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言葉の革命(No.24)

                            異言を語るとは?



愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分りません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。・・・・異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
                                                                                                 【Ⅰコリント書14章1~5節】


 私たちは、このパウロの「手紙(文面)」から、単純に「異言の賜物より、預言の賜物の方が優れている。それ故に、預言の賜物を求めていく方向に、私たちは切り替えるべきである。又異言の賜物は、初歩的(基本的)なものであるから、それよりも優れた賜物を、これから求めるべきである!」などと、「誤った判断(解釈)」をする危険性があります。


 しかし、パウロの「書簡」の文面を全体的に把握しながら、前後関係の流れに留意して読み進めて行きますと、彼が「預言の賜物」と「異言の賜物」を比較して、どちらが優れているかなど三次元レベルの比較論を、述べている訳ではないことが分ります。つまり、彼は「賜物」の優劣について述べているのではなく、「異言」を語るとはどういうことなのか?預言をすることが、どのような方向性をもって語っているのか?そして、「異言」と「預言」には各々に役割があること、しかしこの二つの賜物は、個別に独立した働きをするのではなく、互いに密接な関わり方が必要である、つまりバランスの取れた一つの方向性をもって、各々に役割を果たさなければ、必ず不和(混乱した)状態が起きることなどを、詳しく説明しています。「預言」も「異言」も、一つの「言葉の賜物」です。この「言葉の賜物」を、霊的に正しく把握しなければ、「誤った方向」に用いる危険性があります。


 ある「事柄」について全く知らない人に、あなたがそれを説明する場合、いったい何を語ったらよいのでしょうか?例えば、「光(太陽光)」の存在を全く知らない、ある深海生物に「光」を説明せよ!と言われても、彼らの「意思疎通」方法を知らない、私たちには到底不可能なことです。ある面で「異言」は、正常な人間の「耳」に入った時、その音声は「言語のようなもの」という認識はできても、その語る内容が殆ど理解できない言語であり、「異言」でこの世の常識(三次元的判断)を説明することは困難です。しかしこの「言語」を語らせる方、即ち聖霊様が私たちの「霊」に働きかけ、「異言」の語る内容を「知恵の言葉」や「霊的洞察」、又「預言的言葉」として同時に与えて下さるのであれば、あたかも同時通訳しているかのように、「内容」が明瞭に説明できるものになります。


 以上のことから、「霊の次元」という未知の領域は、聖霊様が導かれる「霊的な法則」によってしか説明することができない!、この原則が導かれます。これは神の言葉である、聖書の御言葉にも当てはまることですが、人間的な三次元の知恵によって、聖書の御言葉を判断(解釈)することは不可能であり、聖霊の「啓示」を通して与えられる、神の次元の「霊の言葉」によらなければ、神の御言葉は説明できません。しかしこれは、聖霊様がいつも示して下さるものではありません。来ない(示されない)時もあります。そのような時には、パウロが忠告しているように、「黙って」いた方が良いのです。


霊的な賜物
霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(1節)


 第一に、「霊的な賜物」を求めるとは、何を意味しているのでしょうか?私たちは時々、「賜物」のみを与えて下さい!と祈り求める傾向にあります。しかし「霊的な賜物」を求めることは、「霊的な」という言葉が付記されているように、「賜物(道具)」だけを下さい!と求めるような、三次元レベルのことではありません。道具だけを求めることは、「成功(成長)する方法」や「力」を下さい!などと祈る、三次元の領域に生きる者の姿勢です。しかし、「霊的な賜物」を求めることは、「賜物」を与えて下さる方、又その賜物を管理される方を、弟子(下僕)として求める者の姿勢です。ですから私たちは、「賜物」を与えて下さる方を求める時に初めて、「霊的な賜物」を授かることを常に覚えて下さい。


 「道具」が実際に付与された時、それをすぐ使用できる訳ではありません。熟練した大工は、弟子入りしたばかりの「新入り」に、いきなり「道具」を与えることはしません。仮にその「新入り」が、
「私にもその道具を握らせてもらえないでしょうか?」
などと、道具を求めるような発言をしたら、逆に睨み付けながら、
「お前には未だ早すぎる!黙って俺(の仕事ぶり)を見て覚えよ!」
と叱り付けます。この「見て覚えよ」とは、熟練した大工本人の動き(仕事ぶり)を、一部始終「見る」ことです。そしてこの時から、「新入り」は「見習人(見て倣う者)」として、この大ベテランの大工と一緒に、日もすがら作業場において、「交わり」が深められていくのです。


