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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.5)

                  遠慮無きストレートな信仰




王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれ程の時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。・・・・私は王に言った。「もしお心に適いますなら、私がユダに行き着くまで、私を通過させるようにと、ユーフラテス西方の長官たちに当てた書状を戴きとうございます。また、神殿のある都の城門に梁を置くために、町を取り巻く城壁のためと、私が入る家のために、木材を私に与えるように、と王の森林管理者アサフに当てた書状も戴きとうございます。」神の御手が私を守って下さったので、王は私の願いを叶えてくれた。
                                                                                                   【ネヘミヤ記2章6節~8節】


「遠慮が無い」とは?
 「遠慮が無い」とは、悪い言葉で表現するなら「ずうずうしい」となります。しかしそれが、純粋に求める飢え渇きの表現(態度)であるなら、実直かつ積極的な行動に映ります。主なる神にとっては、実はこの「ずうずうしい」行動(姿勢)が、信仰には無くてはならない要素なのです。それは例えば、自分の父を信頼し切っているからこそ「お父さん、ちょうだい!」と、ストレートに願い求める子供の如き行動です。


 ところで私たち日本人は、何よりも先ず「相手」の意向を優先するなど、非常に「礼」を尊ぶ民族と言われています。それに対して大陸系の人々は、相手のことは構わずに、ストレートに自分の意思を主張しますが、逆に日本人の行動が、集団の動きに自分も合わせるなど、消極的過ぎる!と外国人から判断される可能性もあります。


二つの「問いかけ」
 さてネヘミヤはこの時、王様に働く主なる神の御業を見守っていた訳ですが、実は王妃様もこの場に同席していたことを、あえて記録として残しました。彼は仕事柄、王様の「御顔」の様子を、常に気にしていましたが、この時は王妃様の御顔も、思わず見てしまいました。それは王様と同様の、自然な微笑みに満ちた麗しい表情でした。そして「主よ、あなた様はいよいよ、私が願い求めていたことを、王様の唇を通して語って下さいます。」と祈りながら、彼は次の段階を待っていたのです。


 すると王様は、「ネヘミヤよ、それにはどの位の時間を要するのか?又そなたが帰って来るのは、いつ頃になりそうなのか?」と、具体的な「問いかけ」を為されたのです。この二つの「問いかけ」は、非常に重要な霊的意味を含んでいます。


 私たちは「祈り」の項目の中に、先ず「・・・・して下さい!」などの、私的「願い」を要求しがちです。しかし私たちが祈るべきことは、先ず主なる神の「御心」を示して戴くことです。そうすればその「御心」に応じた、私の「時間」と私の「場所」などの、自分が為すべき様々な案件(行動)を、初めて用意(応答)することが出来るのです。


 そうです!私たちの捧げる「祈り」や「礼拝」においても、一番に発すべき言葉は「主よ、あなたの御旨を先ず(私に)示して、それに必要な事柄を問いかけて下さい!」です。主なる神と私の関係の中にも、様々な「時」が必要になります。それは「自分の時」のことではありません。主なる神にとっては、ご自分の「時」を始めたことを、「その時」に完成へと至らしめるべく、「神の時」として待って下さいます。


 そして何よりも主なる神が、私たちに期待しておられることは、「ボロボロのまま(未完成の状態)で良いから、いつでも帰って来るように!」という、熱情の愛から来る「交わり(再会)」です。王様にとって最大の「懸案(恐れ)」は、ネヘミヤを失うことでした。それ程にネヘミヤを愛し、彼の「接待(交わり)」を、王様は常に待望していました。


 果して私たちの「霊」の意識の中に、「主なる神が、いつも私のことを待っていて下さる!」という霊的イメージを、いつも抱いているでしょうか?恐らく私たちの側が「罪」深い故に、「主よ、私は今困っています。だから(お願いに)来ました。」という意識の方が多いことでしょう。しかしこの時のネヘミヤには、王様の「問いかけ」に関する、全ての事が理解できました。


