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言葉の革命(No.28)

                             異言見聞録③



 「異言」に関する幾つかの霊的質問事項に関して、私の妻(S・マリヤ)から分かり易く説明させて戴きます。



問1 「知性の祈り」と、「異言の祈り」の違いについて教えて下さい。


 「知性の祈り」は、あくまで自分の内側(心)から、例えば感情や意志などから生じる、思いによって祈ることですが、聖霊による「異言の祈り」は、もっと奥深い次元にある、霊の内側から湧き出るものです。この祈りは、聖霊の助けにより、聖霊の御心(思い)によって語る、祈りのことです。



問2 「知性の祈り」をもって祈った時には、聖霊様は働かれないのでしょうか?


 聖霊様は、どのような祈りにも耳を傾けて下さり、ある時には働かれることもありますが、聖霊様の願う祈りというものは、聖霊の「御心」に沿った(かなった)ものです。しかし「知性の祈り」は、自己満足の祈りをすることはできても、決して聖霊による確信には至りません。



問3 自分の「異言の祈り」が、聖霊の「御心(思い)」に、一致したものであると確信できるには、どのようにしたらよいのでしょうか?


 「異言の祈り」を為していく中で、必ず聖霊様を通してもたらされる、神ご自身の深い臨在に浸りながら、神の至聖所から流れ出る、聖霊様の「全き平安」の中に、置かれる(座す)という導きを受け取ります。そして何よりも、聖霊様ご自身が、天からの確信を与えて下さいます。



問4 「聖霊ご自身も、とりなして下さっている」ことは、どのようなイメージ(表現)をもって、聖霊様が語られるのでしょうか?


 聖霊様はご自身の「御心」を、必ず「その時」に現して下さいます。例えば「異言」で、私がある「祈りの項目」を祈っていますと、今まで思いもしなかった「ある人」のことを、「とりなされる」という経験をします。これは、私の「心(意志)」から生じたものではなく、突然に、天からの「意志(聖霊様の御心)」が降りてきて、私の「霊」の奥深くに、据え付けられた祈りであると確信できます。


 このような祈りは、明らかに「私」ではなく、聖霊様ご自身が主導権をもって祈って下さっている、つまり「とりなして」下さることが、はっきりと分ります。そして、聖霊が何を祈っておられるのかは、その「異言の祈り」の中で必ず啓示されます。「聖霊の力」によって、祈り終わらされた時に、必ず「祈り終えた!」という安堵感があり、最終的には、聖霊様による「爽やかさ(爽快感)」と、「平安(全き確信)」がもたらされます。



問5 私たちの祈りが、「知性」で表現できない場合、「異言の祈り」が、本当に新しい「霊的表現」となって、父なる神に届けられていることを、どうしたら信じることができますか?


 父なる神に、「異言の祈り」が届けられている、即ち直通していることは、神の臨在が訪れた時に必ず、はっきりと分ります。私たちの霊に対して、聖霊様が必ず応えて下さっているという確信は、神の奥深い領域に入った時から、既に「霊」と「霊」の交わり(会話)が始まっていますから、必ず信じることができるものです。そして、私たちの「霊の表明」に対して、聖霊様も「神の表明」を、代弁者として届けて下さることを体験していくのです。



問6 聖霊様から届けられた内容(啓示)は、封書を開けるかの如くに、読めるものでしょうか?


 父なる神は聖霊様を通して、必ずその人にしか分らない方法をもって、応えて下さいます。ですからある面、聖霊様がその人の「霊の眼」、「霊の耳」に働きかけ、明確な啓示をもって応えて下さることが、聖霊様の表明(内容)に他なりません。



問7 異言で祈る内容が、「肉の次元」から来ているのか、それとも「霊の次元」から来ているのか、分り得るものでしょうか?


