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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.14)

                           変革の扉−うめき−




 人が「苦しみ」や「悲しみ」、又「困難」の中にある時、その人の感情から生まれ出る「言葉」の表現は、如何なるものとして現れ出るでしょうか?恐らく、その「苦しみ」の度合いが増すに連れ、何も語れなくなるほどの状態、例えば「嗚咽」や「叫び」、そして「絶叫」などの、言わば「うめき」という言葉にならない表現として、現れ出るのではないでしょうか。


 私たちキリスト者であっても、言い難き「うめき」を伴うほどの、「苦しみ」の中にある時、①如何なる助けが天上からもたらされるのでしょうか?そして②他の隣人が、「苦しみ」の状態にある時にも、私たちは聖霊の「賜物」をもって、何らかの霊的手助けをその人に対して、果して為すことができるのでしょうか?又、実際的な「苦しみ」ばかりでなく、③激しい「霊的飢え渇き」が起きているにも関わらず、何かが霊的に阻害しているため、霊的充足が思うように得られないなど、「霊的うめき」の状態にある人々にも、聖霊様は天上から「命の水」を、更に用意して下さるのでしょうか?この章では、この「うめき」という、言葉にならない「言葉」について考察します。


現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・・・つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物が全て今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。・・・・同様に、霊(聖霊)も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなして下さるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのためにとりなして下さるからです。
                                                                                                      【ローマ書8章18〜27節】


変革の第一の扉
 パウロは「ローマ書8章」から、私たち被造物が霊的に見て、如何なる「うめき」の状態にあるのか、この点について詳しく説明しています。先ず18節から「現在の苦しみ」は、私たちの肉体的苦痛ばかりでなく心の苦しみに至るまで、全てが将来に現される「栄光」への、「第一の扉」になるものであると述べています。又21節では、私たちに与えられた(課せられた)「苦しみ」は、自分の「意志」から出たものではなく、神の「意志」つまり神の「御心」から為されたものであると、更に詳しく説明しています。


 では、将来に現される「栄光」とは、如何なるものでしょうか?21節には、私たち被造物はいずれいつの日か、今の「苦しみ」という隷属状態から解放され、必ず「神の子」として「栄光の自由」にあずかれる!このことが記述されています。即ち私たちは、今日の「この世」を支配する、「古い次元」の束縛から完全に解放されて、いずれは新しく「神の子」として輝き出る、つまり「栄光の状態(栄化)」へと造り変えられるのです。


 「苦しみ」ばかりが、「うめき」を伴うものではありません。霊的な激しい飢え渇きも、ある面で「うめき」の一つです。例えば、私たちが神の御前に座し、イエス・キリストの御元にストレートに近づこうとするのですが、何らかの障害物が立ち塞がるなどして、霊的に前進することができないジレンマを覚えること、又イエス・キリストの「御声」を聞くため、もっと多く祈り「御心」に触れたい!天上から流れ出る、「命の水」をもっと飲みたい!そして何よりも、麗しいイエス・キリストの「命の言葉」と、私たちの「新しい言葉」が、更に親密に結び合わされるように!などと望むにも関わらず、それが思うように為し得ないこと、これらも「うめき」に当たります。


 このような「霊的うめき」の状態は、蚕(かいこ)が「蛹(さなぎ)」の「体」へと何度も変態を繰り返し、最終的に「蝶(蛾)」の「体」に造り変えられる過程に似通っています。蚕は「芋虫」の時には、桑の葉をたらふく食べることで、物凄く満たされた状態にあります。口を休める時があるのだろうか?と思えるほど、絶えず口を動かし食しています。そして、自分の「体」は日増しに巨大化していく訳ですが、何日か経ちますと自分の体内から、「食欲抑制ホルモン」が分泌され、「もう食べるな!」というストップ指令がかかります。すると「体」が、一切食物を受け付けなくなります。
「え!いきなり断食ですか?私はいつでも自由に、天然の桑の葉を食べることができたのに・・・・そう言えば最近食欲がなくなり、たらふく食べたい!と、もう思わなくなったなー。」
などと、芋虫は自問自答するかもしれません。


