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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.11)

             血の花婿イエス・キリストの恵み




途中、ある所に泊まった時、主はモ-セと出会い、彼を殺そうとされた。ティッポラは、とっさに石刀を手にして、息子の包皮を切り取り、それをモ-セの両足に付け、「私にとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、その時、割礼の故に「血の花婿」と言ったのである。
                                                                        【出エジプト記4章24~26節】


「血」の儀式
 イスラエルの人々にとって、「血」を最初に意識するのは、「過越祭」に代表される、贖い(生贄の子羊)の儀式の時です。続いて意識する「血」が、全ての男子が受ける「割礼」によるものです。


 今回の記事は、静寂極まる深夜に、突然起きた事件です。今回の記事は僅か数節に過ぎませんが、何故主なる神が、自ら選び抜いたモ-セの、「命」を屠ろうとされるのか?また夫の「命」を守るべく、自分の息子の性器の包皮を、躊躇なく切り取った、妻ティッポラの大胆かつ無謀な行動は、如何なる「確信」から生じたのか?その意味合いが分かりません。


ティッポラに対する神の「試み」
 私たちが今回の記事から、霊的に留意すべき第一のポイント、それは主なる神が、自ら選び抜いたモ-セを、あえて屠ろうとされた目的は何か?という点です。当然「殺す」ことが目的でしたら、ご自身の「救い」の計画は、一時的に途絶えることになりますので、「殺す」ためではないことが分かります。


 では何故、わざわざ屠るべく「試そう」とされたのか?つまり主なる神の「テスト(意図)」は、誰に対して為されたのか?という点が重要になります。そうです!妻ティッポラに対しての、主なる神の「取扱い」が見えてきます。


 皆が寝静まる中で、突然に起きた夫のもだえ苦しむ症状(状況)を見て、起こされた側の妻は、当然理解に苦しみました。しかし、彼女がただ分かることは、そのまま放置したら「夫が死ぬ!」ことでした。まるで見えざる怪物が、夫の心臓を深くえぐり出し、今にも握り潰され破裂する程の、「悲惨」極まる現象に、彼女は驚愕したのです。


 ここで覚えておくべきキ-ワ-ド、それは第一に「モ-セ」という名前です。ご存知のように「モ-セ」とは、霊的にイスラエルの「贖い」を意味します。つまり主なる神の、エジプト(世的な罪の総称)からの、完全なる「救い(贖い)」、それが「モ-セ」です!このことを知っていた彼女は、パニックに陥りながらも、「え!(なのに)何故殺そうとされるのか?」と考えます。


 第二のキ-ワ-ド、それが「ティッポラ」です。つまり彼女は、イスラエル民族(本家)から見て、異邦の民「ミディアン人(分家)」であるという点です。しかも彼女の心境には、ある「心残り」がありました。それが長子(本家と分家の混血)に、「割礼」を未だ施していないことでした。


 と言うことは、彼女の中に「夫モ-セと同様の使命感が、未だ満ちていない!」つまり、今からエジプト(世)に降って、イスラエル民族(本家)の「救い」のために、主なる神の「通り良き管(くだ)」として、モ-セと共に「命」を懸ける、その霊的準備が出来ていなっかた訳です。


 第三のキ-ワ-ドは「未割礼」の長子です。「未割礼」とは、霊的に「神に対して完全に従っていない状態」を指します。私たちも本来は、霊的には異邦人の如き者、つまり「未割礼」でした。しかし主なる神は、あえて今回の三人(モ-セ、ティッポラ、長子)を取扱われたのと同様に、私たちに対しても、完全なる「救い」をもって、ねんごろに取扱われるのです。


 次の疑問は、「ティッポラは何故、咄嗟的に長子に割礼を施すことが出来たのか?」という点です。自らの「胎」を痛め、かつ必死に出産し、愛情深く育てた息子に対して、果たして「割礼」という、おぞましき行為が為し得るでしょうか?


 先ず夫モ-セに降りかかった、主なる神の「試み」の様を、妻として正確に「見た」ということが、理由(答え)を知る第一のポイントです。尋常ではない夫の苦しむ「様」と、その「叫び」を冷静に受け留めることは、プロの医者であっても出来ません。しかし彼女は、ただ「見た」だけで、これは人知を超えた次元、即ち「神の介入(見えざる御手の働き)」として、霊の眼で受け留めた瞬間、「割礼!」という啓示を受けたのです。


血の「花婿」
 そして懐刀をもって、躊躇することなく長子の「包皮」を切り取り、血にまみれた「包皮」を、夫の陰部に貼り付け、主なる神に対して明示したのです。「あなた(モ-セ)は、私の血の花婿です!」と叫びながら。すると夫のそれまでの「様」が、元の状態に回復した訳ですが、彼女のこの信仰告白は、何を意味しているのでしょうか?


 彼女の表明は、ある面で「神よ、確かに夫は、私の花婿であると同時に、犠牲になった息子の血潮によって、主なる神に従う貴い神の器です。どうぞ、この血の花婿である夫を、あなたの完全なる取扱いに捧げますので、ご自由にお使い下さい!」という、息子の「血潮」をもって、夫婦共々に自らの「命」を、神の「ご計画」に奉じる、血判状の如き「契約書」の提示であります。


 ある面でティッポラの信仰行動は、イエス・キリストの後ろに近づき、自分の髪の毛と涙で御足を拭き、香油をもって塗り清めた、あの罪深い女性の咄嗟の行動に似通っています。つまり「神の贖いのご計画に、私も自分の命(犠牲)をもって印を押します!」という、「命の契約書」を提示したことです。


 「割礼」とは、主なる神と私たちとの、「永遠の契約(契り)」を指します。その「契約」の霊的意味は、「私は全面的に神の救い(贖い)を承りました。私は神の贖いを戴いた以上、自分の人生を懸けて、あなたに付き従います!あなたのご計画の中に、自分の全てを委ねます!」ということです。


 今回の出来事の後、聖書にティッポラの記述は見当たりません。しかし彼女は、神の人モ-セを陰から支える、たくましい(機転を働かせる)妻として行動したことでしょう。私たち日本人キリスト者も、ティッポラの如くに、民族の救いのために「命」を奉じるべく、喜んで霊的割礼を受けましょう!


 それと同時に私たちは、血の花婿なるイエス・キリストに対して、自分自身を生きた霊的生贄として捧げる、真の花嫁へと聖められて、更に前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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