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言葉の革命(No.27)

                     異言に求められる秩序



 父なる神が天地を創造される時、何も存在しない「暗闇」の中に、ご自分の「命の息」、つまり「命の言葉」を吹き込まれました。私たちは、その時に語られた「言葉」が、単純な「命令(order)」であったことを知っています。


 その時の「言葉」は、新改訳では「光よ、あれ!」と訳していますが、私はあえて「光よ、存在せよ!」と訳した方が、霊的に理解し易くなると思います。即ち、何も存在しない「無秩序(フィールド)」に対して、「存在せよ!」という「命の言葉」を吹き込まれたのです。イメージ的にこの命令は、「光よ、出て来なさい!」と受け取れる言葉です。重要なことは、神が「光」に対して直接、「存在せよ!」と命じられたことであり、まるで「相手」が実在しているかのように、直々命じていることです。「光よ、あなたは今から、この暗闇の中に存在しなさい!」という命令、これは素晴らしい「神の言葉」独特の表現です。父なる神は、私たちが電球(電灯)を点ける際に、必ずスイッチを押すように、勝手に「暗闇」の中に入り、「光」を灯した(スイッチを押した)訳ではありません!つまり神は、この実在する「光」に対して直接、「出て来なさい!」と命じられたのです。その結果「光」が、「暗闇」の中に「実在するもの」として登場して(現れて)来たのです。


 「神の言葉」は、単純な法則に基づいています。そして、この法則の中に「神の言葉」の秩序、即ち「正しい創造」の一貫した流れがあります。つまり、神は「命の言葉」を発することで、何も存在しない「無秩序」の中に、神の「御心(意志)」を表現する(説明する・explain)もの、つまり明確な形状(説明できる有様)で現れ出るものとして、全てを創造しています。父なる神が、「暗闇」の中に「光」を創造する時、仮に私たちが「創造のプロセス」に立ち合うことができたとしたら(この時私たちは、光の存在を全く知らない者として)・・・・。神の「命の言葉」の音声が、
「ヒカリよ、存在せよ!」
と表明されるや否や、今まで「暗闇」に覆われた無秩序のフィールドに、突然全てを照らし出す、それまで誰も見たことがない「ヒカリ」という「神の言葉」が、私たちの「肉眼」に迫って映し出されました。その瞬間、これが神の唇から発せられた「ヒカリ」、つまり「実在するもの」の現れであることを、私たちは初めて理解できました。即ち、「ヒカリ」を意味する「命の言葉」が、まさしく私たちの眼の前に、耀き出る「存在」として理解できるもの、つまり「説明(explain)できるもの」として、存在するに至ったのです。


 「神の言葉」は、全て説明できるものです。神の「意志」、及び「御心」を現すことのできるもの、それが神の「命の言葉」です。これは一見、「単純な法則」のように思えますが、重要な「神の真理」を教えています。ですから「新しい言葉」、即ち「異言」を語る場合においても、この「異言の賜物」が神の「贈物」である以上、正しい「用い方」が求められます。「賜物」には、各々に「使用方法」が添付されています。しかし、私たちは「賜物」一つとっても、如何に素晴らしい「天の道具」であるのか、その「使用方法」を知りません。


 父なる神は、私たちに「賜物」を贈られた以上、贈った私たちに対して「取扱説明書」を添付するなど、当然「使用方法」を詳しく説明されます!例えば赤子に、幼稚園児レベルの「塗り絵セット(紙と色鉛筆)」を与えたとしても、その赤子は与えた側の意図することを、何一つ理解出来ずに紙を破ったり、色鉛筆を投げ捨てたりして散らかすだけです。しかし父なる神の場合、たとえ私たちが「幼子」のような信仰レベルであっても、「五旬節革命」の時に百二十人の弟子たち全員に、「神の賜物」を降り注いだのと同様に、純粋に求め渇く者に対して、必ず与えて下さいます。ここに神の意図することが、「単純な法則」により成立していることが分ります。それは、父なる神が「賜物」を与える以上、与えた者に対する「意味付け」、つまり与えられた「賜物」を、如何なる方法で使用するのか、そのことを必ず説明して下さることであり、私たちが神の「単純な法則」に従うことは、とても重要なことです。


