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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.1)


イエス・キリストの13の問いかけ−その1


             『何を捜し求めていますか?』



 聖霊様は私たちに対して、常に「御霊のワイン」を用意して下さいます。この「御霊のワイン」は、私たちが常に求める時、必ず尽きることのない永遠の命イエス・キリストに至るものであり、スカルの女性が求めて止まなかったものと同じものです。彼女は、命の源イエス・キリストと出会うことで、遂に念願の「命の水」を得、最終的には「御霊のワイン」に、あずかることができました。それと同様に、聖霊様は私たちに対して、「命の源イエス・キリストの御元に行きなさい!そして、イエス・キリストから命の水を戴き、イエス・キリストを通して与えられる、御霊のワインを常に汲み上げなさい!」と命じられていることを、あなたはご存知でしょうか?


 しかし私たちの内側で、自分の求める(欲している)ものが、いったい「何」であるのかを、自分の「霊」の中において、明確に確立していなければ、それは暗闇の中にあって、見えざる「何か」を手探り状態で掴む光景(様)と何ら変わりません。イエス・キリストが「これだ!」というもの、聖霊様が「あなたが求めるべきものは、これだけです!それは、あなたの人生において、本当に必要なものであり、私が用意するワインです。」という促しに、私たちがその「御霊のワイン」を、明確に捜し求めないのであれば、私たちはもしかしたら、「得体の知れないもの」を飲んでいる(掴んでいる)のかも知れません。




イエスは振り返り、彼ら(元ヨハネの弟子二人)が従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らは付いて行って、どこにイエスが泊まっておられるのかを見た。
                                                                                               【ヨハネ福音書1章38~39節】

イエスの第1の問いかけ
  聖霊様はこの記事から、私たちに対して第一の質問を投げかけておられます。「あなたは、何を捜し求めていますか?」と。私たちは確かに、この記事に出て来る弟子と同様に、イエス・キリストを「救い主」として信じ、イエス・キリストに付いて行く決心をしました。しかしイエス・キリストは、この時の弟子たちに質問されたのと同様に、「あなたは、いったい何を求めて、私に付いて来るのですか?」と、私たちに問い質しておられます。


 この御言葉の英訳を直訳しますと、「あなたは何を捜して、うろうろ歩き廻っているのですか?」という意味になります。この第一の質問から、イエス・キリストは弟子たちが自分に付き従って来るのですが、彼らが「何か別のもの」を求めて歩き廻っていることを、事前に知っていたことが分かります。そこでイエス・キリストは、すかさずこの第一の質問をもって、彼らに問い質した訳です。


 イエス・キリストの質問に対して、彼らは「先生、実はあなたがおっしゃる通り、私たちはあるものを求めています。それは、あなたが何処に泊まっておいでになるのか、そこを捜し求めているのです!」と、明確に答えました。実は弟子たちのこの応答は、私たちも常に「霊的備え」として、用意しておくべき重要な言葉です。前述した如くに、聖霊様は私たちに対して、「あなたは、いったい何に飢え渇いていますか?何を求めて、信仰生活を送っているのですか?」という、非常に重要な霊的問いかけを、常に投げかけています。


 この「捜し求める」という行為(行動)は、父なる神が私たちに対して与えて下さっている、非常に優れた「霊的タラント(特性)」の一つです。最初の人アダム(エバ)は、父なる神の「ご命令(御心)」一つ一つに対して、真心から従順しながら「捜し求めて」歩くということを、聖なる行為(行動)として、神に表明していましたから、父なる神も彼らの「求め(飢え渇き)」に、必ず応答して下さいました。但し、例外が一つありました。それは、「善悪を知る木の実」でした。この実に関してだけは、「人」は決して近づいても触れてもならず、彼らが求める対象ではないことを、父なる神は彼らに対して命じられました。


 しかしご存知のように、彼らは愚かにもサタンの「誘惑の言葉」により、この実を求めて遂に食したのです。その結果、私たちが本来求めるべきもの、つまり「天上にある、麗しい命の木(イエス・キリスト)」の実だけを求めるという、「聖なる機能(特性)」が奪われ、「この世」にある「善」と「悪」を欲する、「悪しき求め(欲望)」が生じて来たのです。それ故、私たちは「この世」のものが、あたかも神が与えるもの以上に美しく見えて、ついそれを欲しくてたまらなくなる等、悪しき衝動に駆られるようになりました。このように、「人」は罪の結果、父なる神の御元に直ぐ駆け寄り、御子イエス・キリストだけを求めるという、聖なる霊的特性を失い、「この世」にある別のものを、一生懸命に「捜し求める」という、愚かな特性を持つに至ったのです。


