バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.23)

                                                         異言の役目



愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。幼子だった時、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それ故、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
                                                                                       【Ⅰコリント書13章8~13章11節】


三つの反応
 私たちの前に、「新しいもの(こと)」や「新しい変革」の波が到来した時、実は「三つの選択肢(反応の仕方)」が用意されていることを、先ず知らなければなりません。つまりこの「選択肢」は、私たちが現状の生活に対して、如何なる「思い」を抱いているかによって、反応の仕方が三通りに分かれてきます。


 先ず第一の反応は、「新しいもの」が到来しても全く反応を示さない、つまり「無関心」な状態にあること。第二の反応は、「新しいもの」に対して拒絶すること、即ち「私は、そのような新しい波は必要ありません。又、私にとって新しい流れは、到底受け入れられないものですから結構です!」などの態度をとること。第三の反応は、決して現実の状態に満足することなく、常に「新しいもの」を渇き求めている人々が、「待ってましたー!」などと喜んで受け取ることです。


 第一の「無関心」な状態にある人々は、ある面で中途半端な生き方をする者です。彼らは、自分自身が「古い状態」にあるのか、それとも「新しい状態」を求めているのか、全く分っていません。そして、彼らは今の「古い状態」に対して、自分が満足していることも知り(把握でき)ません。


 第二の「拒絶反応」を示す人々は、ある面で「自分は、このままでいいのだ!」などと、「自己中心」主義に生きる者です。又、「私は、今のこの状態に満足しているのだ!この満足状態を打ち壊すような流れは、私にとって必要ないものであり、絶対受け入れられない!」などと、「保守(伝統)」主義を貫く者でもあります。彼らは必ず、「私たちの団体教理に合わない考え方(教え)は、絶対受け入れられません!」、「リニューアル!とんでもない。」、「異言!これは使徒行伝時代の、過去の遺物なんだから、現代の我々には到底受け取れるものではない!」などの反応を示します。


 第三の反応、これは常に私たちに求められる、姿勢(態度)を示していますが、「自らの状態に決して満足せず、あくまで渇き続ける姿勢」を貫くことです。たとえ自分の器の中に、「新しい水」が十分注がれたとしても、「主よ、もっと注いで下さい!もっとあなたに近づきたいのです!もっとあなたの、良きもので満たして下さい!」などと、霊的に飢え渇く姿勢で生きる者です。この第三の反応は、何となく「貪欲な姿勢」に見えますが、主イエス・キリストを求めることにおいて、私たちが激しい霊的貪欲(ハングリー)を貫くことは、決して「罪」に至る悪しき姿勢でもなく、むしろ聖霊様が喜ばれることです。しかし、それが「自己中心」的な願い (欲)を優先させて求める時、「罪」の次元に陥る危険性はあります。


 私たちは、自分の「霊的状態」を客観的に捉えた時、「古い着物」を着ているような状態にあることに、果して気付いているでしょうか?仮に私たちが、現実の生活で本当に「古い着物」を、何年にも渡って着続けるとしたらどうでしょうか?その時の反応は、例えば
「私は、これが気に入っているのだから、あんな流行は要らないわ!」
と言う人もいれば、
「私の家計では、とても買える代物ではないから、これで我慢するのよ!新しいもの?今着たところで、どうせいつかは古くなることだし。私が着ている、この服はかなり長持ちしているから、今のところ、これでいいわ!」
などと満足する人もいます。


 しかし、
「いいえ、私はいつも鏡を見る度に、自分の今の姿をとても恥ずかしく思う。又我慢できない!今のボロ着を着ていたら、いつまで経ってもみすぼらしいままだわ!だから、もっと頑張って貯金してでも、新しいものを必ず買い揃えよう!」
と思う人は、必ず「新しいもの」を手に掴みます。


 以上から分るように、「古い着物」を着た自分の状態に、果して自分が気付いているか否か、それが選択の分かれ目(分岐点)になります。その時に「古い着物」を、自分がどう思うかが問題ではなく、自分の「現実の姿」をどのように把握しているか、これが肝心なことです。そして、常に「鏡」を見ながら、自分の「現実の姿」を客観的にチェックしているかどうか、これが重要な姿勢です。そしてこのことは、霊的な面についても同様です。聖霊様は、私たちに前もって言われます。「あなたに対して、朽ちない永遠の聖なる衣を用意しています。花婿イエス・キリストにふさわしい、花嫁衣裳を新着して(あなたに)着せましょう!それ故天上から、必ず新しい衣が着せられることを、あなたは待ち望んでいますか?」


