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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.40)

                          命の言葉の完成




初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。即ち、命の言葉について。この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなた方に証しし、伝えるのです。私たちが見、また聞いたことを、あなた方にも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。
                                                                           【Ⅰヨハネ書1章1~4節】


 何故父なる神は、私たち「人」だけに他の生物には見られない、「会話能力」という素晴らしいタラントを、唇に備えられているのでしょうか?このことを、私たちは何となく理解しているつもりですが、本当に聖書的に正しく理解し、それを私たちの信仰生活の中で有効的に用いたり、自分の命(人生)にとって「言葉」が、良い意味での「生きた言葉」になるよう、より高いレベルを目指して求めていくのであれば、又「言葉」を普段の生活の中で、常に神との「親しい交わり」という、唯一の目的のために使うのであれば、私たちは今まで知ることのなかった、神の奥深い「霊的次元」の中に生きる喜びも、「知る」ことが可能になるのではないでしょうか?私たちは、この点について霊的に意識し直しながら、「命の言葉」の持つ奥義を、聖霊様から教えて戴く必要があります。そこでこの章では、「言葉の重要性」を再認識しながら、「命の言葉」について学んで参りましょう。


 ご存知のように「ヨハネによる第一の手紙」は、ヨハネが書き記した手紙ではありますが、聖霊様が私たちの「霊」の只中に、ご自分の「メッセージ」として今も尚、書き刻んでいるものであると受け留めて下さい!聖霊様の「メッセージ」の中心は、私たちが常に「父なる神及び御子イエス・キリストと、もっと更に親密に結び合わされ、より深いレベルでの交わりに入るように!」と促すものです。聖霊様が私たちに指し示す霊的レベルは、常に「イエス・キリストとの完全な愛の結合」です。聖霊様は、花嫁(キリスト者)と花婿(イエス・キリスト)が、より深い愛の交わり(一体化)に導かれるよう、「仲介役(介添え人)」として働いて下さる方です。


 仮に、私たちの「唇」という一器官が、食物を「食する(口に入れる)」だけの機能(役目)しか持たないのであれば、私たちは本来の「人」らしさが、完全に無くなるのではないでしょうか!又、私たちが「会話する」能力を失った場合には、どのような状態に陥っていくのか?この点について考察してみて下さい!ご存知のように、「人」はありとあらゆる事柄に関して、例えば「心」の考えていることや伝えたい「意志」などを、「言葉」として表す能力を備えています。ですから結論として言えば、「人」が「人」らしくあるためには、「言葉」が必要不可欠のものであり、これが無くなった場合「人」は、生きられなくなる生物である、つまり「死」を意味します。それ故に、「人」は「言葉」があって初めて、「生きるもの」となったのです。


 このことは、父なる神の「創造の法則」と、同様のことが言えるのですが、父なる神は「人」だけに直接、ご自分の「命の息」を吹き込むという方法で、「最初の人」アダムを創造しました。「命の息」、これはまさしく父なる神の、「生きなさい!」という「言葉(意志)」の現れです。即ち、この時の父なる神の「言葉」は、「私の命の中にあって生きなさい!」という表現をもって、「命の息」の形状で「土の塊(未だ生きていない体)」に流れ込みました。


 「人」以外の存在物質や生物などは、父なる神ご自身が直接発せられる、「命の音声」をもって創造しているのに対し、「人」だけは直接「命の息」を吹き込む方法で創造するなど、文字通り手の込んだプロセス(手順)を踏んでいます。この創造のプロセスによって神の「命の息(意志)」の現れ、つまり「命の言葉」が「人」の「霊」の只中に、本来存在していたことを知って下さい!このように「人」は、父なる神の「命の息」が、「霊」の只中に流れ込んだ瞬間「生きる」ようになり、その「生きる証し」として「霊」自らが、「命の言葉」を発するようになったこと、これが父なる神による「人」の創造のプロセスです。まさしく父なる神の「命の言葉」が、人の「命」を霊的に生かすエネルギーとなっていることを、私たちは再認識しようではありませんか!


