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言葉の革命(No.13)

                              思考の変革




 私たちが「言葉」を語る際、自分の考えている「事柄(内容)」や、話そうと思う「意志」の働きが、その時の感情の状態などによって、必ず様々に変化してくることを知っています。又私たちの「思考概念」が、小脳にある言語中枢神経において、「言葉」に関する中央制御室として、重要な役割を担っていることも知っています。


 私たちが「異言」を語っている(祈っている)時にも、殆どの場合「何」を語っているのか分りませんから、「思い」や「考え」は別の次元にあり、思考していることと「異言」の語る内容が、ある面で分離した状態にあると言えます。特に「異言」で祈る時、私自身もよく経験することですが、最初「異言」で祈り始めるのですが、暫くすると次第にその「異言の祈り」が、まるで道に迷ったかの如くに「言葉」を失い、遂には「異言の祈り」そのものが途絶えてしまうことがあります。


 その時の、自分の「霊」の状態を探ってみますと、唇では「霊の言葉」を語っていても、「思い」の中では肉的次元が支配し、様々な「考え」がよぎるため、遂には「思い」が乱れるなどして、唇を遮断してしまうことが分かります。特に、祈るその人が「霊的苦難」の中にあったり、様々な人間関係の中でトラブルに巻き込まれるなどしていますと、「異言の祈り」そのものが「正しい方向」、つまり神に向かう祈りではなく、「肉の思い」を優先し常軌を逸した祈りになるということを、私たちは知らなければなりません。


 では、どうしたら私たちの「肉の思い」が、霊的に正しい「思考」へと聖められ変革されていくのか?この点について、私たちはパウロの「ローマ神学」から学ぶ必要があります。「異言の祈り」に関して言えば、この祈りはいつでも自由に、好きな時に祈れるからそれで良い!などと思い上がってしまうと、大抵そのような時に、遮断されてしまうものです。しかし「異言」は、あくまで神からの「授かり物」、つまり「賜物」です!私たちが、本当に神と正しく交わるため、天から「授けられた物」、そして私たちの「霊」を更に神に近づけるための、「良き賜物」であると認識する時、私たちはこの与えられた「賜物」が、何のために与えられているか意識し直すことが可能になります。そして「賜物」の管理主、即ち聖霊様の「助け」を求めながら祈る時、この「異言」の賜物が「正しい方向」に軌道修正されるのです。


このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。又、あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、又、五体を義のための道具として神に献げなさい。何故なら、罪は、もはや、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
                                                                                                      【ローマ書6章11〜14節】


 パウロは先ず、「あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節)の御言葉から、私たちが霊的に、どのように思考すべきかを導いています。新改訳では「キリスト・イエスにあって」と訳されている部分を、新共同訳は明確に「キリスト・イエスに結ばれて」生きているのだと考えるよう、私たちに強く訴えています。そしてこの部分には、私たちが「異言」を語る(祈る)に当たって、非常に重要な「霊的ガイダンス」が示されています。


 ところでパウロは、前提として「罪に対して死んでいる」と考えるよう指示していますが、私たちは果してそのように考え得るのでしょうか?はっきり申し上げて、とても難しいことです。大抵私たちは、「罪」そのものに打ち負かされることが多く、「自己中心」的祈りをしたり、世的な事に捕われるなどして、「私は何と惨めにも、この世の罪に染まり切っているのだろうか!主よ、あなたがパウロを通して言われている罪に関しては、とてもじゃありませんが、死んでいるとは考えられません!」と、これが正直な告白ではないでしょうか!ですから、私はあえてこの御言葉を、聖霊様が導かれる正しい方向性で、「考え直す」ことを強くお勧めします。「考え直す」ことも、実は「思考の変革」の重要ステップの一つです。


第一の考え方
 私たちは霊的な「弱さ」がある故、いきなり「罪」に対して「死んでいる」とは考えにくいものです。ですから先ず第一に、肯定的な事柄について考えましょう。そこで、自分が「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、改めて考えて下さい。「結ばれている」とは、どういうことでしょうか?これは、既婚者の方でしたらすぐお分りになることですが、「結ばれる」とは「一体化」を表します。結婚する前と結婚した後では、明確に思考概念が変化して来ます。独身の時には、独りよがりの「考え」であったのに対し、結婚生活を何年も経ていきますと、自分の「考え」も大事ですが、伴侶或いは子供たちの「考え」はどうであるだろうか?などと、互いの「考え」を共有し合う、つまり共に考えて生きるという生き方に変化して来るのです。


