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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.32)

                        何を語るべきか?




神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部なのです。・・・・悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。・・・・無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。・・・・あなた方の間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことや色々の汚れたこと、或いは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。
                                                                                       【エペソ書4章24節~5章4節】


私たちの「唇」の現実
 ご存知のように私たちは、自分の「唇」を完全にコントロールすることができません。アダムとエバが「善悪を知る木」の実を食べた結果、それまで神の「御心」のみを欲していた、「霊の扉」である「唇」は、霊的に備わっていた本来の「正しい機能」を失いました。神のみを求める、つまり「命の源」イエス・キリストを「知る」レベルから、サタンを喜ばす「この世」の次元に存在する、偽りの「言葉」を「知る」レベルに成り下がりました。


 「唇」は、「入口」であると同時に「出口」でもありますが、サタンの実を口に入れた結果「霊」そのものが死に、もはや何も良きものが「唇」から出なくなりました。むしろ彼らは、神との「親しい交わり」から離れ、又愛する伴侶と言い争うレベルの、汚れた「唇」に変質しました。


 さて、今に生きる私たちの「唇」は、果して霊的に如何なる次元(レベル)にあるのでしょうか?未だもって「善悪の木」の前に立ち続け、「この世」のことを求める果実(古い言葉)を、相変わらず口に入れているのでしょうか?それとも「命の木」の前にへり下って、イエス・キリストのみを追い求めるべく、神の美しい「御心」という果実を、食して生きているのでしょうか?


 しかし現実は、如何に全てのキリスト者が、「唇」の領域において困難を覚え、自分の「肉の力」でコントロールできないジレンマにあることでしょう!他者の語る「古い言葉」に、簡単に傷つけられるレベルにあること、或いは自分自身が知らないうちに、他者ばかりか自分の身内(家族)にまで、「悪しき言葉」を吐いているなど、言葉の問題に直面しています。


 そこで、この章では聖霊様の導きにより、「唇」が如何なる方向に変革されるべきかについて、パウロの霊的指針から学んで参りましょう。ところで、私たちは「唇」という領域が、現実的に如何なる次元にあるのかを、聖霊様に明確に示して戴かなければ、はっきり申し上げて如何なる「変革」も起こり得ませんし、又「霊的飢え渇き」も起こりません!そして、「この世」のことに常に「心」と「霊」を奪われ、相変わらず世的な会話レベルに留まった状態が続くでしょう。ましてや私たちが、イエス・キリストのみを追い求める、「霊的飢え渇き」のレベルに属することを欲するのであれば、「この世」の次元にある「古い言葉(世的会話)」から脱却し、「悪しき言葉」に縛られている「この世」の人々を、聖霊様から与えられる「新しい言葉」をもって、むしろ霊的に解放するほどの「洞察力」と「知恵」に満ち溢れた状態に、そもそも成長しているべきです。


 エペソ教会に当てたこの御言葉は、非常に厳しい内容のものです。この御言葉は、今日の全ての教会にも投げかけられている、聖霊様からの霊的通達です。たとえ「愛」に満ち溢れた、素晴らしい「聖霊の一致」がある教会であっても、この御言葉は常に聖霊様からの警告として与えられています。聖霊が最も悲しまれることが、どういうことであるのか、私たちは常に知るべきです。


 聖霊様は「言葉の領域」において、私たちの「霊」が本当にイエス・キリストの「御心」を、純粋に流しているかどうか?このことに常に関心を持っておられます。「霊」では、「イエス・キリストを求めます!」などと告白しているにも関わらず、言葉の出口(唇)から出てくる言葉が、イエス・キリストの美しい「御心」とは、懸け離れた次元にある言葉、例えば「この世」のレベルに見られる無駄話、下品なこと、愚かなこと、憤り、わめき、そしり、人の噂話、裁き(批判)などの会話をしているのであれば、そのような人は、聖霊様が如何に悲しんでおられるのかを、「全く知らない者」、或いは「あえて知ろうともしない者」です。


今の自分の姿を知る
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(24節)


 これは「目標」としての御言葉です。又この御言葉は、「目標」と同時に私たちが聖霊様によって、どのように変革されていくべきか?このことについて、一つの「イメージ」を提示する言葉です。それとは対照的に、パウロは「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけって留まる所を知りません。」(4章17~19節)とも述べています。このような生活の一番最大の原因は、「神の命」から遠く離れていることです。


