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言葉の革命(No.16)


                              心の変革



 この章で述べる「心」とは、「霊」と区別した意味での「心」のことであり、それは私たちの「意志(mind)」を意味する言葉です。この章では、私たちの感情や意志などを司る「心」が、如何なる方向で聖別されていったらよいのか?又、聖霊様にとって取り扱い易い「心」とは、霊的にどのようなものであるのか?そして、私たちが神に喜ばれる「作品(被創造物)」、つまり創造された時点のアダムとエバに備わった「心」と、同じ状態に回復して行くには、「心」という領域がどのように変革されていったらよいのか?これらの霊的課題について考察します。


「美なるもの」の創造
 父なる神が、アダムとエバを「最初の人」として創造した時、「エデンの園」の全てを支配して(覆って)いたものは、父なる神の「意志(御心)」でした。そして、聖霊を通して父なる神の完全な「意志(御心)」が、「人」からどの作品(被創造物)に至るまで、「美なるもの」として現れていたのです。神の創られたものは、全て美しいものであること、これを先ず覚えて下さい!人が「技(技術面)」において、いくら卓越していたとしても、その造る「作品」の全ては、人の眼に「完全なもの」に見えたとしても、どこかに小さな欠陥(欠点)のある、「不完全なもの」しか産み出すことができません。


 しかし父なる神の創られる作品は、全てが完全に調和のとれた「美しい(麗しい)作品」です。ですから父なる神の作品全てが、創造の過程において既に「美しいもの」として創られています。そして、父なる神は全ての作品を創造する時に、ご自分の「意志(御心)」の中に、全ての点で「美しく」、心に「喜び」をもたらす作品を産み出すという、一貫した「目的」をもって創造しているのです。


 例えば、私たちが何かを造る場合、見た目も余り良いように見えない、いい加減な作品を故意には造りません。又、ご婦人方が料理を作る際にも、味は良いのですが見た目にグロテスクな作品を、あえて作ろうとはしません。見た目に美しく、味も美味しく、匂いも食欲を掻き立てるなど、そのような素晴らしい料理を作るはずです。罪を犯した、アダムとエバの末裔(子孫)である私たちでさえ、霊的特質の中に神の「意志」が添わっていますから、何かを造ろうとする時には、先ず「美しさ」と「完全性」を追求しながら、その作品を完成させようと努力します。つまり、「人」は罪を犯したことにより、不完全なものになったが故に、「完全性」という本来の霊的特質を、知らず知らず求めようとします。


 余談になりますが、今日のバイオテクノロジーが如何に発達しても、例えばクローン技術の権威者(羊、牛をクローン化させた学者)自らが、「全てのクローン技術によって産み出された作品は、コピーされる以前の作品(神の創造物)と比較して不完全なものであり、何らかの欠陥性が添わっている。」などと発表しています。私たち神の「作品」は、「罪」に関して不完全なものになり、いずれは死を迎えますが、生物学的に見れば「完全なもの」です。しかしこの「完全なもの」を、人の手によってコピ―(クローン化)した時に、見た目に「完全なもの」のように見えても、実体は「欠陥作品」として産み出されて来るのです。一番その「欠陥性」が特徴的に現れている点は、長生きしないことです。又、「抵抗力」という働きにおいても欠陥部分があるため、当然免疫力が低下し体力が弱くなるなどして、いずれは早い段階で「死」に至るのです。


 このように神の被創造物には、「神の美」という「意志」が、その全ての中に現れていました。とりわけアダムとエバには、「神の美」という「意志」が全身全霊に満ち溢れ、彼らが何をするにしても「神の愛」が、彼らの中から絶え間なく流れていました。神が「人」を創造する際、他の被創造物同様に「美しいもの」として創りましたが、一番最大の特徴は「人」を愛する面で、親密に交わりを共有したい!と欲する神の「意志」が、著しく現れていることです。つまり、他の作品以上に愛の「意志」の現れが、「人」の中に強く現れ出ています。被造物の最高作品「人」の中に、ご自分の強い「意志」を現すこと、つまり「神の愛」が「人」から流れ出て、その現れを見てこの上なく喜ぶこと、これが父なる神の「永遠の願い(意志)」です。神は「真実の愛」という、「美しい心(意志)」をもって「人」を創造し、「人」が「神の愛」の中に生きながら、「主よ!私もあなたを愛します!」などと、素直に自分の「意志」を現した時に初めて、神は満足されるのです。


