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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.21)

                                    最高の賜物を追い求める



あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい。そこで、私はあなた方に最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛が無ければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛が無ければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛が無ければ、私に何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。
                                                                                     【Ⅰコリント書12章31~13章11節】


賜物の価値基準
 聖霊様が与えて下さる「賜物」は、父なる神の「御心(ご計画)」にしたがって、求める者に惜しみなく与えられるものです。そして、これはあくまで与える側の、「ご計画(目的)」のみに用いるべく、与えられるものですが、与えられる側が神の「ご計画」を知らないまま用いていきますと、必ず次のような「誤った方向(道)」に向かう危険性があります。それは、自分で「賜物」の価値を決めたり、又「賜物」を自分なりに用いるなどして、「賜物」を与えて下さる方にではなく、その「賜物」の「大きさ」や「価値」などにしか、眼を向けなくなることです。


 前章で学びましたように、神の「作品」一つ一つには神の「意志(御心)」の現れ、即ち「神の美」が現されています。しかし、アダムとエバが為したことですが、神の創られた「作品」を、「人」が「自分の手」に掴み、「神の美」ではなく「自分の美」を、その「作品」(賜物も同様)の中に現そうとした時、それは既にサタンの「計画」の中に組み込まれていることを、先ず知らなければなりません。パウロは、コリント教会に起こった聖霊の素晴らしい現れ、又「賜物」が多様に現れたことを見て、同じキリスト者として非常に喜びはしたものの、実際にその「賜物」が本来の神の「ご計画」という、正しい軌道からかなり逸脱している、つまりサタンの喜ぶ「世の流れ」に沿って、使用されていることを非常に危惧しました。


 それ故に「コリント書13章」の文面を、聖霊様に促されるまま、霊的な「警告文」として記述したのです。決して彼は、この13章だけを特別な「愛の章」という、トピック事項にまとめて書き上げた訳ではありません。12章全体を読み進めて行きますと、「賜物」は多様性に富んでいるものであり、「体(全体)」は一つであっても、「賜物」には様々なパーツ(部分)があり、部分的な働きをするものである、しかし「全体」と「部分」がバランスよく相重なり合って、「一つの体」として正常に機能していくためには、「賜物」を正しく用いていく必要があることを、パウロがこの章の中で、強く訴えていることが分ります。


 ですから神の与える「賜物」は、「どちらが、立派で価値あるものか?」、「どちらが、大きな(或いは小さな)働きをするか?」、「どちらが優れているか?」などという、誤った人間的「論理(価値基準)」からではなく、「体(全体)は一つであり、賜物は全体を構成する、一パーツ(部分)に過ぎない!」という、父なる神の「正しい視点(基準)」から判断することが重要です。


 何故、パウロはこのように断言できたのでしょうか?コリント教会は、確かに他の教会と比較して、「聖霊」と「賜物」の傾注が著しく濃厚に現れました。初期の頃のコリント教会の信者は、確かに聖霊様に対して多くの「賜物」を、更に純粋に求め飢え渇いたのですが、しばらくすると「自己中心」的な願い(欲)から、求めるようになりました。彼らは霊的に肝心なこと、つまり与える方の「ご計画(目的)」が、「神の美」のみを現すべく一つ一つの「賜物」が与えられること、この一点にあることを忘れてしまったのです。それ故に彼らは、「賜物」の本来の目的から逸脱し、アダムとエバに続く私たち子孫も、いつの間にか「自分の美」を現すことを欲する、つまりサタン同様に、霊的な「野心(自分の計画)」を抱き始めたのです。