 前述したように、私たちは霊的に今の自分の「信仰状態」が、どのポジションに位置しているかを、聖霊様を通して明確に示して戴く必要があります!はっきり申し上げて、私たちはそれを自分の「肉の力」で知ることはできません!殆どの者が、相も変わらず「善悪の木」の前に立ち続け、アダムとエバが失敗したように、その実を手に掴んでいる自分に気付いていません。


 ですから、私たちは自分の「古き姿」を、聖霊様を通して示して戴き、具体的に「知らされる」必要があります。私たちは未だもって、アダムとエバのように「善悪の木」の前に立ち、その実を食しようと手を伸ばし、そしてその実を実際にかじっている現実の姿(イメージ)を、聖霊様から明確に示して戴く必要があります!「え!?私は信仰生活が、かなり長いこと経っていますから、決して古いレベルに居ませんよ!アダムとエバの失敗は、私には二度とあり得ませんね!」などと言い切れる人は誰もいません!


 私たちは霊的にも肉体的にも、何らかの「弱さ(弱点)」があります。そして私たちが、自分の中にある「弱さ」を認める時に初めて、聖霊様は働かれるのです。聖霊様は、私たちの中にある一つ一つの「弱さ」を、知らしめるべく実際働き始められますが、私たちが自分の「現実の姿」を聖霊によって示される時に、未だもって自分が罪を犯したアダム(エバ)と同じ、「古い言葉」に縛られた状態にあることを、改めて「知る」でしょう。又、日々「知らされる」必要があります。


 「善悪の木」の前に立つこと、これは自分の「行動(行い)」を表します。そして、その「実」を食しようとすること、これは自分の「意志」の現れであり、次に「実」に向けて手を伸ばすこと、これは自分の「計画」や「考え」を表しています。そして、最終的に「実」をかじって味わうこと、これは「肉の力」で自分の「言葉」を完成する(造る)ことを表しています。これら一つ一つの行動全てに共通することは、「自分が・・・・し、自分の~」などという、エゴ・ブランド意識が現れていることであり、聖霊によって完全に支配された状態とは、全く懸け離れた次元にあります。


 しかしこの状態のままでは、自分はおろか他者にまで、徳を高め建て上げる「言葉」、そして「霊」を生かす「言葉」を、生み出すことは決してありません。何故なら、自己中心の「罪」のレベルに陥っているからです。その結果、私たちは罪を犯したアダム(エバ)と同じ、霊的に汚れた状態に置かれます。そして、「善悪の木」の実を食すれば食するほど、私たちの「霊」は生き返るどころか、「霊」そのものが死んで行きますから、神との「親しい交わり」を司る「唇」も、本来の「正しい機能」を喪失し、「良き出口」から「悪しき出口」となって、「人」を霊的に殺す言葉を吐き続けるのです。


 時々、私たちは無意識の内に、「人」を縛る言葉を語っていないでしょうか?例えば、「両親」が自分たちの「長子」に対して、「あなたは長男(長女)だから、しっかりしなければいけませんよ!」などと語る時、一見「励ましの言葉」を語っているように思えても、実はこの言葉は「長子だったら、・・・・しなければならない!」などと、「言葉」でその者をコントロールする、つまり「縛る言葉」になっていることに気付くべきです。


 「親」として何気なく語る言葉の中には、「子」の持つ「幼心」を押さえつけ傷つけたりするなど、「束縛する言葉」が多くあり、それが積み重ねられて成長していく時、その子が成長して「親」になった時点で、親が語っていた言葉と同様の「束縛する言葉」を、言いたくもないのに遂吐いてしまう、「悪循環」が続きます。そして、私たちの「唇」から平気で他者を裁いたり、比べてみたりする言葉が次々と出てくるなど、非常に「唇」の領域において、「弱さ」を覚えるのではないでしょうか?