 「神の愛」そのものが「美」であり、その「美の作品」の最高作品が、私たち「人」です。それ程彼らの「考えていること」、又「欲していること」、そして実際に「行動すること」の中に、神の霊が「命の水」として宿るだけでなく、「命の水」に覆われることを、彼らは素直に喜び、かつ「命の水」を求めていました。ですから、彼らは神のために無理して何かをしたり、私たちのように神に喜ばれることを、捜し求めることをしませんでした。彼らにとって、生きていること自体が神の「意志」であり、神との「親しい交わり」の中に存在することが「神の喜び」、そして「人」の生きる目的であることを、自然に無理することなく理解できたのです。


霊的な錯覚
 私たちは「神に喜ばれること」、又「神のために何かをする」ことに、もがき苦しむことがないでしょうか?そのような時には、「神のために何かを為そう」とすることに、必ず意識を集中させてしまい、例えば「奉仕」や「伝道」こそが、最高の目的(目標)であると、霊的に錯覚しています。


 「礼拝」という信仰の領域においても、礼拝(主日行事)のために奉仕をしたり、与えられた「賜物」をもって礼拝(行為)することで、自分は神に対して忠実に礼拝を捧げている!などと錯覚していないでしょうか!ミニストリーすることが、神のために働く「最善の行為」である!などと錯覚していないでしょうか?又、ミニストリーが大きく用いられている人々を、称賛する傾向にありませんか!神のために大きな働きをしている人々が、神に喜ばれる模範的な人々である、などと錯覚していないでしょうか?私たち個人レベルの信仰生活においても、多くの「とりなしの祈り」を捧げたり、大勢の人々(未信者)をイエス・キリストのもとに、伝道して勝ち取っていくミニストリーなどが、イエス・キリストが喜ばれることである、などと錯覚していないでしょうか?


 しかし、果してそうでしょうか?アダムとエバは、神に喜ばれることを無理して捜し求めたでしょうか?彼らは「エデンの園」の生活において、朝から晩まで何かしている訳でも無く、只飲食と遊び(休養)をしているに過ぎない!と思い、これでは神様から「怠惰な者」と呼ばれるのではないかと、あせって他の仕事(人間的なもの)に精を出すことで、神に喜ばれようと必死に努力したでしょうか?いいえ!彼ら二人が為したことは、神が創られた「作品」一つ一つを、観賞したり味見したりするなどして、主と共にあることをこの上なく喜び楽しんだだけです。「主よ!私たちは、あなたと共に居ることがとても嬉しいんです!もっと更に、あなたの側近くに居させて下さい!」という、ストレートな会話が常に為されました。そして、父なる神も彼らの自然体な生き方を受け留め、この上なく喜びました。D・ウィルカーソンは、次のように述べます。「主を求める時、主を知ろうとして御言を絶えず求め探る時、私たちは最も役立っているのです。私たちは何か他のことをするよりも、神と二人だけで愛の交わりをすることによって神をもっと褒め称え、神の期待に答えるのです。」(注1)


 しかしご存知のように、「命の水(聖霊)」と「命の木(イエス・キリスト)」を、常に求めていた彼らに対して、サタンはある「戦略」を練り実際に攻撃してきました。彼らは常に、「神の美」を求めて飢え渇いていました。何故なら、「エデンの園」を潤す「命の水」と、園の中央に生える「命の木」の中に、神の「麗しさ(美)」が満ち溢れていたからです。「命の木」の周りに行けば必ず「命の水」が流れ、父なる神の「麗しさ(美)」が満ち溢れていましたから、彼らは日々「園」の中央に通いました。このように、彼ら二人が欲することは、只「神の美」を求めることでした。


