バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.12)

                 第五の波紋−触れることの力−




 私たちは視覚(眼)と聴覚(耳)、そして言語発声感覚(口)の三感覚(器官)によって、大抵の「言葉」を理解(認識)し、小脳にある記憶回路の中に、「言葉の情報」を蓄積していくことが可能です。


 しかしヘレン・ケラー女史のように、この三器官全てに障害を持つ人々にとって、「言葉」を認識することは殆ど不可能に近いことでした。ところが、神の導きに従ってこの不可能に挑戦し、少女ヘレンを人格的に立ち直らせ、会話することのできるレベルにまで引き上げた、生涯の教師サリバン女史と出会うことによって、ヘレンは見事に、「言葉の変革」の恵みを受けました。


 師サリバンは「神の知恵」を求める中で、ヘレンに残された「触覚」という領域に、必ず「言葉」という情報が伝達できるのではないかと思いつき、「一つの言葉」だけでもヘレンに覚えさせようと、あらゆる手段を行使して試みました。


 ある日彼女は、少女ヘレンを「井戸」の傍らに連れて行きます。無理矢理引きずられていくヘレンは、一体何事が始まろうとしているのか、さっぱり分りません。目も見えず音も聞こえない世界で、自分の手を強く握り締める、先生の「手」の熱さだけは伝わりました。すると突然、自分の手の平に降り注がれる、「冷たい液体」の流れを感じ取ります。いつも飲んでいる「水」(勿論、ヘレンはこの水という言葉も知りませんが)よりも、もっと冷んやりする「何か」が、自分の両手に流れ落ちるだけでなく、顔から腕に至るまで「水しぶき」がかかる中で、自分の両手を強く握り締める、サリバン先生の右手の人差し指が、ヘレンの手の平に、何か「ある形」を綴っているのを感じ取りました。


 最初ヘレンは、先生が何をしているのか全く理解できませんでしたが、何度も何度も同じパターン化された「形」が、人差し指で描かれているのを、手の平という「触覚ボード」に記憶できるようになった時、その「形」が「w」に始まり「a→t→e→r」、即ち「water」という五つの形であることを、始めて認識できました。そして先生は、再び彼女の両手に冷水を注ぎ、その後に「water」と綴ることを繰り返していく時、ヘレンは遂にこの「冷たい液体」が、「water」という「言葉」であることを悟ったのです。


触覚の行動プロセス
 「点字」の発明が、「触覚」にも「言語」認識が可能ではないかという、試行錯誤から生まれてくる訳ですが、私たちは健常者であっても、「何かあるものに触れてみたい!」などと欲する、「意志」の欲求が働きかけてくることを知っています。そして実際触れてみた時に初めて、触れたものに対する何らかの感覚を覚え、自分の「意志」の欲求が成就したことを認識します。


 例えば、ご婦人の方々の殆どが経験することでしょうが、ショッピングの時に、「食料品」或いは「衣料品」コーナーにおいて、「眼」で見ただけで買物をするということは決してせず、実際その品物を手に取って、「これはどうかしら・・・・。あら!あちらの物もいいかもね?」などと、何度も何度も「手触り」の感覚を吟味した上で、買物への決断を下します。この時、彼女たちの思考概念を支配しているのは、「触れる」手先の感覚、つまり「触覚」による満足度の「値」が、自分の納得の行く「値」に達しているか否かです。その求めている「値」に近い、或いは超えた「触覚度」であれば、即「買いましょう!」などの行動に移りますが、その「値」が余りにもかけ離れたレベルの時には、「ここでは買わないことにするわ!」などと、買物に至る「意志」の欲求が起こりません。誠に男性の視点から見ますと、女性の買物の行動には、驚嘆せざるを得ないほどの「触覚」が働いていることが、伺えるのではないでしょうか!


