バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.22)

                              異言見聞録①



 今回は、かつてバルナバ・ブログ診療所を、わざわざ訪問して下さった、ある「キリストの使徒」さんとの「交わり」から、「聖霊」を渇き求める「証言」として、紹介したいと思います。


 彼は当診療所に、一つのメールを送って下さいました。「実際に私たち(夫婦)と会って話しがしたい!」と。そこで2008年7月初旬、関西に出張で来られるとのことで、彼はその帰り道、ちょうど滋賀県長浜市に立ち寄る時間もあり、私たちの教会まで訪ねてこられました。すがすがしい顔立ちをしたビジネスマン、それが第一印象でした。


 彼とじっくり会話をしながら、霊的に交わる中で、しばらくしてから彼は、ポツリポツリと、心の内側にある深い「うめき」を語って下さいました。・・・・彼とは、約三時間だけの「交わり」でしたが、「異言の祈り」に関する、何らかの「促し」を土産として、帰宅されたように思いました。


 以下に、彼からの近況報告の「メール」を、「あなたの証言」として紹介させていただきます。「異言の祈り」は、必ず「天の窓」を開き、神の「御心」が成就されることを信じます。


メール①(2008年6月21日)
 私は、2007年の春に初めて異言を頂き、はや一年ほど経ちました。中学校がミッションスクールだったこともあり、近所の教会に行くようになり、17歳のクリスマスの時に洗礼を受け、現在に至っています。


 異言を語ることが、あまり教えられていない教会です。今もそちらに通っております。異言の経験に至ったことは、神様の恵みに他なりませんが、私がそれを求め、信じたことから動きがあったのかもしれません。


 私は、普通の幸せを求めて結婚しましたが、結婚してからほどなく、妻はうつ状態になりました。妻のうつ症状は今日まで続いており、症状は山あり谷あり。「妻のせいで、自分は不毛の結婚生活を強いられた」などと、夫婦関係にほとほと消耗して、日々を送ってきておりました。「一体神様は、何故このような苦しみを経験させるのか。」などと、嘆き、祈りたくても祈りの言葉が思いつかなく、うめくばかりでした。そんな中「御霊自らとりなされる」との聖書の言葉を思いめぐらして、「神様の祈りに心が合わせられたらどんなに安心なことだろうか」と思っていました。


 そんな時、私の親戚に、韓国に留学しているクリスチャン姉妹がいて、姉妹が昨年日本に帰国した際、「異言の祈り」をし始めている!と聞かされました。異言を話せるのは、ペンテコステ派の教会だけだと思っていましたが、福音主義的教会で育った姉妹にも、異言が与えられたことに私は大変驚きました。「僕も韓国にいく!」そして「異言を頂きたい!」と神様に祈り、準備を進め、昨年韓国に行き、あるクリスチャン達に会いました。


 すると交わりと祈りの中で、促されるまま祈りをするうちに、片言の異言を話しだす自分。恐ろしいような感覚もあり、理性は「本当かよ、おれが異言だなんて・・・・」と思いつつも、「神様は自分を息子として下さっている、また愛して下さっている。」というメッセージが否定できず、ただただ涙がこぼれて止まらなくなっていました。


 祈りの時が終わると、預言をする姉妹が、私の「異言の祈り」の意味や、それに対する神様のメッセージを語って下さいました。私に特別に語って下さる、神様をじかに感じました。神様のメッセージは、ただただ励ましと愛に満ちていました。正直言うと、神様は私を怒っていると思っていたので意外でした・・・・。韓国には三日ほど滞在し、異言を語る人々と祈り賛美し、今まで経験したことのない平安と、神様の子供としての喜びを与えられました。


 あれから一年経ちました。バルナバ・ボイスを読みつつ、片言の「異言の祈り」の生活が続いています。結婚生活については、まだ忍耐を要する状況ですが、祈りの中で自分の罪があぶり出され、妻を批判してきた自分の愚かさが見えてきました。自分の罪にもだえる時、祈りが言葉にできない時、「異言の祈り」をすると涙が出てきて、慰めを受けました。少しずつ少しずつ、私を時にかなって励まし育てて下さる、主ご自身を経験することを学びました。