 このことに対して、サタンは非常に激しく妬み、怒りの牙をむき出しにしたのです。神の最高作品である「人」が、神(創造主)を礼拝することも妬みの一因でしたが、サタンにとってひどく我慢ならなかったことは、彼らが常に「神の美」だけを求めて、「神ご自身」に視線を向けていることでした。サタンは、「自分こそが最高の美を持ち合わせた、明けの明星である!だから、彼らはこの私に目を向けるべきだ!」などと自負していたからです。


 そこで、サタンは父なる神が彼らに命じた、「善悪の木の実だけは食べてはならない!」という言葉に着眼しました。「善悪の木」自体は、サタンの作品ではありません。そして、その実は他の実同様に、「神の美」を現していました。しかし神の絶対命令は、この実を口にすることも近づいて手に取ることも、一切禁じられたことです。彼らはその命令を、何の疑いもなく忠実に遵守しました。ところがサタンは、「神の美」を「世の美」と擦り換えることで、「善悪の木」の方へと誘惑しました。


 「善悪の木」という「別の美」へと誘われた彼らは、遂に「サタンの言葉」を聞くことになります。彼らはいつもでしたら、「神の言葉」だけに耳を傾けていたのですが、この時は何と「サタンの声」が聞こえたのです。


「あなた方の食べている数々の実は、確かに麗しい味である。とりわけ命の木の実は、格別に美味しいねー!でも、こちらの方の木の実を見てごらん!この木は、命の木よりも遥かに麗しく、とても甘美な味がする実がなっているんだよ!どうだい!実際こちらに来て、じっくり見てごらんよ!他の実よりも、美味しそうに見えないかね?」


などと囁きかけました。この時に初めて、他のものと比較する(下線部)「古い言葉」の概念が、彼らの「霊の耳」に侵入しました。ですから、彼らはこの「声」の言う通りに、実際に自分の眼で見た時「確かにそう見えないこともないね!」などと、「自分の意志」を優先する「悪しき方向」へ傾いて行きました。


 その結果彼らの「霊」の領域は、サタンが率いる「暗闇の勢力」の侵略を許すことになりました。そして彼らは、サタンのもたらす「古い言葉」に次々と騙されます。最初、エバがその実を手に取った瞬間、もはや彼女の眼は「命の木」を見ることがなくなりました。そして、彼女の「心(意志)」は次のように考えます。「何とまー、この実は美しいのかしら!蛇の言う通りだわ!実に美味しく見えるわねー。そうそう、これも神様の作品なんだから、他の実と同じように食べても死ぬことなんてあり得ないわ!」と。彼女はアダムの眼を見つめながら、それを口の中に入れようとした時、


 「エバよ、ちょっと待て!神様は、一応言われたはずだよ!食べたら必ず死ぬと・・・・。」
と、アダムは注意するのですが、彼女は自分の「意志」を固めつつ、
「でもね、あなた!これは神様の作品の一つですよ。絶対に死ぬなんてあり得ないわ!現に蛇も食べたらしいけど、生きているじゃないの。さー、あなたもこちらに来て、手に取って食べましょうよ!何なら一緒にいかが?」


 ・・・・そして二人は、遂に「善悪の木」の実を口にしました。


 この時、私たちが霊的に注目しなければならない点は、私たち「人」の器官の中で、「手」「耳」「目」などの働き全般を、実質的に支配しているものが「心(意志)」であることです。「心」が「別の美」、即ちサタンのもたらす「世の美」の方へと傾くと、私たち「人」は「世の美」に対して、「触れてみたい!味わいたい!常に求めたい(欲望)!」などと願う、自分の「意志」が動き出すのです。彼らの罪の結果、私たちは「世の美」に必ず魅了されてしまうなど、ある面で「霊的な病」に陥り、その結果私たちの「心(意志)」は、世の君サタンと「暗闇の勢力」の支配を、余儀なくされたのです。


