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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.4)

                     主の御心を待ち望む



すると王は、「何を望んでいるのか」と言った。私は天に居ます神に祈って、王に答えた。「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えが無ければ、私をユダに、先祖の墓のある町にお遣わし下さい。町を再建したいのでございます。」
                                                                                                   【ネヘミヤ記2章4節~5節】



「何」を望んでいるのか?
 私たちは「主の御心のみを待ち望みます!」と、口で言うには簡単ですが、現実は自分の「望み(私心)」を優先します。さてネヘミヤは、献酌官という立場上、王に対して自分の「望み(願い)」を、自分の側から告白することが出来ませんでした。


 ところが不思議なことに、主なる神が王の「心」に働きかけ、王の側から彼の奥深い「霊」の中にある、その「願い(祈り)」を問いかけました。そこで彼は、堰を切ったかのように「実は・・・・」と報告し始めたのです。覚えて戴きたいことは、彼は決して自分の中にある、深い「悲しみ」の原因を語った訳ではありません。


 ネヘミヤにとって「その時」は、非常に緊張した静まり返る中にあっても、王様との揺ぎ無い信頼関係にありますから、王様の反応に臆することはありませんでした。そうです!この時は神の偉大なる「御心」が、「時間」と「空間」と「人」を調和させ、見事に支配していたのです。


 ネヘミヤの「報告」を、時間をかけて聞いていた王は、「うーん、ネヘミヤの故国が荒れ果てた状況にあるとは・・・・。」と、深く考え込みました。ご存知のようにペルシャ王にとって、属国の社会・経済情勢などは、総督に一任していましたから、全く関与する必要がありませんでした。にも関わらず王は、「さて、どうしたら良いものか!ネヘミヤは一体、何を考えているのだろうか?」と、彼を案じる始末。


 その時主なる神が、再び王の心に働きかけ、「あなたは一体、何を望んでいるのか!」と、ネヘミヤを促したのです。ネヘミヤは神の御前に座し、先ずは祈ることを常としていましたから、今回の王の問いかけに対して、主なる神の「介入」が、まさしく現されていることをキャッチしました。王自らが、彼の「望み」を問うことは、一度も無かったからです。


 主なる神が、自分の「願い」や「祈り」など、それら全てをご存知である!と受け留め、全ての「時」の流れや、全ての「事」の起こりの中に、神の臨在を感じ取ったネヘミヤは、思わず無言の祈りで答えました。「主よ、あなたは何と驚くべき方、そして偉大なる方でしょうか!王様自らが、私に問うてきたこと、これはあなた様が為さったことです。あなた様の御心が、今(この場を)支配しています。どうぞ助けて下さい!私は王様に、どのように伝えたら良いのか分かりませんが、あなた様の御心に従います。」と。


二つの行動原理
 さて、罪深き私たちの肉的な行動原理は、如何なるものから生じているのか、この点について知る必要があります。それは第一に、自分の「欲(私的望み)」から始まります。つまり自分の望みを優先して、「事」を起こすことに、私たちは動き始めるのです。そしてこの自分の「望み」をベースにして、第二に自分の「計画」を立てます。この二つの「私的思い」が、私たちの基本的な行動の出発点となります。


 この肉的な行動原理を、私たちの信仰にも当てはめますと、それはとんでもない失敗を引き起こします。ところがネヘミヤの場合は、常に神の御前にひれ伏すという、非常に際立った霊的謙遜の姿勢を貫きました。これが今回私たちが学ぶべき、信仰に基づく行動原理です。それは第一に神の御心を求めて、常に神の御前に座す(祈る)ことです。そうです!主なる神が全ての事を相働かせて、「益」として下さることを信じる限り、私たちは右往左往したりする必要はありません。


 第二にそれは、神の御心が分かったからと言って、即行動することではありません。ネヘミヤは王様に問われた際に、即答していません。暫く沈黙する中で、王様に返答すべき神の言葉を、慎重に祈り求めました。すると聖霊様が、「再度王様に故郷の現状を、より詳しく説明しなさい!」と彼に促しました。主なる神の「ご計画」こそが全てであり、それに順ずる(従う)こと、これが彼の第二の行動原理でした。