 ですから、パウロが述べる「霊的な賜物を・・・・求めなさい。」とは、私たちが「霊的な賜物」を付与された時に、この「道具」をどのように使用したらよいのか、その方法を啓示して下さる方(聖霊様)に、依り頼むことを勧める言葉です。「賜物」が付与されたからといって、すぐに使用できる(使いこなせる)と言える者は誰一人いません。神の奥義である、「霊の次元」に隠されている「賜物(天上の宝)」は、特にその使用方法が、聖霊様に依り頼むという方法以外に啓示されません。ですから、私たちは「賜物」の管理者(オペレーター)である聖霊様と、じっくり腰を据えて霊的に「見習う」必要があります。「霊的な賜物」は、全て四次元の「霊の領域」に属するものであことを、今一度覚えて下さい。


 第二に、「預言するための賜物」を求めるとは、何を意味しているのでしょうか?新改訳では「預言の賜物」と訳していますが、「預言の賜物」と「預言するための賜物」とでは、当然意味合いが違ってきます。「預言するための賜物」とは、預言的な言葉のことを指し、例えば「預言的啓示」や預言的な「新しい言葉」を語る「賜物」のことです。パウロが12章で指摘しているように、全ての者が「預言」を語ったり、「癒し」を施したり、奇跡的な「業」や「しるし」を行ったりする訳ではありません。


 しかし14章において、「愛」を追い求めること、特に「預言するための賜物」を熱心に求めなさい!と、一般的に命じていることを考慮すると、これは限られた人々にだけ付与される、特別な「賜物」を意味するのではなく、求める者全てに対して与えられる、一般的な「賜物」であることが分ります。ジャック・ディアは、次のように述べます。「神は、特別に賜物を与えた預言的な人々にだけではなく、御自身の子供たち全員に話されるのである。そして驚くほど詳細に話されるであろう。」(注)聖霊の「啓示」を通して、パウロが記述したこの「命令」は、私たちにとって非常に重要な「霊的指針」を与えています。「預言の賜物」は、全ての者が与えられるものではありませんが、「預言するための賜物」は、求める者全員に「天上の恵み」として降り注がれる、貴重な「天の宝(賜物)」です。


 では如何にして、この「預言するための賜物」が与えられるのでしょうか?そこで、先ず私たちは「異言を語る」方向性と、「預言を語る」方向性のイメージについて、霊的に正しく把握しなければなりません。「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。」(3節)、「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」(4節)この二つ御言葉から導かれる重要ポイントは、「異言」を語る方向性は、明らかに神へ向かうことです。


 「異言」を語ることは、「異言」で祈ることを含めてイメージすると、その語る対象者が「人」ではなく、「神」であることを覚えて下さい!例えば「異言」で祈っている時、仮に自分の語る「異言」を「人」に聞かしている(人を意識して祈っている)場合、それは単なる三次元的レベルの、「宗教行為」をしているに過ぎません。悪霊は、この種の祈りを好みます。しかし、その祈りが「神」に向かい、神ご自身を求める「正しい方向」で語るならば、神の「霊の次元(天的領域)」に奥深く入った、美しい「霊の言葉」になっています。「正しい方向」に語る「異言」は、必ず神との「親しい交わり」を更に深めます。


 それに対して「預言を語る」ことは、神の「御心」を啓示された時に、天上から「知恵の言葉」として「人」に流れ出る、「命の水(天の雨)」のようなものです。つまり天上から与えられることが、「預言を語る」方向性です。「異言を語る」ことが天上(神)に向かって流れ昇るのに対し、イメージ的に「預言を語る」ことは、天上から流れ落ちる神の「命の水」です。天上に向かって「異言」で祈った時に、行き届いた先にある神ご自身の応答として、神の奥深い「啓示(神秘)」が、「人の唇」を通して示される時、それが「預言的な言葉」となって、天上から下(人)に向かって降り注がれる降り注がれる(流れ落ちる)のです。


