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言葉の革命(No.3)

                 第2章 霊的ゼロへの変革




・・・・また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなた方に送る、高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
                                                                             【ルカ福音書24章47〜49節】


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていた時、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父が約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。・・・・・・・・使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。・・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。その頃、ペテロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
                                                                       【使徒行伝1章3〜14節】




 イエス・キリストは昇天される直前に、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と、集まって来た弟子たちに命じられました。その時の弟子たちの総数は、約五百人ほどと言われています。しかし最終的に、イエス・キリストが命じられた通りに、最後まで残り続けたのは僅か百二十人程度であり、「数」が短期間で著しく減少していることが分ります。


 私たちが言語学的に考慮していく上で、実は「数」や「量」なども、一つの言語であることを知って下さい。即ち「数・量」という単位の言語は、実際目に見えてくるものであり、常に私たちの思考概念を、支配しているものであることを知らなければなりません。聖霊様は、この「数・量」という言語の論理に対しても、大いなる「言葉の革命」をもたらそうと計画しています。この章では、百二十人にまで減少した弟子たちが、革命の日となった聖霊降臨の時以前に、この「数・量」という言葉に関して、どのような思考概念に支配されていたのか?又、それがどのように変革されていったのか?この二点を中心に検証して参ります。


「数・量」概念の支配
 ところで、今日の日本社会全体を覆っている「否定的」、「悲観的」ムードは、「数・量」の概念から生じているものが、殆どではないでしょうか?実は私たちキリスト者も、必死に祈り求めている「救霊(伝動活動)」という分野において、この「数・量」という「言葉」の流れに、いつしか組み込まれていることを気付くべきです!特にカリスマ派などの、「第三の波」勢力の教会は、今から約三十数年前に、韓国のチョー・ヨンギ師によって提唱された『一千万人救霊運動』によって、具体的な「一千万人」という「数字」が、霊的課題として与えられました。


 しかし三十数年経た今日、数字として具体的に何が変わったのでしょうか?毎年発表される、クリスチャン人口・教会数の統計を見て分ることは、教会数は年々増加しながらも、一教会当たりの礼拝出席信徒数としては、むしろ減少しています。毎年海外から、有名な講師陣(リバイバルの器)を招いて大聖会を開催するものの、果してどれ程の「数」的効果をもたらしているのでしょうか?その中で、未だに多くの人が「数・量」的祈りをすることで、「数」の論理に縛られて、自分の置かれた霊的現状を正しく把握しないまま、もがき苦しんでいるのではないでしょうか!


 実は、イエス・キリストが処刑される前の弟子たちは、右記したような状況に置かれた私たちと、さほど変わりありませんでした。彼らはイエス・キリストの弟子として、歩み始めて行くにしたがって、イエス・キリストが為される、数々の奇跡を目の当たりにするようになり、そしてイエス・キリストが、バプテスマのヨハネ以上に、「偉大な預言者」という噂が至る所に広まり、ついにはヨハネの弟子たちまでが、イエス・キリストの弟子として合流するようになります。古参の弟子たちは、聖書の預言が成就することの素晴らしさよりも、集まって来る人々の「数」の増加に、次第に関心が移るようになっていくのです。


 この時の場面は、次のような時代劇シーンを思い浮かべて下さると分り易いでしょう。最初は、イエス・キリスト(お頭)を先頭にして歩み始めた、たった「十二人(イエスを中心にして左右六人ずつ)」の浪人(ならず者)の弱小集団、しかし次第に弟子入りする者が増加する中で、人々の「数」が横に広く拡大していき、ついには巨大集団へと膨らんでいく・・・・。イエス・キリストが行かれる、至る所で噂が噂を呼び、その大群衆の「数」を見た当時の人々ばかりでなく、直属の十二弟子までが「革命」の時を期待し始めます。魂の救いを純粋に求める者はごく僅かで、殆どの者がイエス・キリストに対して、イスラエル王国の再建、即ちローマ帝国からの独立という、「革命」を期待しました。