二つのキーワード
 では、私たちが本来求めるべきものを得、そして「何」を捜し求めて生きてゆくべきか?このことに対する二つのキーワードを、この記事の中から聖霊様に示して戴きましょう。


 先ず第一のキーワードは、「泊まる(Live)」という言葉です。この言葉は、弟子たちがイエス・キリストに対して、明確に応答した言葉の中に見られます。「Live」とは、通常「住む」という意味ですが、他意として「しばらくの間、(ある所に)留まって過ごす」という概念も含む言葉です。それ故、彼らが師に対して語った言葉は、「主よ、あなたは何処に留まっていらっしゃるのですか?」となります。この問いかけは、決して「宿泊先」の所在地を尋ねている言葉ではありません。彼らの本音としては、「私たちも、あなたの留まっておられる、その場に行きたいのです!」というニュアンスを含んでいます。


 それに対してイエス・キリストは、すぐに返答されました。「Come and see(付いて来たら、分かるでしょう!)」つまりこの返答は、「私に付いて来なさい!」と、逆に誘いかける命令を、イエス・キリストは弟子たちに投げかけている言葉です。聖霊様も、「この世」の様々なものを捜し求め歩く、私たちに対して命じられます。「イエス・キリストの御元に来なさい!そうすれば、あなたの捜し求めるものが、必ず見つかります!」と。


 ところでイエス・キリストは、いつも何処に「Live」されているのでしょうか?それは、少年イエス・キリストが、「わたしが自分の父の家にいるのは当り前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ福音書2章49節)と語られたように、「父なる神」の居ます所です。ではあなたは、何処に「Live」することを、真剣に欲しているでしょうか?又、何処に「Live」することを目標として、捜し歩いていますか?大抵のキリスト者は、「勿論、私はイエス・キリストを信じた訳ですから、イエス様に付いて行きますよ。でも、私の人生の確立すべき所は、もっと偉大で、麗しい力ある働き(仕事)をすることです。それ故、この世の人々からも称賛され、神の栄光を現す器になるために、主よ、私の願う人生を確立して下さい!今の状態ではなく、もっと百八十度変わった、最高の人生を用意して下さい!」などと、祈り願い求めています。


 仮に私たちが、思いも寄らない突然の不幸(苦難)の状態に陥った時には、最初の「聖なる求め」から離れて、「もう結構です!私は別の助けを求めて、(自分の力で)何とかします!」などと考えます。しかし覚えて下さい!イエス・キリストは常に、「(私の元に)来なさい!そうすれば分かるでしょう」と、今も尚聖霊を通して、投げかけておられます。このイエス・キリストの、偽らざる「愛の言葉」を、私たちも「命の言葉」として受け留めるべきです!そして、イエス・キリストが「泊まる(Live)」所に、私たちも直ちに馳せ参じるべきです。


 私たちは、単純にこの御言葉を信じて、イエス・キリストの御元に行きたいところですが、私たちの「肉の力」では、「その場」を見出すことができません。私たちが様々な状況に置かれる中で、私たちが進むべき、イエス・キリストに至る「真理の道」を、明確に示して下さる方は、聖霊様以外にあり得ません。ですから私たちは、聖霊様に対して素直に、「イエス・キリストの居ます所に、私も行きたいのです!どうぞ聖霊様、教えて下さい!」と、聖なる飢え渇きの表明を、真心から表そうではありませんか。


 弟子たちはイエス・キリストの「ご命令」に、素直に「分かりました!」と応答し、付き従って行きました。彼らは只、単純にイエス・キリストの居ます所に、自分も「泊まる(Live)」決意をしました。実はこの決意こそが、私たちの「信仰の回復」につながる、欠くべからざる重要な行動です。「イエス・キリストの居ます所」、そして「イエス・キリストの行かれる所」に、何処までも付いて行くこと、これが最優先に為すべき、私たちの信仰の行動です。


 イエス・キリストの居ます場、それは父なる神との「親しい交わり」の場、即ち「至聖所」に他なりません。そこに私たちも行くよう、常に聖霊様は私たちを導いて下さいます。あなたは今まで、「何処に行けば、私の人生の本当の意味(意義)があるのだろうか?」などと、試行錯誤しながら歩いてきたことでしょう。しかし、聖霊様は只一つの命令をもって、あなたに語りかけます。「イエスの御元に来なさい!そうすれば、あなたの人生において為すべき、正しい答え(真理)が見出されるでしょう。」と。