 ですからパウロが、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、先ず第一に考えるように勧めていることは、「夫婦関係」から出てくる思考概念と、ある面で似通っていることに気付かされます。例えば、夫婦生活を維持させる一番重要な柱となる思考概念は、「私は、あなたのものです。あなたは、私のものです。」という、「共有関係」にあります。これが仮に、「あなたは、私のもの。そして私は、私のもの。」などの考え方に立ちますと、それは「共有」ではなく「隷属」関係になります。この思考概念を成立させる条件は、「所有権の放棄」だけです。独身の時は、「私の〜、私が・・・・」などの考え方に立っていたのに対し、夫婦になりますと「私たちの〜、私たちが・・・・」という考え方に変化します。


信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、各々に分配されたからである。
                                                                                                      【使徒行伝4章32〜35節】


 この個所には、聖霊の恵みを受けた弟子たちが、先ず「使徒の交わり」にあずかり、そして兄弟姉妹との「交わり(コイノニア)」を為していく中で、麗しい神の国の「変革」の流れとして、彼らがどのように造り変えられていったかについて、具体的に描写されています。彼らは「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた」のです。つまり、全てのものがイエス・キリストにあって、結ばれている故に「一つ」であり、「私のもの」と主張する者は一人もなく、皆が惜しみなく出し合っていたのです。そして、全てが「キリストのもの」である以上、「キリストと共に生き合う」ことに全力を注ぎ、仕え合っていました!これが「聖霊の変革」に伴う、真の「コイノニア」の姿です。以前の弟子たちと比較して、何と素晴らしい「変革」が、聖霊によってもたらされていることでしょう!


 今日のキリスト教界の中に、どの団体や教派においても、このように変革されている「コイノニア」の働きは、殆ど見受けられません!極端な貧しさの中で、本当に仕え合って生きている奉仕者の群れ、例えば故マザー・テレサとシスターたち、又日本においてはホームレス伝道に従事する、女性のM牧師とコ・ワーカーたち、彼らは何もないところから惜しみなく出し合い、仕え合って生きています。これが、「キリスト・イエスに結ばれる」一つの現れです。このような聖霊主導の「コイノニア」が、宣教(伝道)における主流の働きとなったら、どんなに素晴らしい「真のリバイバル」が、次々と起こされていくことでしょう!


第二の考え方
 第二にパウロは、私たちはキリスト・イエスに霊的に結ばれているが故に、「生きているのだと考えなさい」と命じています。例えば、再び夫婦関係について考察するならば、夫が「体(Body)」の役割を担うのに対し、妻は血液(Blood)の供給源である、「心臓(Heart)」の働きをするような関係にあると言えます。又これは、「私(心臓)があるから、あなた(体)は生きられるのよ!」、或いは「いや違う。私(体)が君(心臓)を守っているから、生きられるんだ!」などと互いに誇り合う、そのようなレベルの関係ではありません。


 このことに関してパウロは、第一コリント12章で次のように述べています。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(14節)、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(19節)、「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(26節)これが、「生きている」と考えることの基本です。そして、イエス・キリストに結ばれている者は、「共に生き合う」ことを願う、これが重要な考え方です。


 ここから導き出される奥義は、「あなた(イエス・キリスト)の命の中に、私の命の源がある!」ということです。即ち、「私」が自分の「肉の力」で生きるのではなく、「イエス・キリストの命」の中にあって初めて、「生きられる」のです。だからこそ、「あなたが、私の命の源です!どうぞあなたの命、そしてあなたの霊により、常に生かして下さい!」などの考え方に立つよう、聖霊様は促されます。


