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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.32)

                      神の土地に住む感謝




                            彼らの土地を嗣業として与えた方に感謝せよ。
                            慈しみはとこしえに。
                            僕(しもべ)イスラエルの嗣業とした方に感謝せよ。
                            慈しみはとこしえに。

                                                                               【詩篇136篇21~22節】


「地」を捨て(聖別し)なさい!
 「(僕として)住まわせて戴く」という、霊的へりくだりが無ければ、私たちは見える「地(この世のもの)」に、必死にしがみ付くことになります。父なる神は何故イスラエルの民を、歴史的に何世紀にも渡って、流浪の民として取扱われたのでしょうか?このイスラエルの民の、不思議な歴史的旅路から、「感謝」の奥義について考えて参りましょう。


 あの「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですら、父なる神から直々「故郷(産まれた土地)を捨て、私が命じる地へと出立しなさい!」と命じられました。その時彼は「え?私には先祖代々から続く、一族としての遺産を継承するという、逃れることの出来ない責務がありますのに、それら全てを捨てろですって!」と、一瞬躊躇こそしましたが、最終的には従順して旅立ったのです。


 と言うことは、私たちに対して主なる神が、同様に命じられることは、「(世との繋がりのあるもの全てを)捨てなさい!」です。その時に私たちは、果たして捨てられるでしょうか?その中には、大切なもの(遺産等)も含まれています。


 さてアブラハム一族は、神の「ご命令」に従った結果、カナン地方一帯を譲り受け、一時期「エジプト」に寄留しましたが、ヨセフの遺言通りに、モ-セとヨシュアを通して、再びカナンに帰還することになります。その時にも、主なる神は「敵」の手から奪い取った、故郷の地を「先ず聖別しなさい!」と命じられました。つまり彼らに対して、「決して自分のものとしてはならない!」と、あえて釘を刺したのです。


「感謝」の根源
 主なる神は何故、今に生きる私たちキリスト者にも、今回の御言葉を通して、如何なる「地」に住んでいても、常に「感謝」の生贄を捧げるよう、霊的に促しているのでしょうか?しかもそれは、自分所有の「地」であろうが、「借地」であろうが・・・・関係なくです。


 ところで、「感謝」が生じる根源(本来の理由)について、私たちは考えてみて下さい!先ず第一のポイントは、イスラエルの民ばかりでなく、私たちキリスト者は、主なる神の不思議な「導き」と「方法」、つまり「摂理」により救われたことです。また神の「救い」は、常に一方的な神の「選び」によるものであって、決して自分の努力や選択によって、自分が得たものではありません。


 そうです!私たちはイエス・キリストの、貴い十字架の「犠牲(贖いの死)」により、永遠の滅びから救い出されたのです。この「選び」の意味を、私たちが正しく理解した時に初めて、主なる神の一方的な「恩寵(恵み)」を知らされ、「主よ、感謝します!たとえ現状(今の地)がどうであれ、私を選んで下さったということは、今の地に私が踏み行くことで、神の選びの地に造り変えられることを信じます。」と、神の導き(旅程)を感謝することが出来ます。


 続いて第二のポイントは、「何」が感謝を捧げる際の、優先順位として求めているか!という点です。私たちの「霊」、即ち神がお住みになる霊的「至聖所(神の宮)」の中に、神が命じられたもの以外のもの、特に「この世」の産物を置く時に、私たちの「霊」は、たちどころに汚れて行きます。そうなりますと、当然「感謝」を捧げる方向性が、誤った流れの中で狂い始め、正しい優先順位が崩壊します。


 例えば自分の「霊」の中に、神の麗しい「至聖所」が、更に拡大していくことを求めている間は、「感謝(真の喜び)の泉」が、溢れるばかりに流れ出るのですが、少しでも「世の泉」を求め出す時に、至聖所が後退(縮小)し、逆に「この世」のフィ-ルドが、霊の中を支配(拡大)するようになります。ソロモン王の「失敗」が、まさしくこのことを物語っています。


 私たちが求めるべき優先順位は、常に主なる神の御前に出て、神の偽らざる摂理の中で、「感謝」を捧げて生きることです!この正しい方向性を無視して、世的な「欲(思い)」をもって生きる時に、ヨシュアとカレブの指導に逆らい続けた、族長たちの如くに滅ぶのです。神の「地(至聖所)」が、常に拡大し続けることを願うこと、これが「感謝」の出発点です。


 イスラエルの民が、「カナン征服」を果たしていく上で、主なる神は彼らに対して、常に「勝利」というプロセスではなく、ある時は「敗北」という経験も通過させました。その理由は、主なる神の「ご命令」に対する、徹底した「従順」を学ばせることでした。即ち「自分の力」に依らず、「神の力」によって勝利する!という、神の法則に従うためです。


 神の「ご計画」には、必ず正しい「手順」があり、行くべき正しい「道しるべ」として、明確なル-トを示すものです。にも関わらず彼らは、「自分本位」の優先順位をもって、勝手な行動に移ったが故に敗北したのです。しかし「敗北」したからこそ、改めて学び知る神の「恩寵」を、彼らは学習して進軍し続けた結果、最終的に約束の地「カナン(嗣業の地)」を、遂に得ることが出来たのではないでしょうか!


 そうです!最後(第三)のポイントは、神の「ご計画(御心)」こそが、私たちを正しく導く上での、真の「道しるべ」である故、私たちがその「道しるべ」に従うのであれば、必ず「約束のもの(嗣業)」を得て、遂に「感謝」の生贄を捧げ切ることが出来る!という点です。


 主なる神は、大いなるガイダンスをもって、常に私たちを導いて下さっています。そして私たちが踏み行く地を、神の「約束の地」へと造り変えて下さいます。それ故に、私たちの「霊」の只中に、「神の地」が更に拡大していくことを、第一の「祈り」として捧げて下さい!そうすれば、私たちの眼前にあるものは、ことごとく「神のもの」として聖別されて行きます。


 「え?このことのために、あの(辛い、苦しい、悲しい)経験があったのか!」という、神の不思議な「摂理」が、更にあなたの人生を訪れ、実際に体験して行くことが出来ますように!又その度に、真実の「感謝」を捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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