 「預言するための賜物」は、ある面で預言的な方向をもって、神の「御心」を「知る」ことを欲する、全ての者に与えられる「賜物」です。そういう意味で「異言」を語ることの中身は、何種類かに分類できると言えます。「とりなし」的な「異言」を語る者もいれば、只単純に「礼拝」的な「異言」で賛美する者、そして「自分の願い」を、「異言」で祈り求める者もいるでしょう。そして「預言するため」の「異言」も、実はこの分類中の一つです。特に、「とりなし」の祈り手がよく経験することですが、ある時自分が「異言」で何を祈っているのか分らないのですが、突然に「ある人」の思いが神から示され、その人のことを霊的にとりなすように促されます。そして何時間か祈った後で、その「異言の祈り」に対する明確な答え(確信)が、神から急に啓示されることがありますが、これが「預言」や「知恵の言葉」、又「霊的洞察」として示されるのです。ですから「預言するための賜物」は、「異言」を語る中身の一つです。


 例えば、次のような「思い」を抱きながら「異言」で祈った時、果して神から何らかの「啓示」が示される(与えられる)のでしょうか?「主よ!私はどう見ても、あの方が落ち込んでいるように見えます。それ故、今から私は異言で祈りますから、落ち込んでいる理由(原因)などを教えて下さい!そうすれば、私が励ますことができますから・・・・。」神は、この種の「三次元思考」から来る憶測(判断)で、私たちが「異言」で祈ったとしても、神の奥深い「霊的領域」に導かれることはありません。


 聖霊様は、私たちが常にローマ書8章27節に立ち返るよう、霊的に促しておられます。つまり聖霊様は、言い難き「嘆き(うめき)」の状態にある人に働かれます。私たちが、三次元の領域に「のほほん」と座している限り、これは言い難き「嘆き(うめき)」の状態にあるとは言えません。ましてや「とりなし手」が、「うめき」を伴うほど霊的苦難の状態にある人と、「共に座す」という領域に、聖霊様によって導かれない限り、「霊的洞察」などの「天上の賜物」が与えられることはありません。


 三次元の「肉眼」で判別(判断)できたから、「霊の次元」のことも認識(理解)できるのではありません。聖霊様が働かれる時には、自分が思いもしなかった時に、突然「思いもしない言葉」をもって示して下さるのです。聖霊様が示される「霊の次元」の言葉は、必ず相手を励まし、そして造り上げるなど、霊的に建て直します。しかし、私たちの三次元の「肉眼」ほど、偏見(フィルター)に満ちたものはありません。特にインナーヒーリングを必要とする、心の奥深い部分で傷を負った人々に対して、聖霊様はあえて「思いもしないような人々(自分が避けるようなタイプの人)」を連れて来て、心の傷を癒すなど、人格全般に渡って再建を施す場合があります。


 例えばこの地球上には、数多くの「植物」が存在しています。この「植物」は、昼間は二酸化炭素を吸収し、酸素を吐き出すという、「光合成」作用の働きをしています。しかし夜間になりますと、私たちと同様に酸素を吸収し、二酸化炭素を吐き出します。「植物」の世界には、このような「自然の法則」、即ち「二酸化炭素+光→酸素+水」という、「光合成の法則」が定められています。それと同様に、私たちが「異言」を語ることは、あたかも霊的な「呼吸」をすることであり、しかも神(霊的光の次元)の方向に語った時に、「真理の光」の源イエス・キリストの、「御心」の中に私たちの「異言」が吸収され、「神の光」の領域と交じり合います。「その時」、何が起きる(発生する)のでしょうか?


 私たちの「霊的呼吸」から吐き出された「異言」を聞いて、聖霊様がとりなして下さった結果、私たちが思いもしなかったような、つまり自分の内側から決して生み出すことのない、四次元にある奥深い「啓示」が示され、そして唇から聖霊の「啓示」が吐き出される時に初めて、他者を霊的に潤し(励まし)、「徳」を高める霊的な言葉、つまり本当の意味で他者の「霊」を生かす、「霊的な言葉」が出て来るのです。これが、「預言するための賜物」です。預言を語る方向性は、必ず他者を潤し霊的に生かすなど、「神の力(エネルギー)」を生み出します。ですから「異言」には、素晴らしい「神の力」を引き出す効果があります。「異言」が「自分」を造り上げるのに対し、「預言」は「人(他者)」を、引いては「教会」を造り上げるものです。つまり「異言」が、「内なる人(自分)」を造り上げる(変革する)べく、「神の力(エネルギー)」を天上から引き出すのに対し、「預言」は「外なる人(他者)」を造り上げるなど、言わば外側に対する「変革のエネルギー」を、聖霊の「啓示」を通して供給するものです。


 植物は夜間、有害物質の「二酸化炭素」を吐き出しますが、「光」ある時(昼間)は、素晴らしい「命の水」と、他の生物が生きるのに必要な有益物質、つまり「酸素」を供給することで、この地を「良きもの」で満たします。それと同様に「異言」を語ることは、この世の「三次元」の暗闇の領域を切り開き、「神の光」という「四次元」の天的領域を、人々に供給することのできる、「霊的変革」の武具であることを覚えて下さい!