 ところで日本語の会話において、時々「癒し系の言葉」が重宝され用いられます。何故、「癒し系」の「人(キャラクター)」や「もの」が流行するのでしょうか?答えは明瞭です!今の日本人の殆どが、何らかの要因で「疲れている」からです。人間関係のレベルおいて、「精神」という内なる「心の領域」で、傷ついている人が多くあり、傷ついた「心の病」を優しく包み、回復させる「言葉」や「情報」、又「音楽」と「キャラクター」などが、もてはやされている訳です。しかし、そのような「癒し系」の言葉には、傷つき疲れている人の「霊」を、内側から完全に生かす「治癒力」はなく、その場限りの「インスタント療法」的な言葉に過ぎません。


 ですから、「善悪の木」から生じる「古い言葉」は、どんなに美しい「実」に見えても、食せば食すほど「悪しき種」が蒔かれ、その種が急速に成長していくことを、明確に悟って下さい!アダムとエバの食べた「善悪の木」の実は、確かに「口」に入れた時に美味しく感じられるものでしたが、彼らの「霊」のフィールドには、「悪しき種」が次々蒔かれ、そして急速に成長し続けたために、今に生きる私たちにも、「悪しき影響」が及んでいるのです。つまり、「古い言葉」を食せば食すほど、悪しきが成長が伴うのです。


逆の行動
 聖霊様は、サタンの方向とは「逆の行動」を促す方です。聖霊様は、私たちが「善悪の木」の前に立ち続けていたとしても、決して裁かれる方ではありません!むしろ「現実の姿」を知らしめ、本来のポジションに立ち返るよう、促される方であることを覚えようではありませんか!聖霊様の「助け」無くして、私たちは霊的に「逆の行動」に踏み切ることができません。


 聖霊様が促される「逆の行動」とは、先ず自分の「現実の姿」を詳細に知らしめ、次にそれを自分の「肉の力」ではなく、聖霊の「力」によって、一切神の御手に明け渡すよう導かれることです。


 具体的な「逆の行動」のパターンは、「偽りを捨て」(25節)、「一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(31節)と記されているように、第一に捨てることです。具体的には、アダムとエバが食し続けた、「善悪の木」の実がもたらす悪しき汚物、つまり三次元レベルにある「古い言葉」を、口の中から一切吐き捨てることです。しかも自分の「肉の力(努力)」ではなく、聖霊の「助け」によって一切破棄するよう、厳しく命じられています。「あーこれだけは、私にとって美味しそうに見えるから、取っておこう!」などの「思い」に関しても、一緒に捨てるよう命じられています。ある面で「捨てる」ということは、「捧げる(手にするものを奉じる)」ことと同じ概念です。それは、かじっているものを吐き出し、又手に大事にしていたものを投げ捨て、手に取ることをも放棄することです。


 私たちは、他者の言葉や行動に関しては、簡単に怒ったり悲しんだりするのですが、自分の愚かな「言動」や「現実の姿」に、怒ったり悲しんだりすることがあるでしょうか?自己憐憫に陥ることはあっても、自分が未だに「善悪の木」の前に立ち続け、その実を食し続けているという「現実の姿」に、怒りを覚えたことは殆どありません。ですから、聖霊様はそれを明確に知らしめ、「逆の行動」に促されるのです。「あなたは今、どこに立っていますか?私が、今からそれを示しましょう!しかし現実の姿を見たからといって、自己憐憫に陥ってはなりません!今のあなたのために、イエス・キリストの十字架の贖いがありますから・・・・。あなたは他者に対して怒るよりも、自分の今の姿に激しく怒りなさい!そのことを、本当に心から悔い改めて悲しむように!」自分自身のことを怒るのは、とても難しいことです。しかし聖霊様は、イエス・キリストの十字架の下に、私たちの「現実の姿」を持って行き、それら全てを「贖いの生贄」として、イエス・キリストの前に捨てる(捧げ尽くす)よう、「逆の行動」に導かれます。


 「逆の行動」の第二のパターンは、「善悪の木」から離れることです。今まで立ち続けていたその木を離れ、次に私たちが立つべきポジションは、何処にあるのでしょうか?聖霊様は、私たちが第一の「逆の行動」に従った後、続いて次の行動に促されます!「あなたの命の源なる方、イエス・キリストの御元に立ち返りなさい!そして、今後は命の木の実だけを食し続けなさい!」


 イエス・キリストは、多くの弟子や群集に取り囲まれながら、ある時には「先生、やりましょう!いよいよ神の国の到来ですね。どうぞ、これからの具体的な革命プランを立ち上げて、私たちに命じて下さい!そうすれば、その計画に準じて私たちは、死を恐れずに闘って参りますから。先生がリーダーシップを執って、今から革命の号令を発して下さい!」などと革命に熱心的な弟子たちから、いつも勧められたことでしょう!


