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バルナバ・ボイス(No.2)

イエス・キリストの13の問いかけ−その2


           『何故、私を捜したのですか?』




さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの習慣に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についた時、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「何故こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家に居るのは当り前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことを全て心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
                                                                                           【ルカ福音書2章41〜52節】


イエスの第2の問いかけ
 12歳の少年イエス・キリストが、両親に問いかけられた、「どうして私を捜したのですか。」(49節)の御言葉は、実は今日に生きる私たちキリスト者に対しても、聖霊を通して同じように投げかけられています。聖霊様は常に、私たちの霊的状態をご存知であり、私たちのためにとりなしの働きをされているからこそ、この問いかけを為されるのです。


 「何故」という疑問詞は、何らかの理由(根拠)、又物事に対する説明(意義)などを、問う場合に使用する言葉です。私たちの人生にも、その理由(意味)付けを探るべく、例えば「どうして私の人生は、〜だろうか?」、又「どうして、私は・・・・して生きているのだろうか?」などと、様々な疑問符(?)が付きまといます。そして私たちキリスト者も、父なる神に対して様々な「問いかけ」を発している訳ですが、実は聖霊様も私たちの「霊」に対して、「何故あなたは、イエス・キリストを捜し求めているのですか?」と、私たちのイエス・キリストに対する、信仰の「理由付け」を常に問いかけておられることを、あなたはご存知でしょうか?


 あなたはイエス・キリストのことを、どのような思いをもって、又どのような目的(目標)をもって、捜し求めていらっしゃいますか?人それぞれに、様々な理由があります。しかし、聖霊様は一番大事なものを、あなたが確実に掴んで欲しく望んでおられます。しかもそれは、自分の瞳を守るのと同様に、私たちが大切に取り扱うように要求されているものです。


二種類の反応
 このストーリーの中には、とても重要なキー・ワードが記述されています。それは、12歳の少年イエスを取り囲む、律法に関する学者(権威)たちの反応と、それに相反するかのように、数日間も「我が子」を捜索し、後日やっとのことで発見した時の、マリヤ(ヨセフも含む)の反応の中に見出されます。


 「過越祭」はユダヤ人にとって、年に一度の大フェスティバルですから、外国及び全国各地から、数え切れないほど大勢のユダヤ人が、その期間エルサレムに集まって来ます。12歳の少年と言えば、小学6年ないし中学1年レベルの年齢ですが、たとえ物事の道理が分かって、様々なことを学んでいるとは言え、ナザレからエルサレムに至る「道程(地理)」などを、全て把握することは到底不可能なことです。エルサレムに上る際は、仮に途中で両親を見失っても、この期間他のユダヤ人と同じ方向に歩いて行けば、いつかは必ず都に入城し再会できます。しかし帰路は、両親と共に帰郷しなければ、絶対ナザレに戻ることは不可能です。何故なら、他のユダヤ人は帰る方向が、途中から様々に分岐することになるからです。


 ですから、イエス・キリストの両親マリヤ(ヨセフ)は、三日三晩捜索しても我が子を発見できなかった時、「私たちの息子は、奴隷商人にでも拉致され、都から遠い外国の地へと、既に売り飛ばされてしまったのでは?」などと、不安と絶望に駆られながら、悲嘆に明け暮れていたものと推測できます。すると、ある「噂」が飛び込んで来ました。それは、「ある賢い男の子が、立派な大先生方を前にして、大胆に神の国の教えを説いているらしい・・・・。」という内容のものでした。


 この時マリヤは、「あ、それはきっと、私たちのイエスだわ!」などとは決して思わず、むしろ最後の希望を頼みとして、その不思議な男の子の居る場所へと、疲れ切った足を振り絞って、神殿に向かって行ったことでしょう。そして遂に、イエス・キリストを発見することになる訳ですが、この時の両親の「驚き」は、如何なるものであったのか?そして知恵に秀でた不思議な少年の「教え」に、耳を傾けていた学者たちの「驚き」は、両親のものと比較して、如何なるものであったのか?これは非常に私たちが「知る」べき、重要かつ対照的な二種類の反応です。マリヤは母親として、遂に「我が子」を見出した嬉しさもあるのですが、まさか自分たちの長子(息子)が、エルサレムの中心に居ようとは、想像だにしていなかったからこそ、「驚き」が自然に顔に現れ出ました。