 このようなイメージをもって、私たちが霊的に「とりなしの祈り」をしたり、「預言的な祈り」を捧げる時、又霊的に私たちの信仰がひどくダウンしている時、この世の「暗闇」を打ち破ることのできる「神の力」が、必ず「異言」の中に存在する!と、このような「イエス・キリストの信仰」が、聖霊様を通して与えられます。私たちが「異言」で祈っている時には、いったい自分が何を語っているのか、霊的にさっぱり分らないような、「暗中模索」の状態が続くかも知れません。


 しかし確実に言えることは、「異言」の持つ秘められた「神の力」は、「三次元」の暗闇を切り開きます。そして必ず「神の光」が、私たちの「霊」の只中に差し込んで来る、そのような「天の啓示」が示される時、神の奥深い「四次元」の霊的領域へと、私たちは一歩ずつ前進しているのです。特に、私たちが霊的苦難にある時の「祈り」は、相次ぐ迫害を被ったダビデのように、ひたすら「主よ!すぐに私を贖い出して下さい!この暗闇より引き上げて下さい!」などと、肉なる「叫びの祈り」しか出て来ません。しかし、ある時急に「神の光」が差し込み、父なる神の臨在が「霊」を覆い始め、「聖なる安息(充足)」に導かれることがあります。これが「異言」の持つ、「神の力」の現れです。


命の木に接木される
 「異言を語る者が自分を造り上げる」(4節)と記されていますが、これは「異言」そのものが、即「変革のエネルギー」になる訳ではなく、私たちが「神の光」の霊的次元(領域)に、少しずつ入っていくことにより、いつしか「自分」という存在が、「命の木(イエス・キリスト)」に接木され、イエス・キリストの「肢体」、つまり「み体」の一部分として、自分が造り変えられることを指し示しています。


 これは、「異言」を語る全ての者に共通する経験です。初期の段階の「異言」は、確かに幼稚で何も分らないような、「霊の言葉」を語っているだけです。しかし確実に言えることは、聖霊様を通して更にイエス・キリストに近づき、「自分の存在」がイエス・キリストの「臨在」の中に、接合され(覆われ)ていくという現象(イメージ)が、「信仰」として与えられることを覚えて下さい!これは、自分の「肉の力」によって、生み出す(想像する)ものではありません!「異言」には、神の領域へと引導する「神の力」が備わっています。私たちは、最終的にイエス・キリストと接木された時、それは全く切り離すことのできない、「結合状態」になります。又私たちは、この接木状態から更に「一本の木」へと、完全に「一体化」された状態に変えられるのです。


 切ったばかりの「切株」に、別の種類の一本の枝木を接木しますと、最初は「切株」に接木された「別の木」のように見えても、暫く何年か経て行きますと、実は「切株」とその「別の木」の接合部分で、樹皮どうしが完全に覆い重なり合って、「一本の木」として完成されます。その木は、根は「切株の根」で生き、又その木の「生命力」によって、「地下水」を汲み上げることが可能になります。このように、私たちは霊的に「自分(別の木)」を見た場合、本来「自分の根」では決して生きることができなかった者ですが、イエス・キリストの「十字架の贖い(切株)」により、「一体化」される時に初めて、「命の法則」にあずかることが可能になります。そして何よりも素晴らしいことは、私たちは一つの「切株」に各自が接木され、その枝独自の「実」を結ぶよう計画されていることです。


 全ての「肢体」がバラバラに接木され、その枝独自の「実」を結びますが、一つの「切株」を通して、「美しい実」を産み出すことができること、これがイエス・キリストの「み体」につながる、素晴らしい「奥義」です。「異言の祈り」が、全て同じコピーを造り上げるものであったら、私たちはあえて求めないでしょう。その人にしかない、「麗しい実」を結ばせて下さると、主イエス・キリストが約束していらっしゃるから、「私にも与えて下さい!」などと、へり下って求めるのではないでしょうか!


