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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.2)

                           生贄に伴う代償




時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。・・・・主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物に目を留められなかった。・・・・カインが弟アベルに声をかけ、二人が野原に着いた時、カインは弟アベルを襲って殺した。
                                                                             【創世記4章3~5,8節】


 本日(2018年1月1日)は、一般の世の人々にとって、「初日の出」を祝う、新年最初の日(今年は日曜日)ですが、年・月・日というものは、主なる神が定めた「神の時」の流れにあっては、昨日(大晦日)見た太陽も、今日(元日)見た太陽も、何ら変わるものではありません。しかし、私たちキリスト者にとって「主の日」、つまり栄えある良き日に、主なる神にお会いすることが、何にも変え難き「喜び」と、心踊る程の「興奮」を覚えないのであれば、それは失礼に当たります。


 そうです!私たちが新たに始まる、この一年間覚えて戴きたいことは、「あなた」自身が神の御前に出る時は、常に「生きた聖なる生贄(献げ物)である!」という意識です。即ち生き生きとした、麗しい存在として、主なる神は、あなたをご覧になり、受け入れて下さるのです!


アダム(エバ)の霊的遺産
 さて、失楽園の後にアダム(エバ)が、最初に捧げた「礼拝」は、如何なるものだったのでしょうか?つまり楽園を出た後に、彼らが真っ先に為したことは、寝食のための「家造り」でも、今日の糧を得るべく、狩りへと出かけたことでもありません。彼らが先ず最初に手がけたこと、それが石を積み上げ、祭壇を築いたことです。


 その際、夫は妻に言います。「エバよ、私たちは今後、遠き旅路に出かけなければならない。それが何処に向かって行くのか分からないし、もう楽園は閉ざされて見えない。しかし愛する妻よ、私たちは二人っきりではない。私たちが着ている聖なる衣、これは主なる神の愛のしるしだから、これを忘れず、常に感謝することが出来るよう、祭壇を築き上げたから、ここに生贄を捧げようではないか!これが、私たちの生きる全てである。主なる神が共に居て下さり、常に守り導いて下さる。私たちが生贄を捧げる時に、如何なる時にも主なる神は、私たちとお会いして下さるから。」と。


 そして、二人(両親)の生きる最大の使命を、当然二人の息子たちも継承しました。各自の「働き場」から、貴重な「生贄(献げ物)」を選択して、祭壇上に捧げることを、幼少の頃から(両親を通して)、忠実に教えられてきた、兄カイン(穀物・野菜生産者)と弟アベル(牧羊者)は、遂に大人(両親)の仲間入りの儀式を為しました。


 この時、カインは何を考えて捧げたのか、その心情を汲み取ることは出来ませんが、彼は「これ程の素晴らしい、大収穫を表明するためには、やはり多くの献げ物を捧げること、これに尽きるな!」と思ったことが想像できます。そして彼の儀式の為し方には、何ら問題(落ち度)は無かったのですが、献げ物の量的な面ばかりに、心が向けられていたのかも知れません。


 それに対してアベルの場合は、兄とは違った心の動きが見えてきます。彼は先ず「父上から教えられたように、先ずは最上の献げ物を、今年生まれた子羊の中から、(無心で)選び出さなければならない。」と決断し、自分が一番に可愛がり、大切に育てている一匹の「子羊」を抱いて、(泣きながら)祭壇上にて屠りました。


 さて、この二人の捧げた献げ物に対して、主なる神の「応答」は如何なるものであったのか?どの聖書を読んでも、「(カインの献げ物には)目を留められなかった」と訳していますので、何となくカインの行為の全てを、主なる神が拒絶したかの如きものと、私たちは(本人も含めて)錯覚し(読み違え)ます。


 しかし、決してそうではありません。主なる神は、カインの献げ物にも「よくやった!」と受け入れる訳ですが、アベルの為した行為(表明)の方が、より主なる神の「御思い(素直な心)」に近かったが故に、主なる神の御目がアベルの屠った、「生贄(死したもの)」に留まったのです。そうです!アベルは常に、主なる神の(両親に対して)為した、貴い「贖い」の行為(永遠の愛)を、必死に考えながら生きていたのではないでしょうか!