 実はこの二種類の、つまりイエス・キリストの「教え」に対する学者たちの「驚き」と、両親がイエス・キリストを見出した時の「驚き」は、私たちに対して重要な奥義を示しています。先ず学者たちの「驚き」は、たとえイエス・キリストが、少年レベルの年齢であっても、大人以上に鋭敏な洞察力を持ち、神の国の律法に関して、ずば抜けた理解力と知恵を持ち合わせていることに、彼らは教える側であることを忘れるほど気付かされ、何よりも驚いて止まなかったことは、彼らが求めて止まなかった「天上の知恵(啓示)」を、次から次へと教え紐解いたことです。


 ですから彼らは、当初この不思議な少年と知恵を競い合うなど、ある種の「試し心」もあった訳ですが、少年イエス・キリストが語られる、余りにも美しい「天の調べ(命の言葉)」を聞いている内に、彼らの「霊」の只中に、麗しい甘味のある神の言葉(律法)が漂い始め、彼らはこの少年との「親しい交わり」に、豊かな霊的恵みを覚え、イエス・キリストの語る言葉一つ一つに対して、思わず「驚いた(amaze)」のです。つまり彼らは、イエス・キリストの持っておられる「命の言葉」が、彼らの教え説く「言葉」と違って、非常に素晴らしい「天」の恵みに満ちていることを、最終的に「畏敬の念」をもって、聞き惚れていったものと思われます。


 それとは対照的に、マリヤ(ヨセフ)の「驚き」を探る手がかりは、「少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。」(43節)と記述されている通り、彼らは「我が子」をナザレに連れて帰るという「目的」をもって、必死に捜索していた事実に見られます。つまり、彼らにとってイエス・キリストは、大事な長子(息子)であり、イエス・キリストが一体「何者」であるかなど、全く知りもしないし、当然イエス・キリストが将来、どのような生き方をするのか、全く予想もしていなかったからです。彼らは、イエス・キリストの求めるものとは、逆(別)の「目的」をもって、イエス・キリストを捜索していたのです。


 イエス・キリストを中心とする、「親しい交わり」にあずかることを求める者は、イエス・キリストの麗しい「美」を戴くことで、昨日(過去)の「驚き」とは違った、今日の「驚き」を得ることができ、常に毎日(瞬間)が「驚き(amaze)」の連続です。ですから良い意味で、イエス・キリストとの「親しい交わり」に明け暮れ(fallin love)、より激しい飢え渇きをもって、この時の学者たち同様に、時の経つのを忘れるほど、次から次へとイエス・キリストの語る言葉に、驚くばかりの恵みを見出していくのです。余談になりますが、学者たちの質問攻めに逢う、この時の少年イエス・キリストのストーリーは、若き日の知恵者「聖徳太子」伝説の、逸話となる口頭伝承の一つではないかと推測します。


 イエス・キリストは、ご自分を純粋に捜し求めて来る者に対して、喜んで「ご自身」を現して下さり、天上から麗しい「恵み」を降り注いで下さいます。私たちが常に覚えるべきことは、私たちが何を「目標」として、又何の「目的」をもって、イエス・キリストを捜し求めて生きているのか?ということであり、これは聖霊様が為される、重要な霊的問いかけです。バルナバ・ボイス(No.1)で紹介していますように、弟子たちはイエス・キリストが「何処」に留まっておられるのか、又いつも「何処」におられるのか?そのことだけを尋ね求めて、「主よ、あなたは何処にいらっしゃるのですか?私たちにも教えて下さい!」と告白し、師イエス・キリストに付き従って行きました。この時の学者たちも、弟子たちと同様の「目的」をもって、イエス・キリストを捜し求めました。しかしヨセフとマリヤは、世の人々が気に病むものと同様の「目的」をもって、我が子を捜し求めた姿だったのです。
 