 私たちが「異言の祈り」を進める時、非常に重要な方向性に導かれて行くことが分ります。それは、最初「知性」で祈っていく中で、殆どの者が「私は・・・・」、「私の・・・・」、「私に・・・・」、「私を・・・・」などの祈りをしがちで、「私」という単語を数多く語っています。つまり、「思い」が私(自己中心)的思考概念に支配されているため、祈りそのものが集中性を欠くなど乱れます。そのような「私」中心の祈りの中に、「神」御自身を考える余裕はありません。そして祈り始めの時は、「主は私を愛していて下さる!」などの信仰告白ができていたのに対し、「私」的思いに支配されて行きますと、必ず「私はあなたに・・・・のことをしたのに、あなたは・・・・してくれない。」などと、主語と目的語がいつの間にか入れ替わった状態、つまり常軌を逸した祈りに変化して来ます。「異言の祈り」が、「肉」の思いで乱される時のパターンは、必ずこの「私」が主語(主役)になっています。


 しかしパウロは、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを先ず第一に考え、そして次に「キリスト・イエスに結ばれている」からこそ、「私」が「生きている(生かされている)」のだと考えるよう命じています。「あなた(イエス・キリスト)なくして、私の霊は生きられません。特に御子イエス・キリストの、貴い十字架の贖いにより私は生きられるようになった。それ故に私の全てをもって、霊と真による礼拝を捧げます!」と、このような正しい祈りの方向に、導いて下さる方が「助け主」聖霊様です。


全ては完了した
 聖霊は、イエス・キリストの「十字架の血潮」を示すことで、「異言の祈り」をしながらも「思い」が様々に乱れて、「私」的な願いを優先しがちな祈りに対して、「先ずあなたの救い主、イエス・キリストのことを考えなさい!あなたの命の源は何ですか?あなたは、何に結ばれているのですか?」などと、優しく悟らせて下さいます。余談になりますが夫婦喧嘩の発端は、大抵次のような会話レベルが為されているものです。「私の考えは正しいが、あなたは間違っている!」、「あなたが謝らなければ、私も謝らない!」など、この種の会話に見られる特徴は、物事の全ての主役が必ず「私」中心になっていることです。つまりその時には、相手(伴侶)の「考え(思い)」を優先的に考えていません。このように私たちが、「私」という思いを主語として考えていきますと、霊的に「イエス・キリスト」を下げた、或いは無視した考え方になるのです。


 このような考え方に陥りますと、最終的には「罪」に対して死ぬのではなく、生きることにつながります。しかし、「自分自身を死者の中から生き返った者」(13節)と記されているように、私たちがキリストにあって結ばれている限り、「罪」に対して完全に死んでいる!このことを忘れないで下さい。その結果、聖霊様は「あなたの持てる全てをもって、神の御前に捧げ尽くしなさい!」などと、正しい方向に向かうよう、一つ一つの祈りを霊的に軌道修正されます。「異言の祈り」が、礼拝の方向へと向かわないのであれば、はっきり申し上げてそれは常軌を逸したものであり、正しい方向の祈りではありません。


 「罪に対して死んでいる!」と明確に考えられるようになるには、「聖霊の助け」無くして絶対にあり得ません!イエス・キリストが、十字架上で宣言された最後の御言葉は、「全てが完了した!」という一言でした。この「テテレスタイ」という言葉は、「全てが既に通り越した(all is over)、過ぎ越した!」という意味です。イエス・キリストが、「私の十字架の贖いの血潮により、あなたはもはやゲヘナの門を通過する必要はない!あなたの罪は、全て十字架上で決済を完了した!あなたは聖なる祭壇の場、至聖所に自由に入ることができるのだ!」などの、力強いご自身の「血潮の証言」をもって宣言されている限り、私たちの「思考」の領域においても、「罪(霊的負債)」の決済が完了しているのです!


