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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.2)


           第1章 古いものから新しいものへ




   私たちは聖霊様が与えて下さっている、新しい「霊の言葉」即ち「異言」について、もっと深い次元で探り極めていく必要があります。そして、神から与えられたこの「異言」を更に用いることで、神との「親しい交わり」がより深められ、又この地に神の国の栄光が、より鮮明に輝き出ますように。又、父なる神が用意しているキリストの花嫁(エクレシア)が、花婿なるイエス・キリストが来られた時に、本当にふさわしい新しい霊的エクレシアとして、「新しい皮袋」を用意し「新しい酒」にも満ち溢れますように。そして、私たちの唇から新しい「神の国の言葉」が、永遠の命に至る「生ける水」となって、絶え間なく溢れ流れ出ることができるよう、常に祈り求めて下さい。


 「新しい言葉」というテーマを考察する時に、私たちは言語学的に見て、「言葉」が不思議な魅力を伴って働き始めること、又「言葉」が時代毎に歴史を変え、社会を変革しながら支配してきたという事実を、何よりも知らなければなりません。言葉の持つ「力」は、先ず父なる神が天地創造を為さる過程において現されました。この時「無」から「有」を産み出した「力」の源が、実は「言葉(ロゴス)」にあったことに注目して下さい。言葉の中に神は「霊(息吹)」を吹き込まれ、「光の言葉」として「出よ!」と語られた時に、まさしく虚無(無秩序)の中に、生命(神の秩序)が誕生しました。神がたった一言「光よ、出よ!」と言葉を発せられた時から、神の歴史(His story→History)がスタートした訳です。


「初めにことばがあった。ことばは神であった。このことばは、初めに神と共にあった。」
                                                                                                     【ヨハネ福音書1章1節】


 この御言葉の持つ大いなる契約は、実は「後の雨」に伴う聖霊の大収穫に至った時にも、「新しい言葉」が伴っていなければならないことを訴えています。即ち、私たちが神と共に生きる時、「私たちが生まれる時にも死ぬ時にも、また生きている時にも、言葉が常に共にあった。そしてその言葉は私たちの中に宿り、その言葉の中に神が共におられた。」という証しがなされていくべきです。


 例えば私たち日本人には、「日本語」という伝統的な国語があり、この言語をもって人々に福音を宣べ伝えていく訳ですが、使徒行伝時代と同じリバイバルが起きることを、私たちが信じるのであれば、神は必ず「新しい言葉」を創造し、用意されることをも信じる必要があります。父なる神が「無」から「有」を創造し、ご自身が存在しておられることを証明されたように、神の国から「新しい言葉」が用意され与えられる時に、私たちは何を証明しなければならないのでしょうか?それは、父なる神と御子イエス・キリスト、そして聖霊様が私と共にいて下さること、そして私の生涯全般を支配し、私の歴史(一生)を神の祝福に満ちた、新しいものとして準備して下さることを証明していくことです。そうすれば「新しい言葉」が霊的な力に満ち溢れ、何よりも神との「親しい交わり」の言葉として、必ず「生きた言葉」になっていきます。


 ところで、今日の日本に生活しながら、私たちにひしひしと迫り来る、言葉のイメージが浮かび上がって来ます。それは「混沌」や「暗闇」などの言葉です。「混沌」とは、何が定まっていくのか分からない状況、安定ではなく不安と無秩序が入り混じった状態のことです。又、明るい兆し(光)も遠のき、段々と暗雲が立ち込めて、今にも夕闇から「暗闇」に差しかかるような社会不安が支配し、希望の光無き、まさに崩壊寸前の社会構造が、今の日本の現実の姿ではないでしょうか!


 社会全体が「暗闇」に包まれ、崩壊寸前の最中にある私たちは、小さな幼子から老若男女に至るまで、各世代が一生懸命に生きております。その中で、十数年程前に流行していた、若い世代が好きな「言葉」として使用した言葉があります。特に当時の20代前半の若者たち(学生も含む)が好んで使用した言葉で、「リボリューション(Revolution)」という英語です。直訳すると「革命」という意味ですが、彼らはこの言葉を、革命的イメージとして捉えるのではなく、「使命」という概念で把握しています。つまり彼らにとってこの言葉は、「変革(革命)」する使命を持つことで一種の連帯感を保ち、その使命に人生の意義を見出そうとしていたのかも知れません。


 
恐れに支配された霊
「その後、十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を浮ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んで決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』


                                                                                                        【マルコ16章14〜18節】


「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。・・・・・・・・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」