 以上のように、「触れる」という言語体系の流れには、次のようなプロセスが伴っていることが分ります。①私たちは自分の「意志(思い)」が働いた時に、それは即「言葉」となって、体全体に「触れてみたい!」と欲する指令が伝わります。②そして実際に、自らの体(手や足など)で触れ、③何らかの感覚を認識し終えた時に、④その意志(欲求)から生まれた、「言葉」の行動が完了します。


 この「触覚」は、芸術分野のみならず調理や建築、そして工芸などの技術分野と多岐にわたり、その能力を発揮しています。そして「触覚」の重要な働きを担うのが、「手」という一器官です。勿論「手」に不自由な人は、「足」とか他の「肢体」などが「手」に代わるものとして、能力が開発されていくのも事実です。


 ところで「エデンの園」において、神との「親しい交わり」を為すために、与えられていた「霊の言葉」を、アダムとエバが失うきっかけとなった行動とは、如何なるプロセスだったのでしょうか?父なる神は、「エデンの園」における管理を、一切彼らに任せておりました。「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章16節)この父なる神のご命令は、「食べる」という行為だけを、禁止する言葉のように一見把握されますが、「善悪の知識の木」に関して父なる神の「意志」は、全面的に次の行動も禁止することを含んでいます。それは①近づくこと、②眼で間近に見ること、③実際に手で取って触れること、④匂いを嗅ぐこと、⑤最終的に口に入れること、この五つの行動プロセスです。


 サタンは、当然この命令を知っていました。そしてこの命令に含まれている、「触れる」という行動プロセスに着目し、巧妙な「言葉の罠」を仕掛けました。サタンの産み出す言葉は、全て「自己中心」から生じる、「自分の願い」を優先させる行動プロセスを伴います。しかしイエス・キリストは、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネ福音書6章38節)と語られたように、父なる神の「御心」を優先することに、全生涯(命)をかけられました。


 アダムとエバは、サタンが仕掛ける「言葉の罠」に見事に引っかかります。サタンは矢継ぎ早に、彼らに問い質しました。「神様は、食べてはならない!とおっしゃったかもしれないが、触るくらいなら構わないのでは?」と。二人は、「自分の願い」を優先する方向へと、サタンによって誘われる中で、急に父なる神に対して「ある疑い」が生じ、遂にはそれがサタンによって生じた、「誘惑の言葉」と気付かなくなる程、「触れてみたい!」と欲する、強い衝動に駆られます。そして、実際に自分の手でその「実」に触れた時、その「触感」が如何にも麗しい、美味なる感覚として捕らわれることになったのです。


 その結果エバは、何とそれを鼻の位置にまで持って行き、「匂い」を嗅いだ瞬間「食べてみたい!」、つまり「自分の願い(欲望)」を優先させるという、サタンの投げかけた「古い言葉」の支配に陥ったのです。・・・・結果は、「霊の言葉」の「死」でした。もはや彼らは、父なる神との「親しい交わり」を優先するのではなく、「自分の願い」から全ての行動を、自分の「意志」で為していくという、「自己中心」に基づく行動プロセスを歩み始めたのです。彼らのこの失敗が、全てサタンによるものであり、その重要な鍵を担っていた器官が、「手」という「触覚」を司るものであったことを、私たちは決して忘れてはなりません。


アポロがコリントにいた時のことである。パウロは、内陸の地方を通ってエペソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人程であった。
                                                                                                        【使徒行伝19章1〜7節】


地の果てエペソ
 「五旬節」の時に訪れた「聖霊革命」、即ち神からの大いなる「変革の波紋」は、使徒行伝1章8節の御言葉通りに、約束の成就として十年後には、異邦人コルネリウス家に拡大しました。それから更に十年後、つまり革命の時から約二十年という歳月を経て、「地の果て」エペソの地にまで波及しました。


 当然のことながら、コルネリウス家においてもそうであったように、リバイバルの波紋に伴って、働き人(使徒、伝道者など)の人材不足から、「聖霊」に関する正しい知識だけでなく、「聖霊様」の存在すら伝えられていないなどの問題(課題)が生じました。「聖霊革命」によって始まった「異言」の波は、エルサレムとユダヤ、そしてサマリヤなどの中心部においては、宣教面において大きくその効果が現れましたが、周辺部(辺境地、地の果て)においては、「正しい教え」として全く伝播していませんでした。ましてや、ローマ帝国中心部の異邦の地においては、十二使徒の殆どが宣教の働きに携わっていないこともあり、聖霊の力強い働きはパウロやバルナバ、又他の弟子(使徒)など少人数の、宣教に頼らざるを得ませんでした。


 ですからエペソの地においても、「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずかった者が誰一人なく、聖霊の存在すら知る「すべ」もありません。彼らは「水のバプテスマ」だけを体験し、霊的に細々と寄り添い合いながら、異教(偶像崇拝)の勢力に取り囲まれて生きるなど、霊的に「弱小集団」でした。彼らはイエス・キリストを信じつつも、依然として旧ユダヤ主義の教えの中にあるため、エペソという霊的砂漠の地において、言わば「霊的枯渇」の状態にありました。即ち、彼らの「霊の井戸」が水枯れ寸前に至る、「危急存亡」の時であったのです。


