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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.15)

                               信仰の変革




では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、誰でも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、全ての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求める全ての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。又、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」と書いてある通りです。・・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです
                                                                                                      【ローマ書10章8〜17節】


信仰はどこから来るか
 人は生まれながらにして、「信仰心(信心深さ)」を持っていることを、私たちは知っています。これは、アダムとエバが創造される過程において、神ご自身から直接与えられた神の「命の息」が、「霊」として宿っているからです。即ち、父なる神が私たち人間を創造される際、ご自身の「口」をもって命のない体(土の塊)の中に、「命の息」を直接吹き込まれた「その時」に、人は生きるようになったのです。


 そしてこの時から、実は神と私たちの「霊」を結ぶ、「命の息」のつながり(接合)によって、私たちは生まれながらにして、「神」を信じ頼って行こうとするなど、善き「思い」が生じてきたのです。「人間」を意味するラテン語は、「天を見上げる者」という意味の言葉ですが、仮に私たちが唯一の真なる全能者、「父なる神」の存在を知らなくても、かつてアブラムが「父なる神」に召し出される前に、自分の「創造主」を捜し求め続けたように、私たちの「霊」は霊的故郷(霊の源)を求め、そして捜そうとする衝動に駆られるなど、そのような「生き方」をします。


 父なる神は私たち人間が、アダムとエバに本来与えていた、「命と命の交わり(一体化)」に常にあずかるよう、再び聖霊を通して召集しています。彼らが「エデンの園」に住んでいた頃、父なる神はご自分の「命の息」をもって、彼らの「命」と直接つながっていました。つまり、神の口から「命の息」として吐き出される「愛の言葉」をもって、常に彼らの「霊」の中に、新鮮な「命の息」を与え続けましたが、ある時サタンの仕掛ける巧妙な「誘惑」によって、いとも簡単にその「霊的接合」が分断されました。彼らは、命の源「イエス・キリスト」ご自身との「親しい交わり」を忘れ、サタンのもたらす「古い言葉」を食し、そして「霊」の中に注ぎ込んだ瞬間、神ご自身から直接戴いていた「命の息」が途絶え、霊的に死んだのです。


 ですから、この時から始まった「罪」が、私たちと神をつなぐ(結び合わせる)、「ライフ・ライン(生命線)」の流れを止めてしまう、いわゆる「弁」の働きをしていることを知って下さい。私たちの霊的生命を守る、重要な役割を担っているパイプ・ラインが、「罪」という悪しき「弁」によって塞がってしまった結果、私たちは神の「命の息」を求めるのではなく、「口」から出る「自分の息(自己中心の言葉)」に頼るようになりました。


 この時以来、「人」は「我(私)」という存在(意志)が生きるようになり、「我」中心に生きることを求めて、思考するようになりました。つまり、自分が考える「信念」そのものを、「信仰」とすりかえるようになったのです。ですから、当然の如く私たちキリスト者の中にも、イエス・キリストを信じることが、あたかも自分がイエス・キリストを選んで、自分の「救い主」として受け入れ、「自分の信仰」によって信じるようになった、このように錯覚する時があります。


 ところが、このような「自分の信仰」のレベルにある限り、それは単なる「宗教的行為」を為しているだけで、依然として古い律法の下にあるため、「自分の信仰」こそが正当なものであり、他の者の「信仰」を見比べて批判したり裁いたりする、又逆に「自分の信仰」の方が見劣りするのではないかなどと、霊的に落ち込むことが多分にあるのではないでしょうか!


 「信仰」は、本来何処から生じた(来た、由来した、源を発した)ものであるのか?このことについて、私たちは明確に知らなければなりません。ヘブル人への手紙には、「信仰の創始者また完成者であるイエス」(12章2節)を「見る」よう勧告しています。信仰の創始者、即ち「信仰の源」主イエス・キリストこそが、全ての問題を解決する秘訣であることを、常に覚えて下さい!前述したように「信仰」は、本来「人」が神の「良き作品」として創造された時から、父なる神が「人」との「親しい交わり」を為していく際に、「命と命のつながり」という「愛」の信頼関係を築くために、産み出されて来たものです。そして、私たちが神との「親しい交わり」を求める時に初めて、上のもの(御国)を見上げつつ、父なる神に依り頼むようになります。そして、愛する方の中にあって生きることを、この上なく喜ぶことができるようになり、又神の中にある「聖なる安息(充足感)」にあずかることで、私たちは更に「信仰」が増して行くです。


