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バルナバ・ボイス(No.3)

イエス・キリストの13の問いかけ−その3


            『私に触れたのは誰ですか?』




 人間の肉体的「痛み」ほど、何をするにも非常に困難を覚え、前進することを阻むものはありません。「思い」の面でも否定的観念に捕われ、例えば「もう私の人生は、これで何もかも終わりだ!」などと、極限状態に追い込まれることもあります。又、人間関係の中で被る精神的な「痛み」、つまり「心の傷」を被った者は、集団社会の中で生活や仕事をしていく上で、非常に困難を覚えます。そのような人々は、何か新しい事をする際に、積極的に前進して行きたいのですが、人間関係上のトラブルに「恐れ」を抱き、過去において自分が体験した「トラウマ」が、「思い」の面で支配しているため、つい躊躇してしまうなど、「痛み」のもたらす悪しき結果は様々です。


 物理的な「痛み」は、外科などの医学技術をもって除去し、ある程度緩和することが可能なケース(病例)もありますが、精神的な「痛み」に関しては、カウンセリングなどの心理療法によっても、完全に癒すことは殆ど不可能なことです。


イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群集がそばに集まって来た。・さて、・・・・ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群集の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群集の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群集があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『誰がわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
                                                                                       【マルコ福音書5章21〜34節】



十二年という「痛みの時」
  このストーリーに登場する、か弱き一人の若い女性は、十二年間の長きに渡って、「痛み」の連続する人生を過ごしてきました。「十二年」という人生のサイクルは、私たちが過去を振り返ってみても、ある程度「時のサイクル」を思い浮かべることができるものです。何故なら、何らかの「病」や「苦しみ(痛み)」を経験していない者にとって、それは曖昧で平凡な「時の流れ」だからです。しかし、「十二年」という長い年月に渡って、「痛み」だけの歴史(ストーリー)を持つ患者にとって、その「時のサイクル」の概念は、「圧迫」と「死の恐怖」などの否定観念に益々押しつぶされるなど、それは悲惨な人生のサイクルです。


 毎日が、気を失わんばかりの「苦痛」に、のたうちまわらなければならないのです。彼女の「長血」の病が、今日では如何なる病名なのか定かでありませんが、恐らくそれは女性特有の、生理的不順から生じるものと考えられます。ある時は、ホルモンの分泌面でバランスを崩し、体力的にも不調になるなど、様々な面で「痛み」が生じるために、「何か」をする際に必ず支障を来たすものでした。又、ある時は「貧血」になり、殆ど「寝たきり」の生活を、長期に渡って強いられるなど、いわゆる「不治の病」の一つであった訳です。


 彼女の両親の資産が、どの程度のものであったのか分かりませんが、恐らく彼女の両親は、愛する娘のために全財産を投じても、この病の治療に全力を傾けていたはずです。しかし、一向に良くなることはなく、将来(未来)に対する希望が、ズタズタに切り裂かれる、そんな不遇な「時のサイクル」を、彼女は十二年間も過ごしてきたのです。イエスが生まれる以前の、ユダヤ社会の古い律法によって、生理を始め出血の続く女性は、その間「汚れた女性」としてのレッテルを、男性優位の社会から貼られます。彼女の場合は、それが十二年間続く訳ですから、「あー、私は一体どうなるのかしら?この先、この病気が治らなければ、私の人生は辱められ、死に至った方がましだわ!」などと、益々落ち込む毎日でした。
 
「痛み」の本質
  私たちがこの女性の立場、つまり同様の「不治の病」にならなければ、彼女の「痛み」の本質が分かりません。しかしイエス・キリストは、彼女の「痛み」を完全に解放する(贖う)べく、遂に彼女の元を訪れて下さいました。彼女が「救い主」の訪れを、ひたすら待っていたのか定かではありませんが、恐らく彼女の「霊」の叫び自体は、「死」と「痛み」の恐怖を取り除き、肯定的と思えるものが何一つ無い、自分の不遇な人生に対して、最後の希望を委ねる(祈る)としたら、神の「救い」以外には無いことを、彼女は知って呼び求めていたはずです。


 彼女は絶望の淵(どん底)の中で、「神よ、もしあなたがおられるのでしたら、か弱きこの私を贖い(救い)出し、全ての痛みから解放して下さい!」と、祈り求めていたことでしょう。イエス・キリストは、何故この街を訪れたのでしょうか?それは、このストーリーの中に前後して登場する、会堂管理者ヤイロの娘の「不治の病」を、癒すべく訪れて下さった訳ですが、実はこの長血を患った女性を見つけ出し、彼女の十二年間という長き「痛み」を、全て担うためにも訪れて下さったのです。