 私たちの「心」を支配する「暗闇の勢力」に対して、イエス・キリストはご自身の十字架の「死」という、「聖なる犠牲(子羊のはん祭)」により、私たちの「心」を支配する「霊的な死」の壁を打ち破り、神の栄光が臨在する「至聖所」に、自由に踏み入ることのできる「霊の道」を、完全に備えて下さいました。イエス・キリストの十字架から流れ出る貴い「血潮」と、その裂かれた「み体」によらなければ、私たちの「心」を支配する「暗闇の勢力」を打破し、完全に勝利することができません。しかし、イエス・キリストは十字架上で既に完了し終えた、つまり「この世」の全てに打ち勝ったのです。


 私たちが、この事実を霊的に信じるか否か、これが重要になります。ですから私たちも、「父なる神に、自分の全てを捧げ尽くす」という、イエス・キリストの生き様と同様に、自分の「五体」とりわけ意志を司る「心」の領域において、聖霊の変革を通して再び神の「意志(御心)」の中に、覆われるという恵みを体験していく時、私たちの「霊」の領域に、「エデンの園」の祝福が霊的に回復していくことを、聖霊から教えて戴きましょう!


こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
                                                                                                        【ローマ書12章1〜2節】


神に喜ばれること
 私たちが礼拝を捧げている時に、実は様々な「心(意志)」の動き(働き)があることを、ご存知でしょうか?そして、何らかの「心」の動きがある時に、自分の「肉の意志」から「私はこれだけのことを為すのだ!捧げるのだ!」などと行動していくのであれば、それは単なる「律法(肉の行い)」に過ぎなく、肉的な礼拝を捧げることになります。ですから、パウロは12章から続けて、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。」(1節)と、強く勧告しています。つまり私たちが、自分の「肉の力」によって礼拝を捧げることを、彼は勧めていません。「神の憐れみによって」という部分を、リビングバイブル訳聖書では、「神の憐れみを覚えて」と改めて説明した上で、礼拝を捧げるよう勧めています。


 この「神の憐れみ」を、常に私たちが意識して覚えなければ、必ず自分の「肉の努力」で、あらゆる行為(奉仕、礼拝)をするのです。神に喜ばれることを、常に意識しながら一つ一つ行っていくこと、これは何となく「正しい信仰」の行いのように思えますが、果して本当に自発的な行為になっているでしょうか?むしろ、「律法的」な行為になっている場合が多いと思います。そして、神に喜ばれることを良い意味で意識するのではなく、「・・・・しなければならない」などと、何かにせき立てられるような、強迫観念から行っているのであれば、それは「神」に対する意識ではなく、「自(我)意識」を中心として、「神に喜ばれること」を考えていることになるのです。


 例えば、教会における様々な奉仕に見られることですが、「あなたのしている奉仕は、余り意味の無い、つまらないものだね!」などの霊的差別(区別)意識が、必ずキリスト者間に存在します。講壇の奉仕(説教、教え、司会、聖歌隊など)は、人目に見て目立つ存在であり、何となく神に対して素晴らしい礼拝を、捧げているように錯覚する奉仕です。又、他の信者からの称賛が、一番多い奉仕でもあります。


 ところが「とりなしの祈り」や、礼拝後の閑散とした「会堂清掃」などは、決して人々から注目されることがありません。ですから、そのような隠れた奉仕をしていますと、次のような誘惑の思いが、どの人にも必ず来ます。「神に喜ばれる奉仕とは、皆にも喜ばれる本当に素晴らしいものだ!しかし私のしている事と言えば、何となくつまらないし、誰も認めてくれない。私のしていることは、本当に神に喜ばれているのだろうか?」などと。しかし、はっきり申し上げてこれは、サタンの囁きです。


全てを捧げなさい
 パウロは明確に述べています。彼は前提条件として、人間が霊的に不完全であったとしても、「自分の体を完全に捧げなさい!」と命じていますが、これが第一の重要ポイントです。あなた自身が霊的に、今どのような状態にあったとしても、「有りのまま全てを、神に捧げなさい!」ということです。この御言葉は、人間パウロが勧める言葉(命令)ではなく、聖霊様がキリスト者全員に厳しく命じている、「霊的勅令」として受け留めて下さい。この命令は、ある面とても厳しい内容です。