 食を断ち始めて、しばらくすると自分の「体」の中に、ある変化が起こり始めていることに気付きます。どのような変化でしょうか?今まで自分の「口」は、ひたすら食べる(入れる)ことに一生懸命だったのに、今度はかつて見たこともないある「異物」が、自分の意志とは関係なく「口」から出て来ます。それは、粘り気のある糸状のもので、その「異物」をもって彼は、自分の「体」の周囲をぐるぐると巻いて行きます。止め処もなく自分の「口」から「異物」が出る度に、今まで肥え太った自分の「体」が、極端に痩せ細って行くことに気付きます。将来この「異物」が、人の役に立つ「生糸」になることも知らずに、この「異物」を出せば出すほど、自分の「体」が干からびて行くのです。
「何故このようなことを、私はしているのだろうか?こんなことを続けていたら、私は死んでしまうのではないか!?あー誰でもいいから、私の口を止めてくれないだろうか!どうか、助けておくれー。」
などとこの状態は、殆ど言い難き「うめき」に近い有様です。


 そして、遂に「口」から糸が出なくなり、「体」全体が干からびきった彼は、もはや動ける状態ではなくなりました。そうです!文字通り「死んだ」状態になったのです。自分の「体」さえも見ることができなくなり、何日間が経過しました。彼は、その間「休眠」状態に置かれます。只認識できることは、きれいな白い殻状のもの(繭)が、自分の「体」全体を幾重にも覆っていることです。外界から遮断された彼は、ひたすら只一つのことを待っていました。それは、自分の「古い体」が贖われることです。


 それからしばらくすると、次に自分の「体」全体に、ある変化が起こり始めました。それまでは、エネルギーも底を着き繭に覆われているため、絶対動けないと思っていた「体」でしたが、今は少し身が軽くなったような気がして、実際動かしてみると、何と少しずつ動かせるではありませんか。そして手足の動かし方が、以前の時と比べ微妙に違うことに気付きます。その瞬間、彼の体内からあるホルモンが分泌し始め、「殻を食い破れ!」という第二の指令を脳から受けます。「え?!今の私は、何もすることができないほど、肉体的な弱さの中にあるはずだが・・・・。食い破るなんて絶対無理だ!できない!」と思うのですが、指令は発し続けます。「とにかく食い破れ!」と。


 そこで、仕方なく自分の口の前にある、殻の一部分をそれとなくかじってみました。「桑の葉は柔らかくて噛み易かったが、果してこの硬いものを、今の自分は噛めるものやら?・・・・。」などと思いながらも、噛み砕いてみました。すると、どうでしょう!まるで紙を破るかの如くに、いとも簡単に食い破ることができるではありませんか!
「え!私の歯は、こんなにも丈夫だったかなー?」
と驚きながらも、ひたすら食い破りました。


 すると遂に殻の破れ目から、まぶしい「光」が差し込んで来ました。その「光」は、今まで「芋虫」の時に見ていたものとは、遥かに違ったイメージで差し込みました。「芋虫」の時には、桑の葉に反射するだけの柔らかい「緑色光」でしたが、今彼の「新しい眼」に差し込む「光」は、まさしく「天上の光」であり、その光を通して今まで見たことのない、外界の光景が見えてくるのです。その瞬間、彼は繭の中から「体」全体を押し出すと、自分の「体」が以前と違って、異常に「軽い」ということに気付きます。そして自分の背中に、何やらフワフワしたものが、ぶら下がっていることに気付き、外界の空気に触れながらしばらく待っていると、最初縮んでいたかに見えたフワフワのものが、少しずつ下に向かって伸びていくではありませんか!そうです!「羽」が付いているのです。しかもこの「羽」は、重くありません。自分の背中の筋肉を動かしてみると、何とバタバタ上下に動かせるほど、非常に身軽いものです。彼は思わず、
「こ、これは、今までの私とは違う!」
その瞬間、彼はフワリフワリと空中に羽ばたいて、天に昇って行くのでした。


