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言葉の革命(No.25)

                     異言は成長と変化を伴う



だから兄弟たち、私があなた方のところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなた方に何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分るでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますか。同じように、あなた方も異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているのか、どうして分ってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分らないとなれば、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人であることになります。
                                                                                               【Ⅰコリント書14章6~11節】


言葉は成長と変化を伴う
 ご存知のように、言葉は一つの「音声」です。生まれたばかりの新生児は、単純な「発声音」しか出せませんが、その子の成長と共に、母親との「言葉の交わり」を通して、少なくとも「発声音」の音色に変化が伴ってきます。自分の「意志」を表したり、母親に対する愛の表現、即ち「甘え」の要求になっている場合が、その殆どではないでしょうか。このように「言葉」は、「交わり」というプロセスを通して成長し、それに伴って様々に音色(表現)が変化します。仮に「交わり」が、一度も無かったらどうなるでしょうか?明らかにその子は言語的に見て、「失語症」という病気になり、自閉的性格に陥ります。


 「異言」も、その語る対象者(相手)との「交わり」によって、必ず変化が伴ってきます。聖霊様との「親しい交わり」を求める「異言」は、必ずイエス・キリストという「音色」を表し、最終的にイエス・キリストに似た者に変革されます。しかし「自分」や「人」に向かって語る「異言」、つまり「自己中心」的な異言は、「我」という「音色」を出すだけで、決して天の「御国の響き(サウンド)」を出すことはありません!聖霊様との「親しい交わり」から、産み出される「異言」の「音色」は、必ずイエス・キリストの「栄光」という光を帯びてきます。自閉的で、自己中心的な「異言の祈り」をする者の特徴は、必ず「エゴ」というカラーを出すだけです。この「エゴ」という音のカラーは、素晴らしい「御国の響き」ではなく、この世にある「肉の響き」しか産み出しません。


 パウロは、「私が・・・・異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなた方に何の役に立つでしょう。」(6節)と明確に述べています。彼によれば、「預言」も他の様々な「賜物」も、神との「親しい交わり」から与えられるもの、つまり父なる神の「御心」から流れ出なければ、全ては無益なものです。全ての言葉は、「交わり」というプロセスを通して、成長と変化が伴ってくるのと同様に、「異言」も成長と変化が伴うことを知らなければなりません。「異言」は、一方的に天上から与えられる「賜物」ですが、だからと言って自分勝手に判断し、自分の「目的」から使用すれば即使いこなせるなど、単純なものではありません。それは、例えば自動制御機械(オートマティック)、つまり何か「ボタン」を一つ押せば、素晴らしい製品を産み出したり、便利な機能(働き)を持ち合わせているなど、単純な「言葉」ではありません。あくまで「異言」は、それを与えて下さった方との、「親しい交わり」を通して、少しずつ使用可能になるのです。


 ある面で、私たちに与えられる「賜物」の全てが、一方的に天上から与えられるなど、戴く方法はシンプルであっても、すぐに使用することができないほど、その「使用方法」が聖霊様に委ねられています。ですから「肉の力」では、絶対正しく使用することができません。それは「賜物」の管理主、聖霊様との「親しい交わり」を通して教えられるもの、つまり聖霊様から「これは、このように使いなさい!これは、このような時にだけ使いなさい!」などの、明確な指示を戴いた後で初めて、私たちは使用することができます。全ての「賜物」は、聖霊様の「教え」と「導き」が伴った時に、正しく使用できるのです。


 私たちは「賜物」を与えられた場合、すぐに使用する傾向にあります。確かに一時は、「賜物」を使って成功したかに見えるのですが、必ず「賜物」を「自分」で運用し管理して行く中で、殆どの者が「我」という「音色」だけを現す、つまり「肉の次元」に完全に支配されている、「この世」の人々と何ら変らぬキリスト者に、いつしか成り下がってしまうことを、パウロは「コリント教会」の中に見ているのです。「コリント教会」には、「賜物」の乱用が多くありました。ですから彼は13章において、「愛」という最高の「賜物」を与えて下さる方、「イエス・キリスト」を追い求めること無くして、他の「賜物」も全く無意味なものであり、そのような「肉の次元」から使用した「賜物」は、いずれ廃れていく・・・・、しかし「信仰」と「希望」と「愛」だけは、いつまでも存続する「賜物」であり、この三つの「賜物」の源である、「イエス・キリスト」を追い求めることこそ、一番重要なことである!と断言しています。そして彼は、「異言」を語る場合も、「啓示」「知識」「預言」「教え」によって語らなければ、何の役にも立たない!と、その「使用方法」における、いくつかの「条件」を明示しました。


