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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.37)

                             上からの知恵




あなた方の中で、知恵があり分別があるのは誰か。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなた方は、内心妬み深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりも先ず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見は無く、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
                                                                         【ヤコブ書3章13~18節】


理解するとは?
 ヤコブは、「あなた方の中で、知恵があり分別があるのは誰か。」(13節)と、今に生きる私たちにも問い質しています。本当に「知恵ある者」とは、どのような人を指すのでしょうか?新共同訳では、「知恵ある者」と「分別ある者」とを、区別して記述していますが、先ず「知恵(wisdom)」とは如何なるものであるのか?この点について私たちは「知る」必要があります。


 この「知恵」は、人間的な知識レベルのことを指しているのではなく、「神の真理」レベルに基づくものであり、「天上」からもたらされる、霊的次元にあるものと理解して下さい。そして「分別」とは、英語で「understanding」と言い、文字通り「理解(判断)すること」です。例えば「相互理解」という言葉がありますが、これは「互いに理解し合うこと」です。


 この「分別ある」とは、「相互理解」という言葉に見られるように、「理解すること」という概念で把握すれば、この言葉の持つニュアンスが分り易くなります。人間関係を、良きにも悪しきにも成り立たせる、「他者」を見る価値判断のことを、「理解する」と言います。


 私たちは必ず、「他者」を様々な視点から見(判断し)ます。その人と、「良き方向」で交わっていくのであれば、その人に対して「良き理解」が育まれるでしょうが、最初から全く関わることもなく、その人の「外見」や「態度」、又「話し方」などから「誤った理解(判断)」を下すことが、私たちの一般生活には多々あります。この時の、誤った「悪しき理解」のことを、私たちは「偏見」と呼びますが、その人のことを何も知らないまま、自分勝手な判断をすることを指します。


・・・・互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ書12章10節)
 実は、相手を「より良く理解する」には、英語で表現されているように、相手を上から見下ろすのではなく、相手の下に(under)立ちつつ(standing)、理解しようとすることが重要です。私たちが、「他者」と互いに理解し合うには、相手を自分より優った者として見る、つまり自分が相手より下に立ち、その人を下から見上げる時に初めて、今まで「見えなかった(知らなかった)」相手のことが、少しずつ「見えるようになる」のではないでしょうか!これが、本当の意味で「理解する」ことです。


 この「理解する」という働きが、天上の「賜物」として「良き方向」で変革されていく時に、「他者」をどのように「見る」ようになるのでしょうか?このことを考察していく時、私たちが「下に立つ者」として、先ず「何」を見上げるべきか?このことが霊的に見えてきます。そして私たちが、「ある方」を理解する(知る)ことで、改めて「他者(人)」を理解できるようになるのですが、この点については「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず。」の故事に、全ての「明らかな答え」が示されています。


「古い言葉」の基本的特徴
主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
                                                                                    【創世記2章22~24節】


 実は、アダム(エバ)の罪から生じた、「古い言葉」の支配の特徴について、私たちが改めて復習することで、更に「見えてくる」真理があります。ちなみに「エバ」という言葉は、ヘブル語で「全て命ある者の母」という、文字通り素晴らしい意味を持つ言葉ですが、不思議なことに「最初の人」アダムが、彼女にこの「エバ」と命名した「その時」とは、何と彼らが罪を犯した後の時点です(創世記3章参照)。彼らが罪を犯した時、アダムは自分の罪をエバに責任転嫁しました。つまり彼は、この時から自分の愛する「半身」に対して、「裁き」を下したのです。その「裁き」とは、次のような明確な宣言です。「この女が悪いのだ!」と。


 実は、アダムはこの時まで彼女のことを、聖霊に命名された「イシャー(女)」と呼んでいました。この霊的名称は「イシュ(男)、つまり自分の骨の一部をもって生まれた者」と呼ぶことで、常に愛するエバ(他)に対して、「肉体」と「霊」は別の個体(分けられた体)であっても、「意志」や「感情」などを共有する、「一心体」であると宣言していました。ところが、この時から急に「この女が・・・・」と呼び、分けた存在としてエバを理解し始めたのです。つまり「最初の人」アダムが、エバに対して「私の命そのものよ(イシャー)」と宣言できなくなった根本原因が、「古い言葉」の支配がスタートした、この歴史的最大の事件にあったのです。