何を最優先に求めるのか?
 聖霊様は私たちに対して、ある問いかけを為されています。「何故あなたは、私を捜していますか?」と。この問いかけは、マリヤ(ヨセフ)が心配の余り、少年イエス・キリストに対して叱るように尋ねた際に、逆にイエス・キリストが返答(質問)された、「命の言葉」と同様のものです。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家に居るのは当り前だということを、知らなかったのですか。」(49節)の御言葉は、私たちの三次元的判断で解釈する限り、何となく少年イエス・キリストが、両親に対して皮肉混じりに、語っているかのように錯覚する言葉です。


 しかし、そうではありません!この御言葉を、言語通り忠実に訳しますと、「何故あなた方は、私を捜す必要があったのですか?私がいつも、父の家に留まることが当然であることを、あなた方は知らなかったのですか?」となります。少年イエス・キリストが語られた、この御言葉の中には、既に「神の子」としての霊的感性が、豊かに油注がれていることが伺えます。このイエス・キリストの質問は、逆説的な仮定法の文言とも言えます。つまり、「私が常に、父なる神の家に留まることを、最優先に求めて生きていることを、あなた方は気付かなかったのですか?もしあなた方が、そのことを知っていたのであれば、私を捜す必要も無かったのではないでしょうか!」というニュアンスも含んだ、願望的な問いかけになりますので、決して皮肉的な文言ではないことが分かります。


 イエス・キリストが「何処」に留まり、「何」を最優先に求めて生きているのか?又イエス・キリストが、如何なる「目的」をもって、世に産まれて来たのか?このことを私たちは、果して正確に把握しているでしょうか?この時父親のヨセフは、少年イエス・キリストの返答に対して、余り印象深いものが残りませんでしたが、母親のマリヤだけは、霊的にあるインスピレーション(啓示)を与えられました。聖霊様は私たちに対しても、「イエス・キリストは、いつも何を捜し求めて、父の家に留まることを最優先として生きたのか?このことを、あなた方も常に覚えておくべきです!」と、更に問いかけています。


 イエス・キリストは、何故父なる神の家に留まることを、何よりも優先的に求めたのでしょうか?それは「息子(イエス・キリスト)」にとって、「父」の居ます所が最高の場であり、その場に麗しい「父」の臨在があり、自分の人生に明確な意味付けを与えて下さる、霊的フィールドだったからです。父なる神が御子イエス・キリストを、「この世」に遣わす時の心境は、如何なるものだったのでしょうか?それは、最初から「十字架」刑に処することが定まっている、言わば「死」を前提とする「悲しみ」であったものと思われます。しかし御子を「この世」に遣わし、「贖いの生贄」として処することが、愛する私たち「人」の救いを完成させる、一つの大いなる喜びにつながることを、「父」も「御子」と共に分かち合っていましたから、いよいよ御子を遣わす時になって、父なる神は聖霊に対して、「私の息子を、宜しく頼んだよ!たとえ離れていても、私はいつも愛する息子と共にあり、息子との親しい交わりを、何よりも私自身が求めていることを、息子に啓示して欲しい!」などと命じられたことでしょう。


 それ故、イエス・キリストは常に、幼少の頃から聖霊様を通して、ある語りかけを受け取って過ごしました。「イエスよ、あなたの生きる目的は唯一つです。先ず父の御心を知り、それから父の御心を完成しなさい!そのためには、何よりも父の居ます所に行き、父の御心を捜し求めて、あなたが為すべきことを、父に尋ね求めるのです。そうすれば、必ず正しい答えが見つかります。さー、父の御元に行くのです。」と。聖霊様は私たちに対しても、私たちが捜し求めて止まない場が、一体何処にあるのか、又そこにおいて「何」を為すべきかという、本当の生きる「目標」を明示して下さいます。仮に私たちが、聖霊様の語りかけを無視して、自分の好きな「場」や「目標」を求めて生きるとしたら、その時はサタンが小躍りして、喜びはしゃぐことでしょう。
 
