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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.17)

                               全体と部分



私に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、全ての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまずに施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は快く行ないなさい。
                                                                                                        【ローマ書12章3〜8節】


「言葉」の分離化
 アダムとエバに与えられていた「言葉」は、神との「親しい交わり」をする目的で与えられた「霊の言葉」であり、第一に「神との一致」を成立させる、重要な役割を担うものでした。そして第二に、「夫婦の一致」をもたらす「言葉」でもありました。「エデンの園」を支配するこの霊的言語は、彼らにとって欠くべからざる「命の言葉」でした。「言葉」が何よりも、神との「親しい交わり」に用いられるなど、この唯一の目的故に存在していましたから、「言葉」の中に「神の臨在」があり、「言葉」の中に「神の命」が宿っていたのです。


 彼らが自分の「心(意志)」から、ある音声を発した時点で、それは父なる神に対する「愛の言葉」の現れであり、彼らの「求め(言葉)」に対して、神がその応答として「霊の音声」を発せられる時、相互にある「親しい交わり」を、更に「濃密(親密)なものにするため、神の「意志」が即「命の言葉」となっていました。つまり、彼らを「神の命」の中に混じり合った、貴重な存在として位置付けるために、「言葉」が「神」と「人」を融合させる、重要な働きを担っていたのです。


 しかし「人」は、サタンがもたらした「罪」の結果、神の与えて下さった本来の「霊の言葉」を失い、返ってサタンから「この世」の次元にある、「古い言葉」を受け取りました。サタンの与える「古い言葉」は、全ての物事を「自分(我)」中心に、思考するように仕向ける「悪しき言葉」です。即ち、この世の「古い言葉」の最大の特徴は、「自己中心」思考にあります。その結果、彼らは「神」と「自分」、そして「妻」と「自分」と区分しながら、「自己中心」的に思考し始めました。


 彼らが、罪を犯す以前に使用していた「霊の言葉」の次元は、決して「神」と「自分」を区分して、思考することはありませんでした。何故なら、彼らの存在自体が神との「一体化」の中にあり、自分を「神」から離れた存在として思考することは、決してなかったからです。「神の言葉」が、彼らにとって「命」そのものであると感じられるほど、「霊の言葉」の持つ「力」が強かったのです。その霊的な「力」は彼らの「霊」を、神との「一致(一体化)」の中に常に融合させるものでした。


 その融合状態を分離させたのが、サタンのもたらす「古い言葉」でした。今まで、父なる神とストレートに一致(一体化)できていたものが、何となくぎこちなくなるなど「不一致」な状態が生じ、それは「夫婦関係」においても、「不一致」な状態(関係)に陥ってしまったのです。罪を犯したアダムは、父なる神に叱られる際「この女が、最初に私を誘ったのです!」と言うことで、「妻」と「自分」を分離(区別)した関係で見るようになりました。決して彼は、「妻の為したことは、私の罪でもありますから、どうぞ私たちの罪をお赦し下さい!」などと謝ることはなく、むしろ「自分は悪くない!悪いのはこの者です!」と区別して考えるようになり、この時から「不一致」や「不完全」が発生するようになったのです。


 それ故に、「言葉」が分け隔ての「壁」となり、「言葉」を「自分の所有物」と見なすことで、他者の言葉に決して耳を傾けようとしない、又近隣の人々に対しても、ストレートに一致(協調)できない関係になるなど、これらは全てサタンが与えた「古い言葉」によるものです。サタンの王国の、中心言語である「自己中心(エゴイズム)」思考が、「古い言葉」の中核です。


 例えば、どの民族の歴史においても必ず見られることですが、「言葉」が各時代の歴史的潮流の本流となって、様々な影響を及ぼす重要な役割を担ってきました。そして、人の「霊」の中に蒔かれた「自己中心(エゴイズム)」思考(思想、イデオロギーなど)が、最終的には「悪しき方向」に向かわせるもの、つまり暗闇の支配をもたらす「悪」の原動力となって、様々な人間関係を破壊してきたことを、私たちは「歴史」の教科書を通じて十分に知っています。小さな人間関係の争いから、大きな世界大戦に至るまで、その争いの根本原因は「不一致(分離)」の状態、つまり「言葉(エゴ)」と「言葉(エゴ)」の争い(対立)です。