 パウロの指摘から分るように、私たちが思考の面で霊的に乱れる時には、必ず私たちの思考の中に「肉の次元」が支配している、つまり「罪」が生きています。もう一度問います。「あなたは何に向かって、又何を見て(考えて)祈っていますか?」


あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。・・・・五体を義のための道具として神に献げなさい。」(13節)
 ところで、この御言葉に記されている私たちの「五体」とは、何を指す言葉でしょうか?一般的には、一つの「体(頭部を含む)」と二本の「手」、そして二本の「脚」のことです。しかしこの御言葉の「五体」は、霊的に見るならば①霊、②魂(感情)、③心(思い)、④知性、⑤力(肉体的なもの)という、五つの領域(感覚)をも含む概念です。私たちはこの五つの領域をもって、父なる神を愛する(礼拝する)ことが霊的に求められています。この五つの領域の中で、一番「肉の次元」に支配され易いものは、「霊」を除いた他の四つの領域です。例えば心(思い)が乱れますと、他の領域にまで「肉の次元」の支配が及び、最終的には「霊」の領域を支配することになります。


何に属するのか?


「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」
                                                                                                                   【ローマ8章5節】


 私たちは「何」に従って歩むのか?これが霊的に重要な「分岐点」となります。「五旬節革命」の後、弟子たちは聖霊に従いつつ、「コイノニア」において誰が一番偉いとか、誰が一番献金したかなどの、「肉の次元」には生きていませんでした。何故なら、全ての者が共に「一つ」にされることで、誰一人として貧しい者が見当たらなかったからです。それを見たアナニヤとサッピラ夫婦が、彼らの霊的豊かさに「妬みの思い(考え)」を抱き、次のように考えました。「私たちも、家にある一部のものを売って、その代金を持って来さえすれば、きっと認められるに違いない!」(使徒行伝5章1〜11節参照)。


 私たちの「思考」には、霊的に二つの選択肢が用意されています。つまり、「肉」に従って歩むことを考えるのか?それとも「聖霊」に従って歩むことを考えるのか?この二つの選択肢です。パウロは明確に述べています。「肉」に従って歩む者は、「肉」に属することを考えるのに対し、「聖霊」に従って歩む者は、「聖霊」に属することをひたすら考える!のだと。


 「属する」という言葉は、霊的にどのような概念を意味するのでしょうか?「私は、あなたに属します。」と言う時、これは「私はあなたのものです。」という、「所有」を意味する概念であることが分ります。つまり、「所有権は、あなたにだけあります!」などと告白する言葉にもなります。ですから、「肉」に属することを考えること自体、「肉」の世界の君「サタン」の所有(管理)の下に、私が生きていると考えることです。


 それに対し「聖霊」に属することを考えるとは、「私は聖霊様のものです。ですから、私は聖霊様を仰ぎつつ、その助けを求めます!私は聖霊様の力の中にあって初めて、生きることができます!」などと考えながら歩むことです。この点に関してA・マーレーは、私たちに厳しく指摘しています。「御霊を受けていても、未だその全き支配を受けず、自分自身の力で努力している内は、霊に属する者とはなりえません。彼らは御霊によって生きてはいますが、御霊によって歩んではいないのです。」(注)


 このように私たちの思考概念が、「肉」に属することを考えるのか、それとも「聖霊」に属することを考えるかによって、「思い(思考)」自体が二つの方向に分岐します。パウロは自らの体験から、「思い」が二つの方向性で対立し合っていることを、十分に知っていました。実は「異言の祈り」も、二つの方向に分岐します。即ち、「肉」の思いに支配された「異言」と、「聖霊」の思いに支配された「異言」の二種類です。肉的な「異言」は、「この世」の方向に眼を向け、アナニヤとサッピラの如くに、「この世」における称賛をひたすら考えます。


 しかし霊的な「異言」は、天上のもの特に「イエス・キリストの御顔」を追い求めながら、奥深い「霊の次元」のことに飢え渇くようになります。私たちの「異言の祈り」が、霊的に「正しい方向」に軌道修正される時、それは必ず「イエス・キリスト」にのみ焦点が向けられます。そして、霊的な命の源「イエス・キリスト」を、ひたすら求め始めます。このように霊的な「異言の祈り」は、尽きることのない麗しい「命の水」が、私たちの内側から必ず溢れ流れ出ます!しかし肉的な「異言の祈り」は、必ず霊的に常軌を逸し、既に「この世」のことを求めるなど、「自己中心」的な祈りに変質しています。