 しかしイエス・キリストは、そんな彼らの言動には何一つ関心を示さず、むしろ彼らから離れるという行動を採りました。そして独りになるため、「神の山」に登って行かれました。共観福音書には、イエス・キリストが彼らから離れて、父なる神との「親しい交わり」に入った経緯が、数多く記されています。イエス・キリストにとって、父なる神との「親しい交わり」の場が、「命の木(命の源)」が存在する、「至聖所」であることを知っていたが故に、弟子たちとの「世的な会話」よりも、父の居ます「至聖所」に入ることを求めて、独りで山に登って祈られたのです。


 弟子たちがサタンによって、次々と「古い言葉」に支配されていくのに対し、イエス・キリストは聖霊様を通して、常にサタンとは「逆の行動」を促されつつ、次のような指示を受けました。「彼らから離れなさい!彼らの語る、この世にある古い言葉を聞いてはなりません!あなた自らが、自分の手で古い言葉(実)を掴み、勝手に判断してはなりません!あなたが食べるべき実は、父ご自身の命の木の実だけです!あなたの全てを、父に捧げ尽くしなさい!彼らの言葉(計画)も、あなたの思いも全て捨てなさい!」


 しかし私たちは、霊的にアダム(エバ)に続く罪の末裔ですから、常に「善悪の木」の前に立ち続けたい!と思う傾向にあります。そして弟子たちと同様に、私たちは正直言って「この世」において、いつも認められたい(称賛されたい)!などの、「強い願望」を抱きがちです。又、「古い言葉」の次元の中で比較し合うなど、「誤った方向」に安易に傾いて行きます。しかし、どんな時にも聖霊様は促されます。「あなたのその考えは、あなたの肉なる思いから来るのです。その古い言葉の次元から来る思いを、一切捨て去りなさい!神の思いが、あなたの中に完全に満ちるまでは、私は神の御心を示すことができません!」


 ではどうしたら、私たちが「古い言葉」の支配から解放されるのでしょうか?先ず私たちは、ヤコブ書5章に詳細に記述されているように、「私たちは自分の肉の力で、自分の舌を制御することが、100%不可能である!」ことを、何よりも「知る」べきです。この「舌」を、聖霊の「聖めの炎」によって完全に焼き尽くして戴き、新しい霊の「入口」或いは「出口」として変革されていくには、只一つの方法しかありません。それは、私たちが聖霊を通して「命の木」に立ち返り、その実を食する際に「何」をもって味わうべきか?ということを、「知る」ことから始まります。


 私たちは、「命の木」の実を自由に求め食することができますが、聖霊様は条件としてその時に、新しい「霊の唇」でなければ、私たちが絶対に食することができないことを示されます。つまり、私たちは聖霊によって「新しい舌」が備えられるべきであり、その「新しい舌」とは、まさしく「聖霊のバプテスマ」を通して与えられる、「新しい言葉」を語る「霊の舌」のことです。


 しかし、私たちが「聖霊のバプテスマ」を授けられたからと言って、即「善悪の木」の前に立つことから離れ、「命の木」の前に立ち続けることが可能になり、いつでも自由に「命の木」の実を食することができるなど、全ての面で勝利することが可能になる訳ではありません。サタンは、常にあなたの前に「善悪の木」の実を置きます。あなたが「命の木」の前に立ち、イエス・キリストを求めれば求めるほど、サタンは「この世」にある麗しく美味しく見える「実」を、あなたの前に用意することでしょう。そして様々な人の「唇」を用いて、その「古い言葉」であなたを傷つけ騙し、或いは「中傷」や「そしり」などをもって、霊的迫害(阻害)の激しさを増して行くのです。それはあなた自身の「唇」に備えられた、「新しい舌」そのものを霊的に腐らせようとする、紛れもないサタンの「攻撃」です。


「新しい言葉」の効能
 私たちは、聖霊様から「新しい言葉(舌)」を戴いた結果、霊的にはどのような麗しい、「効能」がもたらされるのでしょうか?ある面で、「新しい言葉」は私たちの「霊」にとって、必ず服用すべき「新薬」のような働きをします。そういう意味で、この霊的な「新薬」を服用した時に、私たちの「古い体」が如何なる過程で癒され、「新しい体」として少しずつ回復していくのか、その効きめと力を「知る」必要があります。