 私たちは、「言い難き嘆き」を伴うほどの、「苦しみ」を経験する時があるかも知れません。又激しい飢え渇きを伴う、「霊的うめき」を覚える時があるかも知れません。しかし聖霊様は、そのような「言い難き嘆き」や「霊的うめき」の中にある、私たちのためにとりなして働いて下さり、聖霊自らも「言い難きうめき」をもって助けて下さいます。23節でパウロは、私たちが「神の子」とされること、つまり私たちの「体」が、全ての領域において贖われることを、「霊」が激しくうめきながら、待ち望んでいると記述しています。


 あなたは、「芋虫」が「蛹」になる際に起こった変態(変革)のプロセスのように、もう干からびて何も為すことができない!それ故に今の「古い体」ではなく、神の御子イエス・キリストを長子とする、復活した「新しい体」に贖われることを、本当に待ち望んでいますか?「体」の贖いを求める「うめき」とは、「古い肉体」に伴う苦しみから完全に解放され、イエス・キリストの「御体」の肢体(新しい体)として、神の「栄光」に覆われた至聖所において、自分自身を完全に捧げ切った、つまり御子イエス・キリストと霊的に「一体化」することを欲する、「霊的うめき」を指しています。即ち、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。」(ローマ書12・1)の御言葉の如く、イエス・キリストと同様に自分の全てをもって、「聖なる生けるいけにえ」として捧げ尽くすことを欲する、「霊的飢え渇き」のことです。それは、自分自身の全てを捧げることで、必ずイエス・キリストと「一体化」することを、霊的に知っているから(或いは聖霊によって知らされる故)、渇き続けるものです。


変革の第二の扉
 26節には、聖霊様が「弱い私たちを助けて下さいます。」と、明確に記述されています。つまり聖霊様が「弱い者」を助けて下さること、これは非常に重要な真理です。霊的に「弱い」ということが、変革の「第二の扉」になることを教え導いています。聖霊様の「助け」は、「強い者」には与えられません。


 ところで、私たちは何に於いて「弱い」のでしょうか?この質問から逆に示されることは、私たちの中に「強い」自分が、必ず存在するということです。そして、私たちの「霊」の中に「強い自分」がある限り、聖霊様は決して働かれることはありません!ナアマン将軍がヨルダン川にて、不治の病から解放される時の「教訓」(Ⅰ列王記五章)から、私たちは「強い自分」の存在を謙虚に「知る」必要があります。ご存知のように、彼はエリート軍人でした。又、祖国を常に勝利へと導いた「国家の英雄」でした。いつも命令する立場にあり、決して名も無き身分の卑しい者から、命令されたことは一度もありませんでした。


 しかし、この誇り高き人物に対して父なる神は、イスラエルで名の通った預言者エリシャを通してではなく、名も無き彼の「使いの者」の言葉を通して、汚いヨルダン川にて七度身を沈めるよう命じられました。彼は一応、しぶしぶながら六度まで水につかりました。しかし自分の身体に、これと言った癒しの変化(兆し)は全く現れませんでした。むしろ自分の体が、ヨルダン川の汚泥で汚くなるばかりです。そこで試されるのです!


 聖霊は同じように、「弱い私たち」を助けて下さいます。「強い!」と思っている自分には、聖霊様は決して働かれないことを、もう一度覚えて下さい!この時、ナアマンは「一つの選択」を迫られました。その間、「自分は何のために、ここに来たのか?それは、自分の体が贖われるため、即ち完全に癒されるためではなかったのか!」などの、聖霊から来る「内なる思い」が聞こえます。すると、「お前自身のプライドを、傷つけられるために来たのではない!」という「肉なる怒り」が生じたり、逆に「お前自身に、何ができるというのか!何も為しえないからこそ来たのではないか!」などと、彼の良心が盛んに葛藤し始めました。聖霊は、彼の良心の「良い心」に語りかけます。「もう一度つかりなさい!」と。この「もう一度つかる」という、聖霊の「御声」に素直に聞き従うことが、「弱さ」への扉となります。彼はこの最後のチャンスを、聖霊の「御声」に聞き従うことで手に掴むことができました。


