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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.4)

イエス・キリストの13の問いかけ−その4


     『あなたは本当に良くなりたいですか?』




イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、眼の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。・・・・この人は立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
                         【ヨハネ福音書5章1〜15節】


三十八年の「不作の人生」
  このストーリーに登場する生まれつきの病人(男性)は、「三十八年間」という非常に長期に渡る、言わば人生の大半を「不治の病」によって蝕まれるなど、不遇な人物でした。彼の病名は定かではありませんが、イエス・キリストが彼に対して命じられた、数々の言葉から分かることですが、二本足で立つことも、両手で自分の寝床を掴むことの出来ない、言わば「筋ジストロフィー」の症状に似通った、寝たきりの状態にあった患者と推測できます。又彼は、誰かある者の「助け」を借りて、担架で「ベトザタの池」へと運搬して貰わなければ、何も「奇跡」を期待できないという、悲惨な「病気だけの人生」を、生まれてから三十八年もの長きに渡って、過ごしてきた訳です。


 この「ベトザタの池」の回廊には、数多くの病人が全国から集まって来て、何時(いつ)起こるか分からない、「奇跡の時」を待ち続けていました。しかし殆どの病人は、生きる「希望」も「欲」も途中で尽き果て、何をするにも生き甲斐の無い「時のサイクル」を、何十年に渡って過ごしている、つまり医者に見捨てられた人々の群れでした。彼らの唯一の希望、それはベトザタの「奇跡の伝説」と呼ばれる、当ての無い希望でした。ですから、彼にとっての「三十八年間」を考慮しますと、例えば私たちがヨハネ福音書から、このストーリーを淡々と読みながら、「あー彼は、何と長期に渡る、苦しみの人生だったことか!」などと、余りその「時のサイクル」を理解できませんが、本人からしますと「苦痛だけの人生」、「希望無き人生」と呼ぶしか、表現できないものでした。


 「三十八年間」の中には、恐らく数回は「ベトザタの池」において噴水が湧き上がるなど、彼らが「奇跡」と信じていた自然現象(間欠泉において見られるもの)が起きたことでしょう。しかし「その時」、彼は自分の力で池まで辿り付き、真っ先に飛び込むことなど、決して出来なかった訳です。他の者は真っ先に飛び込んで、癒されたかどうかは定かではありませんが、「やったー、俺が一番に飛び込んだぞー!」などと、喜び踊る様を目の当たりにして、彼は自分の体の中に「奇跡」に至る「力」が、何も無いことを改めて知る時、「あー、今回も私は駄目だった。神は、この私を見放された!今までの私の人生には、何一つ奇跡が起きなかったではないか!私の将来は終わった!」などと嘆くばかりでした。


 ですから彼の「霊」の中には、何の「希望(願い)」も「生きる気力(欲)」も生じてきません。このことに関して覚えて戴きたいことは、彼の「意志」の中には、「願い」や「欲」が出て来ない程の、不作の人生を過ごして来たという事実です。私たちの霊的戦いにおいては、時折様々なことが起こります。又私たちの「人生」においても、様々な状況(境遇)に遭遇します。イエス・キリストを自分の「救い主」として信じたことによって、私たちが「本来の人」アダムのように、「完全に聖められ変革された者、つまり神の栄光を麗しく現すことのできる者」へと、瞬時に造り変えられるのであれば、それはまさしく「奇跡の人生」になるでしょう。しかし現実的には、イエス・キリストを信じ、「聖霊のバプテスマ」を授かったことにより、むしろ望みもしないような「霊的苦しみ」が増す、そんな信仰生活を過ごす日々の連続ではないでしょうか?これは聖霊体験をした者が、誰しも思うことです。