命の言葉(Word of Life)
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。即ち、命の言葉について。」(1節)


 「ライフ(Life)」という言葉は、大別すると四つの意味を表します。第一に「命」を意味します。第二に「生活全般」を意味します。第三に「生涯」、「人生」を意味します。第四に、これが一番重要な概念ですが、「生きること(生き甲斐)」を意味します。つまり「生きる意味付け」、「生きる使命」などの意味を含む言葉です。


 父なる神の「命の言葉」を「本来の人」アダムは、今に生きる私たちの三次元レベルではなく、現実に(実際的に)「眼」でよく見て、「手」で触れることのできるものとして取り扱いました。今の私たちが神の「命の言葉」を、アダムのレベルのように取り扱うことができないことを、私たちは当然知っています。あなたは、「命の言葉」を見ることができますか?聞くことができますか?そして最終的に、「手」で触れることができますか?


 しかし、「最初の人」アダムにとって「命の言葉」は、視覚レベルや聴覚レベル、そして触覚レベルで明確に感じ取ることのできるものであり、彼らはそれを「天的(霊の次元の)賜物」として使用することができたことを、私たちは「知る」必要があります。アダムとエバは、父なる神が語られる「命の言葉」を、霊的レベルばかりでなく「五感」全体でキャッチできる、いわゆる「完全な人」でした。


 今のキリスト者が、何故霊的に苦しむのか?それは、神の「御声(命の言葉)」を明確にキャッチできないからです。かつて、世界的に有名なカリスマ・リーダーたちが、「可能性思考的信仰」や「四次元のビジョン信仰」などの教えを、世界各国で広めました。しかし、その教えを受け取ったキリスト者は、単なる「教え(知識)」を頭に詰め込んだだけで、何ら「新しい変革」が起きた訳でもありません。その時、確かに(私自身を含めて)多くのキリスト者が、何らかの具体的な「ビジョン(幻)」を描きましたが、その「幻」は自分自身の「願い(肉の意志)」から来る、三次元レベルの「幻」を描いたに過ぎませんでした。


 神からの「ビジョン(幻)」を描くことのできる人は、実際のところ数少ないのが現状です。神の「御心」を、明確に「眼に見えるもの(visible)」として訴える(現す)ことは、はっきり申し上げて困難です。それ故に、多くのキリスト者が苦しんでいます。私たちは、キリスト者どうしの「交わり」から一般の人間関係において、必ず何らかの「苦しさ(困難)」を覚えることがあります。つまり人間関係を成立させる、「言葉」のコミュニケーション・レベルの困難さのことです。相手の考えている「意志」などを、ストレートにキャッチできないから、私たちは相手の外見をすぐ見て、特に顔の表情や言葉使いなどから断片的に判断したり、ある時は曲げて解釈するなど、「誤解」或いは「偏見」視するのではないでしょうか!


 実際に、私たちがこのような「三次元的思考」の中に生きている限り、相手の語る「言葉」の真意を、明確に「見る(正しく判断する)」こともできませんし、相手の心に「触れる(その人の徳を建て上げる)」こともできません。ですから、私たちの語る「言葉」というものが、「本来の人」アダムが語っていた「言葉」と比較して、いかに超低次元にあるかお分りになるでしょう。


 罪を犯す以前の「本来の人」アダム(エバ)は、「夫婦の交わり」においても相手が語る前から、相手の「顔」を見ただけで「全てを理解できる」など、四次元的ツー・カーの関係にあったものと推測できます。彼らは、「言葉」を使う以前から理解し合っていますから、実際に「言葉」を発した時には、より「親密な交わり」を完成させるものになっていました。現実の私たちが、相手に対して一々「飾り立てた言葉」で無理に誉めてみたり、「どうして、そんな顔をしているの?」などの質問をしなくても、瞬時に相手の意志(心の言葉)を「見て」、「聞いて」、「触れる」ことができたら、どんなに素晴らしいことでしょうか!


 実はサタンの霊的スリカエは、父なる神の「命の言葉」による創造プロセスと、同様のパターンで彼らに攻撃してきたことを知って下さい!つまり一節の御言葉を利用し、サタンは「自己中心」の言葉(死の息)を、彼らの「霊」の只中に吹き込もうと試みました。「あなた方は確かに、父なる神の命の言葉を見ること、聞くこと、触れることができます。しかし、あなた方の霊的機能には、もっと素晴らしい賜物(能力)が備わっていることを知っていますか?知らない!じゃー、それを使ってみませんか?父なる神は、確かに命の木の実を優先的に食するよう、あなた方に命じているかもしれませんね。でも、よく考えて御覧なさい!あなた方が、もっと奥深い神の次元に入るために、こちらにある善悪の木の実を食べることも、私は経験者として勧めます!さー、食べてごらんなさい!もっと素晴らしい賜物が、あなた方の中に必ず開発されることを、私が保証します!」と。