 又、これはイエス・キリストが、ある金持ちの青年に語られた、「隣人を自分のように愛しなさい。・・・・もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・・それから、私に従いなさい。」(マタイ書19章)と同様の律法に当たります。金持ちの青年は、律法が命じる「神に喜ばれること」を、自分は完全に為しているのだ!と訴えました。しかし、イエス・キリストは単刀直入に切り返します。「あなたは、自分を完全に愛するのと同じように、あなたの隣人を完全に愛することができますか?これは、神に喜ばれる完全な礼拝の一つですよ!あなたの持ち物を、今すぐにでも全部(完全に)売り払って、隣人に施しなさい!全てを捧げなさい!」と。彼はショックの余り、何も言わずに帰ることになります。


 「人」は、自己を完全に愛することはできても、他の隣人を完全に愛することができません。だから、聖霊様は命じられるのです。「自分の全てを、神に完全に捧げ尽くす」こと、これがキリスト者の「生きる目的」、即ち「使命」であると。あなたの「生きる目的」は何ですか?世の人々は、こう答えるでしょう。「私は、私の人生を全うし、私の家族を守り、そして最後は私の子孫に囲まれながら、私の余生をのんびり暮らすことだ!」と。それに対して、私たちキリスト者の「生きる目的」は、「私が生きるにしても死ぬにしても、全てがイエス・キリストのためです!」と、このように明確に証言できるものでなければなりません!そして「私の全ては、主よ、あなたのものです!」と断言できる「信仰生活」を送ること、これがキリストにある生涯です。


 「五旬節革命」に始まった、聖霊のコイノニアの著しく際立った特徴は、全ての聖徒が惜しみなく出し合って(捧げ切って)、キリストにある共同体を共有していたことです。私たちが、このような霊的次元に生きるようになった時、本当のリバイバルが起きるのではないでしょうか!全てを完全に捧げ尽くす、「真の礼拝」が為されていないのであれば、たとえ信者数(クリスチャン人口)が増加していても、本当のリバイバルではありません。それは「世の宗教」に等しいものです。D・ウィルカーソンが常に指摘している、次の言葉に謙虚に耳を傾けて下さい。「全てのミニストリーは主との交わりから来るのです。」(注2)神との「親しい交わり」こそが、この世にある全ての「美」に優った「真実の美(麗しさ)」であると、霊的に飢え渇き始めるのでなければ、それはリバイバルではありません。


 私たちの行動基準、例えば思考したり、話したり、見たり、聞いたりすることの全てが、私たちの「心(意志)」から現される「言葉」に支配されています。私たちが「心」の中で何かを思う時、それは既に「言葉」になっています。そして悪魔サタンがもたらす、「この世」から流れ出る言葉が、如何に麗しいものに満ち溢れていても、それは「不完全なもの」であり、又決して「一致」をもたらすことの無いもの、そして「中途半端なもの」であることを覚えて下さい。


 それに対して、聖霊様から流れ出る言葉は、「新しい言葉」によってもたらされる、神に対する「真の礼拝」を呼び起こし、その目的は「神に対して、完全に自分の全てを捧げること」に、必ず焦点を当てます。神への「真の礼拝」が、聖霊によって呼び起こされた者は、自然に「神に喜ばれること」を、自分の「肉の力」ではなく、聖霊の「力」によって意識するよう変革されます。「神に喜ばれること」とは、私たちの全てが「聖なる生けるいけにえ」として献げるよう、聖霊を通して導かれることです。


生きた聖い供え物
 この「生きている」という実感は、どのような時に得られるのでしょうか?それは創られた者(命を与えられた者)が、創造主つまり「命を与える方」と相まみえ、接合(交わり)した時です。例えば、「初子」の出産に立ち合う「夫」の場面を想像して下さい。愛する「妻」の胎から、「新生児」が産まれ出る「その瞬間」を目の当たりにし、助産婦によって取り上げられた自分たちの「赤ちゃん」が、産声を発するのを聞いたまさに「その時」、夫婦共に感涙にむせびながら、自分たちの「子」が現実に生きていることを実感し、そして「親」になったことをこの上なく喜ぶこと、これが「生きている」喜びに他なりません。