 ナアマンの、この「教訓」から霊的に示されることは、「強い自分」が砕かれていく中で必ず示される、「自己中心」という罪に対して聖霊様は働かれ、その罪を無力化していくことです。そして、無力化された者のみが知り得る次元が、「弱さ」なのです。


 私たちの中に存在する「強い自分」の基礎は、如何なるものでしょうか?それは殆どの場合、「自己中心」という罪です。例えば、私たちは「何」を一番に誇る傾向にありますか?「自分の名(名声)」ですか?「自分の教会」、「自分たちのミニストリー」、「自分の召し」・・・・、これらの全てに関して、「何」を誇っているのでしょうか?パウロは、「主イエス・キリストのみを誇りなさい!」と命じていますが、これら全てが結局のところ、「自己」を誇っています。「自分は強い!皆より優れた働きをしている!」などと、「自己」を誇っているのです。これは真に、愚かな「古い次元」に生きる者の姿です。このように「自己」を誇る者に対して、たとえその「働き(ミニストリー)」が成功しているかに見えたとしても、聖霊様は絶対働かれることはありません!もう一度覚えて下さい!聖霊様は、「弱い霊」に対して働かれるのです。「霊的弱さ」こそが、変革の「第二の扉」になるのです。


変革の第三の扉
 26節には、「私たちはどう祈るべきかを知りません」と記述されています。「強い自分」を誇る人々は傾向として、「知っている」などと主張することが多くあるのに対し、「弱さ」の中にある者は常に、「知らない」自分を素直に認め「知識」を誇ることをしません。弱いからこそ「全て」を知っておられる、全智全能なる主におすがりするのです。このように、聖霊様が用意される変革の「第三の扉」は、「知らない」ということです。


 仮に「知っている自分」がある者は、全面的に神に依り頼むことはなく、「知っている自分」を中心にして、物事を進めていく傾向にあることを、聖霊様は十分「知って」おられます。アダムとエバが「善悪の木」の実を食した、つまり「知った」という罪の結果、私たちはこの「知る」という領域において、「命の木」イエス・キリストを求め、何よりも優先的に「知る」ことを願うのではなく、イエス・キリスト以外のものを求め「知ろう」とするなど、霊的に驕り高ぶったものがあることを、先ず知らされるべきです。


 イエス・キリストのみを、益々「知る」ことを求め飢え渇いていく人々は、必ず霊的に「弱く」されていきます。そのような人々は、「弱いからこそ、私はあなたの御元近くにいたい!あなたと一体になりたいのです!そして、あなた無しには生きられません!だから、もっとあなたを知りたいのです!」などと素直に告白します。それに対し「強い」と自負している人々は、「私は自分の力で、何でもできる!」などと誇っているが故に、イエス・キリストのことも「私は知っている!」と言います。しかし彼らは、イエス・キリストに関する「知識(情報)」は豊富であっても、イエス・キリストの「ご性質」については、人格的交わりを持とうともしないため、全くの「無知」であることに気付いてもいません。


 ところで、「どう祈るべきか」と記述されている部分(下線部)を、「どう語るべきか」、「どう聞くべきか」、「どう味わうべきか」、「どう見るべきか」、「どう触れるべきか」と置き換えた場合について考えてみましょう!パウロはこの部分を、「祈り」に関して説明しています。そして彼は、「祈り」という分野において、私たちの「知性」に限界があることも説明しています。