 天上から、朽ちない「新しい衣」を着せられた者にとって、今まで着ていた「古い衣」は、ただの「廃棄物」に過ぎません。これが重要な考え方です。天上から、私たちが「新しいもの」を戴く時、「古いもの」は過ぎ去るのです!「新しいもの」が、いずれ「古いもの」になるようなものであれば、私たちは考え直します。しかし、イエス・キリストが言われる「新しいもの」は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ福音書4章14節)もの、つまり「朽ちないもの」です。


 あなたは、いずれ枯れ果ててしまう「古い井戸」から、あえて「朽ちる水」を求めようとしますか?いいえ!スカルの女性が、直ちにイエス・キリストに対して、「その朽ちない永遠の命の水を、私にも飲ませて下さい!」と願い出たように、私たちもイエス・キリストの御前にへり下り、朽ちない「新しい衣」を願い求める姿勢が必要です。それ故、私たちが今大切にしている「古いもの」は、いずれ「新しいもの」が到来した時に、全てが過ぎ去る(棄てられる)ものであることを、私たちは再認識しましょう!


 以上のことを踏まえながら、パウロによって記述された8節以降の御言葉を、聖書的にどのように把握していったらよいか、聖霊様に教えて戴きましょう。これは、未だ聖霊の恵みを知らない人々、又「異言」などの「聖霊の賜物」に関して、全く知らない(知らされていない)人々に、この御言葉をどのように解釈(適用)していくか、そのことに大変役立ちます。実はこのことは、彼らが今まで教えられてきた伝統主義神学が、誤った「人間的解釈」を施してきたことを教え導く上で、非常に重要な作業となります。


「終焉説」の誤り
 先ず、「愛以外の賜物は全て、その時至らば役目を終える」ことを覚えて下さい。「賜物」は、各々にその役目(役割)があります。父なる神は、何故新しい「神の国」の到来の時にではなく、この世の「古い次元」に生きる私たちの「今の時」に、様々な「賜物」を与えているのでしょうか?それは、神がその「賜物」一つ一つに、必要な役目(役割)を計画しているからです。又父なる神が用意する、新しい「神の国」が到来した時に、「賜物は役目を終える」のです。最高の賜物「イエス・キリストの愛」は、いつまでも存続する(残る)のですが、それ以外の「賜物」は全て役目を終了します。


 ですから、伝統主義神学者が提唱する「愛以外の賜物は、使徒行伝時代に終了した故、今の時代には必要ない!」などの解釈に立ちますと、様々な矛盾が生じます。彼らは、この解釈を「終焉説」と呼び、「使徒時代」に起こった様々な聖霊の「しるし」を、「過去の産物」として承認していますが、今の時代に至って聖霊の「しるし」が現されない根拠を、「神の役目は使徒時代に終了した。今の時代は、神の国の到来に向けて別の役目(目的)が始まっている。」などの「理由付け」をしています。


 しかし父なる神は、私たちが「その時」を定めてはならない!と命じています。今の時代が、果して神の国の「力」が圧倒的に、悪の「力」を完全に支配するまでに至っているでしょうか?そしてキリスト者たちが、使徒期以上に麗しい「コイノニア」を持ち、いわゆる教団・教派の争いもなく、皆が聖霊の元に一致して、神の国の「栄光」を目標に、「キリストの花嫁」全体が整えられるべく協力し合っているでしょうか?答えは「否!」です。ですから「終焉説」が、明確に「誤った解釈」であると断言できます。神の計画しておられる「その時」は、未だ終了しておらず、先に用意されているのです。