 創世記には、サタンが如何なる内容の言葉をもって、彼らを誘惑したのかは記述されていません。しかし、サタンは確かに彼らの「霊」の領域に、「蛇」の言葉をもって霊的スリカエを引き起こしたことは事実です。騙された「その時」の行動が、実は一節の御言葉に見られる行動原理と同じパターンでした。つまり、彼らは「善悪の木」の実を①眼で見、②サタンが語った言葉を復唱しながら(聞きながら)、③手で触れた(サタンの言葉に従った)のです。


 サタンはこの時以降、人を霊的に欺く(騙す)パターンとして、①視覚→②聴覚→③触覚レベルで次々と誘惑します。「あなたの中には、優れたタラントがあるではありませんか!それを用いながら、もっと神の働きのために自分を有効に使いなさい!それが神を喜ばせることであり、あなたが為す全ての行為を、主は御心として受け入れて下さいます。だから、もっと熱心に頑張りなさい!」などの囁きは、聖霊様からの素晴らしい「メッセージ(励まし)」に聞こえます。実はこの種のメッセージが、多くの講壇から実際に語られています。例えば「あなたの中には・・・・」、「あなたの信仰には・・・・」、「あなたの力によって・・・・」など。果してそうでしょうか?勿論、御言葉の中には「あなたは高価で貴い・・・・」などの、素晴らしい御言葉もあります。だからと言って聖霊様は、「あなたは高価で貴い存在だから、益々今の調子(ペース)で前進し、神の御心をあなた自身の手で完成しなさい!」などとは、決して命じられません。


 しかしサタンから来るメッセージは、常に「自己中心」的行為を優先させることで、神に喜ばれることを「肉の力」で完成しようと促すものです。サタンが、「蛇」を用いて語った「エゴの言葉」が、アダムとエバが本来使っていた「命の言葉」と、比較にならないほど低次元の「古い言葉」であることに、何故彼らは気付かなかったのでしょうか?つまり、神の天的次元から来る「霊的洞察」によって、霊的な「死」をもたらすサタンの「古い言葉」を、何故彼らは拒絶することができなかったのでしょうか?


 結論から申し上げれば、彼らは常に「命の言葉」を使用していましたが、その時点の霊的成長段階としては、彼らが未だ「完成途上」のレベルにあったことが伺えます。父なる神が求めておられる、「人」の霊的成長の「最終段階(目標)」は、「より深く、より高く、より親密に、父ご自身との愛の交わりを完成させるべく、更に父ご自身の命の中にあって、命の言葉を吸収すること」でした。「私の愛(イエス・キリスト)の中に留まりなさい!私の交わりの中に留まりなさい!そうすれば、あなたの霊は私の命の中に包まれることで、私の命の息によって更に生きるようになります!」これが、父なる神の愛の「御心」から現れ出る、「真実のメッセージ」です。


 これに対してサタンは、「あなたが、もっと高度レベルの言葉を開発していけば、神は満足されるでしょう!」などの「惑わしのメッセージ」を、常に私たちの「霊」の中に吹き込もうと試みます。そうでしょうか?神の喜ばれる「生贄」とは、「悔いた砕かれた心」であり、「神の命」そのものを求める、神への激しい「霊的飢え渇き」です。


 私たちが「三次元的思考」という、「古い言葉」の支配下に生きている限り、「言葉」が「命」そのものであるとは、とても考えにくいものですが例外もあります。それは、遠距離恋愛の最中にあるカップルや、夫が愛する妻や家族の元を離れ、遠方に長期出張(出稼ぎも含む)するなどして、単身赴任せざるを得なくなった家族が、感じざるを得ない種類のものです。つまり愛する者の言葉が、寝食を忘れる程に欲しい!それ故に、電話なり恋文(メール)などの、「言葉」による交わりを共有し合うことで、平安(安心感)を取り戻すことができる、これが「言葉が命そのものである!」実例です。