 ですから、私たちが「異言」で祈る際に、「思考」の面で注意しなければならない点は、「何を求め、何を見ているか(見ようとしているか)?又何に飢え渇き、何を欲しているのか?」ということです。あなたの「思い(考え)」の領域を、「何」が支配していますか?私たちは肉的に「弱き者」ですが、その肉的「弱さ」の全てを、主イエス・キリストの十字架の御前で、素直に表明しようではありませんか!「主よ!私は今、肉の思いに捕われています。どうぞ、あなたの聖なる思いで、完全に満たして下さい!そして私の内なる思いを、十字架の血潮によって洗い聖めて下さい!聖霊様、私はあなたに属することを、常に考えて生きたいのです。私の全てを、あなたのものと成して下さい!私は更に、イエス・キリストに近づきたいのです。今のこの状態から、贖い出して下さい!私はどのように祈ったらよいか分りませんが、私の中に働かれる聖霊様が、言いようもない深いうめきをもって、とりなして下さいます。どうぞ、助け導いて下さい!」と。


 聖霊様がとりなして下さること、これは何と素晴らしい働きでしょうか!主役は、いつも聖霊様です。私たちは、只お任せするだけでよいのです。「異言の祈り」が、祈り始めてから数分もしない内に途絶えてしまったら、「知性の祈り」でカバーするなど、無理して「肉の努力」をし続けるのではなく、その時は素直に聖霊様に対して、自分の「弱さ」を明け渡すことです。そして、「聖霊様!私は今、肉的な思いに掻き乱されています。どうぞイエス・キリストの血潮を、私の思いの全てに降り注いで下さい!又あなたの命の水を、豊かに注ぎ満たして下さい!」と告白する時に、聖霊様が私たちの空になった「霊」の中に、「霊的呼び水」を注ぎ込んで下さり、私たちの「霊」の只中から、「命の水」が「新しい言葉」となって、再びほとばしり出るようになるのです。


 「その時」に、私たちは自分の「肉の力」で、霊的なものを手に掴むのではなく、一方的な「神の恵み」により、イエス・キリストが聖霊を通して私たちの全てを支配し、その御手をもって直接掴んでいて下さることを、再び霊的に「知る」ようになります。これが、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを考える、つまり思考の変革です。この「変革」が起こり始めた時に、私たちの「霊」は甦ります。アナニヤとサッピラは、「この世」からの称賛を得るために、神に属するものを自分に属するものとして、「私物化」しました。つまり、彼らは「自分の栄誉」、「自分の霊的ポジション(地位)」などを、「自己中心」的に願い求めたのであり、これはサタンの「思い」と霊的に結ばれていることの現れです。それ故彼らは、結果的に「死」を受け取りました。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23節)


 「異言の祈り」は、自ら(私的なもの)の方向で祈り始めると、それはサタンの思うツボです。しかし、聖霊様の「助け」にへり下って、自分の「肉の力」に頼るのではなく、天上からの「油注ぎ」を受けながら、イエス・キリストを求めてひたすら渇き祈る時、「この世」の全ての思いから解放されて、更にイエス・キリストの聖なる「御思い」の中に、深く結び付けられていることを認識させられるのです。


 この「聖なる思い」は、自分の「肉の力」からではなく、聖霊様の言い難き「深いうめき」、つまり「とりなしの働き」を通して産み出されることを知って下さい!聖霊様の働きは、私たちが更に花婿イエス・キリストと「一体化」されること、即ち全ての面でより深く、より親密に花婿と「結び合わせる」ことです。パウロが、「異言を語ることを禁じてはなりません。」(Ⅰコリント14章39節)と強く勧めているように、むしろ「肉の力」に頼って祈る(語る)ことを、私たちは禁じようではありませんか!


 このように、「異言の祈り」が正しい方向、つまりイエス・キリストに向かって為されていく時、私たちの思考概念は聖霊によって「肉の次元」から切り離され、「天的な思い(考え)」へと変革されていくのです。あなたは、自分の「霊」の中央制御室(思考領域)に、誰をお迎えしますか?聖霊様に来て頂いた時から初めて、私たちの「体(Body)」がイエス・キリストの「み体」に、「結び合わされて」生きるようになります!


注、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)168項から引用


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