霊の井戸を掘る
 そこで聖霊に導かれたパウロは、弟子を伴ってこのエペソの地を訪れ、主イエス・キリストの御名によって、改めて洗礼を授けました。スカルの女性が、枯れてしまうような「古い井戸」からではなく、永遠に流れ出る新しい「命の水」を待ち続けた結果、イエス・キリストとの出会いによって、新しく変革されたのと同様に、パウロの訪問によって為されたこの時の「教え」は、エペソの人々がイエス・キリストの御名によって、改めて洗礼を授けられた時から、非常に素晴らしい出来事になって行きました。


 私たちは、「日本」という四季に恵まれた風土に住み慣れているため、非常に分りにくいことですが、「日本」は実にこの四季の恩恵で、常に一年を通して「降雨(雪)の時」が用意されています。しかし、日本は気候風土としては、「雨期」と「乾期」に二分された地域ではありません。ですから日本は、どの地域においても河川或いは湖沼があり、又「井戸」を掘れば必ず大量の水を汲み上げることができます。「水」に困る(不足する)ことのない国、それが日本の気候風土です。


 しかし、世界地図をご覧戴くとお分かりのように、赤道付近に位置する国々は、殆どが「雨期」と「乾期」に二分された気候風土です。しかも「乾期」が長く、極端に過酷な環境にあるため、この付近に暮らす人々にとって「井戸」或いは「オアシス」の存在は、欠かすことのできない大切なものです。そして「井戸」を掘る作業が、この地域の住民にとって重要な作業の一つです。例えば、終戦後のアフガニスタン復興計画においては、様々な人材が不足しているそうですが、中でもより求められている人材が「井戸掘り職人」です。かつて「井戸」であった所は、その殆どが戦争のために崩壊して使い物にならない、或いは「井戸」の穴が人為的に塞がれているなどして、もはや使用不可能な状態にあります。このように「井戸掘り作業」は、赤道付近に暮らす人々にとって、非常に重要な役割を担っていることがお分りになるでしょう。


 ある面でエペソの人々にとって、パウロによってもたらされた聖霊の「教え」と「指導」は、霊的な井戸を掘り進める重要な作業だったのです。パウロは聖霊に促されるまま、彼らに対して教え導きました。彼らは、イエス・キリストの御名によって「洗礼」を授けられた時から、彼らの「霊」の只中に「井戸」が掘り進めらました。即ち永遠の「命の水」の源、「イエス・キリスト」という名前の井戸が、深く深く掘り下げられたのです。パウロはその後、彼らが「聖霊」について全く何も知らないことを聞きました。聖霊様なくして、神の国の麗しい力ある御業が為されない!ことを、十分に知っていたパウロは、すぐさま彼らに対して直々、「聖霊」に関する「教え」を語り始めました。すると聖霊様から、「この人々は今、井戸がようやく掘り進められるに至ったが、本当に永遠の命の水が勢いよく溢れ流れるには、更に聖霊のバプテスマが必要である!」、このような強い啓示(思い)が与えられ、その瞬間パウロは彼らの上に、手を置いて「触れた」のです。


霊の手で触れる
 ところで、「按手」というキリスト教の儀式は如何なるものであり、私たちはこの「按手」に対して、どのようなイメージを描いているのでしょうか?殆どの方が、「ひざまずき首を垂れた者の『頭』に、権威ある者(聖職者)が手を置いて祈る・・・・」、このようなイメージを描いていることでしょう!しかし「按手」という言葉自体は、決して頭の上に手を置く行為ではありません!


 第一に「按手」とは、その人に代わってとりなし手が、「自らの手」をもって神の「安息」と「祝福」を祈ることです。まさしくそれは、神の御国の「祝福」と「力」が、祈られている人の「霊」の只中から溢れ流れ出るように、イエス・キリストの御名で命じる祈りに当たります。頭の上に、「権威者」として手を置くなどの、例えば油注がれた器(聖職者)だけが、一般信徒に対して支配的(権威的)な祈りを施すという、レベルのものでは決してありません!パウロは「按手」の祈りをもって、霊的にへり下ったエペソの人々の「霊」に触れました。


 第二に「按手」の行為は、へり下った「霊」の上に対して、神の御国の扉を開くことのできる、天上からの権威をもって、手を通して触れることを意味します。この時「按手」する者は、自らの「力」或いは「権威」を示す「手」ではないことを、肝に銘じて下さい!へり下った人々の「霊」の上に、麗しい神の「御国の扉」が開かれ、そこから永遠の命に至る「命の水」が、豊かに流れ出るようにとりなす、御国の権威としての「手」、まさしく「神の御手」をあずかっているのです!