あなた方の場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それを益々豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。・・・・異言は、信じる者ためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなた方のことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなた方の内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。・・・・異言を語り、それを解釈するのですが、全てはあなた方を造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。・・・・異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、全てを適切に、秩序正しく行いなさい。
                                                                                                【Ⅰコリント13章12~40節】


説明できるもの
 パウロによれば、「異言」を語る者、即ち「異言」の賜物を与えられ、新しい「霊の言葉」を語り出す「恵み」にあずかった者は、次のような「祈り」も同時に為すよう、教え導いています。「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。」(13節)彼は、私たちが「異言」を語る場合、その語っている「意味合い(中身)」を説明できるもの、つまり「語る内容」が何を意図しているのか、それを「説明できる賜物」をも、同時に求めなさい!と命じています。


 彼がこのように命じている事柄は、恐らく殆どのペンテコステ教会で、今まで語られなかったことでしょう。私たちは「聖霊のバプテスマ」を授けられた時、確かに「異言」の賜物を与えられます。それと同時に、自分の語る「異言」を説明できる「賜物」、つまり説き明かすことのできる「賜物」を、私たちが「信仰」を働かせて求めるのであれば、必ず一人一人に既に与えられていること!即ち「使用方法」が同時に、添付されていることに気付くべきです。私たちは聖霊に祈り求めないから、未だにこの「説き明かす賜物」を、有効的に使用していないのではないでしょうか?それならば、今すぐにでも求めましょう!


 実は、この「異言」をめぐる問題の中で、「異言」を説き明かすことと、「異言」をどのような時に語ったらいいのか?という「テーマ」は、一番議論される事柄です。何故、議論されるのでしょうか?それは「異言」が、意味不明な「言語」であるという、言わば未知の「外国語」のようなものだからです。意味不明な「言語」であるということは、「異言」を語った時に誤解され易いものであるが故に、私たちはそれを語る場合において、使用面で限定した方がいいのではないか!などの、誤った「人間的解釈」が出てくるのです。そして制限(条件)を設ける、つまり「規制を敷くことで、混乱は無くなる」などと安易な考え方に立ち、実際これが主流の解釈となっています。


 しかし、たとえ「異言」が意味不明な「言語」であったとしても、神はご自分が創造された「作品」一つ一つの中に、「言葉」を含めて神の「意志」を現していますから、一人一人が語る「異言」を、正しい「神の秩序」に従って使用していくのであれば、必ず「神の奥義」を現すもの、具体的には神からの「啓示」「預言」「教え」「知識」として説明できるなど、「言葉」の意味する「現れ(説明できるもの)」が出て来るのです。父なる神が、私たちに「言葉の賜物」を与えた以上、その言葉の意味することも同時に与えています。それを霊的に見出し、「正しい方向」で使用していくには、私たちはどうすべきでしょうか?それは、「神の秩序」を学ぶことです。「秩序」という言葉の持つ「正しい理解」と、「異言」に求められる「神の秩序」について、私たちは聖霊様を通して新たに学ぶ必要があります。


「秩序」とは?
 「秩序」とは、何でしょうか?私たち日本人が、この「秩序」という言葉を聞いた時、大抵の人々がこの言葉に「抵抗感」を抱きます。何故ならば、この言葉を「規制」などの、ある「型」にはめ込まれた(縛られた)、窮屈なイメージとして受けとめるからです。しかし「秩序」とは、英語で「in order」と表現し、「命令(order)」の中に存在する状態のことを指します。


 私たちは、「命令」という言葉も忌み嫌う傾向にあります。他人から指図されることほど、嫌なことはありません。これは、私たちの「霊」の中に生まれつき、「反骨精神」が存在しているからでしょう。この「反骨(反逆)」の概念は、どこから生まれ出て来たものでしょうか?「反逆」とは、他者から命令される状態から離れたい!と欲する「意志」の現れです。これは、サタン(反逆者の象徴)によって「霊」が汚された、アダム(エバ)の「罪」に由来します。しかし「神の命令」は、サタンの「王国」に見られるような、私たちを束縛するものではありません。むしろ神の「安息」と「平安」の中に、常に招き寄せる言葉として命じられる、一貫した「不変の言葉」です。