「何」を願うか?
  イエス・キリストを霊的に知れば知る程、私たちとイエス・キリストとの、聖なる一体関係を切り離すべく、様々な霊的トラブルに巻き込むなどして、サタンが私たちを「誤った方向」に誘い込もうとします。仮に私たちが、サタンの「誘惑」に従っていくのであれば、サタンの霊的攻撃はピタリと止み、様々な「痛み」や「苦しみ」も無くなるでしょう。それこそ自分の「願い(野心)」通りに、自分の「計画(奇跡)」が成就していくことを、明確に見ることが可能となります。覚えて戴きたいことは、私たちの中にある「願い」や、様々な「欲」が掻き立てられる(生じてくる)間は、三次元的に見れば健常者ですが、聖霊様に取り扱われることで、様々な霊的苦しみが生じてきますと、それは「三十八年間」の肉体的病を患った彼と同様に、サタンが盛んにあの手この手と、「誘惑」の手法を変えながら、この世にある解決方法(奇跡の時)を求めるよう導いていることを、私たちは明確に「知る」べきです。


 サタンは、私たちが霊的に苦しめば苦しむ程、「お前の人生は何だっのたか?三十八年間の病に苦しんだ、彼と変わりないではないか!何一つ良きものが見つからないではないか!」などと惑わし、更に近づいて「お前が本当に、イエス・キリストに従って歩んで行くことを放棄し、むしろ自分の願いや欲望通りの人生を確立したいのであれば、私は何ら協力を惜しむことはない!だから、この私を求めなさい!」と誘って来るのです。


 それに対して聖霊様は、「否!否!否!あなたの人生が、たとえ不作に思えるような人生であっても、イエス・キリストは確実に、あなたの側近くに居て下さり、神の霊を通して常に守り導いて下さいます!」と、優しく励まして下さいます。「その時」私たちは、恐らく彼と同様に「主よ、私は今までずっと奇跡を待ち続けていたのに、何も起こらないではないですか?奇跡さえ起これば、私はあなたに栄光を現すべく、一生懸命働くことができるのに・・・・」などと、あれこれ「不平」を漏らします。本当の自分の「願い」としては、イエス・キリストの御元に近づき、イエス・キリストの中にある「人生」を確立したいのですが、私たちは様々な「つべこべ言葉」を吐いて、決して前進しようとしません。


 私たちの信仰生活においては、「タナボタ(棚からぼた餅)」式に祝福された人生が、簡単に約束される訳ではありません!ところが私たちは、「良きフィールド(良作の地)」を目の当たりにした時は、例えばジンクス的発想で「よし、やれるぞ!」などと、「肉の力」を頼みとして前進して行くのですが、現実的には何も変化が起きない場合に、この「つべこべ言葉」が生じて来るのです。聖霊様は、私たちのこのような三次元的思考に対して、「あなたは一体、何を願っているのですか?そして、どのように生きているのですか?」という、非常に単純な問いかけをもって、私たちの信仰の歩みを霊的に修正されています。


 「タナボタ」式に、神から全ての祝福が得られると思っている人々は、必ず何らかの「聖会」に赴き、語られる「メッセージ」や「預言」などを通して、自分の「願い」に満足の行く「神託」を期待して前進したり、又ある時は自分の「願い」通りの祝福に預かった場合にのみ、「主よ、あなたを賛美し、あなたの栄光を称えます!」などと告白します。しかし、現実的に「祝福」とは懸け離れた、「痛み」や「苦しみ」のフィールドを通過せざるを得ない場合に、「主よ、今のこの時を感謝します!」などと、大胆に告白できる者は殆どいません。大抵の場合、「主よ何故こんな事が、この私に起きるのでしょうか?」、「とても耐えられません!どうしてこんな事になったのですか?」などと、モーセに率いられたイスラエルの民と同様に、様々な「つべこべ言葉」をもって、「この世(エジプト)」を振り返ろうとします。


 しかし、聖霊様はそれでも「あなたの元を、イエス・キリストが今も尚訪れて下さり、あなたは本当に良くなりのですか?と語って下さっています。」と、三次元に生きる私たちを励まして下さっています。聖霊様のこの「励まし」の言葉に対して、私たちは素直に「はい!」と応答したいところですが、愚かにも「主よ、・・・・が解決したら、きっと良くなりますよ!」などの、「つべこべ言葉」の回答しかできません。