四つの音色
 パウロは「異言」の持つカラーを、一つの楽器に喩えて説明しています。彼が、この章で述べている楽器は、ラッパや笛などの、いわゆる「人の息」を使って音を出す、「吹奏楽器」のことです。この「吹奏楽器」は、全て「呼吸」というリズムが、「音色」を現す際に重要な役割を果たします。又、「息」の出し方(吐き方)において、非常に困難を要する楽器です。ある一定の「息」を吐きながら、一定の「音色」を出し続けることは、とても困難なことです。私たちも小学生時代、音楽の授業で縦笛を習いました。そして練習を重ね、ついに吹き鳴らすことができるようになった時、「もうこれで、いつでも簡単に吹けるから大丈夫だ!」などと、大人になった今でも自負する傾向にあります。しかし、本当に熟練した縦笛奏者に、実際に「ある音色」を出してもらいますと、それは「音色」そのものが美しく、たとえ単音であっても素晴らしい「音色」が、空間全体を包み込むように「美しい調べ」になります。これは、全て「息」の出し方によって、変化(違い)が伴って来るからです。


 「異言」も、そのような楽器に喩えた時、「音色」に変化がなければ無意味なものであると、パウロは明言しています。初期の段階の「異言」は、まるで赤子が吹き鳴らす楽器の音色のように、「ピー、ブー、ペー、ブブブー!」などと、騒々しい雑音しか現れ出ず、一つも理解できない「音色」です。しかし縦笛もある時から、「息」の吹き方や指使いによって、「音色」を変化させて吹き鳴らしていくと、はっきりとした変化に気付きます。「あ!確かに音が流れている!」と、自分の耳に非常に分り易い、心地よい調べ(サウンド)が自分の心を潤し始め、はっきりとしたメロディー・ラインに成長します。実は「異言」にも、四つの「音色」があるとパウロは述べています。第一の音色は「啓示」であり、第二に「知識」、第三に「預言」、そして最後に「教え」という、四つの「音色」の変化が伴っていなければなりません!しかしこのことは、「私の異言は、啓示だけの音色を流せばいい!」、「私は預言的な異言だけを語ります!」などと、それぞれが独立した「音色」、つまり「単音」を意味するものではありません。


 この四つの「音色」は、一つ一つが「独立音」ではなく、聖霊を通して美しく調和された、「和音」のような役割を担うことを覚えて下さい。この四つが「和音」として流れる時に、「異言」は一つの素晴らしい「旋律」を、協奏できるようになります。ですからこのことは、ある面で私たちが今後「異言」を語る際、聖霊様がある時には使用条件として、「この音色を出しなさい!」などと、「預言の音色」を出すこともあれば、次回には「教えの音色」を奏でるよう、指示される時があるのです。例えば、「私は、預言しか出さなくていい!」などの「単音」を出すばかりの人、つまり預言的な「異言」を語ることの方が、他の「異言」を語ることよりも優っている!と考えている人々には、聖霊様は決して働かれません。大切なことは、この四つの調和された「和音」から、一つの美しい「主旋律」が現れ出ることに、焦点を切り換えるべきです。一つの「主旋律」とは、イエス・キリストの「栄光」を現すことですが、この美しい「音色」が現れ出なければ、無意味なものです。


 パウロも述べていることですが、未信者が教会の中に入って来た時に、全ての「異言」が一つにミックスされ、イエス・キリストの「栄光」、つまり美しい「主旋律」を奏でていなければ、単なる耳障りな騒音(雑音)に過ぎません。「異言」は未信者に対して、主イエス・キリストが唯一の「救い主」であると、明瞭に聞くことのできる、はっきりとした「しるし」であるべきです。そして、この四つの「音色」は全て、イエス・キリストを「知る」、即ち「交わる」ことを通して与えられるものであることを、再認識しようではありませんか!


