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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.38)

          良きことに目を向け感謝しなさい




全ての真実なこと、全て気高いこと、全て正しいこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、全て名誉なことを、また、徳や称賛に価することがあれば、それを心に留めなさい。・・・・そうすれば、平和の神はあなた方と共におられます。
                                                                                       【ピリピ書4章8~9節】


「良きこと」に目を向ける
 私たちは普段「感謝」の言葉を、表明することが中々出来ません。それが予期せぬ良き出来事、例えば貴い贈り物を戴いた場合には、「ご丁寧に戴きまして感謝申し上げます!」と、笑みに満ちた表情で深々と感謝します。ところが現実的に、あまり喜ばしい出来事が無い場合には、「こんなご時世、何が有り難く思えるのか!」と、逆に「呟き」が増える始末。


 聖書が勧める、「感謝します!」という信仰表明は、能動的な意味合いの信仰告白です。たとえ現実がどうであれ、「主なる神は良き方であるから、良きことを必ず為して下さる。たとえ今目に見えなくとも、与えられていなくても、全てを感謝します!主なる神が共に居て下さること、これこそが私の感謝の源です。」と、積極的に表明する言葉です。


 今回の御言葉で、パウロは「良きことに目を向ける」ことの重要性を説いています。神は良き方であり、良きことをもって導き、必ず良き心(平安)を与えて下さる、インマヌエルの神である!こと、これを是非覚えて下さい。神が共に居て下さる!という恵みは、一方的な神からの「恩寵(買うことの出来ない贈り物)」だからです!


 この主なる神が、常に永遠の「保障」をもって居て(導いて)下さる!のであれば、私たちは「現実」ばかりを見て呟くのではなく、もっと目を向けるべきものがある!と、パウロは霊的に釘を指します。私たちはアダム(エバ)の犯した「罪」の結果、常に「良きこと」と「悪しきこと」という、二元論の視点の縛りによって、物事を見ようとする弱さがあります。


六つの「良きこと」
 故にパウロは、私たちが目を向けるべき「良きこと」を、六つ挙げています。第一に①真実なことです。と言うことは、私たちが「真実なこと」とは逆のもの、つまり「偽り事」に目を向け易いことを、暗に指摘しているのです。第二に②誇り高い(気高い)ことです。父なる神ご自身が「至高者」であるが故に、私たちも聖なる高き次元のものに、「霊の目」を向けるべきです。


 第三に③正しいこと、つまり公平かつ義なることです。第四に④純なること(汚れが全く無い状態)です。第五に⑤愛に満ちた優しさです。それは憎むべき所が一つも無いものでもあります。最後に⑥尊敬に値すること、即ち恥じらう所が一つも無い貴い品性(性分、品格)です。


 これらの「良きこと」は、決して目に見える次元のものではないのですが、パウロは主なる神に対して、これら六つの「良きこと」を、「霊の眼」で見るように、私たちに強く勧めています。そうすれば、心からの「喜び」と「感謝」の言葉(表明)が、私たちの生活を高い次元で豊かにします。


 では、私たちは「何」を見たら、感謝できるのでしょうか?私たちには霊的なものを見る面もありますが、殆どが肉的な次元を見る「弱さ(二面性)」があることも事実です。しかし、あえて私たちが見えざるものに、「霊の目」を向ける時に「神の事実」、即ち奇跡が起きるのです!そうです!私たちが信仰的に「霊の目」を働かせ、パウロの言う六つの「良きこと」を見出していく時に、感謝が溢れんばかりに噴き出すのです。


不変なる父の「ご品性」を見る
 結論になりますが、私たちの中にある「二面性」ついて考えてみましょう。ルカ福音書の15章に示される、二人の息子(忠実な兄と放蕩三昧の弟)の喩えが、ものの見事にその「二面性」を説明しています。父なる神の偽り無き、また変わることの無き「一面性」は、「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか!」(32節)に示されます。


 この父の言葉を、更に分かり易く直訳しますと、「しかし我々は、死んだと思っていた弟が帰って来たこと、また今の状態が再び幸福になったこと、これらを祝うことは当然ではないか!何故ならば、あなたのたった独りの弟が、まさに今!目の前で生きていることを確認できたからだ。まさに今!弟は我々の家族として見出された(見つかった)から。」となります。


 それに対する兄の態度(二面性)は、依然として父の言葉が理解できません。「父は不公平だ!あの放蕩三昧の、家族に迷惑ばかりかける弟(馬鹿息子)を受け入れ、過去の全てを赦すとは・・・・馬鹿げている。お祝いなんて出来るものか!」と呟くのみ。


 この喩えに示されていることですが、父なる神の「感謝」は、如何なる事実に基づいて重要なのでしょうか?それは単純なことです。即ち私たち(迷子になって失われた子羊)が、まさに今!生きていること。見失ったと思っていたものが、イエス・キリストにより、まさに今!見出された(救い出された)こと、これらに尽きるのです。


 仮に、私たちが主なる神の御元(恵みの座)から去り、不信仰の歩みを始めたとしても、放蕩息子の父親の如くに、永遠の忍耐と愛をもって、私たちの帰りを待っていて下さいます!罪人に過ぎなかった私たちのことを、主なる神は御子の「贖いの死」を通して、神の家族の一員、つまり父の「実子」として受け入れて下さいました。


 実子という特権を戴いたにも関わらず、私たちは主なる神を、実の「父親」の如くに見ていません。しかし主なる神が、私たちを永遠に見守っていて下さるのであれば、私たちは素直に自分が「生きていること」、また「生かされていること」を、あえて「霊の眼」で確認し、一つ一つに感謝して参りましょう!


 私たちは普段の何気ない行動の中に、神の「何」を見出しながら生きているか?が問われています。私たちが意識的に「感謝」の源泉、即ち父なる神の愛、御子イエス・キリストの恵み、聖霊様の親しき交わりを、飢え渇き求めるのであれば、必ず私たちを豊かな者として、また私たちの人生を神の実子として、溢れるばかりの御国の遺産を受け継ぐよう、神は確実に導いて下さいます。


 私たちが父なる神の御思いを、今よりも更に深く思い描きながら、一つ一つの些細な事にも感謝できるよう、聖霊様の助けを求めて下さい!主イエス・キリストの豊かな「品性」が、私たちを更に聖めて下さいますように。また私たちが「霊の眼」をもって、父なる神の「御顔」を見続け、豊かな霊の次元へと導かれて参りますように。


 真実を伴う「感謝」こそが、あなたの全てを豊かにする、そんな麗しい恵みの日々(年月)でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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