イエス・キリストの第4の問いかけ
  イエス・キリストは、単純な「問いかけ」をもって、私たちに問い質しておられます。「あなたは良くなることを、本当に心の底から願って(欲して)いますか?」と。イエス・キリストが言われる「良くなる」とは、良い状態に回復する、良き事が起こる、良きものが与えられるなどの、三次元レベルの「好転」を意味する言葉ではありません。それは、イエス・キリストの「命」を私たちが戴くことによって、あなたが本来の「美しい人(器)」に、完全に創り変えられることです!イエス・キリストは、一人一人の人生に対して、決して無駄なことは為されません。父なる神は本来の在るべき姿(フォーム)、即ち神の「美」を最大限に現す「器」として、私たちを創造しているのです!ですから全ての「人」は、神の目に「無駄なのもの」が一つも見当たりません。


 確かに、この「三十八年間の病」に苦しんでいた彼に対して、多くの人々が次のような言葉を吐き捨てたことでしょう。「あなたの人生は、もう終わったようなものだ!無駄な人生だったね。」と。しかしイエス・キリストは今も尚私たちに対して、「否!あなたの人生は、この私が全てを贖い、そして創造しています。それ故、私はあなたに問いかけるのです。あなたの生涯に渡って、本来の神の計画である美しい人生と、美しい品格(性)を備えた、神の最高作品として、私はあなたを再創造したい・・・・だからあなたは、私の願いと同じものをもって、本当に良くなることを欲していますか?」という素晴らしいメッセージを、聖霊様を通して投げかけているのです。


 ところで私たちは、イエス・キリストの「ご意志(計画)」を、最優先に願っているでしょうか?ご存知のように私たち「人」は、イエス・キリストに遠隔操作される、「ロボット(機械)」ではありません。つまり、私たちは「自由意志」を備えた、霊的存在として創造されています。又父なる神は、この「自由意志」を聖なるものとして、私たちに付与して下さいました。神が「本来の人」である、アダム(エバ)に付与した「自由意志」とは、「生きること全てが、神の美を現していくこと」、つまり彼らが自発的(自由)に願うこと自体が、神の「美」を表現(具現化)することでした。


 しかし如何せん、彼らが「罪」を犯したことにより、私たちの「願い(意志)」が、サタンの「悪しき種」により、「善なるもの」と「悪なるもの」を同時に欲したり、自分が「善」であると思っていることの殆どが、返ってサタンを喜ばす悪しき次元にあることを、使徒パウロは詳しく書き連ねています(ローマ書7章参照)。それ程に私たちの「意志」は、神と懸け離れた次元の中で働いているのです。しかしイエス・キリストは、「そのようなあなた方の弱き意志(願い)を、私が十字架上で完全に回復し、新しい心(霊的意志)と霊を備えた器として、あなたの人生を再創造したいのです!」と、今も尚励ましておられます。


イエス・キリストの「憐れみ」
  イエス・キリストは彼に対して、この問いかけを為される前に、彼の「つべこべ言葉」を含めて、全てをご存知でした。そしてイエス・キリストは、「ベトザタの池」を訪問した際に、何と多くの病人が池の周りに住み続け、いつ起こるか分からない「奇跡の時」を期待して、長年に渡って過ごしている光景を、直接ご覧になられた時、非常に「憐れみ」の念を覚えました。そして、彼らの中で一番に目を留められたのが、「三十八年間の病」に苦しんでいる彼だったのです。私たちの三次元的発想では、「ベトザタの池」に群がる全ての病人を、イエス・キリストは癒しても良かったのでは?・・・・などと解釈しますが、イエス・キリストは「ご自分」を求めて来る者に対して、公平に「愛」と「憐れみ」を注がれる方であるという、一つの「模範(モデル)」を示すために、「彼」一人を選び召し出し、この問いかけを投げかけられました。