 パウロは、この四つの「音色」を奏でる目的に関して、「明確な言葉」(9節)を現すためであると述べています。又「異言」は、訳の分らない言葉を「空」に向かって話すものではなく、本当に「明確な言葉」として「唇」から現れ出なければ、「何を話しているのか、どうして分ってもらえましょう。」と、続けて述べています。


 ところであなたは、空に耀く「虹」を観察したことがあるでしょうか?雨が降って、「太陽光」がその雨粒に反射した時に初めて、「七色」のミックスされたカラーとして、「虹」は空に耀き出ます。何故「虹」を見ただけで、「七色」と認識できるのでしょうか?私たちの肉眼では、「虹」の色を七つに区分して色分けすることは不可能です。ところがある科学者が、「プリズム」というガラス製の三角柱に向けて、「光」を投影する実験をしました。するとその「光」が、「七色」に明確に色分けされて映し出された時、「太陽光」も雨粒という「プリズム現象」によって、反射色が七つに変化して投影されることを定義づけました。しかし、私たちの肉眼で「この部分が赤色で、あの部分は黄色」などと、明確に区分して言い切れる者は一人もいません。


 そうです!まさしく「虹」は、一つ一つの色を区別するライン(境界線)はありません。一つ一つの雨粒は、プリズムのような「一物体」ではなく、散り散りバラバラに落下しながら、「太陽光」が小さな雨粒に反射しています。そして「虹」のカラー(美)が、大きな「空間」に宝石を散りばめるかのように、ある時は「赤色」から「黄色」へと、「色」を変化させながら流動している故に、私たちは色分けできません。又私たちは、「虹」を見て「七つの色に分類された光」とは呼びません。私たちはそれを、「虹色の光」と呼んでいます。このように「虹」のカラーは、調和された一つの「美しいカラー」として現れます。


 同様に私たちが、「異言」の音色を出す場合、「私は預言だけのカラーを出します!」、「啓示のカラーの方が、優れたカラーです!」などと、明確に言い切れる者はいるでしょうか?私たちは、「異言」を与えられた時に最終的なカラー、即ちイエス・キリストの「美」だけを現すことを、単純に求めるべきです。


言葉の「意味」
 言葉には、必ず「意味」が伴います。言葉の「意味」とは、どういうことでしょうか?「意味」とは、理解できる事柄であり、ある時には物事の「真意」を指します。又「意図」することであり、最終的には語る人の「心(考え)」を指します。言葉に「意味」があるとは、その言葉を発した人の「真意」、又「理解する事柄」、「意図していること」、そして「考えている心」のことです。ですから言葉を語る時には、必ず「意味」が伴って来なければなりません。私たちが訳の分らない言葉、例えば初めて未開地の部族言語を聞いた時、それを英語などの「外国語」としてではなく、「異言」と同様のものとして分類するのではないでしょうか?しかし、私たちは次のことを知っています。赤子が少しずつ成長していく中で、最初は「ナン語」しか話すことができないのに、母親と何らかのコミュニケーション(交わり)を重ねていく途上で、必ず母親しか分らない(理解できない)、言語的「意志」を表していることを、母親は感じ取っています。そうです!赤子の語る「言葉」が少しなりにも成長し、その言葉の「音色」に変化が現れて来る時、赤子が何かを語った瞬間に、その語る言葉の「意味」を明確に、母親は理解しているのです。