 先ず私たちが「知る」べき第一の効能は、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語り」(25節)と記されているように、私たちが「偽りごと」を捨てた時に、その後に必ず他者に対して、真実を語るようになることです。え!?私たちのこの「唇」が、全ての他者に対して真実なこと、例えば正確な「情報」や「事実」、又「真意(正しい思い)」を語るなど、三次元レベルの「真実」を語ることではありません。聖書が語る「真実」とは、イエス・キリストの「義(神の義)」のことです。それはイエス・キリストにある「考え方」、イエス・キリストの「御心」に適った「思い」を優先させていくことであり、「この世」から来る無駄な「古い言葉」を、断固として排除することから始まるものです。


 例えば、私が祈りの生活で経験することの中に、毎朝「早天の祈り」を優先させ、その日を「異言」による神との、「親しい交わり」をもって始める時と、「この世」の慌しさの中で、つまり「多忙(多くのことで心を亡くした状態にあること)」という漢字にある如く、自分の「霊(心)」を亡くすほど、「この世」のことに追われながら、早天の「異言の祈り」をせずに一日を始める時とでは、実は霊的に「大いなる差異」が生じます。


 毎朝、主イエス・キリストの前に出て、「主よ、私の唇は簡単に、偽りごとを言ったりして他者を裁き、又無駄話をすることで平気で人を傷つけてしまうなど、依然として愚かな唇を持っています。ですから、どうぞ聖霊様の炎によって、焼き尽くし聖めて下さい!私の唇に、もっと新しい言葉(舌)を与えて下さい!イエス・キリストにある、新しい考え方で満たして下さり、必要に応じて適切な知恵の言葉を、あなたが天から用意し与えて下さいますように!」などと、「異言の祈り」で始める日は、主ご自身と自分の「霊」が直結しているため、語る「言葉」が実に適切に聖霊によって導かれ、無駄なことは一切語らず、必要に応じて「真実の言葉」のみを語るなど、霊的慎みが備わっているのに対し、この早朝の「異言の祈り」をせずに出かけた日は、先ず自分の「霊」そのものが、落ち着かずにイライラするなどして、平気で他者に対して突っぱねた「言葉」、又口論し易い「言葉」などを語っています。そして「怒り」や「憤り」が、自分の思いと関係なく自分の「霊」から生じるなど、霊性が乱れる傾向にあります。しかし、聖霊に導かれる「真実の言葉」は、その時に適った「知恵の言葉」として、「天」から与えられるものであり、「霊」の思いの中で「この言葉のみを、私が示す時に語りなさい!」などと、聖霊を通して啓示される確実な「生きた言葉」です。このようなことが、「真実を語る」一例です。


 第二の効能、それは悪意に満ちた、「古い言葉」の支配から脱却できるようになる!ことです。私たちは「この世」に生きている限り、キリスト者同士の会話の中にも見られることですが、様々な「世俗的な会話」に、つい耳を傾けてしまったり、或いはその会話に加わることがあります。「世俗的な会話」とは、他者の徳を建て上げる言葉ではなく、むしろ「あの人は~だね。・・・・らしい!」などと、他人に関する噂話に始まり、「あの人は最近、余り礼拝に来なくなったね!」と、遂には「裁き」の言葉にまで発展するなど、人の徳を破壊する悪意に満ちた言葉です!「世俗的な会話」を好む交わりには、イエス・キリストの「真実の言葉」を中心とした、「聖い交わり」は何一つ見られません。彼らは、例えば「今日のメッセージは、先週のと比べて余り恵まれなかった。」、「先週の聖会は、とても良かったねー。特に〇〇先生のメッセージは良かったんだけど、△△先生のものは〇〇先生と比べて、余りピンと来なかった!」などと、比較レベルの会話をすることを好みます。


 何故でしょうか?答えは明瞭です!彼らは「善」か「悪」かというレベル、つまり二元論の世界の中で、相も変わらず「善悪の木」の実を食べ続けているからです。このように、彼らは「善」と「悪」を好みに応じて使い分けています。これは、決して「良き使い分け」ではなく、霊的にはサタンの好む「二元論」に支配されています。彼らは自分の語る言葉、自分の考える思い(判断) を正当化させることで、他者の「言動」全てに対して裁き続けます。他人に対して「自己中心」的な解釈(判断)を下すこと、これは霊的な「偏見」に当たります。