二つの「要求(書状)」
 主なる神が、全ての事を相働かせて益として下さる、その結果が王様の「問いかけ」である!と理解した瞬間に、彼は「遠慮」無くストレートに、自らの「願い(要求)」を初めて語りました。第一の要求は「故郷までの通行許可証を頂戴すること」、そして第二の要求は、まるでネヘミヤが皇太子の如くに、王様に対して直々要求できる、恐れ多い内容のもので、「城門や城壁を再建するための資材、そして彼が居留する家屋の建築の建材を、王立森林地区にある木々を伐採して頂戴するため、森林長官アサフに対する王様のからの命令書を戴くこと」でした。


 覚えて戴きたい点は、王様のネヘミヤに対する「願い」が、彼が故郷で為すべきことを終えたら、早々に王都に帰還して欲しい!その一点だったことです。そのことをネヘミヤは、十分に自覚していました。にも関わらず彼は、堂々と王様に二つの「公文書(王命)」を要求しました。これは幼子が母親に対して、「ママ、今〇〇が食べたいから、買ってちょうだい!」と、駄々をこねる(我がままな態度に徹する)行為に、非常に似通った行動です。しかしこれは全て、ネヘミヤが主なる神の「御心」を求めて、祈っていたものでした。


 すると王様は、王妃の「意向」を確認し、互いに微笑み合いながら、彼に再び向き合い「ネヘミヤよ、相分かった!今から書記官に命じて、その二つの公文書を作成してもらうから、少々待っておれ。」という、奇跡の言葉を返しました。この奇跡が起きた理由を、彼は明確に8節で「神の御手が私を守って下さったので、王は私の願いを叶えてくれた。」と記述しています。


 この部分を直訳するならば、「神ご自身が私と共にあったので、王は私が求めるもの全てを叶えてくれた。」となりますが、まさしく「神」と「私」の距離関係が、全幅の信頼(親しき交わりから来るもの)による!ことを物語っています。それ故に王自らも、ネヘミヤの信じる「主なる神」を、畏れ敬っていたのではないでしょうか!


 何故ネヘミヤは、このような「要求」を、王様に遠慮無く願い出ることが出来たのでしょうか?それは「王」と「臣下」という立場(身分)を超えた、揺ぎ無い信頼関係にあります。それは「何処」から生じたのかと言えば、彼自身の王様に対する、実直な「接待」の基本行動、即ち「親しい交わり」から生じているのです。


遠慮無きストレートな信仰
 今後日本は、益々「税金」が上がるなど、「数字」に踊らされることでしょう。その中で私たちキリスト者が、この世の人々と同様の「思考原理」で、「あー、大変な世の中になった!」などと、信仰無き「言葉」を吐くのであれば、それは不信仰(遠慮した状態)な生き方です。しかし「いや待てよ。私の信じる真の神は、如何なる状態にあっても、今日を造られ、明日のことを(私に代わって)心配して下さる、大いなる神ではないか!だとすれば、明日になったからと言って、私を干からびさせるだろうか。そんな事は一切無い!」と、遠慮無くストレートに神の御前に出ること、これが正しい信仰者の姿勢です。


 ですから、私たちが一番に心配すべき点は、この世の「数字」などで「明日の糧」を思い煩う次元ではなく、自分がネヘミヤの如くに、常に主なる神に対して、如何なる思い(飢え渇き)をもって、「親しい交わり」を望んでいるか?主なる神の「ご好意(恵み)」に対して、いつも十分に報いて(感謝して)いるか?そのことを自分の「霊」に問いかけることが重要です。


 あなたのことを、「いつでも帰って来なさい!」と、常に玄関先で待って下さる主なる神が、あなたに対して「さそり」や「蛇」を与えるはすがありません。あなたが霊的にずうずうしく、つまり遠慮無きストレートな信仰をもって、更に主なる神の御前に出ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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