「御心」を優先する
 ネヘミヤは王様に返答しました。「もしも下僕がお心に適い、王様にお差し支えが無ければ・・・・」と。この彼の言い回しは、非常にへり下った表現です。つまり自分の身分が、あくまで王様の「下役」に過ぎず、自分からは何も出来ない立場にあることを、殊更強調しているのです。続いて彼は「私をユダ(故郷)に、先祖の墓のある町にお遣わし下さい!そして再建したく存じます。」と、ようやく「願い」を申し出ました。「但し王様の、お心が許可されないと言うのであれば、それに私は従う所存です!」という表現も、「お差し支えが無ければ」という、非常に丁寧な言葉で付け加えました。


  しかし、ネヘミヤのユダ(故郷)に関する「願い」には、実はもっと大きな計画(目標)がありました。それは神の宮(エルサレム神殿)の復興でした。それ故に、あえて私的な「言い回し」を避けて、小さな「願い」に止めたのです。これは全て、聖霊様による「導き」でした。


 ところが私たちの場合、自分の「願い」を小さく言うより、進んで誇大化する癖があります。例えば故国の「救霊」の祈りにおいても、「主よ、私をこの国のリバイバルのために、大きく用いて下さい!」などと。しかし正しい者の祈りは、「主よ、どうぞこの国の救いのために、あなた様の御心を豊かに現して下さい!御心に適いますならば、この下僕を一平卒として、存分にお使い下さい。」となります。


 この日本は、様々な世界的カリスマ指導者たちから、リバイバル推進プラン(ビジョン)を、今まで受けてきました。その時に(私を含めて)多くのキリスト者が、「主よ、私をこの国のリバイバルのために、(あの先生の如くに)どうか用いて下さい!」などと、誇大化した表現で祈ったことでしょう。しかし聖霊様は、「主なる神の御心を先ず求めなさい!」と、問われるのではないでしょうか!イエス・キリストが、「ゲッセマネの園」で祈られた如くに、私たちも「主よ、私の杯(私的願い)ではなく、あなたの御心(杯)のみを飲みます。」と祈るべきです。


主を己の喜びとせよ。主はあなたの心の願いを叶えて下さる。(新改訳)
                                                                                                                     【詩篇37篇4節】


 「主なる神」ご自身を、私の喜びの全てとすること、これは非常に能動的な信仰行動です。そうすれば(その結果)主なる神が、私の願いに対して、始めて応えて下さる!と。つまり信仰行動には、神が決めた順番(手順)があります。新共同訳聖書では、①主なる神の中に、自らの幸の全てを捜し求め(委ね)なさい!そうすれば②主なる神が願いを必ず聞いて下さる・・・・と、ここでも「主なる神」と「自分」の位置関係を、「王様」と「ネヘミヤ」の如くに、適切に指示しています。そうです!あくまで神の「御心」が優先しているのです。


 たとえ目の前に置かれた状況が、自分の望みとは懸け離れていても、主なる神は必ず「御心」を示して下さり、私たちの進むべき手順を、聖霊様を通して示して下さいます。ネヘミヤの本心としては、焦りと不安の中で「自分の願い」を、「よし、しめた!今こそ王様に申し上げる、絶好のチャンスだ。」と、即答してよいところでしたが、聖霊様が「しばし待て!」と命じる、その御声に聞き従った結果、今回の奇跡が起きたのです。


 全てを計り、全てを達成(完成)して下さる神が、今もあなたの信仰の「歩み」、その全てをご存知です。ですから私たちは、自分の肉なる願いよりも、私たちに働く偉大なる神の取扱いの中に、先ず自分自身の全てを捧げて行く時に、私たちの「思い(願い)」を遥かに優った次元の中で、主なる神は全てを用意して下さる!これが、私たちの信仰の基本行動であるべきです。


 そうです!私たちが為すべきこと、それは主なる神ご自身を、激しく求めることです。ですから、更に神の御心を求めて下さい!神の御心は、ネヘミヤが王様に対峙した時の如くに、まさに「今」、そして「目の前に」既に始まっていることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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