 しかし聖霊様は、私たちが「新しい言葉」によって祈る時に、そのような悪意に満ちた、「古い言葉」の支配から完全に解放して下さり、むしろ今まで「偏見」をもって見ていた相手のために、霊的にとりなすように促されるなど、「正しい方向」に修正されます。私たちは、サタンのもたらす悪意に満ちた、「古い言葉」の支配から脱却できたことによって、神の「善意」に満ちた「命の言葉」のみを、霊的に食するようになります。つまり私たちは、聖霊を通して「命の木」の前に立ち続けることが可能になる故、ひたすら主イエス・キリストという、麗しい「命の木」の実だけを求め、食することに飢え渇いて行くのです。


 第三の効能、それは「異言」の最終目的、つまり「正しい方向性」にもつながることですが、「悪い言葉を一切口にしなくなり、むしろ新しい真実の言葉を語ることで、聞く人に恵みが与えられるように、そしてその人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語るようになる!」(29節)ことです。私たち日本人には、神から「日本語」という国語が与えられています。もし「日本語」が「美しい文章」の如くに、会話レベルにおいても聞く人に恵みを与えるなど、「美しい言葉」で語り合える、「生きた言葉」に変革されたら、どんなに素晴らしいことでしょうか!


 しかし私たちは、その時々の感情の状態に左右されるなどして、現実的に殆ど不可能なことです。ですから聖霊様は、私たちが「新しい言葉」を語ることにより、神の奥深い「御心」の領域を求める時に、次のように言われます。「あなたが、時々抱く様々な激しい感情や思い、そして憤りなどのレベルにではなく、常に主イエス・キリストの御心の領域に入りなさい!そして、善悪の木の実をかじっている、あなたの古い口(唇)を完全に聖くするため、今私が吐き出しましょう!そしてあなたの霊に、主イエス・キリストの善意を満たしましょう!神の善意が満ち溢れた時に、あなたは一切の悪意から完全に解放されるでしょう!」


 全ての「言葉」の鍵は、①何に接触し、②何を求めて交わる(食する)のか?そして③何を唇から出すのか?この三点から導き出されます。あなたは「何」に手を伸ばし、そして触れようとしていますか?私たちが「善悪の木」の前に立ち、その実に手を伸ばすのであれば、サタンの誘惑により「古い言葉」を次々と食し、人を裁いたり縛ったりする「言葉」、又人を傷つける「言葉」を簡単に吐き続けるでしょう。


 しかし、聖霊様は強く促します。「命の木の実のみを食しなさい!」と。即ち、イエス・キリストの「御体」や、「御心」に触れることを追い求め、イエス・キリストとの「親しい交わり」にあずかり、イエス・キリストが与える、天上の「良きもの」を食するのであれば、私たちの唇からイエス・キリストの、真実に満ちた「命の言葉」が、必ず流れ出るようになります!そして、イエス・キリストの「真実」がもたらす唇の果実(言葉の実)は、必要に応じて人を建て上げ霊的に解放し、その人の肉体的領域から霊的領域の、全てを癒す霊的な言葉へと、私たちの語る「言葉」を変革していくのです。ですから、私たちは「言葉の変革」を求めようではありませんか!


 聖霊様は、あなたの霊的な「現実の姿」を、必ず示されます。その示された状態に対して、「いいえ!結構です。私はこれからも、自分の肉の力で、自分の言葉を語りますから・・・・。あなたの助けは、私が必要とする時に与えて下さい!」などと、「善悪の木」と「命の木」の両方を、霊的に二股架けるような生き方を貫くのか、それとも聖霊様が示される、「現実の姿」を謙虚に受け止め、聖霊様の促しに従って「命の木」の前に立つのか、そのどちらかです。


 「主よ、私は言葉においても全ての面においても、もう自分の肉の力で何も為すことができません。ですから聖霊様、もっと更にあなたの力と助けが必要です。私の汚れた唇を聖めて癒して下さい!そして、私の唇が命の木の実だけを求め、私の霊・魂・肉体の全てを、主イエス・キリストの肢体として造り変えて下さい!私は、新しい人を着たいのです!神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送りたいのです!主よ、偽りを捨て、他人に対して真実を語り、必要に応じて聞く人の徳を建て上げるなど、人を生かす言葉を語ることができるよう、私の言動全てを変革して下さい!」などと祈り求める道を選択しましょう!


 そのためには、私たちの舌を制御するため、聖霊様が与えて下さった「賜物」、天からの「新しい言葉」を益々求め、そしてこの「新しい言葉」の賜物により、命の源イエス・キリストと更に親しく、奥深いレベルで交わろうではありませんか!必ず「命の言葉」が、あなたの語る言葉から流れ出ることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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