 領土をめぐる争いに関しても、この土地は「自分の物」であるという、自己中心的「思い込み(内面的言葉)」から生じます。誰が、領土の範囲(地境)を決めるのでしょうか?ある土地を、自分の「私有物」とする決め事は、民法などの法律規定を「立法化」する、つまり文章化(言葉に)した時に初めて有効となります。しかし、今日の平和な日本に住んでいると、殆ど分りにくいことですが、法律を無視して「あの土地は、本来我々のものではないか!あいつらは元々よそものであり、出て行くべき連中だ!出て行かないんだったら、実力あるのみだ!」などの「言葉」の争いが、「パレスチナ問題」に見られる民族紛争です。民族紛争の根本原因は、まさしく「言葉」の争い(分離)と言えます。


 「言葉」が分け隔ての「壁」になった時、「人」は言葉を「自分のもの」と扱うようになりました。しかしアダム(エバ)が罪を犯す以前は、「言葉」は神から戴く「命そのもの」であり、そして自分の中にある「命」自体も、「神の命の中にある、一部分に過ぎない!」という「一体感」の中で、「人」は生きていたのです。しかし、サタンは彼らの「霊」の中に、「いや違うんだ!あなた方だけでも、神のように生きられるようになるんだ!」などと、「自分」と「神」とを分けて(分離して)考えるように仕向けました。その結果、彼らは見事に騙され、「あ、本当だ!確かに生きることができる!私たちも神のようになったんだ!」などと錯覚したのです。その瞬間、彼らの霊的フィールドに、「エゴイズム」という「毒麦」の種が蒔かれました。この「エゴイズム」から生まれる「言葉」は、例えば「不完全」、「不一致」、「争い」、「妬み」、「私物化」などの「悪しき言葉」です。


「全体」と「部分」
 「私たちの一つの体は多くの部分から成り立って・・・・」(4節)に記述されている「一つの体」とは、体の「全体(Body)」を指します。それに対して「部分」は、体の「パーツ(Part)」を指します。パウロは、この「全体」と「部分」を考えていく上で、次のように諭しています。「神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(3節)と。「自分(我)」を過大に評価させる罪は、サタンがもたらす「エゴイズム」から生じたものです。「自分も神のようになって、生きられるかも知れない!」、「自分は、あの人よりも優れているかも知れない!」などの「比較的思考」は、全て「自己」を過大に評価する考え方です。それに対し「慎み深い」考え方は、「イエス・キリストによって罪赦され、本来は死すべきところを、御子イエス・キリストの十字架のはん祭によって、新しく生きられるようになった。それ故、私は自分(自己)自身の全てを、生きた聖なる生贄として捧げるため、神の御前に有りのまま出ようではないか!」などと、悔いた砕かれた考え方をする、「真の礼拝者」の姿です。


 私たちの「人体」は、数え切れない程多くの「パーツ(器官)」から成り立っています。この多くの「パーツ」が組み合わされて、「一つの体」として一致させる、その原動力となるものが、実は「血液(血潮)」に当たります。この「血潮」が、体全身にみなぎって流れているからこそ、一つ一つの器官が「生きる」ことができるのです。ここに重要な真理があります。つまり、「全体」と「部分」を成立させているものは、「血」の力です。


 私たちは霊的に見て、イエス・キリストの「み体」の「部分」に相当します。例えば、生物学的に私たちの「体」の中に、自分のものとは別の「パーツ(器官)」を、移植したらどうなるでしょう?殆どの場合、それは「不適合」により「結合」しません。むしろ、自分の「体」が別のパーツに対して、必ず「拒絶反応」を引き起こします。ということは、私たち人間の「体」が、如何に「完全な一致」の状態に、常に保たれているかが分ります。神の創造された全ての「作品」は、神の定めた「聖なる適合」の中に生きるよう、本来は産み出されているのです。