その1、責任転嫁する
 この時から始まった、「古い言葉」の持つ第一の特徴は、「責任転嫁」の言葉を語り出したことです。この言葉は文字通り、アダム(夫)が自分の罪の責任を、全てエバ(嫁)に転じたという意味です。自分は常に正しく、悪いのは相手(他人)であるなどの言葉、これは全てエゴイズムの「罪」の現れです。罪の結果、彼らは誰から教えられた訳でもないのに、「責任転嫁」の言葉を語るようになりました。「自分は悪くないのに・・・・、何故、相手は理解してくれないのだろう?」などの思いも、エゴイズムから来る「自己正当化」という罪の現れです。そして「何故、理解してくれないのか?」などの疑問の中に、既に自分は「正しい位置」にあるが、相手が自分の「正しい位置」に立ってくれないなどの、「誤った判断」があるのです。


その2、支配する
 第二の特徴は、「他人を支配する」言葉を語り出したことです。私たちの「心」の中には、常に自分が相手より優位に立っていないと、落ち着かないところがありませんか?一般的な生活レベルの比べ合いに始まり、兄弟(姉妹)関係の中にある優劣の比較に至るまで、「支配の概念」が付きまといます。例えば、長子に生まれた長男(長女)は、常に自分が弟(妹)より優位に立っていないと、気が済まない傾向にあります。背が高く生まれ育った者が、自然と背の低い者を見下ろすのと同様に、私たちの心の中には常に相手より優れた部分が、自分の中にあるか否かを捜そうと試みます。そして、それが見つかれば優越感に浸ることができますが、逆に無かった場合には「何て自分は、相手より劣っているのだろう。」などと劣等感に陥ってしまう、この繰り返しではないでしょうか!


 このように、私たちの心の中には常に他者と比較し合うことで、優劣を付けないと気が済まないところがあります。そして、私たちは比較し合うだけでなく、更に相手より上の位置に立って、相手を支配しようとする欲がはらんで来ます。これは、アダムに見られる男性的特徴の現れです。そしてこの時から、男性は常に女性を「あらゆる面で支配したい!」などと思う、「悪しき欲」がはびこるようになりました。この「支配概念」は、キリスト教の教義にも見られるように、「女」は教会の中で「男」より劣った者、働きの面でも制限された務めのみ、為し得る存在として位置付けられているために、女性独自に付与されている「ミニストリー(働き)」が、男性聖職者の人間的な「支配概念」によって、未だに封じ込められているのではないでしょうか?


 しかし、復活された主イエス・キリストに対して、最初の「真の礼拝」の務めを為したのは、「一人の女性」であったことを、男性は特に忘れてはなりません。この時、「男性」の弟子たちは何処にいたのでしょうか?男性の方々にとっては、余り聞きたくない事実ですが、彼らの殆どが「逃亡中にあった!」ことです。女性には、独自に付与された素晴らしい「賜物」があります。それは例えば、「命あるものを求める」という飢え渇きです。不思議なことに、女性だけが「命あるもの」を産み育てる本能がある故、「命」に対する「憐れみ」が生まれつき備わっており、「命」そのものを慈しみ、「命の源」なる方を求める気持ちが男性より強く現れ、又その求め方(情熱)も激しい傾向にあります。その理由は単純です。「アダム(男)」は、「エバ(女)」が経験する「産みの苦しみ」を、未だに「知る」ことがないからです。


その3、自己中心主義
 第三の特徴は、「自己中心」的な言葉を語り出したことです。「自己中心」主義とは、「自分」の立つポジションを、常にセンター(中央)に置かなければ、気が済まない「考え方」です。これは、自分の「霊」を常に「園」の中央にある、「善悪の木」の元に置くことを願い、決して「命の木」の元に行こうとしない、「神中心」の生活から離れた態度(生き方)のことです。ですから、アダムの子孫である私たちも、自分が中心でなければならない「思い(考え)」、例えば集団や組織の中において、センター的役割を担うポジションに就くことを常に願うなど、「自己中心」に生きる習性があります。


 この「センター(中央)」に対峙する概念は、「サイド(周辺)」という言葉ですが、自己中心というセンターに位置する人々は、必ずサイドに位置する人々に対して、「誤った判断(裁き)」をしがちです。この「誤った判断」とは、物事(人)を正しく見ようとしない「考え方」です。その人をよく知った上で判断するのであれば、良き方向性で人間関係が円滑に進められますが、この「誤った判断」は決して「良き方向」に向かうことは無く、「悪しき方向」に益々傾いて行きます。イエス・キリストは、人間の持つ自己中心から生じるこの「誤った判断」を、「裁き(judgement)」として把握しています。