 聖霊様はこの時、イエス・キリストに父なる神の「御心」を届けました。「ヤイロの娘の元を訪れる前に、もう一人の女性の救いが、あなたには用意されています。ですから、父の御心の時を待ちなさい!」と。そこでイエス・キリストは、自分の元に押し迫る群集を前にして、父なる神の「御心」の時を、ひたすら待ち続けました。


 ついに彼女は、ある「噂」を聞きつけました。そして「救い主」と呼ばれる方が、自分の住む街にも訪れて下さることを知るや否や、「痛み」故に余り動かすことのできない「弱い体」を振り絞って、大群衆の中に身を投じ「救い主」を捜し続けました。イエス・キリストを見るために、何人の人々が集って来たのか定かでありませんが、「病」を患っている者にとって大群衆と言えば、それは一つの立ちはだかる「巨大な壁」です。そして、誰が誰であるのか分からない状況の中で、彼女は必死に「その方」を捜し続けました。


 すると必ず、ある集団が彼女の行く道を塞ぎ、「お前のような、汚れた女性が来る所ではない。さー、邪魔だから向こうへ行ってくれ!」などと、差別的言葉を吐き捨てられました。しかし彼女は、そんなことに全く恐れることなく、一生懸命に群集の中を駆け巡り、「その方」がおられるであろうと予想される、群集の「中心」を目指しました。不思議な「預言者」、「救い主(メシヤ)」と噂される方に、自分が出会わなければ、今の「苦しみ(痛み)」から解放される手段は、自分の生涯に二度と来ないだろうと思ったからです。そして彼女は、ついに「その方」に近づくことができました。


 ところが・・・・、実は最後の「壁」が立ち塞がっていたのです。それはイエス・キリストを取り巻く人々、主に十二弟子と他の弟子たちの集団でした。何故なら、師イエス(VIP)を守るボディーガード、それが彼らの主要な役目だったからです。彼らは必死になって、イエス・キリストをガードするのですが、救い主の「奇跡」を求めて、我先にと群がる人々が次々来る訳ですから、彼らは死に物狂いで人間の「壁」を造るのも無理はありません。


 イメージ的には、一つの角砂糖に群がる蟻のようです。ですから彼女にとって、この最後に立ちはだかる「壁」は、イエス・キリストの御元に近づくことが、殆ど不可能に思えるものでした。津波のように押し迫る群集の中で、とうとう彼女はよろめき倒れ、「あー、もう駄目だわ!」などと思いながらも、もう一度起き上がるべく、ふと何気なく掴んだもの、たまたまそれが、イエス・キリストの衣服の一部でした。


 その瞬間に彼女は、自分の人生を「十二年」の長きに渡って、とことん苦しめて来た「痛み」が、自分の掴んだ「衣」に向かって、完全に引いて(流れて)行くのを、自分の五感で感じ取ることができました。そして「あ!この方が、私が出会いたいと望んでいた、救い主と呼ばれる方だわ。でもどうしよう?勝手に触り、癒して戴いたけど、どうすれば今の感謝の気持ちを、この方にお伝えできるかしら?」などと、事の成り行きに対処できず、とりあえず顔をうずめて、身を潜めることにしました。しかし彼女の中には、更なる飢え渇きが起こりました。「私の人生の苦しみの全てを、完全に贖い出して下さった、救い主の御顔を拝すること無くして、私はこの場を決して離れまい!」と。そして「救い主」の行動を、背後から静観していたのです。


イエスの第三の問いかけ
  イエス・キリストは当然、彼女に関する信仰の行動を、聖霊を通して知っていました。そしてある瞬間、自分の体の内側から「力」が、外側に向かって流れて行くのを感じ取りました。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて」(30節)と記述されている言葉は、単に物理的エネルギーが、例えば100%から80%へと減少したことを意味しません。それは自分の「霊」のなかにある、父なる神の「御心」が、美しい「愛」の流れとして、ある者の中に入って行くことを、イエス・キリストが感じ取っている言葉です。「あ、父の栄光の力が、今私の中から流れ始めた!」と。
 
 イエス・キリストはこの時、ある者の求める願い(叫び)が、決して群集の大半が願っているようなもの、例えばご利益主義的信仰から生じるものではなく、心から神の御前にへり下って、御顔の「救い」を仰ぎ求めるものであることを、聖霊を通してキャッチした時に、イエスは思わず霊的感動を覚えて、「わたしの服に触れたのは誰か」(30節)と尋ねられたのです。