 このように、「in order」とは「神の命令」、即ち神の「御心」の中に在り続ける状態のことです。神の「御心」の中に、自分自身の全てを明け渡しながら生きることが、神の求められる「正しい秩序」です。では、「人」の造り出す「秩序」は、如何なるものでしょうか?はっきり申し上げて、これは一時的なものです。「人」の造り上げた「秩序」や「ルール(規制)」は、ある時はその「秩序」をもって一致(統一)を図ろうと、一時的にコントロールできますが、暫くするとその「秩序」から離れ、一時的な一致が結局「空中分解」するなど、そんな軟弱なものです。又、「人の秩序」は必ず支配的なものになる、つまり「人」が「人」を支配するために、生み出されてきたルールの一つです。例えば「組織中心主義」、これが「人」の造り出す秩序の一つです。又、ある一本化された指揮(命令)系統で、「人」を規律通りに支配する集団、これも「軍隊」などに見られる、「人の秩序」に当たります。


 「人」は、「他人」から命じられることほど、嫌なことはありません。何故なら、全ての人が自分の解釈や判断で、「何か」をしてみたい!と欲する存在だからです。しかし「神の秩序」のヒナ型は、かつてアダムとエバが暮らしていた、「エデンの園」に存在しました。「エデンの園」において成立していた、父なる神との「親しい交わり」が、本来の「神の秩序」です。神は天地創造の時、「命の言葉」をもって万物を創造した訳ですが、「人」だけは創造のプロセスが異なっていました。神は「御手」をもって、直接土と塵を丹念にこねられ、ご自分に似せて「人」の物体を形造り、その「泥の塊」の形状にご自分の「唇」を重ね合わせ、「命の息」を吹き込まれた結果、「人」は生きるようになりました。何故父なる神は、このように手間のかかるプロセスをもって、直接「人」を創造されたのでしょうか?それは、神が「人」に対して、「愛」と「愛」の触れ合い、又「霊」と「霊」の触れ合いを求める、つまり神の「最高作品」である「人」を、直接ご自分の元に招き寄せ、更に親密に「交わり合う」ことを、欲しているからに他なりません。


 神ご自身が求められる「秩序」は、「霊」と「霊」が直接触れ合い、天の「良きもの」を共に味わう、「聖餐の場(フィールド)」のことです。ですから、私たちに与えられている聖書の「御言葉」にしても、イエス・キリストが弟子たちに対して、直接語られた「言葉」にしても、私たちに「恵み」として与えられている、「新しい言葉」を語る「賜物」にしても、それら全てが神の求められる正しい「秩序」、即ち神との「親しい交わり」の中にあって、イエス・キリストの「美」が現れ出ないのであれば、それはこの世にある「偽りごと(偽の言葉)」と、同じレベルにあることを覚えて下さい!


自然界の秩序に倣う
 ところで私たちは、神が創造された「自然界の秩序」から、「神の秩序」が如何に一貫した、素晴らしいシステムで成り立っているか、この点についても学ぶ必要があります。例えば、私たちは空気の中に「気流」があることを知っています。暖かな空気は「天」に向かって上昇するのに対し、冷たい空気は「地上」に向かって下降します。これは、自然界にある「単純な法則」の一つですが、実に不思議な真理が隠されています。即ち、「空気」を創造した神は、この空気に対して「上昇気流」と「下降気流」という、二つの「秩序」を定められました。しかし「人」は、空気の中に働く「自然の法則」を発見するのに、どれ程の年月を要したことでしょう!二十世紀になって、「気象学」や「物理学」などの研究成果が、ようやく一般社会の中に認められていく中で、自然界を覆う二つの大きな物理的流れ、つまり「空気」の流れと「海水」の流れにより、あらゆる気象が様々に変化しながら、「宇宙のオアシス」と呼ばれるこの地球を、バランスよく潤していることを見出したのです。