 ところで、私たちの「人体」の中で、どの部分が「美しく」見えるのでしょうか?大抵の人は、目に見える表面的な部分、とりわけ「顔」が一番「美しいもの」と把握します。それに対し、例えば「肛門」などの排泄器官は、「汚らわしいもの」として、人目に隠すべき部分のように見えますが、神にとってはこの器官も、「美しいもの」として創造しています。どういう面で「美しい」のでしょうか?それは「口」という器官から入った食べ物を、全て「出し切る」という働きに関して、「麗しいもの」です。その証拠に人は、この排泄器官がたとえ「汚くなる部分」であっても、いつも清潔に保ちます。何故なら、その部分を汚いからと言って放って置きますと、最終的には「病原菌」が発生して、「体」全体を破壊するほど損なわれることがあることを、前もって「知っている」からです。私たち「人」の脳は、生まれながらにして「口」から入れるものだけではなく、排泄器官も「美しい」状態に保とうとする習性が、あらかじめインプットされているのです。ですから、「人体」のどの「部分」を見ても、たとえ隠れた器官で余り役に立たないように見えるものであっても、全てが「価値ある」、「美しい」器官であることを知って下さい。


 キリストの「み体」に連なる、私たち「キリストの花嫁」にとって「部分」とは、ある面で神から与えられる「賜物」というパーツを指します。「賜物」とは、誰もが「専門店」で買い求めることのできる、「専門道具」ではありません。文字通りそれは、唯一「天」から与えられる「授かりもの」です。「人」から与えられるものは、ただの「贈物」に過ぎません。「賜物」は、「贈物」と違って一方的に「天」から授けられるものであり、与えられる側の価値如何に関わらず、神から「恩寵」として与えられるものです。「天」から「良きもの」として与えられる、この「賜物」をどのように使うかは、与えられる本人に委ねられます。


 前述したように、「言葉」を「自分のもの」とした時から、「人」は「神」から離れるようになりました。「言葉」も、父なる神が「人」に分け与えた「賜物」の一つです。アダムとエバに与えた「霊の言葉」は、神と親しく交わるために授けられた「賜物」でした。しかし、彼らは「神の言葉」よりも、「サタンの言葉」を受け取ってしまったが故に、彼らに与えられていた「言葉」が、この世の「古い言葉」に変質したのです。ですから、「天」から与えられる「賜物」を、自分のために使うのか?それとも「賜物」は、あくまで与えられたものであるから、神の「御心」のみに使うことに徹するのか?その選択は、あなたに委ねられています。「異言」も、「天」から授けられる「賜物」の一つです。百二十人の弟子たちに授けられた「異言」は、まさしく今まで得たことのない、新しい「天」からの「賜物」でした。彼らは誰一人として、それを「自分のため」に使用する者はいませんでした。



どのように使うのか?


エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。・・・・主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。・・・・ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみをご覧下さい。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授け下さいますなら、その子の一生を主にお捧げし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」ハンナが主の御前で余りにも長く祈っているので、エリは彼女の口元を注意して見た。ハンナは心の内で祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。・・・・ハンナは、「はしためがご厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。・・・・ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
                                                                                                 【サムエル記上1章2〜20節】


 エルカナには、二人の妻「ハンナ」と「ペニナ」がいました。彼女たちが、どのような背景(素性、出身地)から登場してきたのかは、全く記述されていませんが、この二人の「妻」としての違いについては、明確に記述されています。先ずペニナが「子宝に沢山恵まれた」女性であるのに対し、ハンナは「妻」として「女性」としても、「一つも実りあるものが何も無い」女性でした。


 「平成」という、新しい時代の今日の日本において、この「ハンナ現象」が依然として、見受けられるのではないでしょうか!それは、例えば「男子を出産しない嫁」、「女子のみしか出産しない嫁」、もっとひどい表現になると「一つも子宝に恵まれない不妊の嫁」、このような彼女たちが一方的に差別(冷遇)されるといった状況が、未々各地に存在しています。「家」というものを重視する日本社会においては、伝統的に「子を産めない女」は「産まずめ」と呼ばれ、「お家のために役に立たない女」として差別され、まるで女性を「一家畜」のように扱うところがあります。今では余りなくなりましたが、戦前において「子を産めない女」は、一方的に離縁されました。


 実はこの二人の「妻」から、「賜物」に関する霊的奥義が示されます。先ず「ペニナ」は、多くの「賜物」に恵まれた者のことです。それに対し「ハンナ」は、「賜物」と呼べるものが何も無いかのように見える者のことです。しかしこの二人の大きな違いは、ペニナが「それを誇った」ことにあります。ペニナは、ハンナと同じ「妻」という立場にありながら、ハンナに対して「私の方が、愛する夫との間に、沢山の子がいるわ!」などと誇りながら、常に彼女を軽蔑していたのです。そして、会うたびに「私の方が沢山の賜物があるから、あなたには分け前は何もないわ!よくもまー、まだ妻でいられるわね!」などと皮肉を言い、更に苦しめました。