 「自分の美」を現すこと、これはサタンのもたらす「罪」の明らかな特徴です。しかし、私たちキリスト者の最高「目的(使命)」は、イエス・キリストの「美(栄光)」を現すことです!イエス・キリストの「栄光」を現し、イエス・キリストのために、「自分の命」を捧げ尽くすことが、私たちに与えられた最高の「使命(召命)」です。サタンは、私たちがこのような「正しい方向(目的)」に歩くのではなく、次第にこの世の「誤った方向」に走り出すよう、様々に誘惑します。その「誤った方向」がコリント教会において、すぐに出現しました。聖霊の「現れ」も著しかったのですが、それとは対照的に、人間的な「肉の現れ」が頻繁に出現しました。彼らは「賜物」の大小を比較する中で、次第に「賜物」の大小によって、奉仕組織が縦割りに区分けされ、いわゆる「賜物」の優劣などの人間的価値基準から、世俗的にピラミッド化された教会組織(官僚主義)を、愚かにも誕生させたのです。


 パウロは、以上のことを踏まえた上で、「あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務め」るよう、強く命じています。パウロが言わんとする「大きな賜物」とは、如何なるものであるか、この点を正しく知らなければ、又この「賜物」を与えられなければ、私たちに将来与えられる他の様々な「賜物」が、本来の神の「ご計画」に沿った、「正しい方向」に向かうことは決してありません!


三つの選択肢
 先ず、私たちが「賜物」に関して知るべきことは、「賜物は、それが与えられる際に、三つの道(方向性)が用意される」ことです。そして、私たちはその「三つの道」から、一つを自由に選択できます。「第一の道」、それは「自分のために使う道」です。この道を歩み始めた人々は、次のような言葉を口にする傾向にあります。例えば「私のミニストリー」、「私の宣教団体」、「私たちの教会」、「私の奉仕」、「私の信仰暦」、「私の導いた(伝道した)人数」、「私の牧会する信徒数」など、これらの言葉を簡単に口にする人が、既に「第一の道」を歩いています。


 「第二の道」は、「神のために、そして自分のためにも使う道」です。これは、いわゆる「掛け持ち」であり、この「第二の道」を歩む人々は、最初「神のため」に「賜物」を使うのですが、次第に「自分のため」に使い始めていることに気付かないまま、「神のために」という言葉を、口先だけで主張する傾向にある人です。彼らは神の「栄光」を称えながらも、実は自分にも「美(栄光)」を求めようとします。即ち神の「栄光」は、あくまでタテマエであり、ホンネとしては「私にも憐れみ(励まし)を下さい!」、「私にも賛辞の言葉を下さい!」、「先生のメッセージはよかったですよ!」などの「誉め言葉」を、人々に求めようとするなど、結局「第二の道」を歩くことになります。


 世の人々に「救いの機会」を宣べ伝えるために、私たちは「伝道の賜物」を用います。しかし、その結果(実)をイエス・キリストに帰すのではなく、自分に対する「称賛」を他のキリスト者から求めようとした時、それは既に「自己の美」を現しているのです。忘れてならないことは、実(実績)の「数」や「大小」がどうであれ、イエス・キリストもそうであったように、「キリストの下僕」は決して、人々からの「称賛」を求めず(期待せず)、ひたすら「孤独な者」に徹することです。


 イエス・キリストは、どのミニトリーにおいても聖霊主導の下に開始し、そして終了しました。そして終了するや否や、群集や弟子たちの元から離れ去り、孤独になれる場を求める、つまり父なる神が用意される「祈りの山」に登りました。何故彼は、そのような不思議な行動を毎回為されたのでしょうか?それは、彼が父なる神の「応答」だけに、思い(願い)を向けていたからです。そうです!イエス・キリストは常に、父なる神との「親しい交わり」の中で、「自分の為したこと」が果して、父の喜ばれる「聖なる生きた捧げもの」であったかどうか、そのような「聖なる反省会」に、聖霊を通して招き入れられました。