 「命の素晴らしさ(尊さ)」を知った時、或いは「命の救い」や「命の贖いの御業」を体験した時、私たちは神の与えた「至福の時」を、まさしく「生きた」実感として得ることができます。ですから、「生きてて良かった」と思える時には、必ず何らかの「命」と「命」の交わり(接合)が、その場(時)に存在しています。つまり、「交わり」からもたらされる「良き実」が、「生きている」ことを実感させるのです。私たちと違ってアダムとエバが、自然体で神に喜ばれることを為し得た要因は、神の「作品」の中にある「神の美」を常に彼らは味わい、何よりも神との「親しい交わり」を愛し求めたからです。彼らが「神の美」をこよなく求める度に、神はご自分の「美」を喜んで与えて下さったのです。彼らは、神との「親しい交わり」からもたらされるものは、どれ一つとっても如何に素晴らしく、又麗しい(美しい)ものであるかを、全身全霊をもって知っていたのです。


 ではキリスト者が、神に喜ばれること、つまり神にあって「生きている」ことを、如何にして得ていくのでしょうか?それは第一に、「聖霊の中にあって生きる時」に可能になります。第二に、「聖い供え物」になること、これが神に喜ばれることです。神の喜ばれる「聖さ」とは、神と一体化した状態、つまり私たちが神の次元に、常に覆われる生き方のことであり、私たちが神のために生きるようになることです。この二点は、必ず「完全性の回復」につながります。


 私たちは、どのようにしたら「生きた聖い供え物」に、変革されるのでしょうか?パウロは、はっきり宣言しています。「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」(2節)なさい!と。神に喜ばれるには、「心(意志)」を「新しい状態」に変革させて戴くことを、先ず認識することが重要です。そのために、パウロが第一に指し示していることは、「この世に倣ってはなりません」ということです。スカルの女性は、以前から霊と真をもって、礼拝すべき「真の救い主」を捜し求めていました。そして、生ける永遠の「命の水」を注いで下さる、イエス・キリストと出会った「その時」から、彼女の「霊」の只中にあったヤコブの井戸、即ちこの世の「古い井戸(水)」は、もはや存在しなくなりました。ここに真理があります。聖霊様は、今私たちに対して次のように言われます。「いつ枯れ果ててしまうか分らない、この世の古い井戸から、あなたはすぐに離れなさい!」と。つまり、「この世」に倣うことを全て放棄しなさい!と命じられます。


 あなたは、自分の「霊」の只中に「誰」をお迎えし、そしてご一緒しますか?「見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)私たちの主イエス・キリストは、常に私たちの「霊の扉」まで来て下さり、いつでもあなたと「親しい交わり」を為すため、「霊の戸口」でノックして下さいます。


 しかし、私たちがそのことを知りながらも、「いやー、私は自分の力でこれ(ミニストリー)をするのです。神に喜ばれることは、自分なりに分っていますから、このような奉仕をします!」などの、「この世」の次元から来る「思い(願い、欲)」(これはサタンに喜ばれることですが・・・・)に留まる限り、イエス・キリストはその人の、「霊」の中に入ることができません。ですから、聖霊様は私たちの「霊」に対して、「あなたの霊の扉を、大きく開けなさい!」と強く促されるのです。


 「霊の扉」とは、私たちの「心(意志)」を指します。そして「扉の戸口」とは、私たちの「唇」を指します。あなたの「心(意志)」が、聖霊を通して更に変革されることを望むのであれば、今は「心」を頑なにしている時ではありません!素直にへり下って、「霊の扉」を開けて戴こうではありませんか!自分の「肉の力」で、「霊の扉」を開けることはできません。聖霊様によって、自分の「唇」を完全に支配して戴く必要があります。再度繰り返しますが、聖霊様が求められる「真の礼拝」とは、「何か具体的な働きをする」、「何らかの奉仕に就く」、「説教を聴く」などの、人間的な行為(行動)の次元を指しているのではありません。