 そして、イエス・キリストがエルサレムに入城される時には、エルサレム市民がこぞって、栄光の革命の時をもたらすであろう、「新指導者」を出迎えたのです。彼らは、
「ホサナ!ホサナ!ついに王が来られた!」
と叫びながら、イエス・キリストと共に、エルサレム中心部へと突入していきます。十二弟子の中でとりわけ、かつて熱心党員だった者たちも、
「よし!ついに私たちの先生が、革命の号令を発せられる時が来たぞ!」
と決起寸前の事態に突入していくのです。特に、イエス・キリストがエルサレム神殿の境内で、商売人たちを追い出した際、今までにない怒りを表された時には、
「よし!先生はついに怒られたぞ。いよいよ火を点ける時だ。」
と悟り、たいまつを手に持った者、或いは武器を用意し、
「待ちに待った革命の嵐が、ついにこのエルサレムから吹き始めたぞ!我らは突進あるのみ!」
という、言わば軍隊的イメージ(士気)をもって、昂揚した者もいたはずです。


 ところが、彼らの期待通りに事態は進展せず、イエス・キリストは逮捕され連行されました。そして逮捕と同時に、「死刑」判決を受けたとたん、イエス・キリストに付いてきた新参者(にわか弟子)だけでなく直属の十一弟子たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。彼らの期待した「革命の時」は何一つ起こらず、ただ「裏切りの時」が用意されただけでした。


 イエス・キリストが逮捕されるまでに、弟子たちの思考概念を支配していたのは「数・量」でした。イエス・キリストに連なる群衆が、次第に増加していくその「数」は、「百」単位から「千」単位に移行していく中で、ある面で「イエス・キリスト教集団」という、新興宗教勢力に膨れ上がって、「必ずこれは、革命の原動力となる!」という確信に、弟子たちは至ります。歴史的に見て、どの民族においても「革命」が勃発する時、その原動力となる単位は、革命を起こす人々の「数」の規模の大きさです。弟子たちは、イエス・キリストのもとに集まって来る、人々の「数」が増加すればする程、「革命」に対する期待度が増しました。しかし、イエス・キリストの「死」によって、彼らの「数」の論理が、もろくも破壊されてしまったのです。


「御国」の概念
 復活後、イエス・キリストが「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と語られた時、弟子たちの霊的フィールドは、未だ完全に回復していませんでした。使徒行伝一章を見ますと、イエス・キリストは弟子たちに、もう一度念を押すかのように、「神の国」について教えられる場面が出てきます。


 イエス・キリストは、
「私は去っていくが、神の国はあなた方の中に必ずもたらされる、即ち信じるあなた方の霊の只中から始まるのだ!」
と強く、具体的に教え諭すにも関わらず、弟子たちの殆どが、イエス・キリストのメッセージの真の意味を悟るのではなく、
「それは、いつ起こるのですか?」
「どのような形式で起こるのですか?」
「その時、先生はどこにおられるのですか?」
などと、愚かな質問を繰り返すばかりでした。神に対するこの種の質問は、私たちの祈りの中にも見られるのではないでしょうか?
「私は、確かに約束の聖霊のバプテスマを受けました。それなのに、いつ私の家族の中に、奇跡(救い)が起こるのでしょうか?」
「約束の預言は戴きましたが、どのような形で、それは現されて行くのでしょうか?」
などと。それが具体的にトマスのように、自分の肉眼で直接見て、確認できるまで問い質すのであればまだ良い方ですが、むしろ疑い(不信仰)から来る質問をする場合の方が、多いのではないでしょうか。これが、私たちの弱さでもあります。


 しかし、イエス・キリストはそれらの質問に対して、こまごまと方法論を述べるのではなく、ただ「必ず来る!約束として力を着せられる!だから祈りなさい!」の三点を命じられました。その後、イエス・キリストは昇天されていく訳ですが、この時実際にイエス・キリストが、昇天されるのを肉眼で見た弟子たちの総数は、「五百人」位だったと言われています。イエス・キリストが処刑された時点で、散り散りになった「逃亡者」の弟子たちが、何と「五百人」規模まで、再び集まって来たこと自体、人間的に見て素晴らしいことであったと思われます。「五百人の群れ」、素晴らしい言葉の響きです(皮肉ですが・・・・)。今日の日本のキリスト教の教勢からしても、「五百人の群れ」を容している教会は、ほんの僅かではないでしょうか!