イエス・キリストの信仰


ペテロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペテロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペテロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい。」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペテロは言った。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。・・・・さて、その男がペテロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、・・・・彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペテロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、何故このことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、何故、私たちを見つめるのですか。・・・・あなた方が見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人を完全に癒したのです。」
                                                                                                        【使徒行伝3章1〜16節】


 この記事において特に注目すべきポイントが、16節に記されています。新改訳聖書で「イエスが与える信仰」と訳されている部分を、新共同訳聖書はもっと明確な表現で、「イエスによる信仰」と訳していますが、この出来事はまさしく「イエス・キリストの信仰」が、足の不自由な者を癒したという、素晴らしい「変革の証言」でした。つまり彼は、「ペテロの信仰」や「自分の信仰」によって癒されたのではなく、「イエス・キリストの信仰」が、彼の中にある「信仰」を復活させ、彼は「イエス・キリストの信仰」を信じ、そして癒されたのです。


 先ずこの記事から、「足の不自由な者」と「ペテロ」の違いについて検証してみます。「足の不自由な者」とは、「肉の次元」に生き続ける、不自由な者を意味します。つまり彼は、何かあるものを求めて生きているのですが、その求めるものが何であるのか分らないまま、「求める次元」に入ることができない、ある面で不自由な状態にあることを指し示しています。かつて、「サウロ」であったパウロが、律法を尊重し、律法の下に仕えながら、「自己」を正当化しようと試みるのですが、何らかの不自由を感じていたのと、同じ状態を示しています。彼は、自分の「信念」を頼みとして、「自分の力」で生きていましたが、「肉の次元」に生き続ける限り、何らかの不自由さがあると自覚していました。この「サウロ」と「足の不自由な者」に共通することは、「肉の力」で立つことができないなど、不自由な状態にあることで、それはある面で霊的に「束縛された」状態にあると言えます。


 それに対して、「足の不自由な者」に対面した時の「ペテロ」は、霊的に如何なる状態にあったのでしょうか?かつてのペテロは、平気で「唇」から偽りごとを言い、簡単に人を騙すなど、人には決して妥協しない「頑固」な性格でした。しかし、彼はイエス・キリストと共に、霊的に「十字架」上で死すことを経験しました。そして、イエス・キリストから「裏切り者」と呼ばれるところを、「永遠に愛する、私の友よ!」と、改めて呼び直して下さる「恵み」にあずかりました。


 このことを契機として彼は、如何に「自我」という存在が罪深いものであるかを、イエス・キリストの「十字架」の御前で霊的に見せられ、自分の中にある「罪」の全てを、五旬節の「その時」に聖霊を通して示されました。そして、自分の「唇」が如何に汚れているかを悟った時、「イエス・キリストの信仰」が、「霊」の只中に硬く据え付けられました。又、「新しい言葉」を語り始める「天の恵み」にあずかった時に、父なる神が如何に罪深い自分を、御子イエス・キリストを通して愛して下さっているかを、聖霊の啓示を通して霊的に悟りました。


 このように「ペテロ(ヨハネを含む)」とは、イエス・キリストの「十字架の贖い」によって、「肉」においては完全に死んだ者であり、霊的には「完全な自由」を与えられた者を意味します。足の不自由な彼は、毎日神殿の門前で「他人の力」によって施しを受けていました。しかし彼の居るポジションは、あくまで「美しい門」の手前までです。彼は決して、「美しい門」の中に入ろうとはしませんでした。その理由は、彼が「肉の次元」に支配されているため、「美しい門」をわざわざ通過し、その先にある最終地点、つまり「至聖所」に入ったところで、人から何の施しも受けることはないだろうと、ある面で人間的な「不信仰」を持っていたからです。


