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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.1)

                                        プロローグ


「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」
                                                                                                      【黙示録22・12】


 今、神の御国では大きな「式典」が準備中です。その「式典」は、かつて御国で催されたことの無いほど、大がかりな「祝宴の時」として、急ピッチで準備が進められています。総指揮を執っておられる方は聖霊様ですが、聖霊様は御国には見当たりません。いったい何処におられるのでしょうか?一方地上では、「世の君」サタンが御国の「式典」を妨害するため、様々な霊的「惑わし」と「世の情報」を大量に氾濫させています。


 この「世的な洪水」に呑まれていくキリスト者が増加する中、聖霊様が仁王立ちで「ある場所」を確保しています。その「ある場所」とは、堅固なる「岩山(イエス・キリスト)」です。そしてよく近づいて見ると、その「岩山」の上で必死に礼拝を捧げている、五人の乙女(花嫁)がいるではありませんか!聖霊様は彼女たちを励まします。「見よ、花婿はすぐに来る。花婿は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる!」と。すると、乙女たちは「来て下さい!」と、声を揃えて喜びながら答えます。


 「世の君」サタンが、濁流の大波を伴う「世的な洪水」を氾濫させる中、聖霊様も大いなる「新しい波」を流そうと計画しておられます。21世紀という「新世紀」が始まって十数年経ちましたが、確かに今までにない速度で、「この世」は様々に変化(変容)しています。かつてNHKスペシャルの番組の中で、今世紀は「変革の世紀」になると紹介していましたが、まさしく私たちが予測できないレベルで、「この世」は「変革」の道を辿っています。今(20世紀)までの「価値観(体系)」が、「変革」という新しい波の中で、「古いもの」から「新しいもの」を求めて、様変わりしつつあるのではないでしょうか!


変革とは?
 最近キリスト教界の流れの中にも、この「変革」の波が現れています。その「変革」の波は、カリスマという「第三の波」以上の規模で、聖霊の働きが地域社会全体を「変容」させるほど、御国の「力」となって世界各地で現れ出ています。この新しい「聖霊の変革」運動を、「トランスフォーメーション」と呼んでいますが、私たちはこの「変革」という言葉の持つ正しい「意味」と、正しい「理解」が当然必要となります。


 先ず日本語の「変革」は、物事(社会や制度も含む)を変えて新しくすること、或いは新しく改革することを意味します。次に英語の「変革」を意味する単語は、前述した「transformation」に当たりますが、この単語は「trans」という接頭語と、名詞の「formation」を合成した言葉です。「trans」は、①(向こう側に)超えて、②全く別の状態(所)へ、③超越して、この三つの意味を持つ言葉です。「formation」はフォームの派生語ですから、文字通り「姿」や「形(外観)」、そして「質(性格)」などを意味する言葉です。ですから「トランスフォーメーション」とは、具体的に「物事(物質)の形状が多様に変化したり、時には全く別の新しいものになる」ことを意味します。ちなみに昆虫類の「変態」という成長過程も、「変革」に当たります。


 そして聖書的に「変革」を意味する御言葉は、新約聖書で言えば「心を新たにして自分を変えていただき、・・・・」(ローマ書12・2)の中に見られる、ギリシャ語の「μεταμορφοομαι」という言葉ですが、これは同章1節に記述されている重要な奥義、つまりイエス・キリストが「十字架」上で、ご自分を「生きた聖なる生贄」として捧げられた、その同じ「フォーム(有り様、形状)」で、私たちキリスト者が「新しく」なることを定義付けた言葉です。ですから、聖書が示す本来の「トランスフォーメーション」は、「社会」や「制度」と言った「この世」の変革よりも、聖霊によるキリスト者「個人」の「変革」を、優先的に求めていくことを訴えています!