 昇天後、弟子たちは先生が命じられた通りに、隠れ家にこもって祈り続けていくことになります。しかし日が経つに連れて、「約束の言葉」に疑いを持ち出した者、隠れ家にこもることに疲れ果て、忍耐できない者が続出し、祈りの集団から離れていきます。集団心理効果により、一人離れ二人離れ出すと、
「じゃー、私もおいとまさせて戴きます。」
などと、離脱者の「数」は増えていくばかりです。最初は「五百人」だった勢いも、「四百五十人」から「四百人」そして「三百人」、ついには「二百人」を切った頃になると、リーダー格のペテロも、次のように疑い出したのではないでしょうか?


 「先生の言われた通りに、ずっと祈り続けたら、必ず私たちのこの群れから、神の偉大な力によって、御国の再興(依然として革命のイメージのまま)を起こすことができるはずだ!・・・・それなのに、現実には離脱者が増えるばかりではないか!このままいったら、革命どころか元の木阿弥になるではないか!」最終的には、「百二十人」に減少します。余談になりますが、主に日本のペンテコステ派の教会において度々見られること、特にカリスマの恵みにあずかったが故に、教会内に信徒の分裂が起こり、教会員の大半が去っていくという現象が、まさに右記と同様の経過に当たるのではないでしょうか?


 「百二十人」にまで減少した時、彼らはもはや人間的「革命」を起こすことが不可能になり、天からの「革命の時」を迎えることになります。使徒行伝二章には、この天からの「革命の轟き」が鳴り始めるや否や、誰一人漏れることなく「百二十人」全員に、分け隔てることなく「聖霊の炎」が降ったと、正確に記述されています。この「聖霊の炎」は、誰かにだけ突出した、「リーダーの炎」として与えられるものではなく、全員が聖霊によって与えられる、等価分与された「新しい力」として着せられました。


 ですから、イエス・キリストが言われた「天的概念」、即ち天上から与えられる神の賜物は、例えば集まって来た「五千人」に対して給食を配分する時にも、誰か少数の特別な人々に対してのみ、奇跡の賜物を分与するといったものではなく、全ての人々に「同じ価値ある賜物として分与されるものである」ことが分ります。イエス・キリストが為される御業は、人間が考える「数・量」の発想から生まれるものではなく、信じる全ての者に天からの良き賜物が与えられる、「聖さ(神の御心)」から生まれ出るものであることを覚えて下さい。そしてこの「百二十人」全員が、「聖霊様」という新しい天の賜物によって、大きく変革されていくのです。


賢い乙女たちの備え
  イエス・キリストが、喩え話で用いられた「賢い乙女と愚かな乙女」、この二つの群れの違いは何でしょうか?即ち賢い乙女たちは、何に一番関心をもって、花婿が帰って来るのを待ち望んでいたのか?この点に注目して下さい。彼女たちは、花婿がいつ帰ってきても良い状態で、皆が「一致」して同じことを繰り返していました。何故なら、花婿が帰ってきた時に、共に交わり合うことのみ、これを何よりも大事な事として求めていましたから、普段と変わらぬ「日々の務め」ができていたことが分ります。彼女たちは、祈り続けるというへりくだった心をもって、花婿が帰って来るのを待つ、この一点だけを楽しみにすること、これが彼女たちの唯一の関心事項でした。


 それに対して愚かな乙女たちは、
「あれ?今回は大分、ご主人様が帰って来るのが遅いわね!もう半年も経つことだし・・・・今回は多分、長引きそうね!」
などと、語り合ったことでしょう。この種の思い(推測)は、「数・量」的憶測から導き出されたものです。ですから人間的な憶測で、油が尽きた時には「これ位の量さえあれば、何とかなるだろう。」と考えます。そして、いつまで経っても帰って来ない現状から、逆に「数・量」を自分たちの考え(憶測)に基づいて、帰って来る予定日までの日数から算出した、「準備量」を用意するだけでした。そうこうしている内に、彼女たちの群れから「不一致」が生じます。
「あなたはこの前、これ位の量で足りるから、と言った割には、未だ帰って来ないじゃない!あなたの計算では当てにならないわね!今度は私がやるわ!」
「それもそうね!みんなそれぞれ、自分で用意した方が良さそうね!」
などと口論する始末。賢い乙女たちが、
「皆さん!ご主人様が、いつ帰って来ても良いように、常に備えておきましょう!帰って来る日が楽しみですからね。油が、もうそろそろ無くなりそうね。じゃー、いっしょに買いに参りましょう!」
と励まし合いながら、「一致」して待ち続けるのに対し、愚かな乙女たちは、責任のなすりつけ合いにまで陥っていくのです。