「異言」の起源
 では「異言」とは、本来どのようなものでしょうか?私たちは「異言」の役目について、改めて聖霊様から教えて戴きましょう。


 ところで「異言」の起源は、いつ頃始まったのか?この点について、私たちは考えたことがあるでしょうか?いわゆる「異言」という用語は、「五旬節革命」の時から使用されました。しかし私たちは、神が与えて下さった「新しい言葉」に関して、改めて霊的に考えていく(思い巡らす)時、実は「最初の人」アダムが父なる神を通して、「命の息」が付与された時点に立ち返るべきではないでしょうか!父なる神が、「命の息(聖霊)」をアダム(土の塊)の中に吹き込まれた時、人は「生きる者」になりました。その「生きたフォーム」としての現れが、赤子が出生時に泣き出すのと同じ有様で、「霊的産声」を発したことです。これが、「人」の唇から「命の言葉」として現れ出る、つまり「霊の言葉」の始まりでした。アダムは、父なる神から「命の息吹」を吹き込まれた時から、父なる神の「命の言葉」と同じ、「霊の言葉」を語り始めました。ですから「異言(霊の言葉)」の起源は、アダムが父なる神に発音した、最初の「発声音(霊的産声)」に由来します。


 しかし、ご存知のように彼らは罪を犯した結果、神と直接「五感」を通して語り合い、ストレートに交わることのできる、「霊の言葉(完全な言葉)」を失いました。私たちが、普段使用する日本語などの母国語は、いわゆる「不完全な言葉」です。この「不完全な言葉」をもってコミュニケートしていく時、必ず「誤解」や「偏見」、又「錯覚(勘違い)」などを覚えることでしょう!ましてや「不完全な言葉」で、神と交わることは不可能なことであり、そこには必ず限界があります。自分の「意志(心)」の現れである言葉が、相手に百%ストレートに流れる(伝わる)ことはなく、ある時には「偽りごと」になっています。


 しかし、アダムに本来与えられていた言葉は、自分の「意志」がストレートに、神の言葉と同じ「霊の言葉」として流れている故、何の妨げもなく意思疎通し合えるなど、「完全な流れ(伝達)」になっていました。父なる神が
「アダムよ!私の心が見えるかい?」
と尋ねる時、息子アダムは
「お父様!既に心得ています。御心のままに!」
などと、すかさず応じる(反応する)ことのできる、言わば「ツー・カーの関係」が成立していたのです。聖霊様が私たちに望まれることは、このようなストレートな関係、つまり霊的に親しく交わることのできる、「父子の関係」です。


 「命の水」が相互に流れ交じり合いながら、「霊の言葉」が持つ本来の「麗しい関係」が回復されること、これが聖霊様の願いです。しかし彼らの罪により、本来のストレートな関係が「フィルター」によって遮断され、続いて「不完全な言葉」を語り始めるなど、ぎくしゃくした関係に陥りました。それ故、この時から彼らの「霊の言葉」は、本来の素晴らしい天的機能を失い、単なる「人の言葉」という、三次元的な「古い言葉」に変質しました。しかし、五旬節に始まった「聖霊革命」により、再び天の新しい「しるし」として、飢え渇く百二十人の弟子全員に対して、新しい「霊の言葉」が与えられたのです。


 以上から、「異言」の起源はアダムの誕生と同時に始まったのですが、彼らの罪により一時的に喪失します。勿論、旧約時代にこの「霊の言葉」の現れ(しるし)が、全く無かった訳ではありません。父なる神の「ご計画」をもって、選び召し出された預言的な人々の「唇」に、付与されることは多少ありましたが、圧倒的にこの「霊の言葉」の現れ(しるし)が、神を求める全ての人々に付与されるのは、「五旬節革命」の時でした。父なる神は、この時から「霊の初穂」である私たちに、この「霊の言葉」を改めて創造して下さったのです。


「完全な言葉」へと
 しかしこの「異言」は、アダムに本来付与されていた「完全な霊の言葉」ではなく、「部分的な霊の言葉」であることを覚えて下さい。では、「完全なもの」は来るのでしょうか?答えは「然り!」。10節には、「完全なものが来た時には、部分的なものは廃れ」ると記されています。『全体と部分(言葉の革命-No.16-)』で述べましたように、「全体」とは「完全な姿」の現れを指しています。その中では、意思疎通が百%(ストレート)自由に、相互に通じ合うことのできる関係、つまり「完全性」が存在する関係であるのに対し、「部分的なもの」は意思疎通が、「部分的」にしか図ることができない、つまり「不完全な関係」を指します。聖書は、「このようなものは、いずれ廃れていく。」と述べています。