 しかし普段は、「言葉の重要性」を全くと言ってよいほど、認識しないまま語っていますから、他人に対していい加減で無責任な言葉を、吐き続けているのではないでしょうか!自分の語る言葉に、責任を持って語る(吐く)以上は、その言葉が何らかの「命(意志)」を持った、生き物の如くに動いていく(流れていく)ことを知った者は、必ず無駄な言葉を語らなくなるところですが、そのように意識して会話する人は皆無です。例えば親が「子」に対して、「大人の論理」をもって平気で裁くなど、「悪しき言葉」を語り傷つけていきますと、その子も「大人」になり「親」に成った時、自分の「子」に対して同様の「裁きの言葉」を流します。これが、悪い意味で言葉が「命」として生き、そして循環していることを物語っています。


 父なる神が「人」を創造される際、私たちが「人工ロボット」を製造する時と、同じようには創られませんでした。つまり父なる神は、「人」を神の命令に100%服従する、従順な「ロボット(死んだ作品)」としてではなく、自由に「意志」を働かせることのできる、「生きた作品」として創造しています。父なる神が、アダムとエバに与えた「自由」とは、「エデンの園」の中央において、「何」を食しながら父なる神と交わるか?それを自分の「意志」から自由に選択することのできるものでした。「命の木と善悪の木、そのどちらの木の実を食しますか?それを自由に選び取りなさい!但し善悪の木の実は、食べたら必ず死ぬことになるから、決して食べないように。私は前もって、注意しておきます!・・・・。」


 確かに現実の私たちは、三次元にある「古い言葉」の支配を余儀なくされ、時々「善悪の木」の実を食べてしまう「愚かさ」がありますが、私たちが主イエス・キリストの、「十字架の贖い」の恵みを信じることで、「至聖所」の門を自由に通過して、遂に「命の源」イエス・キリストから、「命の実」を食する(交わる)ことができる、その霊的選択権が今も尚与えられていることを、私たちは決して忘れてはなりません!ですから、聖霊様は私たちに対して、「もっと命の木に近づいて、霊の眼でしっかり見て、その実を手に取って、実際に触れて食べなさい!」などと強く促されるのです。


 それに対してサタンは、「いや!それも大事だけど、実際あなたの手の業で、神に喜ばれることを為しなさい!こちらの方が善きことかも知れませんよ!きっと神に喜ばれることでしょう・・・・」などと、「惑わしのメッセージ」を吹き込んで、「悪しき方向」に誘惑します。このように、サタンのメッセージの中心的特徴は、「あなた自身の力で為しなさい(Do it yourself)!」などの、「善悪の木」に成熟している、「死の実」を更に食するよう促すものです。そしてこの「実」には、「自己中心」という「エゴ」の種が必ず存在します。


 聖霊様は、この「自己中心」を忌み嫌い、ひたすら「命の木」の実だけを食し続けるよう、私たちに対して単純なメッセージを投げかけています。時々私たちは、「内なる心」の囁きから来る「思い」や「声」が、果してサタンから来ているのか、それとも聖霊様から来ているのか、全く分らない時があります。例えば「あなたは十分に、霊的に求める行為をしている。あなたはそろそろ種を蒔き、収穫にあずかる準備と、それに伴う作業(実務的なこと)を始めなさい!」などのメッセージが来たら、大抵のキリスト者は困惑することでしょう!しかし忘れてならないことは、聖霊様(主権者)が収穫をもたらす方であり、聖霊様が「命の木」の種を蒔き、時に適った「天の水」を注ぎ成長させ、「命の木」の実を結実 (完成)して下さるのです!ですから私たちが為すべきことは、聖霊様に「従うこと」だけです。


「命の言葉」の回復
 聖霊様は何故、使徒行伝に始まったリバイバルの時に、集まっていた百二十人の弟子たち全員に対して、聖霊の大変革の最初の現れとして、「新しい言葉」を与えたのでしょうか?それは、聖霊様が望んでおられる「変革」の方向性を、父なる神の「御心」に従って明確に確立するためでした。つまり「命の言葉」の回復という、一つの「変革」の方向性です。父なる神は、聖霊を通して「命の言葉」を、私たちの①人生全般、②生活全般、③生き甲斐全般、④生命(命)そのもの全てに渡って、満ち溢れるようにすること、これが「命の言葉」の最終目標です!父なる神は、私たち「人」に本来与えた「天的機能」を回復させ、アダムとエバが「エデンの園」で為していたものよりも、遥かに優ったレベルにある「親しい交わり」を、この地にも確立することを強く欲するなど、更に激しい「熱情の愛」をもって、待ち望んでおられます。