 「第三の道」、それは私たちキリスト者にとって、歩くことが一番困難な道、即ち「神のためにのみ、特に主イエス・キリストのために使う道」のことです。本来「賜物」は、神の「栄光」のためにのみ用意されるものです。これは、私たちにとって一番難しさを覚える道ですが、実はこの道だけが、私たちが「聖霊の力」を授かった時から、私たちを霊的に訓練するために、必ず備えられた道であることを知らなければなりません。パウロはこの「第三の道」を、「最高の道」と表現しています。しかし、この「第三の道」は「最高の道」であると同時に、イエス・キリストが歩まれた、「十字架」に至る道のように、非常に「訓練の道」としては、私たちが避けたい(受けたくない)「苦難の道」でもあります。


 さて、あなたはこの「三つの道」から、どの「道」を選択しますか?比較的容易な「第一の道」、「第二の道」を選択すれば、その道は「この世」に通じる道ですから、必ず「世的な栄光」、「人々からの称賛」などが得られます。しかし「第三の道」を選択すること、これは霊的に見れば「最高の道」であっても、この世において「艱難」や「苦難」、そして「悲しみ」と「孤独」が連続する道です。人々からのけ者にされ、追いやられ、貧しき「孤独の道」を歩まなければならない時が殆どです。しかし覚えて下さい!この「第三の道」だけが「最高の道(best way)」です!


最高の賜物とは?
 この「最高の道」の具体的な内容に関して、パウロは続けて述べています。「最高の賜物」、即ち「愛」を追い求めなさい!と。「賜物」とは、別の表現で「神からの贈物」を意味します。ですからパウロの進言は、神からの「最高の贈物」を追い求めなさい!とも翻訳できます。ということは、この「神の贈物」である「愛」が、単なる「人間的な愛」を意味するものではないことが分ります。例えば「親」にとって、「子」の存在は無条件に、かつ報い(償い)を求めることなく、「自分の愛」を惜しみなく注ぎ出すことのできる対象です。そして、父親(母親)が「子」に与える愛、それが「子」にとって「最高の贈物」ではないでしょうか!つまり、「親の愛」は無条件に与えるものであり、「無償の愛」です。


 「最高の贈物」を戴いた「子」は、愛する「親」に対して「何」を与えるのでしょうか?それは親に対する「忠実(誠実)」、「全き信頼」、「尊敬」などを現す、「子」としての「愛の表現(行動)」に他なりません。これは、儒教の言葉で「孝道」と言い、「親」に対して真心をもって、忠実に信頼して仕える「生き方」を指します。或いは「気高き思い」、「最高の徳」をもって「親」に仕えていくこと、これを「高徳心」と言いますが、「親」に対して敬愛する「心」から、「全幅の信頼」を寄せつつ、親の恩に奉じたい(報いたい)!と欲する、「子」のみが持つ「心の美しさ」です。ある面でこれは、私たち「キリスト者(子)」が「忠実な愛」をもって、「神(親)」に自分の生涯の全てを捧げるなど、「真の礼拝(true worship)」に通じる概念です。


 「親」は「子」に対して、何か目に見える「贈物(人生における実績も含む)」を期待しているのではありません。常に、「親」が「子」に対して抱く(期待する)ことは、「親」の思い(願い)を自然に汲み取り、「親」が一々心配しなくてもよいような人生を、「子」も同様に歩んで欲しいことです。主イエス・キリストは、まさしく父の「ご計画」、即ち「父の美」を、「自分の命」を「十字架」上に奉じることで現した方です!父なる神が、御子イエス・キリストに与えたもの、それは「父の美」でした。そして父の「ご計画」は、一つ一つの「作品」全てを本来の霊的ポジション、即ち「命の木」の元に取り戻すことにあります。