 パウロは身をかがめながら、エペソの十二人のキリスト者に、次々と優しく軽く「手」を触れて行きました。彼は、黙々と触れていったのではありません。恐らく、かつて自分自身がアナニヤの「異言の祈り」によって、「按手」された時と同様に、自分の唇から神の祝福に至る「命の水」、即ち「新しい言葉」の祈りをもって放出(放水)し、その放出された「命の水」を、へり下った彼らの霊的フィールドに、豊かに降り注ぐイメージを描きながら、「按手」の祈りを神に捧げたものと思われます。パウロにとって、アナニヤを通して授かった、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の体験は、神の「御国の扉」が開かれるや否や、麗しい甘美な「命の水」が「霊」の中に流れ込み、その「流れ」が更に自分の唇から、命に満ちた「新しい言葉」となって溢れ出るなど、それは素晴らしい霊的体験でした。


 ですから、彼は自分がされた時と同様に、エペソの人々に「按手」して祈り回る時にも、一人一人に優しく手を触れながら、「どうぞこの人に、神の国の麗しい扉が開かれ、この人の霊の只中から、麗しい甘美な命の水が、永遠の命の源なる方、イエス・キリストに至る水となって、溢れ流れ出ますように!父なる神の生ける御名によって、又聖霊の助けを通して祈ります!」などと祈る「とりなし」を、神の国の「力」に満ちた、「新しい言葉(異言)」で宣言しながら、「按手」したのではないでしょうか!


 すると彼らの「霊」のフィールドに、新しい「変革」が始まりました。「異言」という霊的呼び水が、彼らの霊的フィールドに行き渡り、遂には彼らの「霊」の奥底から「命の水」が噴き上がり、彼らの唇からは「五旬節革命」の時と同様に、新しい「命の言葉」が大いなる「湧き水」として放出されたのです。彼らは最初、自分が何を語っているのか理解できませんでしたが、確実にイエス・キリストの、麗しい「御顔」に触れることができた!という確信に至りました。


 私たちが「異言の祈り」をする時に、次のような経験に導かれたたことがないでしょうか?特に「霊的な苦しみ」にある時、思いが掻き乱されながらも「異言の祈り」をする中で、只々「主よ、どうぞお助け下さい!私はこのままでいたら、とても立ち直ることができません!ですから、どうぞ御手を伸ばしてお救い下さい!」などと、もがき苦しみ続けます。そのような「苦しみの告白(異言)」の祈りが、一時間そして二時間と為されていく中で、聖霊様が突然優しく「霊」に臨んで下さり、「静まりなさい!」と命じられます。


 暫くして、聖なる安息という霊的「静寂」に導かれますと、自分の「霊」が身をかがめながら、「主よ、どうぞ私の側を、通り過ぎないで下さい!」などと、イエス・キリストご自身を求める、「異言の祈り」に変えられていきます。そのような祈りは、例えば盲人バルテマイが盛んに叫び続けたように、「神の子羊よ!どうぞ私の所まで来て下さい!」などと祈る、激しい「飢え渇き」の祈りを伴うこともあるでしょう!又ある時には、イエス・キリストの後ろにそっと近寄り、その御衣に静かに「触れた」、長血を患らっていた女性、彼女はイエス・キリストを求める、「愛の涙」が眼からほとばしり出て、止まらなくなる程の状態に導かれ、イエス・キリストの貴い御足を、「愛のしずく(涙)」と自らの「髪」をもって拭い清めました。


 同様に、私たちが霊的に神を求めれば求める程、イエス・キリストに更に近づき、その御体の一部に「触れる」ことを、必死に祈り求める方向へ、いつしか変えられていきます。すると、聖霊様が「御国の扉」を開いて下さり、それまで「苦しみ」という「暗闇」に覆われていた「霊」の只中に、麗しい御国の光が大いなる輝きとなって差し込み、暫くすると「ある方」が、近づいて来るのを感じ取ります。自分が近づいた訳でもないのに、聖霊様が側近くに来て下さり、「私の愛する子よ、私の腕の中に来なさい!私が、あなたを休ませて上げよう!」などと、「内なる声」にささやきかけて下さいます。そして、その「御声」を聞いた瞬間に私たちの「霊」は、確実に主イエス・キリストに「触れた」という、素晴らしい経験に至ります。