 イエス・キリストは、常にこの問題に関して厳しく言及します。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか。」(ルカ福音書6章41節)この御言葉は、私たちの他者に対する視点が、カメラ・レンズのように正確に映像をキャッチできるものではなく、フィルターのかかったレンズになっているが故に、正確に他者を見ることができないことを教え示しています。このように「自己中心主義」の裏返しは、他者に対する「裁き」を抱き続ける態度のことではないでしょうか!


その4、偽りごとを語る
 第四の特徴は、アダムとエバが「責任転嫁」の言葉を吐くと同時に、その後語った言葉に見られるものですが、創造主に対して「偽りごと」を語り出したことです。つまりこの時から、私たちは常に「虚言」を語る悪癖が備わったのです。私たちの語る言葉には、自分の「道理」に合わないことに対して間違った解釈を下すなど、その時々に応じて「偽りの情報」を流すようになりました。


 以上のように、この四つの特徴を持つ「古い言葉」は、アダムとエバが悪の教師サタンによって、直接教え導かれた訳でもないのに、子孫である私たちに「赤子」の時から備わっています。言葉の革命(No.36)で記述したように、私たちの「舌」は、本来神との「親しい交わり」のため、つまり霊的会話をするために備えられた、「神の美」を現す器官であったのですが、サタンの使者「蛇」の毒牙(乚)によって、自分の「舌」が霊的に噛まれ毒された結果、神との「正しい関係」を破壊し、更に人との「正しい関係」にも、「乱」をもたらす器官に変質しました。その時から、私たちは「古い言葉」を悪霊に促されるまま、自然と語り出すようになりました。ですから、私たちは生まれつきサタンの毒牙によって、「五感」が毒された状態で「古い言葉」を語っているのです。


 では、私たちがこの「古い言葉」の支配から、完全に解放されていくにはどうすべきでしょうか?ヤコブは、「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」(15節)と述べつつ、この世において「あなた方の中で、知恵があり分別があるのは誰か。」(13節)と問い質していますが、はっきり申し上げて解決できる者は「一人もいない!」、これが答えです。本当に「知恵ある者」とは、「上からの知恵」を戴いた者のことです。では「上」から戴くには、私たちはどうすべきでしょうか?単純な真理ですが、「上」におられる方を求めるだけでよいのです!ヤコブは間接的に、「上からの知恵を求めるように!」と述べていますが、求めるにはどうすべきでしょうか?


イエスという霊的手本
・・・・律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生。この女は姦通をしている時に捕まえられました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい。」そして又、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。・・・・
                                                                            【ヨハネ福音書8章1~11節】


 律法学者やパリサイ人たちは、イエス・キリストが語る神の国の「新しい掟」、そして「新しい契約」という「上」からの教えについて、もはや我慢の限界に達していました。それ故、彼らは常にイエス・キリストに対して、様々な陰謀を企てました。具体的には、イエス・キリストの語る神の国の「言葉(福音)」を、ことごとく粉砕するための最上の方法を模索しながら、イエス・キリストと弟子たちの「行動」、そして語る「言葉」の全てを徹底的にマークし、調査(スパイ)していました。


 又、「律法の教え」の細部に至るまで綿密に調査し、イエス・キリストを宗教裁判に引きずり出す方法を模索しながら、イエス・キリストの語る「言葉」に、完全に勝利し得る「律法」を探し出すなど、彼ら法律の専門家の「戦略」を、確立することに必死でした。そして、最終的にイエス・キリストが、民衆が期待する「メシヤ」ではなく、只の「ペテン師(偽預言者)」であることを、民衆の面前で知らしめる方法はないかなど、そのことばかりに「律法書」を開き、シュミレーションを描いていました。


 ある時、彼らはサタンの導きを通して、「律法書」のある文言に注目しました。「こ、これだ!この律法を持ち込めば、奴を封じ込むことができるぞ!」などと、勝利の確信に至る「律法」の文言を、遂に発見したのです。そして、彼らは一致団結して「罠を仕掛け、イエス・キリストを告発する」決行の日取りを定めました。彼らのリーダーは、ある手下(刺客)に命じます。「明日の○○時頃、奴はいつも通り神殿に入り、集まった群集に対して教えを始めるから、罠として仕掛けるおとりの餌(遊女)を連れて来い!そして私が合図したら、即奴の前に放り出すのだ!」と。