 イエス・キリストは、ある一人の心貧しき「取税人」が捧げる、礼拝の姿勢をこの上なく喜ばれました。彼は、その日暮らしの収入(蓄え)しか持っていませんでしたが、その全てを神に捧げたのです。イエス・キリストは、彼の行為(行動)を見て喜ばれたのではなく、彼が有りのままの「心(意志)」をもって、持てる全てを捧げ尽くしたからです。彼の祈りは、次のようなものでした。「父なる神様!罪人の私を、どうぞ憐れんで下さい。私はあなたに、私の全てを捧げます。私はこれから、どのように生きていったらよいのか分りませんが、私は持てる全てをもって、あなたに感謝のいけにえを献げます。どうぞ、あなたの御心(ご意志)のままに、私を祝福して下さい!」


 それに対して、側で見ていたパリサイ人は、次のように祈りました。「私は主よ!これだけ多くの収穫を持って来ました。これだけ多くの奉仕を捧げました。見て下さい!私のミニストリーは、これ程の素晴らしい実績を上げています。これこそ、あなたに喜ばれる最高の捧げものです。ですから、更に私のミニストリーを祝福して下さい!又、私たちのミニストリーを通して、多くの人々が救われていることを感謝します!」と。


 私たちの祈りの中に、例えば「主よ!あの超教派の団体が、もっと前進して神の働きを拡大させることができますように!」、「私たちの住むこの地から、リバイバルが起きますように!」などの祈りが、多少なりに為されていないでしょうか?しかし、聖霊様はそのような祈りにではなく、次のような祈りに耳を傾けて下さるのです。「聖霊様!どうぞ、あなたの御心通りに全てのことが為され、一人一人の働き人が愛する主イエス・キリストに、真心をもって礼拝を捧げることができますように。そしてその礼拝の中に、父なる神の栄光のみが現されますように。どうぞ主よ!全ての面で、父なる神の栄光のみを追い求める人々が、この世からも起こされますように!彼らの礼拝の中に、あなたが臨在して下さるよう、切に祈り求めます!」


 主日礼拝の代表祈祷においても、「私たちの教会を通して、この一年間に〇〇人の魂を獲得して下さい!」、「去年は〇〇人の受洗者が起こされたことを感謝します!」などの祈りが、必ず為されていると思います。この種の祈りは間違いではありませんが、父なる神は「決算報告」のような祈りの一つ一つに対して、果してお喜びになるでしょうか?神が喜ばれる祈りとは、「主よ、私はどのように祈ったらよいのか、又どのように行動したらよいのか分りません!だから感謝します。私をもっと砕いて下さい!そして私は、更にあなたと一つになりたいのです。あなたを求めています!もっと更なる激しい飢え渇きを起こして下さい!」など、霊的に悔いた砕かれた祈りです。


 この「もっと」という祈りの表現は、大抵「もっと私を祝福して下さい!」、「もっと大きく、教会を成長させて下さい!」などの祈り言葉に見られるように、「大きく」なることを祈り求める人はいても、「この小さき私を、もっと更に小さくして下さい!」などと祈る者は、殆どいないのではないのでしょうか!D・ウィルカーソンが、次のような霊的苦言を呈しています。「心が砕かれるというのは、人間的な力と能力が全て粉々に砕かれることです。それは罪の存在を十分に意識することであり、また、その罪がキリストに辱めをもたらすということに気付くことなのです。」(注3)


 神の喜ばれる「いけにえ」とは、「肥え太った羊(大きな自分)」を要求することではなく、「悔いた砕かれた、弱き子羊(小さな自分)」を捧げることです。私的な「心(意志)」が存在する犠牲ではなく、「贖いの子羊」イエス・キリストの、「十字架の血潮」によって完全に打ち砕かれた「心(意志)」を、主は求めておられるのです。私たちは、この世という「古い次元」において生き続けることが、もはや限界に達していることを霊的に悟って下さい!聖霊様による上からの「力」と「助け」によって、私たちの「心(意志)」と「思い」が、完全に打ち砕かれますように!そして、私たちの「霊の戸口」である「唇」が、聖霊様によって完全に支配されるよう祈り求めて下さい。