 私たちが語る「異言」も、このような方向性を持ち合せています。私たちの側としては、自分の語る「異言」の意味合いを、殆ど理解できません。確かに父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊様の各々の側としては、私たちの語る「異言」をすぐ理解できます。しかし私たちの「異言」が、本当に成長していく中で、即ち神との「親しい交わり」を通して、言葉の「音色」に変化が伴ってきた時、その語る言葉の中に明確な「意味付け」が成されていくのです。ということは、私たちが更に神と親密に交わっていく中で、たとえ「異言」そのものが、英語や日本語などの「明確な言語」として、「音色」を現していなくても、日々語る毎に成長し変化していること、これが重要なことです。パウロが「異言で一万の言葉を語る」(Ⅰコリント書14章19節)と述べていることは、一年が365日に分岐されているように、仮に「異言」で毎日一時間祈ったとしても、最低365通りの「異言」を語っていることになります。ましてや一年の大半を、「異言」をもって主イエス・キリストと親しく交わる者は、恐らく一日だけで数十通りの「異言」を、語っているのではないでしょうか!


 「聖霊のバプテスマ」を授かった直後の私もそうでしたが、単純なワンパターンの言葉(ララララ・・・・)しか、唇から出て来ませんでした。しかしその単純な「異言」を、継続して語り続けて行きますと、必ず言葉として少しずつ成長し、「音色」に変化が現れて来ます。だからと言って、その「異言」の一部の「単語」を、しかも分り易い「発音語」をピックアップして、これはこのような「意味」があるなどと、分類できるものではありません。しかし、全体的な「言葉」の流れから、明確に把握し得るレベル、つまりその「異言」が霊的に「意味する」ことを、自分の霊の領域にある「霊の耳」で理解できるレベルにまで、私たちの霊的感性が成長することを、覚えようではありませんか!


 ある人の語る「異言」を、一つ一つ文法的に解釈し、「通訳する」ことは不可能です。「異言」を説き明かすことは、同時通訳ではありません。それは「異言」を語ることと、「異言」を説き明かすことが、ある面で同じ「霊的な流れ」にあるからです。つまり、「説き明かし」自体も「霊の言葉」であり、同じ内容の「霊の言葉」を語っているのです。あの「五旬節革命」に起きた現象が、実はこれに当たります。ですから「異言」を語る者と、「異言」を説き明かす者は、聖霊によって一つの「流れ(音色)」を語っています。私もかつて経験したことですが、自分が「異言」で祈っている時、自分の「意志」は「日本語」で思考しています。つまり、自分の唇は「異言」を語っているのですが、自分の意識の中では「日本語」の思考をもって神と交わっています。この時に「異言」を説き明かす者が、自分の語る「異言」を、紐解くように説き明かし始めますと、自分の語る「異言」を文法的に通訳している訳でもないのに、自分の「日本語」の意識と全く同じ流れの内容の、「説き明かし」をしていることを、自分の「耳」で把握できるという体験をしました。


 何故「異言」に、このような奇跡(しるし)が現されるのでしょうか?聖霊様が、「異言」を語る者の「苦しみ」や「訴えたいこと」、又言い難き「嘆き(うめき)」などの、いわゆる「三次元」の言葉(日本語)で表明できない、「霊の次元」の中に働き始めると、別の者が同じ聖霊に導かれて、「霊の次元」から「説き明かし」をする時に、それが、「啓示」「知識」「預言」「教え」となって現れ出るからです。つまり、聖霊様が「異言」を語る者に現そうとしているご自分の「意志」を、他の者の「唇」を通して代弁しているのです。再度繰り返しますが、「異言」には四つの「音色」が伴ってきます。そしてこの「音色」が、一つの大きな「神の流れ」になる時、「虹色」のように調和された「音色」が、明確に現れ出て来るのです。


 「啓示」「知識」「預言」「教え」の各「音色」は、個別に独立したカラーに見えますが、全体的な流れの中ではイエス・キリストの「栄光」、即ちイエス・キリストを信じる全ての者に、父なる神から与えられる素晴らしい「救い」の御業と、聖霊様の現す確かな「しるし」をもって、あなたを完全に贖い出した事実、つまりイエス・キリストの「十字架の御業(栄光)」が現れるのです。D・ウィルカーソンは、次のように述べています。「もしあなたが預言するとしたら、その預言には一つの目的があります。それはキリストに栄光を帰し、世の人たちにも教会にも主を愛するようにさせることです。」(注)その後あなたは、霊的に二度と見捨てられることがなく、主なる神が聖霊を通して常に愛し、又見守りつつ「正しい道」へと導いて下さるという、天の「励まし(メッセージ)」を日々受け取るようになります。