 私たちの霊的目標は、アダムとエバの霊的状態に辿り着くことではありません。もっと更に「上」にあるもの、つまり「天上の礼拝」と同レベルの「親しい交わり」が、私たちの「ライフ」全てに渡って回復することではないでしょうか!聖霊様が私たちに対して、更に変革されるよう促す最大の理由は、私たちの「唇」に本々計画しておられる、完成された「霊の言葉」をもって、より深いレベルで一体化できるよう、「父」「御子」「聖霊」との「親しい交わり」にあずからせるためです。私たちは、このことを決して忘れてはなりません。


 「善悪の木」がもたらす、「古い言葉」の支配から私たちが完全に解放され、「命の木」がもたらす「新しい言葉」の回復という、霊的な「大変革」が起こされるよう、私たちの「霊」の中に「変革の炎」を灯して下さる方は、聖霊様だけです。仮に「異言」を伴う、ペンテコステの恵みにあずかったキリスト者の目標が、「私に与えられている賜物は、キリストの栄光をもたらすリバイバルの器にするための、聖霊による新しいしるしである!」などと思うレベルにあれば、これは大きな錯覚(スリカエ)です。「リバイバルを担う器に成りたいから・・・・」、「もっと多くの人々を導きたいから・・・・」などの表明(証し)は、確かに立派な言葉のように聞こえます。


 しかし、私たちが常に語らなければならない「言葉」は、「イエス・キリストの御名が、高らかに崇められるために!」この一言に尽きます!又、「イエス・キリストが、私の命そのものです!」などの告白が為されるほど、霊的に「親密(緊密)な交わり(一体化)」の領域に、私たちはあずかるべきです。私たちが、普段使用している日本語などの「言葉」が、より聖い「美しい言葉(知恵あるもの)」へと変革され、そして霊的に語る「新しい言葉」が、父なる神の「意志」をこの地に現すなど、二つの「言葉」に関する意味付けが確立されること、実はこのことが、聖霊様が私たちにもたらそうとしている、「命の革命」です。


命の革命
 「言葉の革命」は、まさしく「命の革命」でもあります。あなたは、この世の「古い命」に生きるのか、それとも聖霊による「新しい命」に生きるのか、そのどちらを望みますか?「古い命」とは、この世の三次元レベルに生きることですから、当然「死」につながるものです。サタンは私たちを、「永遠の滅び」に至る道へと誘うべく、「古い言葉」を使って言葉巧みに案内していくことでしょう。サタンが望むことは、「永遠の支配(隷属)」に他なりません!それに対して聖霊様に従う道は、はっきり申し上げて「狭い道」であり、人々から称賛されることなど殆どありません。むしろ人々から迫害され、「のけ者」の如くに扱われ、同朋から「唾(悪しき言葉)」を吐きかけられることもあるでしょう。イエス・キリストを追い求めることによって、必ず霊的な反動(迫害)が起きることを覚えて下さい!そして、あなたがイエス・キリストを求めれば求めるほど、あなた自身(我)が小さくなる(砕かれる)ことも知って下さい。


 バプテスマのヨハネは、弟子たちを前にして「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は側に立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない。」(ヨハネ福音書3章29~30節)と告白することで、イエス・キリストの御名を崇めました。それ故彼は、ある意味でこの告白通りに預言的人生を全うし、遂には「迫害者」の手によって殉教しました。彼は確かに、悪しき者(ヘロデ王)の手によって斬首され、自分の「頭」を盆の上にさらすことになりましたが、自ら(我)を「最も小さき器」として、神の前に捧げ尽くしたのです。


 ヨハネの、この悔いた砕かれた礼拝の姿勢は、今に生きる私たちに対しても、非常に重要な霊的奥義を示しています。あなたは、自分が一番誇る部分(器官)が、何処にあるか知っていますか?それは大抵、「頭でっかち」になる「頭」ではないでしょうか!他人の頭よりも、一つ分「上」に出たい(優位なポジションに立ちたい)!などの願望がありませんか?「私の方が優れている。」、「私の方が、彼(彼女)より用いられるはずだ!」、「私の教会は・・・・」、「私のミニストリー・・・・」など、これらの「思い」と「証し」は、全て「私の頭」を象徴しています。このように殆どの人は、自分の「頭」が目立つことを望んでいます。勿論「私の名」が、有名になることも望んでいるでしょうが、どちらかと言えば「自分の顔(頭の一部)」が、多くの人に知られ「有名」になろう!などと欲しているのではないでしょうか!