 イエス・キリストの第三の問いかけは、決して裁判官や刑事などが、犯罪者(被告)に対して問い詰めるような、尋問上の言葉ではありません。それは「誰が私を慕い求め、私の衣に触れましたか?」というニュアンスを含んだ、優しい問いかけです。弟子たちはイエス・キリストの問いかけに対して、全く訳が分からぬといった状況の中で、イエス・キリストに対して逆に、「群集があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『誰がわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」(31節)という、父の「御心」とは懸け離れた返答をしています。


 しかし、この様子を背後から静観していた彼女は、イエス・キリストの問いかけに驚きました。彼女は「この方は、真に神の御子、そして救い主である!」と、畏怖の念から明確に悟ったからです。そして「すぐに告白しなければならないわ!あの方と面と向かって、私の痛みの全てを解放して下さったことを、心から感謝申し上げること無くして、私はこの場から立ち去ることはできない!今すぐにでも、この方の前に出て御顔を拝しましょう!」と思うや否や、聖霊の促しと助けにより、彼女はイエス・キリストの御前にて、この場に至った今までの全てを報告(告白)しました。「私は、今まで十二年間に渡って、長血の病に痛み苦しんでいました。医者にも見離された私は、最後の力を振り絞って、あなた様の御元に参りました。あなた様が一体、どのような方であるのか、私には分かりませんでした。しかし神の救いを求めて、偶然あなた様の御衣に触れた(掴んだ)瞬間、あなた様の中にある神の御力が、私の痛みの全てを完全に取り除いて下さいました。」と。


私の娘よ、安心して行きなさい!
  彼女の報告を聞き終えたイエス・キリストは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(34節)と言われました。「娘よ」という部分は、英訳聖書では「My daughter」と表現し、「私の娘よ」と親しく呼びかける言葉です。日本語でも、ただの「娘(お嬢)さん!」と呼ぶのと、「私の娘よ!」と呼ぶのとでは、だいぶニュアンスが違ってきますように、イエス・キリストは自分の衣に、ある女性が触れた「その時」、明確に聖霊様から「あなたと、あなたの衣に触れた女性は、完全に霊と霊が結び合わされました。ですからあなたは、彼女のことを神の子供の如くに、私の娘と呼ぶようにしなさい!」という啓示を与えられました。


 つまり、この「娘よ」という呼び方は、神の「家族」を意味する言葉です。「私の愛する娘よ、あなたの信仰が、あなたの全てを救ったのです。これからの人生を、安心して歩んで行きなさい!私は信仰の回復を、あなたの中に明確に見ました。それ故、あなたが私を求める時、私は必ずあなたの霊の只中に居ますから、安心して行きなさい。」と。


 彼女と同様の信仰の回復が、私たちにも是非必要になります。私たちの人生に被る全ての「痛み」、それは物理的な病などの「痛み」に始まり、インナーヒーリングを必要とする「心の痛み」と「霊的な痛み」、そして過去における様々なトラウマなどを含めて、これら全ての「痛み」を担われる方は、イエス・キリストだけです!この「救いの君」イエス・キリストは、今も尚十字架上から、私たちの「痛み」を完全に取り除くために働いて下さり、私たちが父なる神の御元に行き、イエス・キリストの御衣に触れ、顔と顔を見つめ合うほどの、「親しい交わり」の中にあずかることで初めて、私たちは完全にイエス・キリストの「救い」という、聖なる守りの中に入ることができることを、私たちは覚えるべきです。


 私たちは「痛み」を取り除くべく、様々な方法を求めます。又、私たちが「痛み」の恐怖から、どうしても前進することができなくなった場合に、「イェス様。どうして私は、こんなになってしまったのですか?」などと、つい愚痴をこぼす時がありますが、私たちがこのストーリーから、先ず忘れてならない事実は、彼女は全てを使い果たし、何もかも失った時に初めて、神の「救い」を求めて前進したことです。私たちも、彼女の信仰の行動に見習って、ただ単純に自分の全てを捧げ尽くして、神の御前に進み行く時に、イエス・キリストは私たちの「痛み」を取り除き、私たちの身代わりとして、私たちの「痛み」を担って下さるのです!


 イエス・キリストの十字架の血潮は、今も尚流れ続けていることを信じて下さい!あなたが、イエス・キリストの血潮の「力」を信じる時に、あなたにまとわり付く全ての「痛み」、あなたの人生の歩みを遮断する様々な問題などが、イエス・キリストの「血潮」によって、完全に過ぎ越される(終了する)ことを、主イエス様の御名で宣言し祈ります。アーメン!


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