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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.18)

                    祭壇に関する第四の規定




あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。
                                                                                                     【出エジプト記20章26節】


最大の「霊的愚かさ」とは?
 第四の規定、これは祭壇に関する父なる神からの、最後の「ご命令」になりますが、この規定は、実は父なる神が、私たちの霊的愚かさの「全て」をご承知の上で、たとえ私たちが、霊的失敗を繰り返したとしても、祭壇の前に単純に進み出ること、つまりシンプルな信仰の「歩み」を為すだけでよい!という、父なる神の「寛容さ」を、如実に示しているものとして把握して下さい!


 あのスカルの女性が霊的に、激しく探し求めていた「真の礼拝(祭壇)」は、イエス・キリストという「贖いの子羊」により、私たちの「霊」の只中にも確立されているが故に、私たちはそれを無代価で受け取り、シンプルな霊的姿勢をもって、神の御前に出ることが、何より求められているのではないでしょうか!


 ところで、私たちの中にある「罪」の中で、一番愚かな霊的性質とは、一体どのようなものでしょうか?勿論「罪」の語源が、「的はずれ」という意味ですから、それは神の御元から離れて、自分勝手に歩ゆんで行くことかも知れません。しかし、実際的に私たち「人」が、自分の「意志」とは懸け離れた次元、つまりサタンの「意志」のままに為してしまう、神に対する最大の愚かさは「反逆」、つまり神の「御心」から故意に逸脱することです。それはサタンが、かつて天国において、父なる神を礼拝するために、最高の特権(地位)を与えられていた頃に、「自分も神の如くに出たい(崇められたい)!」と欲するのと同様に、私たちの「霊」の中にある、最大の「罪」の性格が、「自分も上に出たい!」と願うことから生じているのです。


 私たちは本来、神の「霊」に全てが覆われている存在です。神の聖なる「覆い」の中にある限り、アダム(本来の人)は瞬時に神の「御心」を知り、何不自由(不足)無く、安心して暮らす(生きる)ことの出来る、そのような破格の特権を、「エデンの園」にて与えられていました。ところが彼らは、サタンの巧妙な罠にかかり、サタンのもたらす「反逆の種」を、「霊」の只中に自分で蒔くという、最大の霊的失敗(罪)を犯したのです。


「階段」の意味すること
 当時のイスラエル人男性の殆どが、かつてエジプトに在住していましたのでの、代表的な巨大建造物の、建築工法から土木技術の作業プロセスを、労働者として習得していました。その中で、巨大な建造物を完成するのに、一番必要とされる基本的工法が、作業用の「昇降階段」や、巨石などの建材を運搬するための、「登り坂(路)」などを最初に設けて、例えばピラミッド用の石材を、順次積み上げていく上での「高さ」に従って、更に「階段」や「登り坂(路)」を増設していくという、独特の工法をエジプト人は考案しました。


 それ故に、イスラエルの人々も「やはり自分たちの祭壇も、大きくて立派なものの方が・・・・」などの誘惑に駆られる訳です。覚えて戴きたいことは、自分の背丈程の「祭壇」を造る限りは、単純に「土」や「石」を盛り(積み)上げるだけで済みます。ところが「祭壇」が大きくなればなる程、その上に載せる「生贄」を運ぶための昇降「階段」が、当然必要になってくるのです。


 今回の御言葉を直訳するならば、「階段が設置されているような祭壇を、決して造ってはならない!」となります。要するに、「人」の背丈を越えるような、大きな「祭壇」を造る必要は無い!と、かみは厳しく命じているのです。


 ここで、昇降階段付きの「祭壇」をイメージしてみて下さい。この場合、祭司が一歩一歩と階段を昇るに連れて、次第に「祭壇」の高さより、祭司の「頭」の方が上部になり、地面にて礼拝している民の「視線」が、「祭壇」ではなく、「人」に向けられることにならないでしょうか?


 あくまで「祭壇」とは、生贄が捧げられる「場所(フィールド)」のことであって、「祭壇」そのものが、神を崇める対象となってはなりません。しかし愚かにも「人」は、祭壇を巨大化することによって、あたかも「礼拝」という行為が、偉大な儀式として組み込まれる・・・・、そのような事態を避けるべく、あえて父なる神は厳しく、事前に警告しているのです!


 仮に、「階段」付きの祭壇を造ったとしたら、たちどころに「隠し所」があらわになる!と、神は前もって警告していますが、この御言葉を直訳すると、「あなたが階段を、一歩ずつ昇っていくことで、先ず頭部が出て、最終的には体全体が、祭壇より上に位置するので、あなた自身の全てがあらわさにされます!」となります。この御言葉は、物理的イメージで頭部から胴体部、そして最後に両足部へと、まるで物体が映し出されると、そのようにも解釈できますが、霊的にはあなたという「存在」から、あなたの「意志」や「欲」の全てが、「祭壇」よりも更に目立つものとして出現するのです。例えば「自分も〇〇先生のように、素晴らしいリバイバルの器になり、いつか必ず活躍したい(出たい)!」などの願い(祈り)。


 私たちが捧げる「賛美」や「礼拝」においても、主なる神の御子イエス・キリストという、唯一の「贖いの子羊(真の生贄)」のみを崇める!という確固たる信仰が、私たちの「霊」の中に確立されていないのであれば、私たちはすぐに「階段」を造って、もっと「自分」が上に出ることを欲する!という、霊的誘惑に駆られるのです。しかし、主なる神が私たちに望まれることは、シンプルな「土の祭壇」に、私たちの「全て」が捧げられることです。


信仰の原点に立ち返る
 この最後(第四)の規定を通して、主なる神は私たちに対して、「何」を訴え(要求し)ているのでしょうか?それは「あなたたちは私について、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。あなたは、私のために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上に捧げなさい。私の名の唱えられる全ての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福する。」(23~24節)と記されているように、私たちが基本的な礼拝姿勢に、すぐに立ち返ることです。即ち、いつでも「真の礼拝」が、あなたの「霊」の只中に、聖霊様を通して用意されている!この信仰の原点に戻りましょう!霊の次元にある、大いなる神の「ご計画」の中に、私たち自身の「私的計画」を捧げ尽くして、神の「視点」で信仰を捉え直すこと、これが私たちに課せられているのです。


 私たちは人間的業によって、神の「ご計画」を完成する必要はありません。私たちは単純に、父なる神が命じておられる、「イエス・キリストと共に生きる!」こと、この大いなる「恵み」にあずかるだけでよいのです。イエス・キリストと同様に、私たちも「祭壇」上に捧げ尽くすことが出来るよう、熱心に祈り求めて下さい。


 あなたが捧げ尽くされたもの、即ち横たえられたイサクとして、またそれが如何なる状態であっても、子羊の血潮によって聖められたものとして、父なる神が喜んで受け入れて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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