最高の霊的宝物
 一連の出来事の後、母マリヤはイエス・キリストの問いかけを通して、如何なるインスピレーションを与えられたのでしょうか?マリヤは当初、愛する息子イエスの語る、見当違いの返答に呆れ果て、恐らく困惑したことでしょう。しかしイエス・キリストが、神の「御霊(聖霊)」によって、処女の胎内に宿った時から、いずれ私たちの「息子」が、父なる神の「召し」にあずかって成長していくことを、彼女は薄々感じ取っていましたから、この時に少年イエスが語られた「言葉」を、自分の「心」に大切に納めました。


 この福音書の著者ルカは、恐らく年老いた頃のマリヤが語る、幼年期から少年期にかけての、イエス・キリストの「生き様(ストーリー)」の内容を、正確に記述したものと思われます。何故ルカだけが、他の共観福音書の著者と比較して、少年期のイエス伝を記述したのか定かではありませんが、恐らく年老いた母マリヤは、イエス・キリストに関する「大事な(特別の)話」を、ルカにだけ次のように語ったのではないでしょうか。「ルカ先生(医者としての呼称)、確かに私はあの時、息子の言葉にびっくりしました。しかし非常に貴い大切なもの、つまり私の人生にとって最高の贈物を、自分の霊の中に受け取りました。それはまるで、心の宝箱の中に大切に保管すべき、宝石の中でも最高のものを戴いた気分です。」と。


 「心に納める」とは、英語で「treasure」と言い、「宝物以上に大切なものとして取り扱う(保管する)」という意味です。聖霊様は、あなたに問いかけています。「あなたは今まで、イエス・キリストとの交わりを通して、命の言葉を豊かに戴きましたね!それをあなたは、自分の命以上に大切な、貴い宝物として心の中に保管していますか?」と。仮に私たちが、自分の「心の宝箱」の中に保管する、全てのものを披露してみますと、その殆どが「私の人生」、「私の目標」、「私の願い」、「私の誇り(名誉)」、「私の所有物」に対する優越感など、三次元的な「古き言葉」が詰まっていることでしょう。しかし私たちが、一番大事に保管すべき言葉は只一つ、イエス・キリストとの「親しい交わり」から得られる、「命の言葉」に他なりません!イエス・キリストの「命の言葉」を、自分の命以上に優る最高の宝物として、「霊」の中に保管することができたら、三次元的概念に支配され易い私たちの「霊」は、どれほど麗しい「至聖所」へと造り変えられることでしょう!


 その後の母マリヤの信仰に見習って、私たちもイエス・キリストの居ます所は、常に「父の家」であったこと、そしてイエス・キリストは、常に父なる神の「御心」を最優先に求めて生きていたことを、今一度聖霊様を通して啓示して戴きましょう。そして、イエス・キリストの「命の言葉」を、いつも捜し求めて前進しましょう!そうする時に聖霊様は、「更に、イエス・キリストの御元に行きなさい!三次元的なこの世の言葉から離れて、イエス・キリストの命の言葉だけを捜し求めなさい!父なる神の御心を求めて、イエス・キリストと親しく交わりなさい!そうすれば、あなたの思い煩いや心配(不安)性、又過去を振り返って否定的な観念に捕われるなど、あなたにまとわり付く全ての古き言葉が、イエス・キリストの十字架の血潮によって洗い聖められ、イエス・キリストにある、新しい豊かな人生が、父なる神の御心通りに設計されていることを、明確な啓示として受け取るでしょう。」と励まして下さいます。


 さー、私たちも「父の家」に参り、学者たちと同様イエス・キリストを中心とする、「親しい交わり」にあずかりましょう!あなたの本当の人生の「設計図」が、聖霊を通して豊かに啓示されることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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