                                                                                                        【ヨハネ20章19〜22節】


 この二箇所の御言葉から先ず分かることは、十一人の弟子たちは、突然彼らの前に現れた方が、誰であるか分かりませんでしたが、全員復活されたイエス・キリストを、自分の肉眼で「見た」という事実です。復活されたイエス・キリストを見た弟子たちは、この時どのような霊的状態にあったのでしょうか?即ち、彼らの霊的フィールドを支配していたものは、何であったのかを知る必要があります。


 ヨハネは明確に記述しています。彼らは「ユダヤ人を恐れ」ていた、即ち彼らの霊的フィールドには、「恐れ」という暗闇と混沌が支配していたのです。もしかしたら十一人の弟子たち全員が、仲間から裏切り者(ユダ)が出た訳ですから、他のユダヤ人たちにだけでなく、仲間から再び裏切り者が出て、隠れ家(アジト)を暴露するかもしれないなど、疑心(恐れの一つ)があったものと推測できます。つまり、自分以外の誰をも仲間として信じることができない、「不信」に満ちていたのです。マルコはその時の状況を、「その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。」と記述しています。


 彼らはイエス・キリストが現れて下さり、十字架上で処刑される以前の時と同様に、「平安があなた方と共にありますように」と、何度もお言葉をかけられたにも関わらず、全員「恐れ」一色の顔つきであり、又「この人は、いったい誰なのだろう?」という「不信」の目つきでした。ある者は「もしかしたら、密告者を通じてやって来たスパイではなかろうか?」、「私たちの隠れ家を知っているこやつは、いったい何者なんだ!」と思ったことでしょう。


 ですから、彼らの「不信仰」と「かたくなな心」に対して、イエス・キリストは咎められたのです。彼らは何故「不信仰」に陥ったのでしょうか?例えば私たちも、頼って(依存して)いたものが、大黒柱が崩れ落ちるが如くに無くなった時に、この「不信仰」に陥る可能性があります。彼らはいったい、イエス・キリストに対して何を拠り所として生き、又何を期待していたのでしょうか?彼らは同胞である「ユダヤ人」を恐れていたという事実から、何をイエス・キリストに対して期待していたか?それが見えて来ます。


 彼らはイエス・キリストに対して、「人間的」な期待を寄せていました。イエス・キリストが十字架上で死んだ時から、集団の中心的役割を担っていた大黒柱を失ったことで、仲間意識(フェロシップ)がもろくも崩れました。そして、イエス・キリストと過ごした約三年の共同生活の中で語られた、イエス・キリストの一つ一つ言葉が、この時には何一つ彼らから無くなっていたのです。


 つまり彼らの霊的フィールドには、イエス・キリストが三年にわたって、「神の国」の福音(種)を蒔き続けたにも関わらず、何一つ成長してはおらず、イエス・キリストが語られる言葉を、彼らは父なる神ご自身が語られる言葉として受け留めていませんでした。神の国の「言葉」が、彼らの「霊」の中で生きた言葉になっておらず、彼らはイエス・キリストの言葉を、神が語られる「言葉」としてではなく、自分たちの肉の次元(考え)で分析し、自分の「言葉」に擦り換えていたのです。彼らはペテロを初めとして自分の「言葉」、例えばビジョン(野心・出世)にしか関心がありませんでした。


 ところで前述した若い世代が、「リボリューション」という言葉を好んで使っていたのに対し、バブル崩壊以前の日本経済の高度成長を支え、活躍していた当時の若い世代・中堅層が好んで用いていた言葉が、実は「ビジョン」や「ホープ」、「ドリーム」などです。「夢」と「幻」を描ける時代は、さほど「苦しい時代」ではありません。殆どの人が、生活レベルにおいて中流意識を持ち、その意識に立ちながらもっと上のビジョンを描けば、更に生活レベルが上がっていくなどの概念で生きられる、ある面「楽な時代」と言えましょう。しかし「リボリューション」という言葉は、どん底の生活環境の中で、社会が引っくり返されない限り、これ以上生きることができないという、「苦しみの時代」から生まれる概念です。


 イスカリオテのユダが期待したもの、それは「リボリューション(革命)」だったのかも知れません。ローマ帝国の圧政を排除し、イスラエル王国の再建に立ち上がるため、人間的に期待した人物(将来の主君)がイエス・キリストであり、彼らはその王国における重要政権ポスト(大臣職)に就くことを念願していたのです。ですから彼らの思考概念には、常に人間中心的な「言葉」が支配していました。


 私たちの「霊」は、私たちの「肉の心」から生まれる、三次元の「言葉」によって生きることができないことを知って下さい!イエス・キリストは、「人は、この世から受けるパン(肉の生み出すもの)によって生きるのではなく、神の国から与えられる命のパン(イエス・キリストご自身)によってのみ生きることができる。」と語られています。この御言葉は、神の国からもたらされる「命の言葉」をもって、この世に対して切り開いて行くという、言わば「世の君」サタンに対する霊的挑戦状です。


