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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.8)

                   安い請け合いはするな!




アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに、一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえて、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げた。アブラハムは、その場所をヤ-ウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。
                                                                                【創世記22章13~14節】


私たちの「弱さ」
 今回の記事から、私たちが知るべき第一のポイント、それは主なる神が私たちの「弱さ」を、事前に(前もって)知っておられるという点です。特に目に見える「現実」に、私たちが直ぐに左右されてしまうことも、主なる神はご存知です。


 私たちは、目に見えざるものを欲している半面、目に見える「現実」を追いかける余り、逆に得られなくなる状況に陥ると、途端に萎えてしまう弱さがあります。しかし聖霊様は、その時にも「安い請け合いだけは、決してしてはならない!」と勧告します。


 覚えて戴きたいことは、「信仰」を測る基準は、この世的な「安価」や「高価」の次元にではなく、枯れた谷にあっても、なお高き源泉を求める鹿の如き「高き」、「低き」という霊的次元にあります。つまり「現実」が如何なる状況にあっても、なお「高き所」、即ち目に見えざる「神の事実」を求める(前進する、登り続ける)ことが肝心です。


安い「請け合い」とは?
 さて「請け合い」とは、何を意味しているのでしょうか?「請け合い」を辞書で調べますと、それは①保証すること、②絶対そうなるとの確信から約束すること、③見積もったものをもって信じる(取引する)こと、この三つを意味します。


 アブラハムの人生は、故郷(ウルの地)を出発した時から、神の「祝福」の次元に入りましたが、それは決して「・・・・したから、必ず~なる!」という、一種の「請け合い」で始まった訳ではありません。むしろ「不確実な目的地」、「不安定な旅程」等、常軌を逸した神の命令に対して、単純(馬鹿正直)に従ったところから始まります。そうです!それは見積もることの出来ない旅路です。


 仮に私たちの人生の旅路において、二つの進路(一つは絶壁が目の前に立ちはだかり、それを登って降って行けば、早く目的地に辿り着けるル-ト。二つ目はその巨大な絶壁を避けて、かなりの時間を要するのですが、迂回して目的地に辿り着くル-ト)が用意される場合、あなたはどちらのル-トを選択しますか?


 恐らく殆どの人が、目に見える「命の保証」の観点(現実)から、二つ目のル-トを進み行くことでしょう。しかしアブラハムの場合、彼は自分の「命」の確率よりも、主なる神の「高き次元」に、信仰の測り(霊の確率)を置いたのです。つまり自分の「人生」の計画を、自分の肉の「駆け引き」をもって選択しませんでした。常に彼は、目に見えざる「神の事実」のみを求めて、神が示す「ご計画」の中に、自分の全てを託していたからです。


 そして彼はまさに「今!」、約束のもの(イサク)を受け取りました。そして自分の目の前に居る「イサク」、それは目に見える「現実」です。この「現実」に対して、アブラハムも当然「人の子」ですから、自分の「計画(将来の希望)」を描こうとします。その時に神による「最終試験」の時が来たのです。


 聖霊様が勧告する「安い請け合いだけは、決してしてはならない!」とは、まさしくこの時です。私たちが、目に見えざる「神の事実」を求めている間は、第一のル-トを必死に登り続けるのですが、目的地に辿り着き、求めているものが「現実化」した時、つまり得られた時に、私たちは安易に第二のル-トを描いてしまう「弱さ」があります!


信仰の「最終試験」
 「目に見える大事なものが失われた時」に、私たちの信仰が試されるのです!この「目に見える大事なものが失われたとしたら・・・・」という考えは、私たちの肉の思い(If)から生じるものです。だからと言って主なる神は、私たちに必要な「衣」「食」「住」を捨て去るように!とは命じていません。


 大事なことは、私たちが「現実」に焦点を当てるのではなく、目に見えざる「神の事実」を見ることに、霊的目標を定める(切り替える)ことです。とかく私たちは、目に見える事実が無くなったら、どう(生きるべき)すべきか?などと、自分の「計画」を始めようとします。これが「安い請け合い」につながります。


 与えられた時には、与えて下さった方に委ね切ればよいところを、与えられたものを基にして、自分の「計画」を描いてしまうことに、私たちの「弱さ」があります。自分の希望を描いたり、また自分の人生の見積もりを立てることは自由です。しかし、その際に神が忌み嫌われる次元があること、それが「安い請け合い」なのです。


 何も与えられず、また無かったとしても、主なる神は私たちの事を、如何なる事からも糧乞うことなく、私たちを確実に生かして下さること、この全き信仰こそが、神が要求される霊的試験にパスする秘訣です。「安い請け合い」を常とする者は、必ず①(困ったら)エジプトに帰ることを求めたり、②大事なものを失いまい!と、必死に「世」にしがみ付こうとします。


 しかし真の信仰者は、「神のご計画は、永遠に変わらない!」、「神が言われたことは、必ずその通りになる!」、「神は偽らざる方であるから、必ず偽らざることを起こして下さる!」、「イサクを捧げたとしても、必ず大いなることを興して下さる!」と信仰表明できるのです。


 そうです!神のご計画は、「イサク」を与えて、それで「完成(終点)」ではありません。「イサク」は、あくまで神の祝福の「プロセス」に過ぎず、「イサク」の後に続く、神の見えざる次元の祝福は、まだまだ先(永遠)に用意されていること、これが「ヤ-ウェ・イルエ-(神は必ず備えて下さる真実な方)」の信仰です。


 私たちが捧げるべき祭壇の「生贄」は、自分の「計画」や「願い」ではありません!では「何」を捧げるべきか?それは「あなた自身」です。生きた聖なる「あなた」が、祭壇上に捧げられるよう、主なる神は待っておられるのです。あなた自身が聖別され、神の豊かな次元に入ることを、主なる神は常に欲しておられます。


 あなた(イサク)を「生贄」として屠ることが、神の「目的」ではありません!あなた自身を、見えざる「神の次元(事実)」の中にあって、貴い「高価な器」として仕立てながら、素晴らしい人生の完成に至らさせ、確実な信仰の「歩み」を用意すること、これが最大の目的です。


 私たちの人生の「歩み」の一歩一歩は、確かに自分の力で為している!と錯覚しがちです。しかし、その「一歩」を確かなものとして、険しき狭い道にあっても、「命の言葉」をもって導き続け、躓くことが無きよう「先」を行かれる方、即ち主なる神が「昼は太陽の光、夜は月の明り」として、私たちの人生を豊かにすべく、私たちの「道」を整えて下さるから、歩むことが出来るのです。


 それ故に私たちは、決して自分の「人生」を、安く見積もってはいけません。あなたが「この世」に対して、安い請け合いをすることが無きよう、聖霊様の助けを戴きながら、主なる神に「委ね切る」、「捧げ尽くす」、「従い続ける」ことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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