 しかしハンナは、「子」という「賜物」を授かることに関して、あくまで「主よ!子供は、あなたが一方的に与えて下さる恩寵です。どうぞ、このはしためにも、あなたからの分け前を授けて下さい!主よ、私はあなたの御心だけを求めます!」と、このようなへり下った祈りを捧げ続けました。ペニナが「賜物」だけを求め、それを「自分のもの」としたのに対し、ハンナは「賜物」を与えて下さる、主なる「神」ご自身を求めました。私たちキリスト者の中にも、次のような勘違いをしている人がいないでしょうか?「あの先生に与えられている素晴らしい賜物を、私にも授けて下さい!」、「私にも預言する賜物や、人々を癒す奇跡の賜物を下さい!」などと。このように祈る人々が多くいるのに、神ご自身を求める人は何と少ないことでしょうか!イエス・キリストを通して奇跡的に癒された十人の中で、彼を求めて再び帰って来た人は、たった「一人」でした。ハンナは、父なる神ご自身の「御顔」のみを慕い、そして激しく祈り求めた結果、主は「御顔」をハンナに向けて下さり、「サムエル」という素晴らしい男子を授けて下さいました。


 「サムエル」の霊的名称は、何を意味するのでしょうか?それは、「神によって与えられた恵みの賜物を、神の栄光の御名の故に捧げ尽くします!」という信仰表明です。これはある面で、一人の預言者「サムエル」の人生を、母ハンナが信仰的に先取りして、預言的に命名した名前でした。又「サムエル」とは、ハンナの礼拝姿勢を表明した名前でもあります。つまり、彼女は「主よ、これは私のものではありません!あくまで、あなたから戴いた賜物です。それ故私は、このサムエルをもって私の人生の全てを、あなたの栄光の御名のために捧げ尽くします!」などの祈りを常に捧げることで、神の御前にへり下る姿勢を貫いたのです。


 ですから、ペニナが「自己中心」で物事を進めるのに対し、ハンナは常に神の「御心」のみを求め、激しく祈り求める姿勢を表しています。10節から16節には、彼女が「言い難き嘆き」をもって祈る姿が描写されています。彼女の唇は動くのですが、何を語っているのかその音声を聞き取れない、無音の祈りを捧げていました。「唇」が動いているということは、何らかの「言葉」を語っていたことでしょうが、彼女の祈り「言葉」はエリにとって理解できない、何らかの言語であったのものと推測できます。そうです!彼女は「霊のうめき」をもって祈った結果、聖霊様がハンナの「閉ざされた胎」を開いて下さり、父なる神の「賜物」サムエルを一方的に授けて下さったのです。


全ての賜物の方向性
 「異言」は必ず、神の「御心」を求める「正しい方向」へ、祈る者の「霊」を引き上げます。そして最終的には、神に全てを捧げる「真の礼拝者」へと建て上げます。ハンナは自ら「言い難き嘆き」をもって、聖霊の導きに従いながら祈った結果、「主はこの私に、必ず御顔を向けて下さる!そして今!私の祈りは聞き届けられた!」という、全き確信に至ることができました。その証拠に、彼女がまるで「ぶどう酒」にでも酔っているかのように、「喜び」と「至福」に満ち溢れている様子を、エリは彼女の「顔」の表情から確認できました。「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」(18節)この現象は、モーセがシナイ山で父なる神の臨在にあずかった時と同じです。父なる神の「御顔」の輝きを、実際に見た者と同じ「表情」が、ハンナには満ち溢れていました。つまり「霊のうめき」という、「異言」による神との「親しい交わり」の結果、ハンナは神の「御心」に確実に触れたのです。


私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(6節)
 私たちには、様々な「賜物」が各部分(パーツ)に与えられています。しかし、「体」は一つです。その時に、各パーツが与えられた能力(タラント)に関して、「これは私のものです!だから、自分のために使います!」などと主張し合うのであれば、それは自分自身を過大に評価することになります。サタンは、常に私たちの「霊」に囁きかけます。「あなたのパーツは、皆のものと比べてみても、非常に優れています!あなたのパーツこそ、体の中で一番重要な器官ですよ!」などと。


