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言葉の革命(No.39)

                    霊的な乳を慕い求めよ




あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、即ち、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。・・・・だから、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じり気のない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
                                                                【Ⅰペテロ書1章23節~2章1節】


「乳」の大いなる価値
 ご存知のように自然界には、生態系として「哺乳類」が多く存在します。この「哺乳類」は、出産した「赤子」に乳を与えて育てる動物のことを指します。つまり、母体(母親)から流れ出る「乳」を、「赤子」の唇を通して飲ませながら、生きる上での「栄養エネルギー」を供給します。


 この「哺乳類」の第一の特徴は、例えば犬や猫などの、多産型の哺乳動物に見られるものですが、乳の出口となる「乳首」の数が非常に多いことです。そして父なる神は、生まれたばかりの子犬や子猫が、平等に「乳」を飲めるように「数のバランス」を施され、彼らに多くの「乳首」を備えられました。


 しかしご存知のように、生まれたばかりの子犬や子猫は「目」が見えません。それにも関わらず、母親の乳首を探し求めます。しかも「沢山の乳」が出る乳首を求めて、必死にもがきながら捜し続けます。人間と違って、生まれたばかりの子犬や子猫は、本能的に自分の唇に含み易い乳首より、多量の乳が流れ出る乳首を求めて、他の兄弟ともがき争い合うのです。しかし、私たちはそのような光景を見たからと言って、「兄弟喧嘩」をしているようには見ません。むしろ「あー、何てこのチビちゃんたちは、純粋にお母さんの乳を求めて、皆盛んに取り合いしてるねー!」などと、かえって微笑ましく見えます。


 第二の特徴は「牛」などに見られるように、乳首が多く付いているのですが、年に一頭の「赤子」しか出産しない哺乳動物がいます。「牛」や「馬」は、私たち人間同様一頭しか出産しませんが、赤子がより早く成長するために乳首が多く付いていて、しかも多量の乳を供給する動物です。そしてこの「乳」は、実に素晴らしい栄養価に富んだ、「最高の乳」として流れ出ます。私が不思議でならないことは、「牛」や「馬」は(人間から見て)余り栄養があるように見えない、「青草」や「干藁」などを好んで大量に食することで、実に美味しい乳を供給していることです。


 ところで、私たち人間も「哺乳類」の一員ですが、他の「哺乳類」と著しく違った、第三の特徴を持っています。それは「赤子」の頃だけでなく、子供から大人に至るまで依然として「乳」を慕い求め、実際に飲んでいることです(勿論、牛の乳だけですが・・・・)。私たちは「液体状」の乳ばかりでなく、バター、チーズ、パウダー、クリーム、ヨーグルトなど、あらゆる「固形状」の乳製品を食しています。今日に生きる私たちだけが、これらの「乳製品」を製造し食しているのではなく、歴史的に見て太古の時代から、「生活の知恵」の産物として、「乳」を延々と食し続けてきたのです。


 このように、私たちは「大人」になった今でも、実際に「乳」を体内に取り入れているのですが、「何故、人は乳を慕い求めるのか?何故、生物学的に人だけが「乳」というエネルギーを、体内に入れることを欲するのか?」このことについて、考えてみたことがあるでしょうか?聖霊様は明確に、次のような霊的ヒントを示して下さいました。「牛の乳は、他の生物たちのもの以上に、乳の中に含まれる栄養エネルギーが豊富であり、それは非常に素晴らしいものに満ち溢れています。そして、この豊富な栄養エネルギーがあるからこそ、生まれたばかりの赤子を、より早く大きく育てるため、その成長を促進するのに役立てています。」と。


 このことから、私たちは「乳」というエネルギーが、私たちの体内に取り込まれた時に、いずれは「乳」が体内のある部分の成長を促進し、重要な構造組織として「体」の組成につながっていること、この点について知らなければなりません。それは結論から述べると、「肉」と「骨」の成長に役立っていることです!私たちの「体」を構成する重要な基本組織、つまり「肉」と「骨」を産み出す(組成する)ものが、「乳」という豊かな「栄養エネルギー」です。


何から生まれているのか?
あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、即ち、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」(23節)
 先ず第一の重要ポイントは、私たちが「何」によって新しく生まれているか、この点を知らなければなりません。「え!?私たちは母親の胎の中に、新生児として命を宿した時点で、神の創造物として既に生まれているではありませんか!」などと思うのが普通です。そして「未だそれ以上に、新しく(新たに)創造されなければならないのですか?」などと、ニコデモの如くに問われる方もいらっしゃるでしょう。聖霊様の答えは「然り!」、つまり私たちは、霊的に更に新しく創造されるべきであり、聖霊によって新しく創造されていくことが求められています。