霊的ゼロへの変革
  「百二十人」にまで減少した弟子たちの心境は、殆どの者が、
「もう駄目だ!これで何もかも終わった。何も起こらない!もはや、我らの力で立つことはできない!」
などと、絶望寸前の状態に追い詰められていたのではないでしょうか!
私たちが聖霊のバプテスマを受けた時にも、
「もう私の力では、何も為しえません!あなたにのみ、完全に依りすがるだけです!」
などと告白する所にまで、私たちの「霊」が砕かれたプロセスが必ずあります。そのように、彼ら「百二十人」の「霊」の状態は、数字で表すなら殆ど「ゼロ」に近い数字ではなかったかと思われます。あたかも、自動車(神のご計画)を自分の力量で運転し始めた彼らは、この時点で燃料が「(空に近い量)」、即ち燃料切れになり、ついに固く握っていたハンドルから、自分の手を離さざるを得ない状態にまで砕かれました。


 主イエス・キリストが言われた、約束の御言葉を信じ切った婦人たちが、率先して男性の弟子たちに、
「主が言われた言葉の中に、不可能や不誠実、又不信頼などの否定的概念がありましたか?あなた方の中に、未だ支配している否定的概念を捨てなさい!いと高き所から力を着せられるまで、ここに留まりましょう!離れて行った者の数に目を向けるのではなく、主が語られた約束の言葉を、残った私たちメンバーが一致して、信じて待ち望みましょう!」
などの励ましを、賢い乙女たちのように宣言したことでしょう。


 ・・・・そして、霊的に「ゼロ」になった「百二十人」の弟子たち全員に、「聖霊の炎」が降ったのです。使徒パウロは、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ書2章20節)と述べていますが、彼の神学にもこの霊的「ゼロ」概念が基礎となっています。使徒パウロほど、霊的に「ゼロ」に変革された人物はいません。この「ゼロ」という値は、ある面で「無」の概念に似通っています。神の「数」に対する概念は、常に「永遠性」です。それに対し、私たちが抱く「数」概念は、全て人間的な三次元思考から生まれます。パウロは、自分が「ゼロ」の存在に過ぎないことを悟って初めて、イエス・キリストが自分にとって、何よりも変え難い「プラス」の存在であり、この方が遣わされた聖霊様によって、自分の「ゼロ(零)」に過ぎない「霊」が、イエスと共に生きるようになったという確信に至ります。


 今から約一世紀前、イギリス出身のある一人の女性が、ヒンズー教の支配するインド・スラム街に赴いて、自分の生涯を神に捧げ、スラム社会に生きる幼子を始めとする弱者に対して、キリストの愛をもって献身し仕えた人物がいました。彼女の名前は、エミー・カーマイケルと言い、彼女は当時のインド全体を支配していた、ヒンズー教によるカースト制度に、イエス・キリストの愛をもって対抗していく中で、自分がいかに無力な者であるかを、様々な迫害の中で体験し、霊的に「ゼロ」のレベルにまで砕かれていった時、次のような真理を発見しました。「時折襲ってくる無力感と恐れに耐えることができたのは、自分たちはゼロの行列であるが、頭にキリストがいて下されば、自分たちはどんなに大きな数になるであろうか・・・・」(注)


 イエス・キリストは、ある時弟子たちに、「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ福音書14章12節)と語られました。この約束の御言葉通り、私たちは信仰をもって聖霊のバプテスマを受けますが、その後必ず一人一人が、次のような「思い」へと傾きます。即ち、「聖霊のバプテスマを授けられた目的は、あくまで私に足らないもの(力量)を補うためです。自分は10%ありますから、聖霊様は不足分の90%の力をプラスして下さい!」などの思い。しかし、このような思考概念が支配している限り、私たちの「霊」は完全に砕かれることはありません。