 ですから、「五旬節革命」の時にもたらされた「異言」は、完全な「霊の言葉」ではなく、あくまで「完全なもの」を求めていく上での、一つの霊的「道しるべ」を与える「霊の言葉」である!このように把握した方が理解し易くなります。しかし「完全な方」が来られる時、即ち「花婿」イエス・キリストと、キリストの「花嫁」の「一体化」が完成した時には、部分的な役割を果たすべく、私たちに付与されている「異言」は、役目を終了します。しかし、だからと言って「終焉節」が強調するような、「異言」がある時期で完全に停止し、そして「廃棄処分」になる訳ではなく、「部分的なもの」から「完全なもの」へ移行していく過程での、「お役目ご苦労さん!」というイメージで把握した方が、霊的に分かり易いでしょう。つまり、罪を犯す以前のアダム(エバ)に本来付与されていた時点の、完全な「霊の言葉」へと移行するのです。それ故イエス・キリストと、完全なる結び付き(一体化)が完成した時には、部分的な役目を担っていた「異言」は、もはや必要ありません。


 では完全な「霊の言葉」とは、どのような「言葉」でしょうか?不完全な「この世」に生きる私たちは、聞いたことがありません。「発音」があるか否か定かでありませんが、父なる神と同様に「霊」が思考した(意志を現した)瞬間に、見える「言葉」として現れて来るなど、恐らく「天的次元」に存在する、「完全な言葉」であることは分ります。この「天上の言葉」は、私たちがイエス・キリストと完全に結び合わされる時、私たちの「霊」の思い全てが、既にイエス・キリストの「霊(命)」の中に、完全に覆い尽くされるという、完全な「一体化」に至ります。即ち、不完全なこの世の「古い言葉」に見られる、遮断するものが何一つ存在しない、完全に「美しい関係」です。


異言の役目
幼子だった時、私は幼子のように話し、・・・・思い、・・・・考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(11~12節)


 パウロは「異言」を始めとして、他の様々な「賜物」の役目を、「幼子の時のようなもの」と記述しています。「異言」はある面で、赤子の話す「ナン語(赤ちゃん言葉)」に似通っているのではないでしょうか?私たちは親に成った時、赤子の語る「ナン語」を完全に理解できる者は、一人もいません。何故でしょうか?答えは明瞭です!それは一人一人の「赤子」が、千差万別に「ナン語」を語っているからです。「赤子」どうしの共通語は存在しません。しかし我子を抱く母親には、我子独自の「ナン語」を、ある程度理解できます。それは、母親が常に「赤子」と顔を付き合わせ、意思疎通しているからです。つまり、その「関係」は常に親密で、「母親の心」と「幼子の心」をつなぐ、聖なる(純粋な)関係です。そして「赤子」は、少しずつ「母親」の語る言葉を耳に入れていく時、自分の「唇」から同音の似た言葉を、何とか発しようと努力します。そのようにして「赤子」は、「母の言葉」を覚えていきます。


 以上の如く、「異言」も「幼子」のようなもの、つまり「部分的な」働きしか最初はできませんが、聖霊様を通して父なる神と、霊的に「親しい交わり」を深めていく時、父の「御心」を少しずつ汲み取るようになり、「言葉」としても相手(父)に伝えることが可能になります。これが「異言」の第一の役目です。そして、自分が霊的に完全な「成人」に達した時には、「幼子の時」に語っていた「異言」は、もはや必要ありません。


 しかし、私たちに与えられているこの「異言」は、ある面で幼子として「父」に甘えることのできる、「霊の言葉」であることを覚えて下さい!生まれたばかりの「乳飲み子」のように、私たちは父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊様を慕い求めようではありませんか!そうすれば、甘えることができます。ところで、私たちは「父なる神」に対して、どのようなイメージを抱いているでしょうか?私たちは、自分が霊的に「大人」であると自負する限り、決して甘えることはできません。しかし、私たちが常にへり下って、霊的な「乳飲み子」として神を慕い求めるなら、この新しい「霊の言葉」をもって、「親しい交わり(甘えられる関係)」に、ストレートにあずかることができます!