 「美しい門」とは、イエス・キリストの「十字架」の御元にたどり着くための、霊的な「贖いの入口」を指します。この「美しい門」を通過しさえすれば、父なる神が臨在される「至聖所」へと、大胆に進み行くことができるにも関わらず、彼は常に門前に座り続けたまま、「人」を頼みとして生きていました。実は、私たちの周囲にも本当に麗しい「霊の次元」、つまり主イエス・キリストとの「聖なる交わり」が、豊かに用意されているにも関わらず、「別の次元(この世)」を求めるなど、世的な信仰に歩むキリスト者が数多く存在します。彼らは、そのことに気付かないまま、「三次元」という「肉の次元」に支配されながら、信仰生活を送っています。


 再度強調しますが、この「美しい門」を通過するだけで、私たちは何不自由なく神の麗しい「命の息」を、大胆に受け取ることができるのです!ところが、実際には「入れない・・・・。」、このようなジレンマがありませんか?忘れてならないことは、「足」という歩くための器官だけが、彼は「不自由」だったことです。つまり「手」「耳」「口」「耳」の四器官は、いずれも「自由」であるにも関わらず、足の「不自由(不信仰)」を霊的な基礎にしているため、実は他の四器官も「肉の次元」に支配されていたのです。


 彼は、たとえ「足」が不自由であっても、残された「口」の自由をもって、「私は、父なる神の臨在を味わうために、ある決心をしました!私はこれ以上、門前に座っていることに我慢できません!どうかあなたの肉体の力をもって、私の足の助けになって下さり、門の先にある至聖所まで連れて行ってもらえませんか?」などと、誰かに懇願できたはずです。しかし、彼は施しを求めること以外、何の要求もしませんでした。


 この彼の態度を、一部始終見ていたペテロとヨハネは、彼に対して「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と、力強く命じました。ルカはこの時、ペテロの語った言葉一つ一つを、正確に記憶していたことでしょうが、私はこの時にペテロの「信仰」を導いた聖霊様の預言的宣言は、次のようなものであったと確信します。「金銀という三次元の富は、私たちは何一つ持っていない!しかし、私たちには常にイエス・キリストの、「救い(贖い)」の御名から来る御国の権威と、無尽蔵に蓄えられた天上の宝物蔵の扉を、自由に開くことのできる霊の唇を持っているのだ!」


 「金銀」とは、「肉の次元」から生じる「三次元的信仰」であり、「この世」からの祝福を得よう(求めよう)とすること全てが、「肉的な信仰」であることを覚えて下さい。ペテロとヨハネはこれらのことに、全く興味(関心)と欲望を抱きませんでした。使徒の殆どは、どこに行くにも決して「金銀」を所持せず、只聖霊の働きを通して与えられる、イエス・キリストの御名から来る「霊的権威」と、天上の扉を開くことのできる「唇」、即ち「新しい言葉」を語るという、「聖霊の賜物」のみを所持して出かけました。そして、彼らにとって一番必要な「糧」は、聖霊様が必ず用意して下さるもの、つまりイエス・キリストとの「親しい交わり(聖餐)」でした。彼らは常に、「麗しいイエス・キリストを、もっと味わいたい(知りたい)!」などと、激しく飢え渇いていました。


 彼ら使徒にとってこの「霊的飢え渇き」が、全ての行動の基本的特徴でした。この方以外に自分を満足させるものが、この世に一切無いことを十分知っていたからです。彼らは、「私の五体は全て、イエス・キリストのものであり、あなたに全てを捧げます。どうぞお使い下さい!」などと告白しながら、自分の五体をイエス・キリストの、聖なる生きた供え物として捧げ尽くしていたが故に、「肉の次元」において何不自由なく、解放された人々だったのです。


 私たちが「肉の次元」に支配されている限り、あくせくしながら苦闘するなど、「不自由」の中にあります。ところで、リストラと失業が蔓延する今日の日本社会に生きる、私たちキリスト者においても、当然のことながら社会的余波が降りかかり、経済的に何らかの悪しき影響を受けざるを得ません。しかし私たちは、「霊の眼」を「何」に向け見据えるべきでしょうか?「足の不自由な者」の如くに「美しい門」を背にして、その門を通過する「人々」に向けようとするのか、それともペテロとヨハネの如くに、「美しい門」(イエス・キリストの十字架)を通過して、もっと先にある「至聖所」で花嫁の入場を待つ、花婿イエス・キリストご本人との、「親しい交わり」を目標に前進するのか?この二通りのどちらかです。