ジョン&ポーラ・サンフォードは、「変革」の定義を次のように述べています。
・「死と再生の過程を通して私たちの弱さが強さに変えられていくこと」(注1)、
・「混乱を栄光に変えるもの」(注2)、
・「変革はキリストの体全体による働きであり、私たち全てを花婿のために身を飾った花     嫁として整えるもの・・・・変革は砕かれることによって進展します。」(注3)、
・「変革の目的は、霊の一致に続いて信仰の一致が生まれ、真実が愛と喜びのうちに語られ、無理なく互いが互いを完全なる状態へと導くようになること」(注4)、
・「変革はそれ自体が最終目的なのではなく、あくまでそこに辿り付くまでの過程です。変革は個々の内において、キリストにある仲間を通して流れる主の臨在と力によって進んでいきますが、その目的は単にしみやしわのない個人を御父に前に立たせることではなく、聖なる動機と願いにおいて一致したキリストの体を差し出すことです。」(注5)、
・「変革の最終目的は、孤立した王や女王としてではなく、神に忠実な者の群れが互いに愛し尊重し合いつつ、治めていくことなのです。」(注6)


 このように本来の聖書的「変革」は、決して真新しい「聖霊運動名」を指す言葉ではありません。父なる神が、ご自分の「命の言葉」をもって万物を創造した時から、神の「ご計画」通りに「変革」の歴史が、常に刻み込まれているのです。私は、本連載の題名(タイトル)を付けるに当たり、初め『言葉の変革』と考えていました。しかし、父なる神が「五旬節」の「その時」に、聖霊を通して付与して下さった「新しい言葉」は、確かに社会的な「変革」運動につながりましたが、この時の大いなる出来事は、霊的には「変革」というより「革命(Revolution)」記念日であったと確信します。「五旬節」以来、私たちが使用している「言葉」が、如何に神の「御心」から離れた「古い次元」にあり、聖霊を通して「新しい言葉」が与えられなければ、神の「御心」に通じる「霊的次元」に踏み入ることができないことを、私たちは霊的に「知る」ようになったのです。文字通り、「言葉の革命」なくして「変革」は起こり得ません!


本連載の方向性(意図すること)
 さて、本連載では「異言」に関する奥義を、分り易く紹介しますが、決して「異言」に関する「神学専門書」や、言語学的な「研究論文(解説書)」ではありません。又、単なる「異言マニュアル書」でもありません。むしろ私としては、ペンテコステの恵みを既に体験している人だけでなく、未だ「聖霊のバプテスマ」の恵みを知らない人々に、できるだけ有効的に「知る」機会(きっかけ)が得られるよう、霊的な「案内状(パンフレット)」を掲示するイメージで執筆しています。


 本連載を読むに当たり、読者は「異言」に関する真理(奥義)が、何度も繰り返されていることに気付かれることでしょう。その中で、三つの「鍵となるストーリー(Key story)」が、繰り返し語られます。それは読者の「五感」、特に「口」と「耳」と「目」、そして最終的には「霊」の中に、この三つの「キー・ストーリー」を明確に刻み込んで戴くためです。第1のキー・ストーリーは「エデンの園におけるアダムとエバの言葉の変化」、第2のキー・ストーリーは「主人の帰りを待つ十人の乙女の会話」、第3のキー・ストーリーは「読者(あなた)の使用している言葉の歴史(変遷)」です。


 ちなみに私(K・バルナバ)は現在も、使徒パウロ同様「神のしもべ」でありながら、手に職を持つ「一労働者」として、鉄道電気工事の仕事に携わり家族を養っています。その中のむ業務にある、「列車見張」という保安業務の経験(恵み)から、「霊的戦い」における重要な「真理」を教えられました。ところで「列車見張」という仕事は、「列車」の進来(接近)を監視すると同時に、ある程度列車の「接近予測」を常に意識しながら、前方を監視し続けるなど、非常に「忍耐」を要する仕事です。