 「言葉」は、必ず何かを表現(現わ)します。「表現する」ことは、ある面で何かを投影(反射)するもの、つまりパウロが言わんとする、「鏡に映ったもの」です。自分の考えていることを、表現する時に現れて来るもの、つまり浮かび上がって来る(投影して来る)ものが、「言葉」です。ですから私たちの考えている事柄が、「三次元」から投影されるのであれば、不完全な「古い言葉」しか現れません。例えば、私たちが人間的な言葉に依存した、「知性の祈り」を続ける限り、三次元的な「古い言葉」の祈りしか表現できません。つまり、自分の「肉の意志(知性)」の領域以外から、祈りの言葉が出て来ないために、「自己中心」的な祈りに傾いてしまうのです!


 それに対して自分の「知性の領域」とは、別の「霊の次元」に存在する、新しい「霊の言葉」をもって祈るのであれば、自分が何を語っているのか「知性」で判断できなくても、必ず聖霊様の意図する「神の次元」を語っているのです!ある時は神の国の「奥義」を語り、又ある時には「預言」や「知恵の言葉」を語っているかも知れません。しかし一番多く語ることは、イエス・キリストの「美(栄光)」を表現する(現している)ことです!


 「異言」の第二の役目、それは神との直接的な関係へ導くことです。この点についてパウロは、今は「おぼろ」にしか見えない、つまり何かが「ぼんやり」と映っているだけの状態ですが、新しい「神の国」が到来した時には、「顔と顔とを合わせて見る」関係に至ると明言しています。これが神との直接的な関係、即ち「顔」と「顔」を付き合わせる、「親密な交わり(face to face fellowship)」を指します。


 結婚式が、今まさに始まろうとしている「新郎・新婦」の心境は、如何なるものでしょうか?彼らは個別に、各控室にて待機しています。大抵のカップルは、「あー、早く終わらないだろうか!」などと、一時も落ち着かない状態にあります。そのような中で、彼らは互いに相手の着飾った花嫁衣裳(ウェデイングドレス)、そして花婿の凛々しい衣装を、未だ見ることが許されません。そして遂に、「その時」来りて先ず「花婿」が呼ばれ、式場(チャペル)の指定された位置にて待つことになります。しばらくすると、結婚行進曲に続いて「花嫁」が父と共に入場して来ます。段々、「花婿」の元へと近づいて来るのですが、「花嫁」の顔を見ることができません。何故でしょうか?「花嫁」の顔は、未だ花嫁衣裳の「ヴェール」で覆われているからです。


 式が進行し、指輪を交換する時になって、やっと対面することが許されます。「花婿」は遂に、「花嫁」の「ヴェール」を自分の両手で優しく掴み、ゆっくりとめくり上げます。すると、今まで見たことのない最高の「美」に満ち溢れた、「花嫁」の「顔」を拝することができた瞬間、彼は今までの緊張がほぐれ、思わず「愛のまなざし」を「花嫁」に返す(投影する)ことができます。それが彼女にとって、「花婿」の一番「美しい顔」の現れであることを、「その時」十分に受けとめることができます。今まで、「ヴェール」という「覆い」がかぶさり、「おぼろ」にしか見えなかったものが、より鮮明にはっきりと見える「直接的な関係」、つまり「顔」と「顔」を合いまみえる関係に導くことが、「異言」の役目です。


 「異言」の第三の役目、それは「私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と記述されているように、今まで「部分的」にしか知らなかった(見えなかった)ものが、必ず「全体像」を知る(見る)ようになることです。「異言」も、今は「部分的な賜物」の一つです。ですから、神の国の「奥義」や「イエス・キリスト」ご自身に関して、部分的(断片的)にしか把握できません。しかしこの「部分的な賜物」は、イエス・キリストとの「親しい交わり」を、日増しに深めて行けば行くほど、「部分的なもの」が少しずつ拡大され、より「全体像」を理解できるレベルに接近していくのです。例えば私たちが、「聖霊のバプテスマ」を授かった当初は、やみくもに「異言」で祈り続け、「霊的な事柄」を少ししか把握できなかったことが、五年、十年、二十年と「異言」をもって神と交わっていく中で、今まで見えなかった(未知の)神の国の深い「奥義」が、霊的に洞察することが可能になること、これが第三の役目の一つです。第三の役目のゴールは、イエス・キリストとの「親密な関係」を、更に深めて行くことです。


