Good-Shepherd(No.1)
祝福の扉
主は羊飼い、私には何も欠けることが無い。
主は私を青草の原に休ませ、
憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせて下さる。
主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。
死の影の谷を行く時も、私は災いを恐れない。
あなたが私と共に居て下さる。
あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。
私を苦しめる者を前にしても、
あなたは私に食事を整えて下さる。
私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせて下さる。
命のある限り、恵みと慈しみは、いつも私を追う。
主の家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう。
【詩篇23篇(新共同訳)】
人が生きる「目的」
人は「何」のために生きるのでしょうか?私が幼少の頃は、食べること自体が必死でしたから、「食べるために(生きる)!」と即答できました。貧しく苦しい時代の中にありながらも、必死にその日の「食」を求める、それが普通の生きる意味合いでした。つまり苦しいからこそ、必死になって生きた訳です。
ところが現代は、何もかもが有り過ぎて、生きる意味合いが分からない、そんな時代ではないでしょうか!つまり生きる目的(目標)、ゴ-ルが分からない、そんな混沌とした時代です。
さて、そのような時代の中にあって、私たちキリスト者の霊的「生活(生き方)」を蝕む、悪しき巧妙な存在があることを、私たちは知る必要があります。そして聖霊様が私たちに対して、緊急に提言するメッセ-ジがあります。それは「あなたは何のために生き、またこれから如何なる生き方を求めますか?」という点です。
ここで覚えて戴きたいことは、イスラエルの民は「エジプト脱出」という、神の偉大なる奇跡を体験したにも関わらず、数日後には再び「エジプトの方が良かった!」等という、常軌を逸した「過去の生き方」に戻る告白(不平不満)を、神に対して宣言しているという点です。
と言うことは、イスラエルの民が犯した罪は、私たちキリスト者にも、当然有り(起こり)得る!ということを、私たちは謙虚に受け留めながら、聖霊様の「助け」に従う必要があります。
神からの「祝福」とは、何か物を戴いたり、また「求めるもの」に満ちている、良き次元のことばかりではありません。確かに「明日の糧」は、生きるために必要なものではありますが、神の「祝福」の次元とは、そのような目に見える物質的祝福にとどまらず、いやそれ以上の素晴らしい次元の中にある、「御国」から流れ出る麗しい、「命の水」の如きものです。
本来の人(アダムとエバ)は、ご存知のように「罪」無き存在でした。ですから彼らにとって生きる「意味」とは、創造主から流れ出る激しい「熱情の愛」を受け取り、「あなたと共に生きることが、私たちの人生の喜びですから、あなたと共に生きます!」と告白(感謝)し続けることでした。そうです!私たちキリスト者の信仰告白も、パウロが明言するように「キリストと共に生き、キリストと共に死すこと、これが私の喜び、最大の願いです!」であるべきです。
ところが「罪」に染まり続ける者にとって、生きる意味は「金銭」、「名誉」、「多くの子孫に恵まれる幸福」などと、各自の持つ「人生欲」に基づくものです。しかし所詮彼らも、「死の扉」を目前にしてた時に、自分の人生の先に待ち受ける、見えざるゴ-ルを意識し始めます。
さて今日の世界は、私たちキリスト者にとっても、予測できない程の次元の中で、大激流(大洪水)の如き不変社会が増大しています。その様な時代の中にあって、あなたはどう生きようとしますか?「災い」無き事を願って、年の暮れに「除夜の鐘」を突き、続いて初詣に参拝に行く人もいますが、果たしてその願い(祈り)は、見える神々(偶像)に届いているのでしょうか?「今年こそは良きことが起こり、幸せな人生でありますように!」などと。
「信仰の扉」
「扉」とは、開閉したりすることで初めて、何らかの「変化」を室内に呼び込みます。例えば夏の暑い季節であれば、開けて初めて新しい涼風が、暑くむせる室内の気温を、一気にク-ルダウンさせ、「心地よい!」という体感を得ます。ですから「扉」は開けなければ、「新しい変化」が起こりません。信仰の法則も同様に、「信仰の扉」を開くことを通して、神の新たな次元が始まるのです!
ですから詩篇の主要な作者(詠唱者)ダビデは、今回の23篇の「信仰の歌」を詠唱した時、それは受動的な姿勢で「神は良き方だから、待っていたら必ず、私の欲しいものを用意してくれる。本当に感謝なことだね-!」と、自己陶酔しながら賛美する類のものでありません!
むしろダビデは積極(能動)的に、たとえ如何なる「試練」や「苦難」が、自分の人生の旅路に立ちはだかったとしても、私は創造主(真の羊飼い)なる神に、信仰の扉を開け続け告白しました。「主なる神こそが、私の真実の羊飼いである限り、私は何を恐れましょう!私の主は、私に必要なものの全てを、既に用意して下さっている!」と。
少年ダビデにとって、羊の群れを飼う(管理する)ことは、「危険(死)」と隣り合わせの日々でした。その中で、主なる神の「守り」と「導き」が無ければ、何の「安心(命の保障)」も無いことを、絶えず学んでいったと思われます。
彼にとって、1節の告白は「主なる神が、私の良き牧者(羊飼い)であるが故に(だからこそ)、私は全ての事に満ち足りている(必要なものの全てを、神が与えて下さると信じます)!」という、言わば「信仰の扉」を開ける行為でもあります。そして彼の信仰の次なる行動は、告白した以上「(感謝して)受け取る」という努力も為したことです。
そうです!私たちキリストの花嫁も、「花婿なる主イエス・キリストよ!あなたは素晴らしい私の主人です。たとえ今、目の前の現実が、死の影の谷を歩くような状況にあっても、私はあなたを良き夫として信じます。私に必要なものは必ず与えて下さいます。信仰の扉を開けて、日々の糧(マナ)を集めてきます。」と、積極的に信仰を働かせて、神の祝福(天のマナ)を受け取りましょう。
如何なる事が起きたとしても、主なる神があなたにとって、「良き羊飼いである!」ことを、聖霊様の助けを戴きながら証言して参りましょう。その為には、「私に必要なもの全てを、今日も与えて下さる方、良き羊飼いなる主を信じて、私は今朝も天から降り注ぐマナを集めます!感謝して食べ続けます。」と告白し受け取りながら、神が示して下さる「正しい道」を、あなたが日々前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!