 では具体的に、如何なる方法で新しく創造されていったらよいのでしょうか?これが肝心なことです。ペテロは明確に述べます。私たちが、この世のもたらす「古い言葉」、つまり「朽ちる種」から創造されていくべきか、それとも聖霊様がもたらして下さる「朽ちない種」、つまり「変ることのない生きた霊の言葉」によって新しく創造されていくべきか、この二通りの方法のどちらを選択するかということです。ペテロは、「朽ちる種」の本質を見抜いています。彼は、かつて自分が「古い律法」を基準として、伝統主義やユダヤ第一主義という、「古い概念(言葉)」に縛られていたことを知っていました。


 この世のもたらす「古い言葉」の中心的特徴は、「エゴイズム」に他なりません。これは、「自分(我)だけが、神によって新しく創造されればよい!」などの「思い(考え方)」であり、いずれ「古い言葉」が「朽ちるもの」になることも、彼は霊的に悟らされました。何故なら、彼自身がその「生きた見本(証人)」だったからです。如何に、自分が「朽ちやすい種」であり、肉の唇で「主イエス・キリストは、私の救い主です!」と告白するものの、告白してから数分も経たない内に、「主よ!あなたが十字架上で死ぬことなんてあり得ません!あなたは大切な方ですから、お止め下さい!」などの人間的言葉を語ったために、イエス・キリストから霊的に厳しく叱られました。しかし、この「自己中心」主義に凝り固まった彼を、イエス・キリストは霊的に新しく創造するべく、霊的回復のきっかけを復活後に与えて下さいました。


 つまり、イエス・キリストがペテロに対して語られた、「あなたは、私を愛しますか?」(ヨハネ福音書21章)、この永遠の「朽ちざる御言葉(種)」が、彼の霊的フィールドにおいて、再び「命の水」が注がれることによって成長し始め、遂に五旬節の「その時」に、見事に「花(イエス・キリストの栄光)」を咲かすことになります。何とこの時に、彼の放った(語った)「異言」を伴うイエス・キリストの「朽ちざる種」、つまり「新しい契約」のメッセージ(福音)によって、一度に約三千人の霊的フィールドに、同じ「朽ちざる種」が蒔かれ、そして芽を出し始めたのです。


 ペテロは、この「朽ちざる種」を「神の変ることのない生きた言葉」(23節)と説明しています。つまり、彼は「言葉」を「種」のようなものとして把握し、しかも「神の言葉」は人間が語る言葉と違って、「永遠に変ることのない生きたもの」であると、明言していることが重要ポイントです。


 この「変ることのない」という御言葉は、永遠の「愛の交わり」につながるものであり、霊的に「永遠性」を表す言葉です。そして「生きた言葉」とは、実際的に使用されている律法の文言や、聖書の御言葉(文字)を表すものではなく、神ご自身が直接語られる生き生きとした、「親しい交わり」をもたらす言葉(会話から生まれるもの)であることを、私たちは覚えようではありませんか!


 ですから「朽ちざる種」は、神との「親しい交わり」をもたらす、「霊の言葉」を指していると言えます。この「霊の言葉」は、「本来の人」アダム(エバ)に備わっていた、人類史上「最高の言葉」であり、神が聖霊を通して語らして下さる、朽ちることのない「霊的エネルギー」そのものです。


 神ご自身の「創造の法則」は、私たち自身の信仰にも、常に意識しておかなければならないことですが、神は「全て、神の霊によって語らされる霊の言葉をもって、ご自身の意志の現れである作品を創造される!」ことです。つまり、聖霊ご自身が父なる神の「御心」を現し、又聖霊様が言い難き「うめき」をもって、父なる神の「御心」に働かれるのです。「お父様!あなたは今、このような御心をもって、あなたの意志を現していらっしゃいますね。それを言葉で現して下さい!そうすれば、お父様の命の言葉の現れを、私があなたのイメージ通りに、命ある作品として産み出すことができます!」、このように聖霊が父なる神に促した時に、父なる神は最初の「創造の言葉」を発しました。「光よ、出て来なさい!」と。