 日本では、夏になれば必ず「夕立」が降ります。これは、どのような「空気」の流れ(メカニズム)により、発生するのでしょうか?先ず夏特有の暑い「太平洋高気圧」が、日本列島を取り囲む海水の温度を上昇させます。すると、暖められた海水から大量の水蒸気が、暖められた「気流」と共に、何千mを超える「天」に向けて上昇します。この時、上空には「冷たい空気」が待ち構えています。水蒸気を多く含んだ気流(私たちは肉眼では見ることができない物質)が、遂に「冷たい空気」の層にぶつかり始めますと、にわかに「積乱雲」が発生します。この「積乱雲」は、まさしく暖かい水蒸気が急激に「冷たい空気」に触れ合ったため、「雲」へと変化した「水の集合体」です。


 そして、この「水の集合体」である「雲」の中では、プラスイオンとマイナスイオンがぶつかり合って「電気」を産み出し、この電気の「放電流」が雲の中を駆け巡ります。この「放電流」を、私たちは「雷」と呼んでいますが、電気を多く蓄えた「積乱雲」は、その後物凄い高度にまで膨らみ(膨張し)ます。そして最大に膨らんだ時点で、「冷たい気流」が一斉に「地上」に向かって下降し始めると、天空全体が真っ暗になるほどの厚い雲に覆われますと、遂に地上に「大雨」となって降り出します。その時に科学者が、「この大量の大雨(雨粒)は、いったい何処から生じて来たのだろうか?」などと、素朴な疑問を抱き研究した結果、海流の水温の推移と気流(高気圧や低気圧)の位置とのバランスから、「雲」の発生メカニズム、即ち「自然界の秩序」の一つを発見するに至ったのです。


 この「積乱雲」は、「大雨」だけをもたらす現象には留まらず、「強風」や「雷」、ある時には「竜巻」や「雹(ひょう)」を伴った、エネルギー集合体として現れ出ます。神が定められた「気流の秩序」は、暖められた空気が大量の水蒸気を伴い、余りにも大量の「水」を含むなど、「飽和状態」に達すると必ず、「天」に向けて上昇し始め、代わりに上空に存在した「冷たい空気」が、一気に下降し始めます。これを空気の「対流現象」と言いますが、このような「空気」の流れにより、ある時は「強風」になったり、巨大な「台風」や「竜巻」を産み出すのです。


 実は「異言」を語ることも、以上のような「空気」と「海水」の流れに見られる、「自然界の秩序」に似通っています。私たちが「異言」で賛美したり祈る(語る)ことは、あたかも下から湧き出る水の流れ、つまり「泉(湧き水)」のようなものです。それに対して、神からもたらされる「預言」や「啓示」、そして「奥義」などは、聖霊様を通して降り注がれる「天(上)」からの「雨水」、つまり「生ける水」のようなものです。このようにイメージすると、「異言」は暖められた空気と共に上昇する、「水蒸気」のような働きをします。ご存知のように自然界の「空気」の中には、見えざる「水蒸気」が含まれることを、自然科学者によって見出されたから、「水蒸気」が空気の中に含まれている(存在している)のだろうと、私たちは頭で納得はしますが、実際に自分の「肉眼」で「水蒸気」の一粒一粒を、見ることのできる(説明できる)者は一人もいません。


霊の次元で説明可能
 「異言」も、私たちの「知性」では決して判断する(見る)ことができない、つまり「常識(三次元)」で説明できない「言葉」です。そして「異言」は、その意味することが当初は見えて来ません。しかし確実に言えることは、この「霊の言葉」は水蒸気と同様に、「天」に向けて上昇していること、そして必ず「雨粒」のように、天的な「命の水」として地に降り注ぐものです。ですから、私たちに与えられた「異言」は、私たちの信仰生活において、必ず「見えてくるもの」であり、聖霊様が「説明できる言葉」として備えられたものです。パウロによって記述された、「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。」(13節)の御言葉は、聖霊様からの命令です。聖霊様は、既に用意しておられます!ですから、私たちが更に求めさえすれば、私たちの唇から「理性(知性)」で説明できる「言葉」が与えられるのです。このことを、あなたは信じますか?どうぞ「説き明かしの賜物」を、他人に期待しないで下さい!