 「異言」によってもたらされる、素晴らしい「天上の祝福(実)」は、「異言」そのものが千差万別であるように、個性に満ち溢れた「麗しさ」が、個別に用意されています。ですから「霊と真による礼拝」も、一人一人が決められた型(スタイル)ではなく、自由に個性をもって捧げることを、聖霊様は強く望んでおられます。しかし、このような多様性に富んだ礼拝にあっても、私たちは「共通の思い」をもって御前に出ます。それは「大幹は一つ」、即ち「イエス・キリストに在りて、我生くる」という、共通の「信仰」です。


真の光を求める時
 冒頭の質問に戻りますが、私たちが深海生物に対して、太陽の「光」を説明するには、どうしたら良いのでしょうか?私たちがいくら自分の言葉で、「光」を説明したところで、彼らの言語に訴え理解できる言葉は、いつまで経っても出て来ませんから、相互理解は不可能です。そこで、無理矢理彼らを海面まで連れて行き、太陽の「光」を見せようと手のひらに乗せ、高々と海面上に挙げます。しかしこの時点で、実は彼らが「太陽光」を見る前に、既に死んでいることに気付くべきです。彼らの住んでいる深海の水圧と、海面部水圧及び海上の気圧とでは、余りにも懸け離れているので、彼らは生きることができません。ですから、彼らに対して「太陽光」を見せるためには、深海で「太陽光」を再現するしか方法はありません。


 しかし私たち自身の中に、「太陽光」を産み出す「力」は存在しません!自らの中に「言い難き」、「説明し難き」ことを、聖霊様は為すことのできる、唯一の「助け主」です。聖霊様は、私たちが「言い難き」うめきの状態にある時も、「天上の言葉」を啓示して下さいます。深海生物のように、絶えず「暗闇」に覆われた「この世」に生きる人々に、真の光「イエス・キリスト」を説明するには、自分の内側から「光」を耀き放って下さる方、つまり聖霊様に依り頼むこと以外に、方法がないことを知って下さい!


 この時私たちは、「主よ、光を示して(与えて)下さい!」などと、「賜物」のみを追い求める祈りはストップしましょう!「主よ、光の源である、あなたご自身を、私は求めます!あなたの光の中に導いて下さり、あなたと直接交わりたいのです!ですから、あなたの真の光に満ちた愛の言葉、霊の言葉を示して下さい!そして私の霊の只中から、あなた自らが光り輝いて下さい!自分の力で、あなたの光を生み出し得ません!あなた自身が、更に光耀き出ますように!」などと祈ること、これが「異言」を語る上での、「正しい方向」につながっていくのです。


 「私が語る」のではなく、「あなた自身が語って下さい!」などと祈り求め、主イエス・キリストとの「親しい交わり」の領域に導かれる時、必ず「預言するための賜物」が与えられます。ある時には、「知恵の言葉」を語るのに必要な時が備えられ、その人にしか分らない「奥義」を示されます。その「知恵の言葉」を聞いた者は、大抵驚きの余りびっくりするようです。「どうして、今の私のこと(状態)が分ったの?あなたは、私のことを知らないはずなのに・・・・」、「どうして分ったの?誰にも話していないことを・・・・」これらは全て、預言的な「知恵の言葉」です。


 全ての「賜物」は、与える方ご自身が「唯一の方」であるのと同様に、「一つの目的」をもって聖霊様が管理し、そして必要に応じて備えて下さいます。それは最重要事項である、神との「親しい交わり」にあずかった者が、他者を豊かに生かす(潤す)べく必ず与えられるものであり、「暗闇」に生きる「この世」の人々に、「真の光」である主イエス・キリストを、明確に投影(反射)することのできる、「変革された人々」を造り上げるための、熟練した大工(聖霊様)の道具です。道具(賜物)だけ早々と、「自分の手」に掴んだり、或いはすぐに使用し、自分に「栄光」を帰そうとする者には、聖霊様は「天上の宝」を贈りません。そればかりか、与えた「賜物」をも取り上げます。


祈り
 主よ、あなたが本当に「真の光」であり、暗いところが何一つなく、私たちを本当に照らして下さる方であることを感謝します。


 更に、あなたを求めて行くことができますように!


 もっと奥深いレベルで、あなたと交わることができますように!


 この「異言」を私に豊かに与えて下さり、また「預言」を与え続けて下さることを感謝します。


 主イエス様、どうぞあなたが「奥義」をもっと明確に示して下さり、あなたともっと「一体化」されることを、切に求めて止みません!


 主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注、ジャック・ディア著『御霊の力に驚かされて』(真菜書房)358項から引用



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