 すると、今まで何も無かった空間に、「光」が産み出されました!同様に、聖霊が父なる神の「御心」を現した時、「真の光(イエス・キリスト)」が、虚無の「この世」に処女マリヤの胎を用いて、初めて「人の子」として現れ出るようになったのです。再度強調しますが、父なる神が私たち「人」を創造した目的は何でしょうか?神の「作品」はどれ一つとっても、神の「御心」を現すように創造されています。特に、私たち「人」に関しては、ご自分と深く「愛の交わり」を確立したい!と欲する、聖なる「意志」が現されていました。そうです!父なる神との「親しい交わり」にあずかるよう、私たちは創造されているのです。父なる神は、常にご自身の「最高作品」である私たちと、霊的な交わりを確立するという、只一つの目的のために、御国から「朽ちないエネルギー」を降り注ぎ、私たちの霊的フィールドに供給し続けているのです。


霊の乳を求める
 第二の重要ポイントは、ペテロが言わんとするメッセージの結論を指しますが、それは「神の朽ちざる言葉」が、私たちの霊的な「体」を造り上げるのに、一番必要な「霊的な乳」であることです!前述したように、「乳(ミルク)」は「肉」と「骨」を形成するのに、重要な力に満ち溢れた「栄養エネルギー」です。何故、父なる神は「御国」から、朽ちることのない「霊的な乳」、即ち「霊の言葉」を流し続けているのでしょうか?それは受け取る側の私たちが、更に多くの「霊の乳」を飲んで、イエス・キリストの身丈にまで成長するためです!


 ペテロは「だから」(2章1節)という接続詞を強調しながら、続けてメッセージを投げかけています。「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたぱかりの乳飲み子のように、混じり気のない霊の乳を慕い求めなさい。」(1~2節)ペテロの述べる「朽ちる種」とは、「悪意」、「偽り」、「偽善」、「妬み」、「悪口」などであり、これらは全て「自己中心」から生まれ出る、「古い言葉」の代表的な悪しき象徴です。


 私たちは、このような「古い言葉」を全て、聖霊の「力」と「助け」によって捨て去るべきです!いくら私たちの「霊」に、純粋な「霊の乳」が注がれたとしても、悪しき「古い言葉」が残っている限り、神にへり下って全面的に依り頼むことはないでしょう。彼らは決まって、「いやー、私はあなたの乳ばかりでなく、こちら(世)にある美味しいジュースも飲みたいんですよ!」などと言い訳します。


 生まれたばかりの乳飲み子は、「乳」以外の飲み物を知りません。仮に乳飲み子が、それ以外の「甘い飲料水」を飲むと、必ずお腹をこわすなど、かえって体調を悪くします。つまり、乳飲み子に余りにエネルギー過大な、糖分を含んだ「飲み物」を与えますと、その子の肉体を成長させるのではなく、むしろ蝕む可能性があります。このように、「混じり気のない霊の乳を慕い求め」ることは、その人の霊的成長を促進するのに、本当に必要とされるエネルギー量を、父なる神が常に供給していることを教えています。


 しかし、私たちが霊的に注意しなければならないことは、悪魔サタンも常に「世の楽しみ(不純な糖分)」を多く含んだ、混じり気のある「この世」の水を、私たちの「霊」に供給していることです。もう一度覚えて下さい!「純粋な乳」だけが、「肉」と「骨」を造り上げていくのです。痩せ細った者に力強い「骨」を付け、筋力を生む「肉」を備えるべく成長促進するものは、「純粋な乳」だけです。このことは、ペテロが結びの言葉として、「これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(2節)と語っている言葉からも明瞭です。


 何故、私たちが「混じり気のない霊の乳」、即ち神の変ることのない生きた「霊の言葉」を、神との「親しい交わり」を通して求めるのでしょうか?それは、私たちの「霊」が更に成長し、神の「救い」にあずかるためです。ここで述べる神の「救い」とは、天国に行くことのできる「救いの保証」のことではなく、霊的な「体の贖い」を意味します。あなたは、霊的な「体の贖い」を望んでいますか?私たちは霊的に何処(どの源)から産まれ出たものであるかを、先ず知らなければなりません。つまり私たち「人」が、父なる神の「何」によって創造されたのか?これを「知る」ことが先決であり、私たちが創造主(父なる神)に再び回帰していくことが、「全て」の鍵を握っていることを、何よりも知るべきです。


 「体の贖い」とは、父ご自身が私たちの罪のために、「はん祭」として十字架上で屠った、子羊イエス・キリストとの「一体化」を指します。私たちは、何故イエス・キリストを求めて、霊的にうめき苦しむのでしょうか?例えば「私を、このようにして下さい!」、「私は・・・・したいのです!」などの、「自己中心」の願いから祈り求めるのであれば、これは「体の贖い」を求める祈りではなく、「自己中心(我)の贖い(栄光)」を求める次元になります。