 「異言の祈り」を、正しい方向で為していく時には、私たちの「霊」に必ず働きかける、「肉の思い」が消されて行きます。最初、「肉の思い」で祈ることもあるでしょう。しかし、必ず聖霊様は軌道修正して下さり、「聖霊の思い」へと方向を変えて下さいます。


 その時、聖霊様はその人に対して、聖霊の理解を与えて、「これは違う!あなたが祈るべきことは・・・・ですよ!」などと、必ず教えて下さいます。間違った祈りを、神は聞くことはありません。しかし聖霊様が、「聖なるうめき」をもって修正して下さり、正しい方向へ祈りを導いて下さる時に、天に届けられる、新しい「霊の祈り」が出てくるのです。


 このことは、ある面で次のようなイメージを思い浮かべて下さると、分かり易いと思います。それは、私たちの「異言の祈り」が、下から沸き上がる「泉」であるのに対して、聖霊がとりなして下さる「霊の祈り」は、天(上)から注がれる「雨水(生ける水)」のようなものです。たとえ私たちが祈る、下からの泉の状態が濁ったものであっても、その方向性が天に向かうのであれば、必ず聖霊様は、上からの聖なる「生ける水」をもって、下からの泉を聖めて下さり、神の御心に一致した、聖なる「命の水」へと造り変えて下さるのです。


 最初私たちの唇からは、下からの泉ばかりが流れるのですが、必ず天の窓が開かれ、次には天(上)から「生ける水」が流れ出て、私たちの「肉の思い」を全て洗い流し、天上の神の「良き思い」が、私たちの「霊」に流れ拡がった時に、麗しい神の臨在を体験し、まさしくこれが、「神の御心」であると確信できるのです。



問8 聖霊様から届けられた内容が、まさしく神の「御心」と一致していた、実体験についてお聞かせ下さい。


 私が未だ、結婚する前の話になりますが、ある朝職場に居た時、突然「ある思い」が飛び込んできました。それは、まさしく聖霊様からの指令で、「お姉さんのために祈りなさい!」という内容でした。そこで、私は聖霊様に促されるままに、「異言」で祈り始めました。しかし祈れば祈るほど胸騒ぎがして、平安の域に達することはありませんでした。   


 しかし、聖霊様は促し続けます。「とにかく祈りなさい!」と。祈り続けて約二、三時間経ちました。すると聖霊様が、全き平安と確信を与えられたので、祈りをストップしました。その日の夕刻、帰宅した際に即、私は姉に問い質しました。すると、その日の姉の行動によると、彼女はいつもより一時間半前に、出社しなければならない予定であったにも関わらず、普段の時刻通りマイカーで通勤したため、途中自分が遅刻していることに、慌てて気付いた訳です。ですから彼女は、普段でしたら自動車の運転を、冷静沈着に運転するところを、気が動転してあせっているために、殆ど交通標識を無視して猛スピードで運転したそうです。


 しかし不思議なことに、信号機に当たる度に手前で「赤」になり、運転を停止せざるを得ないという、不思議な状況に追い込まれたのです。本人はあせっているため、「何で今日に限って、こんなに赤が続くのかしら?」と思うのですが、会社に着くまで、全部そのような状態だったそうです。ですから、時には長い渋滞に巻き込まれるなどして、結局出社時刻にかなり遅れましたが、無事会社にたどり着けた時に、自分の精神状態がいつの間にか、途中から「あせり」が無くなり、「平安」の中に導かれていることに気付き、思わず感謝したそうです。実は、私が全き平安の中で祈り終えた時刻と、姉が「平安」に導かれた時刻が、ほぼ同じ時間帯だったのです。



問9 「異言の祈り」が出てこないほど、「霊」が果てしなき「うめき」にある場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか?


 「異言」の一言も語れないほど、霊的に疲れ切った、干からびた状態にある時には、むしろ「祈り」よりも、単純な「賛美」を捧げることです。私たちが何よりも、「主よ!あなたを感謝します!」と賛美した時に、必ず私たちの枯れかかった「霊の泉」から、再び「命の水」が少しずつ流れて来ます。それでも、「異言」は出てこないかも知れません。


 しかし、その賛美という「呼び水」を、私たちが流し続けた時に、ある時点で聖霊様は、私たちの「霊」の状態を引き上げて下さり、「弱い」私たちが、どのように祈ったらいいのか分らないのですが、聖霊様ご自身が「言い難きうめき」をもって、とりなして下さり、聖霊の思いで、私たちの「霊の井戸」を満たして下さるのです。


 そのような「弱さ」を、繰り返し繰り返し経験していく中で、聖霊様はこの「弱さ」の中にある者に対して、実は大いなる「変革の力」を「霊」に及ぼして下さることが、分るのではないでしょうか!


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