 「足の不自由な者」と、「ペテロ(ヨハネ)」の信仰姿勢を比較してみると、その最大の違いは何でしょうか?「足の不自由な者」は、自分の信じる「信念」という視野の狭い範囲内で、「自らの祝福」だけを「人々」に乞い求める姿です。それに対して「ペテロ(ヨハネ)」は単純な信仰、つまり「イエス・キリストの信仰」だけを基礎として生きる姿です。彼らは、イエス・キリストが与えて下さる、上からの「信仰」によってのみ、「本当の自分」が生き始めることを知っていました。


 ある面でサタンは、アダムとエバを誘惑し堕落させた結果、全ての人間を三次元の「肉の法則」の下で、奴隷として支配することに成功したかに見えましたが、御子イエス・キリストの贖い、即ち子羊の貴い「十字架の犠牲」により、十字架から流れ出るイエス・キリストの「血潮」は、「この世」の三次元の殻を打ち破り、その貴い「血潮の覆い(注ぎ)」によって、本来アダムとエバに与えられていた、「神の命の息の中にあって初めて、私自身が生きることができる!」という、「霊の次元の法則」に導かれていくことを、可能にしたのです。


命の交わりの呼吸
御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(8節)
 この御言葉の意味することは、どういうことでしょうか?単なる聖書という「本」そのもの、又それに関する「信仰の書物」などがすぐ側近くに置いてあるとか、御言葉を暗誦して記憶したり、口で諳んじることができるといった、三次元レベルのことを指しているのではありません。この御言葉は、「神の言葉」が「命」が生きる如くに、「言葉」として生きていることを述べています。それは、まるで「言葉」が息をしているかのように、「言葉の呼吸」が聞こえて来る、つまり語る相手の「呼吸」を聞き取ることのできる範囲内に、交わる相手が居て下さるという、「親密の度合い」を指し示しています。


 愛する方(花婿)の「命の言葉」が近くにあり、あなたの唇にも愛する方の「命の言葉」がある、このことは相手の「命の息づかい」、即ち「呼吸音」まで聞き取ることのできる親密な「愛の交わり」が、花嫁と花婿との間に存在していることを意味します。つまり、私たちは愛し求めるからこそ、愛する方が発せられる「言葉」一つ一つが、自分にとっては何にも代え難い「命の息」であり、そして愛する方が発せられる「命の息」を吸う時に、自分の唇は「喜び」に満たされ、自分の「霊」が「新しい力」に命づくことを感じるのです。これは、まさしく聖霊様の働きによるものです。つまり、神の「命の息」が自分の「命」を生かし、「命の源」イエス・キリストの御名を呼ぶだけで、「命の息」に覆われる人生が保障される、つまり霊的な「一体化」につながるのです。


 そして、これは「エデンの園」において、本来アダムとエバに賦与されていた、父なる神との「親しい交わり」に由来するものでした。彼らは、神の「命の息」が支配している領域において、自由に霊的呼吸をすることができる、つまり聖霊様(神の命の息)に覆われて「生きる」ことが可能でした。彼らの「霊」は絶えず、聖霊様を求めて止みませんでした。そして、彼らは聖霊様(神の命の息)を求めることで、父なる神の「御心」を常に「知る」ことができました。


 私たちが、三次元の「肉の法則」の支配の中で、霊的にもがき苦しむことが、彼らには何一つありませんでした。つまり「私たちはどう祈るべきかを知りません」(ローマ書8章26節)などの不自由なレベルにはなく、常に神の「御心」を正確に捉えることができたのです。まさしく彼らは、「言い難き嘆き」ではなく、喜んで「言い易き」言葉をもって、神と親しく交わることが可能だったのです。彼らの「霊」には「不自由」が何一つなく、いつでも自由に「愛の語り合い」を交換できました。「エデンの園」全体が、命に満ち溢れた「神」の臨在の現れに他なりません。


 しかし、彼らが罪を犯した結果「人」は、神の「命の息」で生きることを可能にした、聖なる「交わりの場」を喪失し、最終的には「自分の息」に頼りながら生きてはいますが、霊的には「死んでいる」のです。ですから「人」は、「自分の息」に頼って生きる限り、「自分の力」でイエス・キリストを、公に「救い主」として表明することができません。それは、主ご自身が再び私たちの「霊」の中に、ご自分の「命の息」を吹き込まれた時に初めて、私たちは聖霊を通して「私の主よ!あなたを信じます!」と促され、その時から「命の息」を吐くこと、即ち「告白する」ことで、命の源イエス・キリストの信仰によって、「確信(信仰)の言葉」が出て来るのです。


信仰の創始者
 続いて、彼は「イエス・キリストの信仰」に基づいて、聖霊から来る「信仰の表明」を大胆な行動で示しました。「たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」何と素晴らしい、「信仰の証し」となる行動でしょうか!