 「もう長い間病気であるのを知って、」(6節)の「知って」とは、直訳で「知らされる」という意味で、イエス・キリストが聖霊を通して、啓示されたことを物語っています。聖霊様はこの時、イエス・キリストに知らしめました。「この者は三十八年間に渡って、肉体的苦痛ばかりでなく、精神的かつ霊的に枯れ果てるという、非常に極限状態に達している。彼に対して父のご意志、即ち今までの彼の人生を払拭するほどの、最大の喜び(望み、願い)を、あなたが今注ぎなさい!」と。その瞬間にイエス・キリストは、父なる神の「ご意志」を受け取り、霊的感動を覚えながら語られた言葉が、「良くなりたいか」(6節)の御言葉です。「良くなりたい」の中に記述された動詞(want)は、「求める(願う)」とか「欲する」など、強い意志を表現する時に使用する言葉です。


 本来の聖なる「want」を起こして下さる方が、実は聖霊様であることを、私たちは知っているでしょうか?逆にサタンは、私たちが本来持つべき聖なる「want」を、「自分は・・・・」、「自分の・・・・」、「自分に(を)・・・・」など、自我の「欲望」へと駆り立てます。ですから、サタンは彼に対しても「三十八年間の病」という、自分の「苦しみ」からの解放のみを、欲する方向へと駆り立てました。しかしイエス・キリストは、単純な問いかけではありましたが、「あなたは、本来私があなたに対して望んでいる(want)、良き美しい人へと創り変えられることを、本当に欲していますか?」と、彼に対して問い質しました。


 聖霊様は、あなたにも今問いかけています。「あなたが歩んできた人生において、神が用意される本当の良き美しい事が、今までありましたか?神はあなたに、日々新しいことを創造されるのです!そして最終的には、イエス・キリストに似た美しい人へと、必ず創り変えられるのです。それ故、あなたは本当に良くなることを、心の底から強く願っていますか?」と。聖霊様の取扱いが始まった時に、私たちも彼のように様々の「つべこべ言葉」を吐くことがあっても、最終的には「はい!私は本当に良くなりたいのです。あなたの美しい御業を、この私の中に起こして下さい!」と告白しましょう。


三つの霊的行動
  イエス・キリストが彼に対して命じられた時、三つの具体的行動も指示されました。第一に「立ち上がりなさい!」、第二に彼が三十八年間寝食を共にしてきた、三次元的フィールドから離れること、つまり「床を担ぎなさい!」、そして最後に「歩いて行きなさい!」の三つです。


 聖霊様も私たちに対して、同様の霊的行動を促されます。「あなたは今、霊的に枯れ果てたフィールドにあり、とても前進できる状況には無いかも知れません。しかし、イエス・キリストの永遠の命の御名により、その場から立ち上がりなさい!あなたが今まで、依存し頼っていた三次元的フィールドを全て担いで(捧げて)、イエス・キリストの御元に歩いて行くのです!そうすればあなたの人生は、必ず神の御心(計画)通りに、良き方向へと修正(変革)されます!これは全て、イエス・キリストの保証(約束の言葉)です。」と。イエス・キリストの「永遠の保証」は、ご自身の流された貴い「血潮」と裂かれた「御体」を、霊的に食す(信じる)者に対して、必ず「良き美しい人生」を保証し、癒され変革された彼の如くに、「自分の生涯の全てを、良き方向で癒して(変革して)下さった方は、イエス・キリストお一人です!」と、人々に証言できる程にまで創り変えます。


 イエス・キリストは間もなく、私たちの元を訪問されます。「その時」にあなたは、「あなたは、本当に良くなったねー!さー私の愛する花嫁よ、近くに来て見せておくれ!」と、花婿イエス・キリストに迎え入れられるのか、それとも愚かな五人の乙女の如くに、様々な「つべこべ言葉」をもって、「主よ、一度は信じて待っていたんですけど、やはり駄目でした・・・・」と後ずさりするのか、そのことが問われる「時機」が迫りつつあります。それ故私たちは、聖霊様が届けて下さる日々のイエス・キリストの「問いかけ」を、へり下って求めながら、確実にイエス・キリストの「御声」をキャッチすることができるよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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