 私たちを、主なる神との「明確な関係」、即ち「親しい交わり」へと結び付けるべく、天上から与えられる素晴らしい「命の言葉」が、「預言」に当たります。そして「教え」とは、私たちに対する本当の確かな「道しるべ」、つまり「イエス・キリスト」を与える(示す)言葉です。ですから、この四つの「音色」の行き着く「ゴール(目標)」は、全て「主イエス・キリスト」です。私たちが、様々な「賜物」を生かし合い、又用い合って礼拝した時に現れ出る「主旋律」は、「御国の栄光」を称える調べ、つまり御国に居ます「花婿」イエス・キリストに対して奏でる、「愛の歌」に他なりません!私たちは常に、このような御国の「美しい音色」を、聖霊によって霊的に賛美したり、私たちの賛美に呼応して、天使たちが奏でる「天上の歌」を、是非聞いてみたいものです。多分彼らの方が、「天上の礼拝」を常に捧げている故に、私たちの奏でる「主旋律」よりも、更に「美しい音色」を奏でるとは思いますが・・・・。


美しい言葉
 私たちが普段使用している、「日本語」においても見られることですが、ある人と会話した時に「この人は、何て美しい日本語を使っているのだろう!私が、いつも使っている言い回しと、同じ表現であるのに、この人が使うと妙に美しい響きがする。」などと、自分の心が自然となごむことから、更にその人と会話する機会を得ようと、努力することがあります。「美しい言葉」を語る人は、心の中にシンプルな「美しい言葉」が、いつも豊かに用意されています。そのような人は「言葉使い」において、一々頭の中で考え巡らす必要もなく、瞬時に相手の「人生経験」や「心の状態」を汲み取って、その人に「飾り立てた言葉」ではなく、本当に必要(適切)な「言葉」を、無駄のないシンプル(素朴)な「言い回し」で語ります。このことは、ある面で「預言」の言葉に通用します。神から与えられる「預言」には、無駄がありません。「神の言葉」は、全て麗しい(美しい)シンプルなものです。しかし同じ「神の言葉」でも、ある人が語るとその表現が汚く、聞き心地が悪く感じられるのは、既にその人の「心(意志)」が、意図的な「言葉」となって現れ出ているからです。そのような人々は、必ず「エゴ色」を帯びた「自分の言葉」を語っています。


 このように「言葉」というものは、使用する者の「意志(意図すること)」によって、様々に「音色」が変化してきます。ですから、私たちの語る「異言」が、神に向かって語っているならば、必ず「美しい方向」に導かれます。つまり、イエス・キリストとの「親しい交わり」からもたらされる、「御国」を語る「霊的次元」にまで導かれることを、私たちは信じようではありませんか!私たちは、時々「我(自己)中心」の方向に向って、「異言」を語ることもあるでしょう。特に私たちが、言い難き「うめき(苦しみ)」にある時は、「主よ!私の・・・・、私を・・・・、私に・・・・、私は、どうしたらいいのでしょうか?」などと、「我中心」に祈り叫ぶだけです。しかし「その時」、聖霊様は霊的な「慰め」と「励まし」を与え、必ず霊的な「助け手」を送って下さることを、私たちは信じようではありませんか!聖霊様は全てご存知です。私たちが「異言」を語る前から、私たちの「霊の状態」を探られます。


 「異言」は、必ず「成長」と「変化」を伴います。ならば私たちも、霊的に「良き方向」へと成長し、素晴らしい「神の国」の変革者として、この世に「良き変革」をもたらすことのできる、聖霊による「言葉の使い手」に仕立てて戴きましょう!必ず「希望」はあります!この四つの「音色」の変化は、純粋にイエス・キリストを求め渇く者に対して、必ず与えられるものであることを覚えて、主イエス・キリストの「美しい言葉」を霊的に食しながら、前進して参りましょう!


注、D・ウィルカーソ著『ただキリストを求めて』(角笛出版)153項か引用


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