 ヨハネのように、悪しき者の盆の上にあっても、「自分(我)の死」をもって、聖なる生きた「生贄」になることを欲するのが、本物のキリスト者の姿勢です!「私は、自分の頭は不要です!イエス・キリストを頭として、霊的に据え付けられる人生を全うしたいのです!私の手を、イエス・キリストの御手として捧げます!私の眼が、イエス・キリストの愛の眼差しで、他人を見ることができるように!父なる神の栄光のみを称える、イエス・キリストの唇に造り変えて下さい!」など、このような「告白」と「証言」が為されるべきです。このように「古い命」が、如何に私たちの「自我(エゴ)」を誇らせようとするか、ご存知でしょうか?イエス・キリストを誇りながらも、必ず「自分」を誇るところが、私たちの「古い言葉」にはあるのです!聖霊様は、常に私たちに問い質します。「あなたの霊の中には、いつも命の言葉がありますか?それを瞳を守るように、大切に所持していますか?」


 「命の言葉」、それは「父」「御子」「聖霊」との、「親密な交わり」を通して初めて得られるものです!聖霊様が、私たちに強烈に投げかけられるメッセージは、常に「あなたの人生、生活、生き甲斐、命、それらの全てがイエス・キリストです(Your Life is Jesus)!」。そして、聖霊のこのメッセージに対する私たちの応答(信仰告白)は、「Jesus is all of my Life(イエス・キリストこそが、私の人生、生活、生き甲斐、命の全てです)!」。


 聖霊様がもたらす「変革」により、「古い言葉」に支配され易い「私の頭」が、霊的に完全に斬首されることを期待しましょう!その時から、私たちの語る「言葉」のレベルが「命の言葉」になり、イエス・キリストとの「親しい交わり」のみを追い求める、「賢い花嫁」へと造り変えられます!結婚間近の、花嫁が一番慕い求めることは、花婿なる方の「御声」と「御顔」だけです。「命の言葉」は、まさしく花婿イエス・キリストとの、「愛の語り合い」に他なりません。あなたの語る「異言」は、花婿イエス・キリストを慕い求める、「命の言葉」になっていますか?「この命の言葉を失ったら、私は生きていけません!」と告白できるほどに、イエス・キリストとの「親しい交わり」を、激しく慕い求めていますか?


より完成を目指して
「私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。」(4節)


 「言葉」というものが、「交わり」を伴っていなければ、それはまさしく霊的「独房」の中に、強制的に置かれていることと同じです。「独房」、それは最終的に「死」をもたらします。ですから、私たちは「異言」が如何に、「命の言葉」として私たちの「霊」を活かし、「命そのもの」になっているかを再認識しようではありませんか!私たちは、「新しい言葉」が霊的に、如何に素晴らしい宝石以上の貴い価値ある、「命の言葉」であるかを再認識する時に初めて、神との「命の交わり」という、「異言」の持つ本来の方向性が見えて来ます。


 「満ち溢れるようになる」とは、英語訳では「complete(完成する)」という意味ですが、私たちの喜びがイエス・キリストとの「親しい交わり」によって完成されること、これが聖霊様が私たちにもたらそうとしておられる、「変革」の方向性であることを、私たちは新たに知ろうではありませんか!そして聖霊様は、今も尚あなたの「霊」の石板に、毎分毎秒書き刻んでいます。「命の言葉を求めなさい!イエス・キリストとの親しい交わりだけが、あなたの人生、生活、生き甲斐、命の全てを生かす源になります!それ故もっと激しく、更に花婿を追い求めなさい!」


 私たちは、天の「力」として「賜物」を求めるのではなく、それを与えて下さるイエス・キリストご自身との、「親しい交わり」を求めることが何よりも大事です。「交わり」から生まれるものが、本当の「力」です!即ち、愛する花婿イエス・キリストとの、「愛の交わり」を「知る」ことで、私たちは改めて「生きる喜び」を得、そして「生きる力」が完成されていくのです。花婿なるイエス・キリストは今も尚、花嫁であるあなたに対して「命の言葉」を語りかけ、待っておられます。「私の声に聞き従いなさい!私に触れなさい!私の顔を慕い求めなさい!三次元の古い言葉に騙されてはなりません。霊的独房から解放されなさい!あなたの勝利ある人生は、全て私の命の言葉にあります!私の交わりに帰って来なさい!渇く者は来なさい!価なしに、私が与える水を飲みなさい!


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