した目的(意図)は、被造物を愛するのと同時に、「人」に関しては、大地を耕す(神の祝福の地へと開墾していく)!という、大いなる「ご計画」があったのです。つまり「人」の働きの中には、神が与える未知のフィールドを耕すことによって、神が与える麗しい「産物(実り)」を更に生み出す!という、素晴らしい賜物があったのです。


 そうです!神が「人」に意図した二番目の目的は、未知のフィールドを耕すことです。たとえ「罪」に満ちた手であっても、神が望む偉大なる「産物」を生み出すことの出来る、祝福された神の「御手」の代わりとなる、これがアダム(私たち)に与えられる賜物です。


 私たちは、先がどうなるか分からない、不安定な時代(未知のフィールド)に生きています。しかし私たちは、霊的に卑屈になって生きようとはしません。その理由が、真実なる神がアダムに与えた、この偉大なる「賜物」があるからです。


 それ故に私たちは、正しい神観(神に対するイメージ)を持ちましょう!神は①耕すこと、②生み出すこと、更に③産みの苦しみを喜びに変えること、この三つの働きのために、大いなる天の力を、私たちにも与えて下さる方です。


 結論になりますが、私たちは神の目的により、「この世」に直々に遣わされた民です。「罪」により呪われた世を、私たちキリストの初穂を通して、新たな「園」を生み出すべく、神は私たちの「手」に力を与え、また素晴らしい「耕す道具(賜物)」をも与えています。


 主なる神の「命の言葉」、即ち「私が命じる言葉に対して、①素直に聞き従い、②購いの子羊を常に捧げること」この二点をもって、新しく導かれる土地に踏み入る際に、この「耕す道具(賜物)」が、非常に有効になります。具体的には先ず①(開ける為の)信仰の賜物です。一旦「信仰の扉」が開かれますと、もう前進するしかありません。


 次に必要となる賜物は②霊的な「剣」です。つまり私たちの思考を左右する「人の言葉」を、「神の言葉」をもって正しく裁断する、聖霊による霊的知恵(神の御心を優先すること)です。第三の賜物は③「感謝」です。神の「恵み」は、如何なる土地においても、常に用意されています。私たちがそれを得る(拾う)唯一の秘訣は、日々の霊的マナ(糧)を、「感謝」の賜物をもって食し続けるか否かです。


 アダム(エバ)は必ず、この三つの「賜物」をもって、新しい土地に導かれる度に、先ずは地を祝福し、神の「産物(実り)」を刈り取って行きました。そうです!私たちキリスト者も、霊的なアダムの子孫として、この日本という巨大なフィールドに、神から遣わされている以上、彼ら同様に三つの賜物をもって、霊的大収穫の時に備えて参りましょう!


 確かに私たちは、霊的に「罪」の末裔でありますが、だからと言って神から追い出された、つまり呪われた者では決してありません!私たちも、彼らが戴いた三つの賜物をもって、新しい地に遣わされている以上、祝福された「神の民」です。それを信じて①(地を)祝福し、②(開かれた道を)歩み続け、③感謝し続けましょう。


 主なる神が、あなたに必要なもの「全て」を既に用意し、かつ与えようとされていることを、あなたが信じて前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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