 私の「証し」になりますが、20代中半頃の過去の私は、「肉の力」を頼みとして生きる、そんな霊的傲慢な性格を持つ人物でした。ところが聖霊様は、このように霊的に頑なな私を取扱うべく、一つの「棘(とげ)」を与えて下さいました。「椎間板ヘルニア」という、予想もしない病を患った時、私は「肉の力」で腰を支えることができなくなり、両足でまともに立てなくなりました。私はその時から、文字通り「肉の力」で、何も為すことのできない、「弱い体」に仕立てられました。現に二十年を経た今でも、完全に癒されている訳ではありませんが、逆にこの霊的取扱いを通して、私は「信仰の回復」につながる、霊的きっかけ(Chance)を得ました。


 父なる神は、様々な出来事をもって「信仰の回復」を与えるべく、一人一人を導かれています。私たちは「その時」、父なる神の取扱いに対して、「真の意味」を悟ることができませんが、正しく自分の過去を振り返って考えてみますと、確かに父なる神は、自分が「苦しみ」にある時、必ず聖霊様を遣わして下さり、自分自身が悪しき方向に傾くことが無きよう、「正しい道」へと導いて下さり、そしてそのことを通して「今の自分」があり、今後将来に渡って、私の「肉なる願い」としては、完全に癒されることを欲しているのですが、自分が決して再び愚かな「肉の選択」をするなど、霊的傲慢に陥らないよう、今も尚この「棘」が働く時に、「あなたの恵み無くして、私は立つこともできません!」と思わされています。


見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
                                                                                                                 【黙示録3章20節】


  第二のキーワードは、「聞く(Listen)」という言葉です。日本語訳で「見よ」と訳している部分は、実は英訳では「Listen!(聞きなさい)」という、全く別のニュアンスを持つ言葉です。では、「何」を聞くべきでしょうか?それはイエス・キリストが、あなたの「霊の戸口」に立って、ノックする音のことです。私たちはこの点について、霊的に注意していません。イエス・キリストは、「私が泊まる(Live)所が、父の栄光を現す場である故、私もあなたの霊の中に泊まりたい!だから門扉を、開けてもらえないだろうか?私は常に、あなたの霊の宮を訪れたい!」という強い願いをもって、ノックして下さっています。


 私たちのことを、「瞳」を守るように大切に取扱い、心から愛して下さる方は、私たちの「霊」の中央に共に座し、私たちと同じ状態になって、私たちの全てを覆い尽くしたい!と欲しておられます。それはあたかも、花婿が愛する花嫁の元を、彼女がどんなに苦しい状態にあっても、すぐに遠方から駆けつけて(訪れて)下さり、彼女を力強い御腕をもって抱擁する姿と同じものです。ですから、私たちが自分の「霊の戸口」を開けた「その時」から、イエス・キリストは私たちの「霊」を完全に覆って(抱擁して)下さり、共に「親しい交わり」を為す中で、私たちに「真の麗しい人生」を与えるべく、私たちを様々に取扱って下さることを覚えて下さい!


 あなたは、「何」を捜し求めて生きていますか?アダムとエバは、確かに「罪」を犯し、「園」から追放されました。しかし彼らは、決して自分たちが「孤児」として、神から永久追放処分を受けた身ではないことを「知って」いました。何故なら、彼らは「園」を追われる直前に、父なる神から直々に「聖なる衣」を着せられ、常にこの衣を肌身離さず着続けたからです。この「聖なる衣」こそが、父なる神の「愛のしるし」でした。父なる神が私たちに対しても、与えて下さっている「聖なる衣」の原型は、ここに示されています。それは、彼らが「この世」を放浪する中においても、「私は、常にあなた方と共にいる!あなた方を見放すことも見捨てることもなく、常にそして永久に、あなた方を愛する!」という、表明の「しるし」だったからです。


 如何に私たちの人生に、思いがけない「不遇(不作)の時」が迫って来ても、イエス・キリストは私たちの「霊の戸口」に泊まって下さり、常に優しき御声をもって語りかけて下さっていることを、私たちは「賢い乙女」の如くに、聞く備えをすべきです。もし私たちが大嵐の中で、荒れ狂う大波が押し寄せて来た時に、余りの「死の恐怖」におじ惑った弟子の如くに、イエス・キリストが泊まって下さっている「その場」から離れ、「この世」の方法などを捜し求めるとしたら、その瞬間に私たちは、大波に呑み込まれることになります。


 イエス・キリストの居ます所に、私たちも泊まりましょう!そしてイエス・キリストの御元に、いつも参りましょう!イエス・キリストは、常にあなたの「霊の戸口」にで、ノックして下さっています。「愛する花嫁よ、私は常にあなたと共に居たい!そしてあなたと共に食事をし、共にあなたの人生を確立しよう!」と。


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