 「自分は(が)」、「自分の名」を表明する願い(意志)は、全てサタン(破壊者)から来るのです。しかし、私たちが「イエス・キリストの御名」が崇められることを求めて、イエス・キリストの「栄光」の現れを求めるのであれば、それこそ私たちが霊的に「体の贖い」の方向へと導かれ、最終的にイエス・キリストの「御体」の中に、聖霊を通して「一体化」されます。ですから私たちは、次のことを常に覚えようではありませんか!「花婿の栄光こそ、花嫁の誉れである!」ことを。花婿の栄光より、自分の栄光を優先するのであれば、それは「一体化」ではなく、既に霊的な「分離状態」に陥っています。


生まれたばかりの
 私たちの霊的な肉付けをもたらし、霊的な骨を産み出すものは、「霊的な乳」だけです!そして、私たちはこの「霊の乳」を、飽くなき激しい「霊的飢え渇き」をもって慕い求めることで、聖霊を通して豊かに供給されます。私たちは何気なく見ている、生まれたばかりの「赤子」から学ぶ必要があります。ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように」と、分り易く教えています。


 「生まれたばかり」、これが大事なポイントです。決して一歳頃の赤子とは述べていません。ですから、人間に限らず犬や猫でも構いませんから、「生まれたばかりの赤子」を観察する機会を設けて下さい。そうすれば必ず、神の「作品」の中にある「創造の美」と、「乳」を慕い求める「飢え渇きの姿(美)」に見られる、霊的「真理」を発見することでしょう。「生まれたばかりの乳飲み子」は、はっきり申し上げて聞く側がノイローゼになる位、その「泣き声」がとてもうるさく、一緒に眠れる状態ではありません。


 赤ちゃんは、あるものを求めて泣き叫び続けます。そうです!まさしく、お母さんの「お乳」が飲みたいのです!その後、母親が優しく抱っこして、自分の乳首を泣き叫ぶ赤ちゃんの口に含ませると、途端に泣くのを止めて「乳」を飲み始めます。そして、思う存分飲んで暫くすると、赤ちゃんは「眠り」に入ります。しかし三~四時間ほど経ちますと、再び「眠り」から覚め、新たな「乳」を求めて泣き叫び始めるのです。


 ですから、この御言葉の意味することは非常に重要です。私たちは霊的に自分を見て、「自分の信仰は既に、成長した大人のレベルにある!」などと、時折愚かな錯覚をする傾向にあります。


 しかし私たちが、「主よ!私は未々、赤子の段階に過ぎません。あなたの霊の言葉が、聖霊を通して与えられなければ、私の愚かな唇は何も語り得ません。私は今、言い難き状態にあります。ですから聖霊様!あなたの助けと導きが必要です。私の汚れた唇を聖めて下さり、神の変ることのない生きた新しい言葉を、更に私の唇に与えて下さい!私に与えられている霊の言葉が、贖いの子羊イエス・キリストの、貴い十字架の血潮だけを求める、激しい飢え渇きの言葉となりますように!もっと子羊の聖なる血潮を、私の唇に注いで下さい!そしてあなたの霊の乳を、更に慕い求めることができますよう、私の霊を聖め祝福して下さい!」などと、「霊的うめき」をもって祈り始める時、私たちは霊的に生まれたばかりの、「神の幼子」として成長し、「神の救い」にあずかって行くのです。


 父なる神は私たちに対して、常に「新しい創造」を用意するべく、聖霊を通して私たちの「霊」に、「霊の乳」を注ぎ続けて下さっています。私たちの霊的「カナン」は、何処にあるのでしょうか?それは、あなたの前に既に用意されています!即ち、イエス・キリストとの「親しい交わり」から流れ出る、素晴らしい「変ることのない生きた言葉」としてです。カナンには、常に「乳」と「蜂蜜」が豊かに溢れています。私たちはその「霊の乳」を、「大人になったから要りません!」などと、高ぶった態度で拒絶するのではなく、霊的に生まれたばかりの「神の幼子」として、神の御前に願い出て「霊の乳」を慕い求めようではありませんか!


 聖霊様は常に、「あなたは何を求めていますか?そして何に渇いていますか?あなたの渇きが何であるかを、常に知っていますか?あなたの前にある、この世の古い次元を全て捨て去り、私の前に出て来なさい!私が用意する霊の乳は、いつもあなたの唇の近くにあります。あなたの唇を大きく開けなさい!生まれたばかりの赤子のように、激しく慕い求めなさい!」と、優しき御声で励まして下さいます。


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