 今は部分的な関係であっても、「その時」至らば全体的な関係、即ちイエス・キリストとの「一体化」につながります。ですから今は霊的に見て、私たちが部分的(パーツ)なレベルにあっても、必ず「その時」は「花婿」イエス・キリストの、「み体(全体)」に完全に組み込まれるのです。「その時」には、もはや「部分的なもの」ではなく、イエス・キリストの「み体」に完全に結び合わされた、「一体(全体)」になります。この時のイメージは、数学的に見れば不合理な「法則」、「1(私)+1(あなた) +1(他のパーツ) +・・・・=1(イエス・キリストのみ体) 」が成立しています。


 余談になりますが、実は「夫婦関係」も「1(夫)+1(妻)=1(一体)」でなければなりません。「1+1=2」になっているとしたら、それは「一体化」した関係ではなく、交わり無き「個別」の関係を指します。「1+1=1」のイメージより、「0+0=1」という新しい関係で夫婦が歩む時に、そこには人間的な「争い」や「離婚」は、決して存在しないでしょう!「私たちはゼロ(0)に過ぎません!あなたは、私より優った方です!二人合わせてイチ(1)として下さる聖霊様に依り頼みつつ、歩んで参りましょう!」などと仕え合う夫婦、これは理想に過ぎないことでしょうか?いいえ!聖霊の大変革により、より「一体化」されたキリスト者夫婦が、増加することを祈って止みません。


言葉による交わり
「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
                                                                                                         【Ⅱコリント5章17節】


 実はこの御言葉から、素晴らしい「奥義」が見出されます。「キリストと結ばれる」には、夫婦を結び合わせる「条件」と同様に、「一体化」を成立させるための、ある「条件」が非常に重要になります。その「条件」とは、言葉による親しい愛の交わりです。この交わりが「麗しい関係」、例えば日本語などの「部分的」な言葉であっても、その中に「親しい交わり」が成立していなければ、いつかは「1+1=2」という「個別」の関係になり、いずれは破綻します。


 ということは、私たちがキリストと結び合わされる過程にも、言葉による「親しい交わり」が必要であり、それを可能ならしめるものが新しい「霊の言葉」、即ち「異言」の交わりです。たとえ「異言」が、「部分的な賜物」であっても、聖霊様の「助け」を戴きながら、私たちが更に「花婿」を求め深く交わっていく時、必ず「親密な交わり」が完成に近づくのです。そしていつの日か、今はおぼろにしか映っていない部分が、「顔」と「顔」を直接見ることのできる、「至聖所」の交わりにあずかっていく中で、はっきりとイエス・キリストの「御顔」を、知る(見る)ことが可能になります。


 ですから「新しい言葉」が、神を完全に「知る」ために用意される、新しい「変革の扉」であることを、再度覚えようではありませんか!「新しい言葉」は、私たちをイエス・キリストと、より一体化させるための重要(貴重)な「霊の言葉」です。私たちは、もはや「古いもの」を求めようとはせず、ひたすら神の新しい「霊の次元」だけを求めて生きるよう、聖霊様が導いて下さいます。


 「新しいもの」が到来した時に、「三つの道」が選択肢として私たちに用意されますが、あなたはどの道を選択しますか?生まれたばかりの「乳飲み子」のように、いつも優しき「御父」の御腕に抱かれたい!と甘えながら、神との「親しい交わり」だけを求める者は、この世の三次元的な「古い言葉」を、聖霊の「助け」を戴きながら廃棄することにより、必ず「新しい言葉」が「天」から注がれ、次々と用意されることでしょう。私たちは自分の「肉の力」で、この「新しい言葉」を語り出した!と断言できる者は一人もいません!これは、聖霊様のみが与えて下さる「霊の次元」の言葉であり、私たちが求めれば求めるほど「霊の次元」の深みが増し、パウロが言明する「異言で一万の言葉を語る」(Ⅰコリント14章19節)領域へ導くものです。ですから私たちは、今はおぼろに映ったものしか霊的に見えていませんが、はっきりと見える至近距離にある、完全な「親しい交わり」の次元に近づきつつあることを信じて、更にこの「異言」をもって、「花婿」イエス・キリストを慕い求めて行きましょう!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する