 再度強調しますが、「神の秩序」とは神の「御心」の中に生きることです。ということは、「異言」を与えた神の「目的(御心)」は、「異言」が明確に説明できるもの、つまり三次元でも通用する「正しい言葉」として表すべく、実は「説き明かしの賜物」も同時に与えているなどの、「神の秩序」があるのです。ですから「異言」を語る賜物も、神の定めた「秩序」通り私たちが信じさえすれば、「異言」には必ず「説明できる賜物」が用意されます。これは、「肉の力」では絶対為し得ません。聖霊様が与えて下さる「天上の力」を通して、求める者に必ず用意されるのです。


 あなたの中にも、「神の秩序」が「説明できる言葉」を伴って、必ず現されることでしょう。ですから祈り求めて下さい!「自分だけ理解できればよい!」という生き方は、「自己中心」に当たります。しかし私たちが霊的にへり下り、「正しい方向」で神に祈り求めるならば、自分の語る「異言」を、同時に「説き明かす」ことのできる、より高い霊的レベルにまで私たちは成長し、次は他者の語る「異言」をも「説き明かす」など、重要な働きを担うようになります。そしてその働きが、イエス・キリストの「み体」なるエクレシアを、「神の秩序」通り「正しい方向」で、霊的に建て上げることになるのです。最終的に「異言」は、他のキリスト者の「徳」を高め、イエス・キリストに似た霊的な人格者を造り上げるなど、真の「命の言葉」に変化して行きます。


 ところで私たちは、油注がれた祭司職(五役者)などの、「特別な器」を通して「預言」や「啓示」、又「説き明かし」を戴こうとするなど、霊的に愚かな行動をする傾向にあります。しかし今日の聖霊様の働きは、神学校も卒業していない、ごく普通の一般的なキリスト者を選び召し出し、ある日突然「天上の賜物」が傾注し、大いなる神の働き(リバイバル)を担う、新しい「砕かれた器」を次々と起こすなど、素晴らしい神の救いの「ご計画」が、世界各地で現れています!ですから全てのキリスト者が、神の働きを担う「重要な器」であることを、私たちは今一度覚えようではありませんか!


 神は、「聖職者」と「一般(平)信徒」という分類(組織化)、つまり人間の定めた秩序を無視(度外視)して、聖霊を激しく求める者に対して、天上から豊かな「賜物」を惜しみなく与えて下さいます。人間的な秩序を、頑なに保守し続ける祭司たちからすると、「預言的ミニストリーは、預言の油注ぎ受けた特別な器から為されるべきであって、平信徒には与えられるものではない!」などと、益々新しい「聖霊運動」に抵抗し続けるでしょう。彼らが守る「古い概念」の中には、「全てのキリスト者が神の働き人になったら、教会が無秩序化する(本音は困る)!」などの考え方があります。何故なら「自分の働きこそが、神からの特別な油注ぎを受けた、真のミニストリーである!」などの、「特別職意識」に基づいて、信徒を支配(秩序維持)できなくなるからです。これは、悪魔サタンの好む「秩序(支配)概念」です。私たちは再度神の「御心」、即ち「神の秩序」に基づく「新しい考え方(思考)」をもって、神に取り扱われ易い「器」に仕立てられることを、願い求めようではありませんか!神は「幼子」の唇にも、「預言的な言葉」を与える時があるのです!


二つの神学論争
 最後に、「異言」をめぐる二つの神学論争について、聖霊様からのガイダンスを紹介します。先ず第一の論争は、「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて」(28節)の御言葉から、「異言は、秩序正しく運営(牧会)されている教会の中に、必ず混乱をもたらすものであるから、公けの礼拝では黙っているべきである!」などと指導している教会が数多くあり、そのような教会では特に日曜日の「主日礼拝」において、「異言の祈り」を禁じる傾向にあります。又、あるペンテコステ教会においても、「リニューアルを受ける際には、異言の祈りが、神がお示しになる取り扱い、又聖霊の刷新の働きを、かえって妨げる可能性がある故、余り異言を語らないように!神から受ける姿勢で、ひたすら黙って(リニューアルを)求めて下さい!」などと指導しています。