 彼はその後、どう「変革」されたのでしょうか?彼は、ペテロとヨハネを捕らえて離さない方、つまり救い主イエス・キリストに、自分の「霊」が完全に捕われてしまったのです。そうです!彼は、イエス・キリストの「新しい弟子」として、「新しい人生」に召し出されて行ったのです。それまでの彼は、「美しい門」の前に仕方なく座り続けるなど、不自由な人生を過ごしていましたが、ペテロを通して与えられた聖霊の大宣言により、見事に今までの「古き人生」全てが引っくり返され、今度は自由に「美しい門」を通過できるよう、新しく創り変えられました。即ち、彼は「良き知らせ」を伝えるため、霊的に「美しい足」を与えられ、以後彼はキリストの美しい「働き人」に変革されたのです。


 これが信仰の創始者、「主イエス・キリストの信仰」を基礎として、変革された者の「証言」です!「信仰の創始者」とは、文字通り「信仰を創造し、始められた方」です。「信仰」を創られた方は、誰でしょうか?信仰一つとっても、「自分のもの」と呼べるものは何一つありません!まさしく「信仰」は、イエス・キリストが創られたものです。ですからこの御言葉は、「信仰の源」と置き換えてもよい言葉です。


 「信仰の源」である、主イエス・キリストを追い求める時に、この「足の不自由な者」の「足」は、見事に肉体的な不自由さから解放され、今度はイエス・キリストの「証人の足」として、大胆かつ自由に「美しい門」を通過し、イエス・キリストとの「親密な交わり」の場(至聖所)へと、歩み寄って行くことが可能になりました。彼はその後、次のように証言したのではないでしょうか!「私を見なさい。私の五体は、以前は不自由でした。しかし、今は主イエス・キリストの信仰によって、このように自由にイエス・キリストを追い求める、素晴らしい足へと造り変えられました!」


 恐らく、以前「不自由な足」を持っていた頃は、自分から発言する気力も殆どなく、むしろ人々から「お前の足は、何と可哀想なことか!汚い足だねー!」などと、蔑まれていたかも知れません。しかし今や彼の「足」は、イエス・キリストの「美しい足」と、呼ばれるようになったのです。何よりも素晴らしいことは、彼の「霊」が「命の息」の源イエス・キリストを、霊的に激しく求めて止まなくなったことです。彼の唇は、絶えず「命の息」の源を吸い、そして吐く時には大胆に「新しい言葉」を語ることのできる、「新しい人」に変革されました。これはまさしく聖霊を通して為された、大いなる「変革の証言」です!


 パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)と述べていますが、私たちは「キリストの言葉」を、「何」をもって聞くのでしょうか?私たちは、確かに肉体的器官の「耳」で聖書の「御言葉」、有名な講師の「教え」や「神学セミナー」など、様々な知識や情報を聞くことができます。しかし一番大切なことは、あなたの「霊の耳」が「何」を聞こうとしているか?ということです。イエス・キリストの、「命の息づかい」が聞こえる程の距離に接近し、愛する花婿の「命の言葉」を、直接聞いてみたい!と思いませんか?あなたは、父なる神との「愛の語り合い」を、真剣に求めていますか?それは只、聖霊との「親しい交わり」を通して与えられる、「命の言葉」を吸う(求める)ことから始まるのです。


 私たちも「足の不自由な者」から、「美しい足」を持った「自由な者」へと変革されるべく、信仰の源イエス・キリストにもっと近づき、そしてより親密に交わろうではありませんか!愛する方に覆われることで、私たちの「不自由」が完全に自由にされ、美しい「イエス・キリストの花嫁」に仕立てられることを、「イエス・キリストの信仰」の御名で祈ります。アーメン!


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