 イエス・キリストが語られたこの言葉は、人間中心主義(エゴイズム)に満ちた「古い言葉」による支配ではなく、神の国から与えられる命のパン、即ち永遠の命に至る神の国の「命の言葉」によって、必ず「この世」を変革していくこと、しかもご自分が十字架上で「はん祭」として捧げられることによって、失われた羊を再び奪い返していくという、霊的宣戦布告を意味します。


 アダムとエバは、サタン(蛇)の「言葉」に騙されました。サタンの言葉こそ、「エゴイズム」に他なりません。それに対して、「エデンの園」を支配していた中心的言葉は神の国の「命の言葉」、即ち「神との愛の交わり」でした。神の「御心」をいつでもキャッチできる程、彼らは常に「霊の言葉」で交わっていました。しかし今日の私たちが、ストレートに神と交わることができない、つまり神との「親しい交わり」を阻害するもの、つまり「自己中心」という罪があるからです。そして、私たちが不信仰に陥るそもそもの原因が、この「自己中心」という罪にあるのです。


 神の国の「命の言葉」が、私たちの「霊」の只中に蒔かれ成長して実を結ぶ時、「信仰」と「希望」と「愛」が豊かに育まれ、確信と希望に満ちた言葉へと造り変えられていきます。しかしアダムとエバは、永遠の命に至る神の国の「命の言葉」が与えられていたにも関わらず、サタンの策略によって見事に失いました。この時から「人」は不信仰が生じ、更に恐れによって「霊」が支配されることになったのです。



かたくなな霊
 更にイエス・キリストは、弟子たちの「かたくなな心」を咎められました。彼らは、イエス・キリストが突然現れる以前から、復活の証言を聞いていたのですが、殆どの者が、依然としてその証言に猜疑心を持ち、かたくなに心を閉ざしていたのです。特に証言者のメインが女性たちだったこともあり、誰一人としてイエス・キリストが復活され、「親しい交わり」を再開されたということが信じられませんでした。そしてまさに今、イエス・キリストが肉眼で見ることのできる、至近距離に現れ語られているにも関わらず、イエス・キリストがご自身をお示しにならない限り、誰であるか分らなかったのです。


 ところで、復活されたイエス・キリストが、最初にご自分の「新しい言葉」をもって語りかけた人物は、マグダラヤのマリヤという「一女性」でした。復活されたイエス・キリストの、唇からほとばしり出る「神の国」の生ける水、即ち永遠の命に至る「新しい言葉」を受け留めることができたのは、弟子たちの大半を占める「男性」ではなく、「女性」だったのです。


 そしてイエス・キリストは、弟子たちとの交わりを再開する際に、「平安があなた方と共にありますように!」と、「新しい言葉」をもって何度も語りかけて下さいました。しかし弟子たちは未だに気付きません。イエス・キリストがパンとぶどう酒を配られた時に、ようやく「先生」だと悟ることができたのです。イエス・キリストご自身が、復活以前の「姿」とは判別できない程、栄光ある「姿(フォーム)」に変えられていたこともありますが、その語りかける「新しい言葉」が、恐れおののくほど神の国の「力」と「権威」に満ち溢れていたからです。


 イエス・キリストは次に、彼らとの親しい「愛の交わり」を更に深めるために、不思議な行動をとられます。彼は弟子たちに「息を吹きかけ」ながら、素晴らしいご命令を下されました。「聖霊を受けなさい!」この言葉こそ、イエス・キリストが復活された後、最初に弟子たちに下された命令です。その後語られた言葉の数々は、弟子たちの召命の方向性を示す預言的な言葉であったのに対し、この最初の命令は弟子たちに全員に(誰一人漏れることなく)、直接下された神の国の「勅令」でした。彼らは未だ聖霊を受けていませんでしたから、約束として必ず与えられる保証をこの時点で、イエス・キリストから直々戴いたことになります。


信じる者に伴うしるし
 「しるし」とは何でしょうか?私たちの五感に明確に訴え、かつ知る(認識する)ことができるものが「しるし」です。イエス・キリストは、私たちが聖霊を受けた時に、必ず伴うものが「しるし」だと明言されました。聖霊を受けていない弟子たちは、ようやくイエス・キリストを、自分の五感で再び認識できるようになりましたが、イエス・キリストの語られた約束の「しるし」を理解できません。それ故、彼らは再び自分の肉なるビジョンを描き出し、当然イエス・キリストに更なる「人間的」期待を寄せました。「一度処刑され死んだ体が甦ったのだから、今後如何なる者も先生を害することはできない!」と。