 そして「決行の時」至りて、遂に罠が仕掛けられました。不貞行為を現行犯で捕まえられた彼女は、美しい衣装(商売道具)を身に着けて放り出された訳ではありません。殆ど裸同然の肌も顕な格好で、イエス・キリストと群集の前に突き出されました。その瞬間に、群集は悟りました。この女が如何なる所在の者であり、どのような罪を犯してこの場に突き出されたのか、そして最終的には彼女がどう「裁かれる」のかを、瞬時に理解しました。実は、イエス・キリストの前に突き出された彼女本人も、逮捕された時点で自分が最終的に、どう処罰されるか分っていましたから、「死」の恐怖に怯えて震えが止まりません。群集は先ほどまで耳を傾けていた、イエス・キリストの神の国の麗しい「教え」を忘れ、イエス・キリストと「この女」に関心が向けられました。そして、二人を取り囲むようにして、「大きな輪(裁きの場)」が出来上がったのです。


 イエス・キリストは「この時」、不思議な行動に移られます。その最初の行動は、突き出され倒れ崩れた彼女と、同じ視線に座すため自らも地面に、静かに身を屈められたことです。イエス・キリストがこの行動に移る前に、この罠を仕掛けた張本人が問い詰めました。
「さー先生!どうしますか?この女は見てお分かりのように、律法中の律法を犯した大罪人ですねー。先生だったら、如何なる処置(裁き)を為さいますかな?!さー皆さん、いつも通り先生が、この罪に対しても正しい裁きを下して下さいます。とくとご覧あれ!」
それに対してイエス・キリストは、彼らの言葉を無視して身を屈められたのですが、実は私たちが「上からの知恵」を求める時に、イエス・キリストが為された不思議な行動から、重要な「霊的手本」を学ぶ必要があります。


 第一の手本は、「イエスはオリーブ山へ行かれた。」(1節)と記述されているように、イエス・キリストは常に、父なる神と親密に交わるべく、霊的「至聖所」である「祈りの山」に行かれたことです。何故、彼は毎回このような行動を為されたのでしょうか?彼は父の御前に出る時、いつも次のように自覚しながら祈りました。「自分も人の子である以上、自分の肉の力を頼みとし、今までの経験と様々な知識や情報をもって、自分の思っている(考えている)ことを語り、そして人々に教えることもできます。


 しかしそういったものは、あくまで下からの知恵に過ぎません!本当の知恵は、上からのみ与えられるものです!あなたの御心を知って初めて、天上から与えられるものであり、父の許しがなければ、私自らが語ったり教えたりしてはならないものです。ですから父よ、私は今朝あなたとの親しい交わりを求めます。どうぞ御心を教えて下さい!そして、今日私が為すべきことをお示し下さい!」と。その瞬間、聖霊様が彼の「霊」に触れて下さり、「今日は、・・・・をしなさい!必要な言葉は、私がその時に教えます。あなたは黙っていなさい。いいですか!あなたは常に私を待ち望みなさい!」などと、このような父の優しい語りかけを、聖霊は必ず届けて下さいました。その後に改めて、第二の手本(行動)に移ります。


 それは、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(6節)と記述されているように、彼は律法という「この世」の次元にある、「古い言葉」から生じる「下からの知恵」に、あえて対抗されなかったことです。つまり「下からの知恵」に対して、私たちは注視するよりも、無視することが第二の手本です。例えば、私たちの人間関係には必ず「対立」という事態に陥ったり、そのような悪化した関係に導かれることが多くあります。この「対立」とは文字通り、相手と同じポジションに立つ(対抗する)ことから起きる、様々な問題のことです。イエス・キリストの場合、逆に相手(敵)より低い位置、即ち彼女と同じ地面に座ったことで、彼らとの「対立」は起こりませんでした。彼らの目論みは、イエス・キリストが逆上して律法と論戦するなど、いわゆる対立状態を作ることでした。