 それ故に、このような頑なな「霊」に対して、聖霊様は働きかけることができません。聖霊様は私たち一人一人を、使徒パウロのように霊的「ゼロ」にまで砕くこと、これが主要な働きです。その働きにより、私たちは「ゼロ」というレベルにまで砕かれ、その時から初めて「助け主」聖霊様が、私たち「ゼロ」という存在を、永遠に無限なる「1」の方、イエス・キリストの足元に導いて下さるのです。その時に私たちは、今まで考えても見なかったような、天からの「新しい力」を着せられたことに気付きます。そして、「あなたはいつも、ゼロで良いのだ!何故なら、あなたがゼロの時私の力が、あなたのゼロに現れるからである。あなたの権勢、あなたの能力(力量)によらず、ただ天からの新しい力によって、それが百(100)にも千(1000)にも、また更に万(10000)の力になって、この国の民を新しく創り変るために、あなたを召し出したのだ!」などと、聖霊様が強く励まして下さる、私たちはその力強い御声に聞き従うようになるのです。


 「五旬節」の時に百二十人の弟子たちは、一斉に聖霊を通して、天から「新しい力」を着せられました。この素晴らしい「聖霊革命」の後、彼らはどのように創り変られていったのでしょうか?以前の彼らでしたら、自分こそはイエス・キリストの「一番」弟子だと競い合ったり、自分が「一番」実力ある者であるなどと、「数・量」の概念に支配され、決して霊的に「ゼロ」に砕かれていない、烏合の群れでしたが、「聖霊革命」の後には、誰一人「自分の力量」を主張する者はなく、むしろ天からもたらされたしるし、「新しい言葉」を語ることによって「ゼロ」の弟子、即ちイエス・キリストの「しもべ」として、神の国の宣教や愛の奉仕に、共に一致し助け合って前進して行ったことが、大きな変化(変革)として見受けられます。勿論この変化が、変わりなく聖い流れとして持続すれば良かったのでしょうが、彼らの子弟たちから派生した群れの中には、例えば「パウロ派」や「ケパ派」、そして「アポロ派」などのように、人間中心主義による党派が、再び登場してきたことも事実です。


 しかし百二十人の弟子たちは、一人一人が聖霊による「新しい変革」を受けたことで、イエス・キリストが為された宣教よりも、更にスケール・アップしたリバイバルを、派遣された至る所において展開していくことになります。彼らは自分の「力量」によって、何かを為した訳ではありません。ただ単純に、イエス・キリストが約束として言われた、「新しい言葉」を大胆に語り、御言葉に伴う約束の御業を、聖霊によって推し進めて行っただけです。彼らの言葉は、もはや「古い言葉」の概念で支配されていませんでした。イエス・キリストが彼らの先頭に立ち、内側からは聖霊が「ゼロ」になった彼らの「霊」を、常に支配するほどにまで変革されました。


 ですから、聖霊様からもたらされる「新しい言葉」は、私たち人間の三次元的「数・量」思考概念を根底から破壊し、天的レベルにまで私たちの思考概念を創り変ることができる!ということを覚えて下さい。そして、今後聖霊様が訓練しようとしている人々、即ち聖霊様が必要となさる働き人は、百二十人の弟子たちと同様に、限りなく「ゼロ」にまで霊的に砕かれた精鋭部隊として、花婿なるイエス・キリストを、賢い乙女のように霊と真をもって追い求め、「助け主」聖霊様の導きの中で、主なる神の「御顔」を慕い求める人々の群れのことです。彼らは使徒行伝時代の時以上に、「後の雨」が降り注がれる時、遂に「聖霊の大収穫」にあずかっていくのです。その大収穫を通して救われていく人々の「数」は、今に生きる私たちの「数・量」概念から、到底算出(計算)できないほどの、まるで数学の教科書に出てくる計算方式、二乗、三乗、四乗・・・・という倍加の恵みの中で、神の御国が再興されていくのです。


注、『ドノヴァーの碧い空』(いのちのことば社)38項から引用


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