触れ、触れられる時
 「新しい言葉」、即ち「異言」を伴う祈りの目的は、神に「触れる」ことです。私たちは「新しい言葉」をもって神ご自身を求める時に、確実にイエス・キリストに「触れる」ことが、最終的には可能になり、ある時にはその麗しい「御顔」にまで、触れることができるのです。


 神に「触れる」体験をした者は、それによって何を得るのでしょうか?「触れた」後にもたらされるものは、実に素晴らしい体験です。主イエス・キリストは、「愛する娘(花嫁)よ、私の元に来なさい!私が、あなたを抱擁しましょう!」と直接語りかけることで、優しき御手をもって直接、私たちの「霊」に「触れて」下さいます。これが、主イエス・キリストによる「聖なる按手」です!


 既婚者の方々はご存知のように、夫婦というものは普通、「言葉」による「愛の交わり」を交わします。新婚当初の頃は「いつもきれいだね!」、「ありがとう!あなた愛してるわ!」などと、その表現が実にストレートで、しかも甘美な「愛の言葉」を互いに交わします。しかし年数を経ていきますと、大抵「妻」の側から「夫」に対して、「あなた!愛してる?」などと、「愛の言葉」の確認を求めて来ても、「そんなこと、分っているだろ!一々言わなくても・・・・。」と突っぱねながら、「夫」はそそくさと仕事へ逃げる・・・・そんな「夫」に苛立ちながらも、「妻」は常に「夫」の唇から、自分に対する「愛の言葉」を、直接語りかけてもらいたい!と望んでいます。これが、言葉の「触れ合い」です。


 その後夫婦は、この言葉の「触れ合い」によって、如何なる行動に至るのでしょうか?心に「触れた」愛の言葉は、「夫」或いは「妻」の心を動かし、その言葉をかけた本人に近づいて、直接「触れたい!」と思うようになります。そして遂に、互いに「体」が触れ合って、「愛の交わり」の最終プロセス、つまり「抱擁」という一体化に行き着くのです。


 「異言」とは、神に「触れ」そして「触れられる」という、素晴らしい「御国の交わり」をもたらす、「命の言葉」の触れ合いです。「異言」は神の国の奥義を知る、重要な「鍵」となる言葉でもありますが、私たちが神と「愛の交わり」を為していく時に、必要不可欠な言葉であり、神に「触れる」ために聖霊様が用意して下さった、霊的に欠くべからざる「命の言葉」であります!


 パウロはその後、エペソに約三年間滞在しますが、このエペソ在住の僅か十二人という小さな群れから、麗しい神の国の「霊的権威」が解き放たれ、エペソの都市を霊的に支配していた、邪神アルテミス(偶像)の悪霊たちを驚愕させ、遂には大騒動となっていく経緯が19章に記述されています。


 私たちは、アダム(エバ)の犯した罪の結果、今まで古い次元に支配された五感(眼・耳・口・鼻・手足)の領域において、「贖いの生贄」イエス・キリストの、貴い「十字架の血潮」によって完全に洗い聖められるべきです。又、その後に来る聖霊の「聖めの炎」によって、私たちの五感が本来の麗しい、神の国の「力」に満ちた器官に造り変えられるべきです。つまり、私たちが常に聖霊を通して、新しい「霊の次元」に支配された(覆われた)五感を備えた者、又主イエス・キリストとの「愛の交わり」、即ち「霊と真による礼拝」を捧げる者へと変革されるよう、私たちは更に求め続けるべきです。


 そして、その「変革」の原動力となるものが、「聖霊のバプテスマ」を授けられた時に、「賜物」として与えられる、「新しい言葉」を語ることにあるのです。「異言」を語ることで、私たちの唇には「御国の扉」を開くことのできる、「霊的権威」が授けられていることを常に覚えて下さい!ですから私たちは、もっと主イエス・キリストと語り、更に奥深く霊的に交わり、そして「触れ合う」ことができるよう、聖霊様の助けと導きを祈り求めて下さい!主イエス・キリストは、必ずあなたの「異言の祈り」を、直接聞くことのできる所にまで近づいて下さり、優しき御手をもってあなたの全てを、「抱擁」して下さいます!


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