 父なる神が、「命の息(霊)」をもって直接創造された私たち「人」を、再び「御子」に託すこと、即ち「御子イエス・キリストとの交わり」にあずからせること、これが父なる神の「最大の願い」です。父なる神の「願い」は、御子に託した全ての「作品」が、再び御子の元に帰って来ることです。「御子」は、「自分の命」を十字架上で捧げ尽くさなければ、父の「ご計画」が成就し得ないことを、聖霊を通して知っていました。それ故にイエス・キリストは、「私は自分の命の全てを、父に捧げます!」などと告白しながら、「神のために命(賜物)を使う」という、「第三の道」に従ったのです。これが、私たちキリスト者が知るべき、主イエス・キリストの「十字架の愛」です。即ち、「自分の命」を奉じることで「神の美(救いの栄光)」を現すこと、これが彼の生きる「最高の使命」でした。


 御子イエス・キリストが、父なる神の「愛」に応えるべく、「自分の命」を捧げられた「十字架の愛」が、「最高の賜物」に他なりません。父が御子に示された「愛」と同じように、御子が父に対して示す「十字架の愛」は、私たち「神の子」にとって、「最高の賜物」と言えます。これは、「聖い生きた捧げ物(ローマ12章1節)」という、「最高の犠牲」でもあります。


 私たちは、人間的な「肉の力」で「愛」を実践しても、13章に記述されている「神の愛」の霊的次元には、如何なる人も踏み込むことができません!しかし私たちが、イエス・キリストを更に追い求め、飢え渇く(慕い求める)ことによって、聖霊様ご自身が直接「霊の次元」を教え導かれるのです。全てのことを、「神の美(栄光)」のために用いる、即ち「神の道(ご計画)」の中に、「自分の命」を捧げ尽くす「生き方」へと、聖霊様は変革して下さいます。「その時」から本当の意味で、「最高の道」が私たちの前に用意され、聖霊様の導きにより「第三の道」を歩くことが可能になります。


 私は、13章の中に記されている「愛」の表現(言葉)を、「イエス・キリストの十字架の愛」と置き換えて、何度も読み直されることをお勧めします。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、イエス・キリストの十字架の愛が無ければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、イエス・キリストの十字架の愛が無ければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、イエス・キリストの十字架の愛が無ければ、私に何の益もない。イエス・キリストの十字架の愛は忍耐強い。イエス・キリストの十字架の愛は情け深い。妬まない。イエス・キリストの十字架の愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。
パウロが言明する「愛」は、単なる結婚式の式辞で語られるような、人間的な「愛」のレベルにはないこと、つまりイエス・キリストの「美」の現れが、まさしく「十字架」上でご自分の「命」を捧げ尽くした、「最高の犠牲」にあったことが、お分りになると思います。


 この「霊の次元」を歩くことは、イエス・キリストだけが、聖霊を通して為し得た次元です。イエス・キリストは聖霊に導かれ、聖霊が望むままに十字架の「苦難の道」を選択しました。イエス・キリストも最初は、私たち同様に他の二つの道を、選択する自由が与えられていました。しかし、彼は父の「ご計画」、即ち「神の美」を「自分の命」を奉じることで現す、その唯一の目的故に「自分の生涯」を完全に捧げたのです。そしてこれが、イエス・キリストが既に歩まれた「最高の道」です。私たちが、「聖霊のバプテスマ」を授かる目的(意味付け)は、私たちが更にイエス・キリストに似た者に造り変えられ、イエス・キリストとの「親しい交わり」に、再び回帰していくことです。父が喜び願うこと、御子イエス・キリストの望み、そして聖霊様の働きが、常に私たちが「最高の道」に歩むべく、推し進められていることを再認識しようではありませんか!


 私たちは様々な「賜物」を求め、そして与えられます。そして「異言」に関しても、それをどのように用いるかは、私たちが自由に選択できるよう委ねられています。しかし私たちは、あえて「第三の道」を選択し、「神の美」を現すこと、即ち霊と真による「真の礼拝者」として、もっと更にイエス・キリストの「美」を、追い求めようではありませんか!そして自分の「五体」をもって、「自分の命」を奉じる者には、神の国の「霊の言葉」を大胆に語る「賜物」が、唇に付与されることを信じて前進して参りましょう!


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