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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.19)

                        臨在の幕屋の入口




主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちの内の誰かが、家畜の献げ物を主に捧げる時は、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄を捧げる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、・・・・
                                                                                        【レビ記1章1~3節】


「臨在」の神として
 ヘブル語で「オーラ」と呼ばれる「全焼」とは、文字通り「完全に焼き尽くすこと」です。そして、この「全焼」という捧げ方によって為される、「祭儀(礼拝)」の目的は、「生贄」を完全に灰状化することではなく、最初から最後まで完全に焼かれるという、その過程から生じる「煙(香り)」そのものを、父なる神が「御眼」をもってご覧下さり、また「御鼻」をもって、香ばしく感じ取る為に他なりません。そうです!私たちの父なる神は、私たちが捧げる「全焼の生贄」から出る「香り」を、必ず受け取って下さる!という、確固たる信仰によって初めて、私たちは捧げることが出来るのです。


 ところで「臨在」とは、共に居ますという概念であり、私たちの信じる父なる神が、如何なる時にも私たちのことを、片時も見放すこと無く、受け入れて下さる信仰につながるものです。これは「子」が、「親」に対して常に抱いている、「愛の信頼(期待感)」と同種のものです。それ故イスラエル人に示された、父なる神の「掟」というものは、「罰」や「懲らしめ」を前提にして、定められたものではなく、常にイスラエルの民と、共に在りたい(住みたい)!と欲する、つまり「臨在」の神として、如何なる「場面」と「時」においても、彼らを子として取扱って下さる!という、強い「意志(親心のようなもの)」から定められているのです。


「臨在の幕屋」に住まう神
 そういう意味で、今回の「全焼の生贄」に関して、モーセを通して命じられている、父なる神の第一の命令は「無傷の雄を捧げる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行」く(2節)という、非常に分かり易いものです。ここで覚えておかなければならない重要ポイントは、「牛」や「羊」だけではなく、「山羊(家畜用)」や、家で飼っている「鳩」なども、この「全焼の生贄」のリストとして、容認されているという規定です(10節及び14節参照)。


 本来の祭儀としては、「牛」や「羊」のみが、生贄として認められていたにも関わらず、今回父なる神が何故、「山羊」や「家鳩」などの、一見見劣りするような家畜動物をも容認されたのか?それは、とても簡単な理由によるものです。ご存知のように、「子牛」一頭分の価値(値段)は、現在でも概ね50~100万円する訳ですから、当然裕福な「家庭」にしか、「生贄」として捧げられないものです。


 ですから主なる神は、彼ら(私たちも含む)のことを全てご存知の上で、「山羊」や「家鳩」という、比較的貧しい民であっても、家計に負担の少ない「生贄」をもって、この祭儀に臨むことが出来るという、父なる神の素晴らしい配慮(恵み)が、為されているのではないでしょうか!それは、ひとえに父なる神が、分け隔てすること無く「全ての民の中に臨在したい!」と願っているからに他なりません。


 そして、この「生贄(傷の無い生きた雄)」を、各々の家族が「奉納者(祭司)」の前に献上する訳ですが、実は「奉納者」は必ず、「臨在の幕屋」の入り口にて、「生贄」を受け取らなければなりません。この「臨在の幕屋」とは、主なる神がモーセに対して、聖なる覆いのフィールド(住まい)を設営するよう、直接命じられたものです。


私のために聖なる所を彼らに造らせなさい。私は彼らの中に住むであろう。
                                                                                  【出エジプト記25章8節】


 創造主であり、全能の父なる神にとって、「家(住まい)」は必要無きものですが、わざわざイスラエルの人々に対して、「ご自身」を強く現される(臨在を示す)フィールドを要求された「目的」、それは彼ら(私たち)と常に親しく交わりたい!と願う、神の本来の創造の「意志(愛)」から生じているものです。アダム(エバ)が「罪」を犯す以前の時でしたら、このような「住まい(天幕)」は必要無きものでした。何故なら、神の居ます「聖なるフィールド(大庭)」、つまり「エデンの園」に、逆に「人」が住ませて戴く恵みの中に、常にあずかっていたからです。


 エジプトを脱出したイスラエルの民にとって、一般的な「天幕(テント)」とは、遊牧民族が使用する、簡易式住居(仮設テント)だったことを覚えて下さい。私たち「キリストの家族」にとって、この「臨在の幕屋」の入口は、確かに「生贄」という、大量の「血」が流された、おどろおどろしい死のフィールドでもあるのですが、それと同時にこのフィールドは、私たちの「罪」を贖う唯一の生贄、即ち復活されたイエス・キリストが、豊かに臨在される、大いなる勝利のフィールドでもあるのです。そして、真の神を礼拝するイスラエルの民(私たちも含む)にとって、この「臨在の幕屋」とは、各自の「生活」と「人生」、そして「生き様」の中心軸となるものであったのです。


私たちを「住まい」とされる
 今回のイメージを霊的に捉えるならば、「牛」や「羊」などの、全焼用の「生贄」とは、「私たち(キリスト者)」のことを指し、「奉納者(祭司)」とは、御子イエス・キリストを指しています。私たちは、死に行く「牛(羊)」として首(頭)を垂れて、「祭壇」に進み行くのですが、それは但し「臨在の幕屋」の入口にて奉納されるという、父なる神の大いなる「恵み」に、実はあずかっていることをイメージして下さい。つまり父なる神は、イスラエルの民ばかりでなく、私たちのためにも、私たちの「人生」と「生活」の中に、また全ての「場面」の「時」において、私たちと共に居ます、即ち私たちを「住まいとされる神」なのです!


 私たちが「住まい」という概念をイメージする時、それは殆どの場合「暖かなホーム(故郷)」を描くことでしょう。そのイメージは、愛する両親や兄弟(姉妹)の「顔(表情)」に始まり、そして祖父母が共に生活を営み、自分も素直に本音で語り合える場という、麗しい(シンプルな)「交わり」の場、また互いに赦し認め合うという、自然な関わり方の中で、自分が成長してきた場・・・・など、このようなイメージが、常に臨在するものです。


 結論になりますが「入口」とは、住まいの「門扉」のようなものです。その門扉を開けるために、父なる神は祭壇に進み行く「手順」を示されました。如何に自分が罪深き、入るにはふさわしくない!と思える身であっても、先ず「ありのままの自分が出る(生きた雄牛として)!」そうすれば主なる神は、必ず「インマヌエルの神」として、私たちのことを暖かく迎え入れ、親しい交わりの場を提供して下さるのです。


 主イエス・キリストの豊かな「臨在」と、聖なる「交わり」の時が、あなたの霊的「飢え渇き」を、遥かに優った霊の次元の中で、溢れる程に力強く現されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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