 アダム(エバ)の霊的遺産には、三つの要素(教え)があります。第一に①神の守り(聖なる衣の存在)を忘れたら、自分たちは「死罪(死刑を宣告された者)」に等しい!、つまり生きられないという点です。第二に②「死罪」という、恐ろしい宣告を受けた身であるにも関わらず、子羊の犠牲のしるし、即ち「聖なる衣」を着ている限り、自分たちは「死」を免除されている!という点です。


 それ(免除)を保証する為の条件として、第三に③自分たちも最上の子羊を選び、「生贄」として屠り、祭壇上に捧げることが求められる!という点です。これは簡単なことではありません。必ず代償が伴います。つまり自分たちが子羊を捧げる時には、必ず「死(子羊の命を奪う)」という代償が付きまといます。「生贄」を捧げる時に伴うもの、それが「死」という代償です。


生贄に伴う代償
 常に覚えて戴きたいことは、主なる神の「恵み」と「憐み」があるからこそ、私たちは生かされているのです!私たちの人生の一歩一歩を、確かなものとして下さり、その歩調を整えて下さるのも、主なる神ご自身です。私たちが主なる神と出会ったことにより、ある面で人生という一つの「道のり」を、肉の力(努力)ではなく、神の「導き(取扱い)」の中で、神の「正しい道」を歩まされていること自体が、まさしく奇跡の「恵み」なのです!


 そうです!アベルの求めた「生き方」は、上記の如くに神の御前にあっては、「自分は常に子羊(生贄)たれ!」ということです。自分が可愛がって止まない愛しい「子羊」を、自分の手で屠ろうとする時、当然手が震えるなどして躊躇します。しかし、父(アダム)の為した礼拝の行為を思い出す度に、父上が平気で殺した訳ではなく、大声で泣きながら、震える手をもって屠っていた記憶がよみがえります。そして父上の悲痛な叫び声も、同時に聞こえました。「ごめんな-!」と。


 その後、恐れおののく自分たち(カインとアベル)に対して、父上は泣きながら語りました。「息子たちよ、よく覚えておきなさい!これ(屠った子羊)は、私たちの罪の身代わりだ。本来ならば、私たちがここ(祭壇上)で死ななければならない身だ!」と。


 自分の身代わりとして死す、つまり生贄となる「子羊」を選ぶ際に、アベルは人間的な「妥協」は、一切行いませんでした。アベルは自分が助かろうと思って、「子羊」を選んだのではなく、自分の「死」の身代わりとなる子羊を、まるで自分の「命」を絶つかの如き、決死の覚悟をもって選んだのです。「自分は本来、罪故に死んだに等しき者である!今生きているのは、主なる神の恵みと憐みがあり、子羊の貴い命の代償があるからこそ、(罪赦されて)生かされているに過ぎない身だ!」と。


 アベルは、自分の「死」を常に意識しながら、正しい生き方を全うし続けていたが故に、実は今回主なる神が、兄の捧げた「供え物」に、目を留められなかった結果、次の展開がどうなるかを、ある程度の予測(覚悟)をしていたのかも知れません。つまり「自分の死」の時を・・・・。


 アベルは、決して「ひ弱な男」ではありません。職業柄、カインよりも足腰が強かった、つまり迅速に逃げる(危険事に対処する)、身体的能力があったと想像できます。その彼が、簡単に兄の突然の襲撃により、殺されること自体が疑問です。恐らく今回の殺人事件に至る直前に、兄と何らかの「会話」が、次の如き「やり取り」として、為されたのではないでしょうか。


 逆上し刀を手にした兄に対して、弟は「兄上!どうか止めて下さい。そういう愚かな過ち(殺人)だけは犯さないで下さい。」と、必死に懇願しました。すると兄は、「何を今更言うのか。お前は私が怖くないのか?」と更に畳み掛けて唸ります。それに対して「兄上!確かに刀も怖いですが、兄上が罪を犯し、地獄に行くことの方が怖いです。それを為したら終わりです。」と、弟は涙ながらに訴えました。


 そして遂に、「怒り」に支配されたカインは、無抵抗の弟アベルの「心臓」を、手にした刀で貫きました。死に間際にアベルは、「主よ、兄は何をしているのか分かりません。どうか私の死をもって、兄の罪を赦して下さい!」と、か細い声で祈ったはずです(私の推測です)・・・・。


 そうです!アベルの「死」こそが、人類初の「生贄」であり、これはイエス・キリストの「贖い」を意味する、預言的雛型となります。私たちが、主日に礼拝を捧げて、神の御前に出ることが出来るのは、子羊(生贄)イエス・キリストの、「死」の代償があったからです。私たちが生きた、聖なる献げ物であるならば、アベルの如き「正しい生き方」、即ち生贄に伴う代償である、「死」を常に意識した生き方を、神の「恵み」と「憐み」により、純粋に全うすることが求められます。


 だからと言って、私たちはアベルの如くに、死す必要はありません!イエス・キリストが、私たちの罪の「贖いの生贄」として、既に十字架上で死んで(完成して)下さったからです。また復活された、救い主イエス・キリストが、私たちを招き寄せて下さり、大胆に至聖所の中へと入ることの出来る、「神の子」としての身分を、保証して下さっているからです!


 主なる神の豊かな「愛」と、真実の生き方を全うして下さった、イエス・キリストの永遠の「恵み」が、助け主なる方聖霊様の「導き」と「取扱い」を通して、更にあなたの人生の歩みの中に、この一年も祝福あるものとして完成されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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