 しかし、ここに霊的な惑わしがあるのです。パウロは、「慎み深い考え方をするよう」前提として勧めています。何故ならタラントは、各自に対して多様に付与されるからです。そこで、パウロは「慎み深い考え方」として、「信仰に応じて」(6節)、「専念しなさい」(7節)、「精を出しなさい」(8節)、「惜しまずに」(8節)、「快く行ないなさい」(8節)と、具体的な行動基準を示しています。これが、全てのパーツに共通する「慎み深い考え方」です。又、このパウロの言葉に共通する方向性は、「捧げる」ということです。


 ある場合に私たちは、この「捧げる」という概念が欠けているため、「よし!私がやります。」などの「誤った方向」に傾いて行くことがあります。「自分の目的のために、何かをする」ことを、専念するとは言いません。「専念する」とは、専らある目的のために、自分の命を捧げ尽くすことを意味します。「精を出す」、「惜しまない」、「快く行う」、これらは全て、自分の「肉の力」では不可能な行為です。ですから、私たちが「全体」と「部分」を考える際に、各部分が「私こそが、全体の益になっているんだー!」などの誤った考えに陥った場合、そこにはサタンによって蒔かれた、「エゴイズム」の種が急激に成長しつつあることを、うっかり忘れてしまうほどの、「まやかし」があることを再認識して下さい。


 あなたは「ペニナ」のように、「賜物」を自己中心的願いから使用しますか?それとも「ハンナ」のように、「主よ!賜物はあくまで、あなたからの一方的な授かりものです。決して私から出たものではありません。ですから、私はあなたの御心のみを求め、私の全てを捧げ尽くします。どうぞ、あなたの御心のままに、私をお使い下さい!私は、あなたのパーツに過ぎませんから。」などと、「慎み深い考え方」をもって使用しますか?「異言」も一つの賜物です。あなたは「異言」の賜物を、何のために使いますか?


 「異言」の賜物は、未知の「大いなる力」を秘めたものです。この秘められた「大いなる力」が、段々明らかにされていく時に、私たちが気を付けなければならない点は、全ての「賜物」の方向性が「神への礼拝」でなければならないことです。全てを、神の栄光の御名のために捧げ尽くす、「サムエル」的人生を過ごすのか、これが非常に重要な鍵になります。あなたの礼拝姿勢にも、聖霊様は今問い質しておられます。「あなたは、与えられたサムエル(賜物)をもって、全てを捧げることができますか?主から戴いた異言の賜物をもって、主の栄光の御名のために命を捧げ尽くすことができますか?」と。あなたの中にある「サムエル」というパーツは、主の「み体」の一部分に過ぎないことを、改めて知って下さい!


 「異言」は、アダム(エバ)が犯した罪の結果、散り散りに分離したパーツを、再び神の「み体」なるイエス・キリストと、霊的に「一体化(一致)」させる働きをします。そして、イエス・キリストの御名の故に、自分の命そのものを「賜物」として、「神の命」の中に捧げ尽くすよう、その人の「人生」を全く「新しい人生」として、変革させていく「原動力」になります。このように「異言」の最終方向(目的)は、常に神との「一体化」に至ることです。神との「一体化」とは、パーツが「自分の命」で生きることを、完全に放棄する(捨てる)ことです。


 パーツは、イエス・キリストの貴い「血潮」によって生きている故に、「み体」なるイエス・キリストに、自分の「命」の全てを捧げるのです。これがパーツに課せられた、素晴らしい人生(使命)です。パーツが、「いいえ、私は自分の美しい目で、生きる(見る)のです!」、「私は自分の美しい唇で、生きる(語る)のです!」などの主張をしたら、その瞬間にイエス・キリストの「血潮」は、「お前たちは、私から去れ!必要ない!」と宣言されます。キリストの「み体」に常に必要とされるパーツとは、神をこよなく愛し、神の「み体」の中に一体化することを、ハンナのように「激しい飢え渇き」をもって祈り求め、そして神から与えられた「サムエル(賜物)」を、「神の命」の中に捧げ尽くしていく者のことです。


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