 「古い井戸」から離れた者は、必ず「新しい井戸(主イエス・キリスト)」を求めて、常に「新しい井戸」の傍らに生きるようになります。私たちが、永遠の「命の源」イエス・キリストを求め始めた時から、神の「御心(ご意志)」を「知る」ようになります。そして、この世に至る「善悪の木」からではなく、「命の木」イエス・キリストを「知る」ことで、イエス・キリストの「心」から生れ出る、「善きこと」を求めるようになります。


神の求める「善」
 私たちは何が「善きこと」で、何が「悪しきこと」であるか、分っているふりを装いますが、はっきり申し上げて何も分っていません。神の喜ばれる「善きこと」とは、父なる神の「御心」を「知る」ことであり、そして更に主イエス・キリストを、「知る」ことを激しく求めることです。つまりイエス・キリストという、「命の木」の実以外は何も食べない!という覚悟で生きることです。これが、イエス・キリストの「心」から生れ出る、「善きこと」です。それ故、イエス・キリストの言われる「善きこと」とは、イエス・キリストご自身を指します。聖霊様が導かれる方向は、常にイエス・キリストの御元です。


 それに対して、サタンは「この世」の方向、即ち「善悪の木」の実を食べさせようと必死に誘惑します。このサタンの方向性は、最終的に「心(意志)」の破壊をもたらし、「もう私は駄目なんだ!」などの否定的な「思い」へと、マインド・コントロールします。しかし聖霊様は、「否!否!否!だからこそ、あなたはイエス様の御元に行くのです!イエス様だけを求めなさい!何かをすることで、自分を満足させることを、もう停めなさい!それが、たとえどんなに善きこと(奉仕)のように見えても、古い井戸に過ぎません!あなたの為すべきことは只一つ、あなたの主なるイエス様を、霊と真をもって礼拝することです!そのために私は、天上の力を更に降り注ぎ、あなたを助け導きます!」などと、強く励まして下さいます。神に喜ばれること、即ち「完全性の回復」は、「聖霊のバプテスマ」を授かった時から既に始まっています。


勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙示録2章7節)


 七つの教会の中で、エペソの教会は他の六教会以上に、「神の美しさ」に満ち溢れていました。全ての面で一致し、神のためならば如何なる苦労をも、いとわない群れが存在し、奉仕の面からミニストリーの面において、何ら引けを取らないほどの愛の精神に満ち溢れている、言わば模範的な教会でした。しかし聖霊様は、この教会に対して「完全ではない!」と厳しく指摘されたのです。聖霊様はこの教会に対して、神に喜ばれていない部分が一つだけあることを指摘しました。エペソの教会の人々は、肝心かなめの優先事項を忘れていました。それは、「神の御心を知ること、そして神への激しい熱情の愛」から冷めて(離れて)しまったことです。彼らは、他の何かをすることにおいては、確かに「非常に熱心」でした。それが神に喜ばれることだと錯覚し、「為す」ことにのみ情熱を傾けていたのです。このような彼らに対して、聖霊様は再び軌道修正するために、7節の言葉(訓戒)を発せられました。「再びエデンの園にある、命の木イエス・キリストを食しなさい!」と。


 即ち、私たちは神を追い求めること、イエス・キリストを愛することにおいて、決して冷めてはなりません!又、その愛から離れてもなりません!仮にあなたが、イエス・キリストとの「愛の交わり」から離れたら、再び「古い井戸」に戻るだけです。神に喜ばれることを私たちの「心(意志)」が、自分の行いによって完成させようとするのであれば、それは「初めの愛」から離れた状態、つまり「古い井戸」に立ち戻ったことになるのです。このことを、私たちは決して忘れてはなりません!


 心の変革、それは聖霊様が与えて下さる、「新しい言葉」によって始めさせて戴こうではありませんか!もっと奥深くイエス・キリストを愛する、霊と真による礼拝が、「新しい言葉」を伴って次々と起こされて来ますよう、主イエス・キリストの「貴い御心」によって祈ります。アーメン



注1、D・ウィルカーソン著『ただキリストを求めて』(角笛出版)119項から引用
注2、D・ウィルカーソン(ハーザー2002・6月号)73項から引用
注3、D・ウィルカーソン著『ただキリストを求めて』(角笛出版)73項から引用

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