 このような、「異言」に対する牧会指導理念が、カリスマ諸教会の主流になりつつある今日ですが、聖霊様は果してこの現状に、どう思われているのでしょうか?彼らは決り文句のように、「公けの礼拝」という言葉を使用しますが、聖書の中に「公けの礼拝」という言葉は存在しません。ところで「公け」とは、何を意味する言葉でしょうか?彼らが「公け」と言う時は、「未信者」が礼拝に出席することを前提として使用します。しかしパウロは、「異言は、信じる者ためではなく、信じていない者のためのしるしです」(22節)と明言しています。「聖書」全般を読み通して分ることは、神が私たちキリスト者に求めておられる礼拝は、「霊と真による礼拝」だけです。


 ですから「公けの礼拝」とは、人間が造り出した「秩序」に従って、混乱なく為される(運営される)「宗教行事(行為)」に過ぎません。人間が造り出す礼拝ほど、聖霊様が働きにくいものであることを覚えて下さい!ましてや「異言」そのものを、各礼拝において禁じるのであれば、それは「キリストの花嫁」の、霊的呼吸を停止させるようなものです。ジャック・ディアは、次のように述べています。「彼らは・・・・パウロが異言を話すことを禁じてはいけないと言うと(Ⅰコリント14章39節)、それは現在には適用されないのだと言うのである。その方法の問題点は、聖書を汚すことに加えて、このような権威主義的支配によって、自然な発露を窒息させ、教会の命そのものを枯渇させてしまうことである。」(注)


 聖霊様の「主権(主導)」が確立し存在する限り、人々が危惧するような「混乱」は起こり得ません!聖霊様が主導権を行使し導かれる礼拝において、「混乱」は絶対起こりません。聖霊様が本当に臨在される礼拝においては、参加者全員が事前に取り決めた訳でもないのに、ある時全員が「異言の祈り」を、同時にピタリと停止させられる現象が起こります。これが、聖霊様が主導権をもって働かれる、「神の秩序」の現れであり、そのような「神の秩序」の中にある限り、決して「混乱」は起こり得ません。むしろ神の国の秩序が、一人一人を「天上の礼拝」へと導きます。


 ですから、私たちは「神の秩序」の中にある限り、聖霊様が正しく働かれることを信じて、「異言」を語ることを禁じたり制限したりするような、人間的な牧会を放棄しようではありませんか!又、人間中心主義がはびこる教会で、霊的に束縛されている人々が、聖霊様からの一方的な油注ぎを受けて、大胆に立ち上がることができるよう、霊的にとりなして下さい!「神の秩序」の中に、「人」は絶対介入できません。ましてや、「混乱」など起こり得ません。彼らは、人間中心主義な牧会をしているため、人間的な「恐れ(心配)」から、「人間的な秩序」を造ろう(守ろう)としているのです。プログラム中心の礼拝、これこそ形式主義という、「人の秩序」に他なりません。聖霊様にとって、人の造り出したプログラムほど、忌み嫌うものはありません。


 第二の論争、それは「異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、全てを適切に、秩序正しく行いなさい。」(39~40節)の御言葉からです。パウロは、「コリント教会」の信者が、余りにも勝手気ままに、「賜物」を自己中心的に使い出すなど、「無秩序(混乱)」の状態が起きている現象に危惧し、聖霊様からの「知恵」を戴きながら、この書簡を書き著しました。そして、「賜物」を自己中心的に使うなど、「誤った方向」で乱用した時に、「無秩序」が必ず発生することを発見しました。だからと言って、彼は安易な人間的指示、例えば混乱をもたらす「原因」そのものを廃棄したり、使用するに当たって「制限」を設けた訳ではありません。


 最終的に彼は、聖霊様からの促しにより「聖霊主導の元に、賜物の使用が導かれることを優先し、単独で勝手に使用し始めるのではなく、三人以上で賜物を用いること!」という原則を、彼らに教え命じました。そして、彼は結論として「異言を語ることを禁じてはなりません!」と強く戒めました。神と霊的につながった、この「パイプ(霊の唇)」を遮断してはならないこと、つまり神とのホットライン(直通電話)である「異言」は、最高の「交わりの言葉」であるから、これを禁じてしまうと霊的にもっと凄まじい、人間中心の「大混乱(無秩序)」が引き起こされる!このように断言しています。