 結婚生活の面、仕事の面、問題から逃げないで、真正面から立ち向かう強さを、日々与えていただきながら生きています。赤ちゃんのようなことしか、異言では話していないかもしれませんが、父なる神様の贈り物を大切にしていきたいと思います。


メール②(2008年7月9日)
 実は、あれから変化が起きています。私たち夫婦は、日曜日から一緒に聖書を読み、分かち合いの時間を持ち始めています!こんなこと今まで、実はろくにしていなかったんですよ!今朝もお祈りも二人でしました。


 お恥ずかしいと言うか何と言うか、こんなふうに自然に、穏やかな時間を過ごせたのは久しぶりです。私が妻の最善のサポートができるように、聖霊様を通して更に取り扱われますようお祈り下さい。ただ神を拝するのみです。


メール③(2008年7月19日)
 さて、妻の状況ですが、まず私の視点での理解かもしれませんが、心理学的には、鬱状態かもしれませんが、霊的には主が彼女に近づいて下さり、その孤独な気持ちを包んで下さろうとしているようです。


 彼女は祈り、御言葉を通して、日々めきめきとイエス様の愛を慕い、包まれていることを喜んでいますが、それに対立するように霊的暗闇の中で、必死にもがいているように見えます。彼女は今までは誰にも言わず、ただ一人で苦しみ続けてきた訳ですが、やっと私に吐露するようになりました。私は、昔なら「いい加減にしろ!」などと一喝して、自分の部屋に行ってしまうようなものでしたが、今日、ただただ彼女の傍らで「聖霊様、僕には彼女の苦しみはよくわかりませんが、とにかく彼女の霊に触れて下さい!」と祈っている自分に気付き、神様が少しずつ自分を変えて下さっていることを感謝します。とにかく祈ります!異言で・・・・。


メール④(2008年7月29日)
 さて、ここ2週間ほど、毎日ではないのですが、朝の通勤路、片道25分を異言で祈りながら過ごしております。日々私の知らないところで、主は御業を為して下さり、妻は少しずつ、以前の信仰生活を取り戻すようになってきています。


 私といえば、相変わらず妻の言うことがよく分らず、会話がうまくいかないのもしばしばです。が、とにかく、主が私と妻の中に、聖い心を造って下さいますように!そして、ゆるがない霊を内に新しくして下さり、喜んで主に仕える霊が、私たち家族の支えとなりますよう、主が栄光を現わしていただくことを、ただ呻き願っている次第です。


 さて、今日熱くお祈りいただきたい件があり、メールしました。妻は、主の癒し(霊的な解放)を求めています。お時間のゆるす範囲で、臨時同刻(慟哭)祈祷よろしくお願いします。


メール⑤(2008年9月7日)
 毎週のお祈りありがとうございます。


 妻は、その後も日に日に、霊・肉共に強められてきています。聖霊様こそ、真に私たちを生かす方であると毎日覚えます。


 私もほぼ毎日通勤路25分、異言で祈るようになってきました。少し発する言葉に変化が出てきますね。そして、よく分りませんが、生活の中での霊的な気付きといいますか、罪を自覚するというか、何だか飢え渇くというか、言葉にならない、もしくは、むしろ呻いていたい気持ちになることよくあります。私の願いが叶えられていないことの苦しさなのか、主の御心を受け入れることができない苦しさか分りませんが、そんな時こそ新しい舌を使わなくてはと、「異言の祈り」に導かれます。


 妻は、礼拝の生活に喜びを取り戻してきています。お互い霊的に祝福される中でこそ、見えてくる隔たりがもどかしくもあり、個々にストレスはまだありますが、必ず主は私たちを回復して下さると信じます。


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