 例えば「異言」について言えば、知性の言葉で「どう語るべきか」分らないから、「異言」という霊的な「新しい言葉」が、必要になって来るのではないでしょうか!又私たちは、肉の「耳」の領域で「肉的な事柄」を聞いた時に、必ず失敗することも知っています。この時に、人々が語る「古い言葉」を「霊の耳」で、霊的洞察をもって聞く術(すべ)を知らないから、聖霊の「助け」を通して与えられる「霊の言葉」が、私たちに必要になって来るのではないでしょうか!又、私たちの「眼」の領域においても、現実をそのまま「見て」しまうなどして、霊的に信仰がダウンしてしまう時が多々あります。この時に、私たちは「どう見るべきか」知らないから、聖霊が描いて下さる「霊のビジョン」を見せて下さい!と、祈り求めるのではないでしょうか!ですから、パウロが述べる「どう祈るべきか」という問いは、私たちの五感の領域において必要不可欠な、「霊的祈り」であることが分ります。「祈り」という「信仰の行動」は、ある面で聖霊様の「助け」を求めつつ、謙虚に神の御前に願い出ることです。


聖霊様のとりなし
霊(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなして下さる」(26節)
 「とりなし」とは、どういうことでしょうか?「弱い」私たちは、何も為すことができません。この時に、「弱い」私たちに代わって助けて下さること、これが「とりなす」ということであり、「弱い」私たちに代わって聖霊様が、私たちと「一つ」になって行動して下さいます。私たちが、どのように祈る(他の五感も同様)べきか全く分らないからこそ、聖霊様がとりなして下さるのです。聖霊様も、私たちの知性の限界を知っておられますから、私たちの知性には存在しない、新しい「霊の言葉」をもって私たちの「霊」を支配し、「霊」の欲する「飢え渇き」に対して、天上の助けを与えて下さいます。それによって、私たちの知性を打ち破るほどの新しい「変革の扉」が、実は私たちの唇に備え付けられる、これが「新しい言葉(異言)」による祈りの力です。


 「言葉に表せない(言い難き)うめき」とは、ある面で私たちの知識から生じる、「知性の言葉」の限界を指しています。私たちの内側から、「知性の言葉」が出て来ないほどの、言い難き「苦しみ」の状況に陥った時、実は父なる神の居ます「天上」の扉を、自由に開くことのできる「新しい言葉」が、求める者全員の唇に等しく備え付けられることを、聖霊様は教え導いて下さいます。そして、このような状況に陥った時に初めて、私たちは「弱さ」を体験し、新しい「霊の唇」をもって聖霊様に祈り求める時、「あなたの、霊の周囲を取り巻く古い自分という殻を、天上の力を戴くことによって、完全に打ち破りなさい!」などの、聖霊様の指令を聞くことになります。聖霊様の「御声」に聞き従った時から、あなたの唇に新しい「変革の扉」、即ち「異言の祈り」が用意されるのです。ですから私たちは、「新しい言葉」即ち「異言」をもって祈る時に、聖霊ご自身も新しい「霊の次元」から、私たちの代わりに「とりなしの祈り」をして下さり、私たちの代弁者として父なる神の御元に、私たちの「霊的飢え渇き」の表明を、必ず届けて下さることを信じて下さい。


 再度認識して戴きたいことは、私たちの「知性」には限界があるということです。それ故に、新しい「変革の扉」を開けるために、私たちはどうすべきか?ヨルダン川に六回浸っただけで、もうあきらめてしまうのか?それとも「蛹」になる前の「芋虫」の如くに、「私は、もはや何も為すことができません!古い自分に、死んだ状態になりつつあります。どうか聖霊様!この弱い私を助けて下さい!」などと祈りつつ、最後の七回目も神の「言葉(命令)」に聞き従った、ナアマン将軍の霊的手本に見習うのか?この二つの道のどちらを、あなたは選択しますか?


 聖霊様が、私たちに代わってとりなして下さると分った時、実は霊的に「身軽になる」ことを、私たちは知らなければなりません。自分の「肉の力」の象徴である「知性」に頼ることほど、かえって重荷が多くなり霊的負担が増すのです。重荷を背負う時の「うめき」ほど、苦しいものはありません。むしろ、私たちの「五感」から「霊の次元」に至るまで、聖霊様に全てをとりなして戴き、私たちは身軽になって主イエス・キリストの御元へ羽ばたき、より近づこうではありませんか!


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