 かつてJR伯備線で起きた、死亡事故(2006年1月)事例に見られるように、特にダイヤが人身事故や、自然災害などで乱れた場合には、通常のダイヤは当てにならず、今までにない「危機意識」をもって接近体制に入ります。つまり、列車がいつ接近してもよいように、事前に「安全措置」を講じておきます。そうすれば、「突然の時(不測の事態)」にも対処できる訳です。この時、列車を監視する時に一番役に立つ道具が、結局のところ「目」と「耳」、そして「口(予測思考)」の三器官です。この三器官が蜜に絡み合って、一つの「思い(危機意識)」を完成していますと、先ほど述べた「不測の事態」に対して、臆することなくスムーズに対処できるのですが、一つの器官でも監視を怠りますと列車の接近合図が遅れ、現場作業員が危険(死)に陥ります。


 以上の点から、実は私たちの「霊的戦い」においても、サタンが「古い言葉」をもって、私たちの「霊」の中に侵入しようと、盛んに「接近」を試みていることを先ず知らなければなりません。特に私たちの「五感」の中で、その侵入を簡単に許してしまう器官が「目」と「耳」、そして「口(唇)」の三器官であることを、私たちの誰もが熟知するところです。そういう意味で、「言葉の革命」が本連載を読まれる読者の人生(生活)に始まり、又聖霊様から戴く「新しい言葉」を使うことによって、神の「御心」を霊的に奥深く「知る」ようになり、更にキリスト者どうしで分かち合われることを希望しています。又、できるだけ多くの「キリストに飢え渇く人々」に、本連載が届けられることを願って止みません。


 「異言」に関しては、ペンテコステ派の教会でも様々な論議があり、どちらかと言えばこの論議を避けて、より緩やかな解釈の中でカリスマ派の流れに沿う、「聖霊の賜物」として教えられているのが現状ではないかと思います。例えば、「聖霊のバプテスマ」という体験の現れは、必ずしも「異言」に限定するのではなく、様々な肉体上或いは精神的な内面にも現れることがある故、殊更強調する必要はないのではないかなどの論議が、未だに続いています。しかし、このような神学論争に終始するのではなく、「異言」は確かに聖霊様から戴いた「賜物」として、もっとより深い次元で用いること、そして何よりも実際の信仰生活の中で、生きた「言葉」として用いること、これが聖霊様の願いではないでしょうか!「異言」という言語が、より理解し得る「神の国」の国語になった時、キリスト者だけでなく未信者にまで影響を及ぼすほど、「神の国」の力が「大洪水」の如く流れ出るようになる、即ち「リバイバルの時」の到来であると確信しています。


 「後の雨」が降り注ぐ時、この地は再び霊的な大洪水という「変革の波」に覆われます。そして大水が引き暫くすると、遂に聖霊の「大収穫」を迎えます。聖霊様は、多くの失われた羊たちを「真の羊飼い(イエス・キリスト)」の元に、霊的に刈り取って行かれると同時に、「良き麦(賢いキリストの花嫁)」だけを束ね脱穀するなど、最終的な収穫作業も並行して進められます。あなたは本連載を読み進める中で、必ず今の「自分」の霊的状態を指し示されることでしょう。罪を犯す以前の、「アダム」と「エバ」には程遠い者であり、もしかしたら「愚かな乙女」の一員として生きていることを。本連載を読み進めていく中で霊的に気付かれた方は、聖霊様の「助け」を緊急に求めて、今からでも「監視体制」に入って下さい!「敵」は絶えず、あなたの語る(思考する)「言葉」に働きかけ、聖霊の用意される「収穫の時」、そして御国の「祝宴」が近づいた時に、あなたを眠りこけている「愚かな乙女」にしたいのです!


 父なる神が本連載を用いて、キリストの花嫁を「古い言葉」の支配から完全に解放し、聖霊が与えて下さる「新しい言葉」によって霊的に守り導き、更に「美しい花嫁」として変革されるよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注1〜6、ジョン&ポーラ・サンフォード著『内なる人の変革』(マルコーシュ・パブリケーションから引用)


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