 聖霊を受けていない彼らの信仰状態は、依然として「不信仰」のままでした。しかし「信仰の行動」の変革が、聖霊の訪れによってなされる時、弟子たちが今まで経験したことがない程の、ダイナミックな神の国の「力」の流れが、自分の「肉の力」に依らず、只聖霊の上からの働きかけにより成就していくという現象を、あなた方は天の「しるし」として、必ず受け取るようになる!と、イエス・キリストは約束の言葉を預言されました。「今のあなた方は、不信仰とかたくなな心の状態にあり、やっと『私』だと分り、希望の光が差し込み始めた程度の喜びにあるかもしれない。しかし、聖霊を受けた後には、必ず新しい『しるし』が伴う。それはあなた方が今まで経験したことがないほど、驚くべき神の御業が聖霊によって始められ、聖霊によって必ず実を結んでいくのを見ることでしょう!」


 私はイエス・キリストが語られた新しい「しるし」の中で、今までになく真新しい特徴ある変化に富んだ「しるし」は、「新しい言葉」を語り出すことではなかったかと推測します。何故なら、弟子たちの霊的フィールドを覆っていた暗闇、即ち「古い言葉」による支配に対して、イエス・キリストは、「新しい言葉」による革命を宣言され、約束の賜物として必ず与えると明言しているからです。アダムとエバが罪を犯した時以来、私たちの「霊」を支配し続けている「古い言葉」の変革こそ、「新しい言葉」を語ることに他なりません。


 弟子たちの語る古い言葉には、「力」がありませんでした。ただ「恐れ」と「弱さ(無力感)」が心を支配し、そして何よりも「失望感」が漂っていたのです。イエス・キリストが目の前に現れ、再び「新しい言葉」をもって励ましたにも関わらず、「古い言葉」の次元に支配されていたのです。彼らは依然として自己中心的で、「野心」が再び甦るほど本当に無力な存在であり、彼らの言葉は「エゴイズム」という罪に染まり切っていました。しかし、そのような弟子たちにイエス・キリストは、はっきりと宣言されたのです。「あなた方は全世界に出て行って宣教する時に、言葉という面においても、今までにない程の大胆さを伴う、新しい言葉を必ず語り出すと約束します!そして語り始める時に、様々なしるしが大胆な信仰の結果として現れるのを見るであろう!」と。


 ですから、聖霊のバプテスマを受けた後、彼らの一番際立った行動の特徴は、信仰のダイナミックな行動の根底にある、「言葉の革命」であったことです。それは、彼らが常用語として使用していた、「アラム語」による変革ではなく、神の国から流れ出る「新しい言葉」によって、彼らの霊的フィールドは新しく支配され、その中から溢れ流れ出る「しるし」によって、変革(革命)が始まったことです。それ故彼らは、この「新しい言葉」を語るという「信仰の変革」によって、神の国の約束が次々と実現していくことを、自分の目で「見る」ようになります。


新しいものへの変革
 最後に、「古い」ものから「新しい」ものへの変化(変革)は、何が原因となって為されているのでしょうか?例えば「古着」から「真新しい着物」へ買い換える時、私たちは何が動機付けとなっているのでしょうか?「古い」着物ではボロボロになり、見た目も悪いということで、「着られなくなったから」かも知れません。しかし殆どの場合、「新しい」着物を「着たい!」という、「新しい」ものを欲する思いから、行動が始まっていることが分ります。つまり「古い」状態ではとても満足できない、又今の古い状態にあり続けたら、もう限界であるなどの動機付けが発生してくる訳です。


 「革命」も同様に、古い概念や古い体制のままでいたら、これ以上進歩が無いばかりか益々後退し、言わば「古着」を着たままボロボロに果てていくだけだ!という危機感から発生してくるのです。今日の日本、このままの状態で進行したら、手が付けられなくなる程、先行き不安定な状況に陥って行くのではないでしょうか!


 「古い」ものから「新しい」ものへと変化していく時に、何が「新しい」ものを生み出し、「新しい」ものを与えられた人々が、どのように新しく変革されていくかが重要な視点です。そして①変革される前の状態、②革命の「火(炎)」が発生して燃え広がっていく過程、③革命の「火」がある程度鎮静化した時に、どのような社会構造に生き、彼らが(私たちを含めて)どのように新しく変革されたのか?この三点についても検証すべきポイントです。


 私たちは何よりも、「言葉」の持つ「力」について探り極めていく時、使徒行伝の時代に為された神の素晴らしい御業が、今に生きる私たちにも、神からの大いなる「変革」の時として、必ず用意されることを信じて下さい。そして、「新しい言葉」を語ることによって私たちの言葉が、神の国の「霊的次元」を語るレベルにまで変革されるよう、聖霊様に期待して進んで参りましょう!


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