 中国の兵法の中に、「戦わずして勝つ!」という理論がありますが、これは「負ける(逃げる)が勝ち!」という教えと同じ概念です。相手と同じポジションに、私たちが立とう(対抗しよう)とするから、無駄な労力によって傷つけ合い、決して後々「良き感情」を生むこと無く、むしろ「しこり」が残るのです。それならば、最初から負けた振りを装いつつ「対立」することを避け、あえてそのポジションに立つことを放棄(無視)することで、自分自身の中に何ら「しこり」や「傷」を被ることがありません。ヨハネは聖霊を通して、イエス・キリストの行動に関して、他の弟子たちと違った視点で注視しました。それ故にこの第一、第二の手本となる記事を書き進めた訳ですが、イエス・キリストが地面に身を屈められた後で、地面に書き現した何らかの字(絵、しるし)に関しては、余り興味を示さなかったようです。むしろ、彼はイエス・キリストの語る、新しい「神の国」の御言葉に霊的に強く惹きつけられ、再びイエス・キリストが立ち上がられた際に語られた、天上の「神の言葉(律法)」全てを、正確に記憶して記述しました。


 イエス・キリストがこの時、何を書き記したのか知る術もありませんが、私たちはその内容を神学的にとやかく論じるよりも、ヨハネと同じ霊的視点で、イエス・キリストを「知る(見る)」べきです。イエスは確かに、何らかの文字を書いた訳ですが、書くと同時に実は「何か」を待っていたのではないか、このように解釈する方が「第三の手本」への手がかりになると思います。恐らくイエス・キリストは、人々の雑踏の賑わいの中で、誰にも聞こえない音声(霊の言葉)で祈り、父なる神に訴えていたことでしょう。「父よ、私は今最大の危機に直面しています。彼らの律法に対抗し得る律法は、この世には存在しません。


 このまま行きますと、彼女は石打の刑で処刑されるだけです。どうしたらいいのでしょうか?聖霊様、どうぞ教えて下さい!私は、あなたの御心だけを待ち続けます!」と。地面に何かを書きつつ、静かに祈りながら待っていますと、「その時」主の御声が聖霊を通して、「上」から届けられました。それはヨハネが一番着目した、イエス・キリストの「命の言葉」でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい。」(7節)この言葉は、まさしく「上からの知恵」であり、この世に属しない「神の律法」、つまり「新しい契約」の言葉でした。


 この時に語られた「神の律法」の言葉の特徴は、「・・・・しなさい!」という命令形、或いは「・・・・してもよい」などの、無制限の許可を与える言葉ではなく、「罪のない者」のみが為し得る条件付の言葉でした。つまり、自分の意志や行動の中に罪意識が全くなく、石を投げることのできる資格を、持っていると明確に理解(判断)できる者、という条件でした。しかし、この時の当事者だけでなく私たちも知っています。たとえ自分を正しく評価したとしても、自分の中に罪がない!などと言い切れる者は、誰一人いないことを。


 ですから、年長者に始まって全ての人々が、持っていた「石」を放棄して、その場から立ち去らざるを得ませんでした。何故なら年長者ほど(若い人に比べて)、「自分」という存在が如何にこの条件に不適格な者であるか、明確に悟っていたからです。つまり、自分が今まで如何に愚かなことを繰り返し、罪意識を持ったまま他者を裁いてきたかなど、十分に知っているのです。


 彼らが自分の手に握り締めていた「石」とは、自分の「古い言葉」から生まれる「責任転嫁の言葉」、「支配的な言葉」、「自己中心的な言葉」、「偽りの言葉」の象徴です。彼らはその「石」を、今にも投げつけようと手を振り上げるのですが、イエス・キリストが語られる「新しい律法」を聞いた瞬間に、萎れた草の如くにその手を降ろしました。そして、手に持っていた「石」を見つめている内に、自分が今にも為そうとしている、この正当性を現す「石」が、イエス・キリストの語られた「命の言葉」によって、粉々に打ち砕かれたことを悟った時、もはや手に「肉の力(握力)」が失せ、無意識の内に「石」をポトリ!と落としたのです。