 神の「賜物」は、神の「御心」通りに、正しく用いるべきであって、決して「人の秩序」を持ち出して、規制するものではありません。即ち、神の「賜物」を自分の手に掴み、自分の使用方法(マニュアル)でコントロールしたり、運用してはなりません。例えば、「私たちの教会では、主日礼拝において、異言で祈ることを差し控えて下さい!」などと指導する場合、これが人間中心主義に基づく「人の秩序」に当たります。


 自然界の中に、人間的な秩序を造り出した結果、何が起きていますか?それは単なる自然破壊であり、結果的に二酸化炭素の増加に伴って、この「宇宙のオアシス(地球)」を保存している、「神の秩序」の一つ「オゾン層」が、少しずつ破壊されていることです。つまり一つの破壊が、他の生態系ばかりか自然そのものを、「無秩序化」しつつあるのです。聖霊様は、神の「賜物」をへり下って求める者に、次のような「言葉」で強く励ましています。「残されたキリストの民よ、益々異言による交わりをもって、主イエス・キリストを飢え渇き求めなさい!神から与えられたこの賜物を、決してストップしてはなりません!これを説き明かすことができるよう、更に求めなさい!」


 パウロは「コリント教会」の信者に対する、「第一の書簡」の霊的勧告の結論として、「異言を語ることを禁じてはなりません。むしろ異言の正しい用い方を、聖霊様の導きの中で教えられ、更に求めるように!」と命じています。私たちが、聖霊様の導きの下でこの命令を実行する時、「神の秩序」が再び、この「古き世界」に霊的回復(秩序)をもたらし、私たちの中に神の「意志」が明確に現れ始めることで、私たちは未信者の人々に対して、「説明できる人格者」へと変革されることでしょう!「異言」は「人」を造り上げ、「教会」を建て上げるものです。このように、神の「意志」が明確に現れ出た時に初めて、未信者の人々も「明確なしるし」として受けとめ、遂に「神の救い」にあずかっていくのです。ですから、私たちは更に「異言」を語り、又それを「説き明かす賜物」をも、同時に求めようではありませんか!



祈り
 主よ、あなたが与えて下さる、この「異言の祈り」は聖なるものであり、人が侵すことのできない、貴いものであることを感謝します。


 あなたは「異言の祈り」を通して、祈る者にしか分らない、深い霊の領域へと導いて下さいます!


 この深い領域に入った者だけが、神の国の啓示を語り、あなたの御心を知り、あなたが異言の説き明かしを与えて下さる、その時その時の説き明かしによって、あなたの御心の只中にあることを、はっきりと悟るようになります。


 主よこれは、ただ祈り求めて与えられるものではなく、あなたと交わる者のみに、与えられるものであることを感謝します。


 どうぞ、主よこの「貴き賜物」を、ただあなたとの奥深い交わりの領域に入って、「知る」ことができるよう導いて下さい!


 主よこれらは全て、あなたとの深い交わりのために、即ちアダムとエバに本来与えていたように、神との「親しい交わり」の言葉として、与えようと願われ、そして与えて下さることを信じます。


 どうぞ、私たちの「異言の祈り」を、もっと更に深めて下さり、あなたの深い「御心」を知るために、豊かに与えて下さっていることを信じて、私たちが聖霊様に導かれながら、更に用いることができるよう、教え助けて下さい!


 主よ、この「異言の祈り」を感謝します。あなたが与えて下さっている、貴いあなたとの交わり、霊的なホットラインを感謝します。


 どうぞ、あなたとの深い交わりの領域に、更に奥深く入ることができるよう導いて下さい!


 イェス様!どうぞ私たち一人一人を、霊的に豊かに取り扱って下さり、あなたとの聖なる交わりを深めて下さい!主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注、ジャック・ディア著『御霊の力に驚かされて』(真菜書房)38項から引用


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