「命の言葉」を語る
 「新しい言葉」と、「古い言葉」の対立状態は長続きしません。「古い言葉」は、いずれ「新しい言葉」により完全に打ち砕かれます。神がもたらす「新しい言葉」の持つ特徴は、「この世」から生じる「古い言葉」を、ことごとく破壊することにあります。ですから、私たちが「古い言葉」の支配から完全に解放されるには、聖霊様が与えて下さる「新しい言葉」を用いて、神との「親しい交わり(至聖所)」に入り、そこから得られる「上からの知恵」を戴くこと以外にあり得ません。「新しい言葉」による霊的な交わり無くして、父なる神の「御心」を知ることもなく、天(上)からの「霊的洞察」や「知恵の言葉」、又「預言」などが与えられることはありません。イエス・キリストが語られた「命の言葉」は、まさしく父なる神の「ご命令」でした。


 ところで父なる神は、この女性のように如何なる罪人であっても、御子イエス・キリストの「十字架の愛」により、「赦しの恵み」を与えて下さることを、私たちは聖霊を通して知っています。それ故に、主イエス・キリストの「十字架」の御前で、私たちが自分の罪を告白すれば、イエス・キリストは私たちの「罪」の全てを赦して下さり、又「敵」のもたらす様々な「罪」の支配から、私たちを贖い守り導いて下さることを、この出来事から読み取っていくことも大切ですが、それよりも私たちが忘れてならない、この中に示されている霊的奥義(教訓)は、「私たち自身も、彼女を裁く側にいた人々と、何ら変ることのない罪人であり、彼らと同じ裁きの視線で他者を見、そして裁きの言葉を吐く愚かな者である!」ことです。


 「自分は常に正しい」と刻まれた「石ころ」を、大事に「手」に持っている人はいないでしょうか?彼らは、故意に「石」を放棄したのではありません!イエス・キリストの語る、「新しい律法」に対抗できないことを悟り、無意識の内に「石」を落とし、その場を立ち去ったのです。誰一人として、「主イエス様!まさしくあなたのお言葉通りです。あなたがおっしゃる通り、私は何と愚かな罪深い人間であり、この石を大事に持っていたことでしょう!この女性に対して抱いていた悪しき思い、裁きの視線、自分の正しさを訴えるこの石を、あなたの御前に置きます。私も彼女と何ら変りません。どうぞ彼女と同じように、罪深いこの私をお救い下さり、あなたの愛の言葉を語りかけて下さい!」などと、イエス・キリストの前にへり下り、「罪」を告白する者は一人も無かったのです。


 私はこの出来事の最中、あの十二弟子が如何なる態度でいたのか、非常に興味があります。恐らく彼ら全員が、「石」こそ持たなかったものの、この女性に対して他の人々と同様に、「裁き」と「偏見」をもって、遠巻きに傍観していたものと思われます。弟子の誰一人として、彼女の「罪の赦し」をとりなす者はなく、師イエス・キリストの危機に、おじまどうばかりでした。


 イエス・キリストは、集まっていた群衆全員がその場を立ち去った後に、彼女に優しく語られました。「私も、あなたを罪に定めない!」(11節)イエス・キリストが語られる「命の言葉」は、決して「裁き」を下すことではなく、常に「真の解放(赦し)」をもたらすものです。これは「古い言葉」による支配ではなく、聖霊が与えて下さる「新しい言葉」を通して、「この世」のもたらす「古い言葉」の縄目、又他者からの「裁き」や「批判」など、それらを完全に無視する(解放する)ことのできる、「至聖所の交わり」が確立されることです。


 そして、他者と「対立」する言葉を語るのではなく、むしろイエス・キリストと同様に聖霊様に促され、ある時は他者より身を低くすることで、他者を見下すなどの「偏見」を持つ、「悪しき方向」から完全に解放されます。そして、今度は逆に他者に対して、イエス・キリストの愛と憐れみに満ちた、「真実の言葉」を語る次元にまで、イエス・キリストの「義の種」を蒔く者に、変革されていくことを信じて下さい!これは、私たちの「肉の力」では決して為し得ません!これを為すことのできる唯一の方法は、「新しい言葉」による神との「親しい交わり」から得られる、「天上の力」だけです!


 ヤコブは、単純明快に述べています。「知恵ある者はいますか?知恵を求めて生きなさい!」と。「知恵」を追い求めることは、イエス・キリストを追い求めることに他なりません。ですから、私たちが「知恵の源」、イエス・キリストを追い求めていく時に、イエス・キリスト同様に「上からの知恵」が、聖霊を通してあなたの「霊」にも降り注がれ、あなたの唇から新しい「神の国」の「命の言葉」が、次々と聖霊に促されつつ現されていくことでしょう。


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