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命と心の健やかなる成長のために!
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言葉の革命(No.11)

                  第四の波紋−異邦人と異言−



 言葉を認識するには、聞くという「音声認識」と、見るという「文字認識」の二種類によって、その認識方法が異なってきます。勿論「ろうあ者」の方々の中には、「手話」という「手」のサイン(形状)で互いの意志を伝達し合ったり、「音声」は聞こえなくても、相手の語る「唇」の動きを読み取って、相手が何を語っているかを瞬時に悟ることのできる人々もいます。又、視聴覚障害者の方々の中には、「点字」という指の「触覚」によって、「点字」の形状を認識することができる人々がいます。


 「文字認識」の場合、1〜3才の幼児期においては、例えばカルタ遊びをする際、犬の絵を見せながら「いぬ」という文字を、単なるマーク(しるし)として、つまり「絵」と「マーク」を一体化しながら記憶することは可能ですが、4才を過ぎた頃になりますと、認識方法という記憶パターンに、異なる変化が起きてきます。親や教師(保育士)などが、犬の絵を見せながら、大きな声で「♪い!ぬ!・・・・、い!ぬ!・・・・♪」などと、はっきりとした音声で何度も何度も、繰り返し発音します。すると子供の「聴覚」神経と、「視覚」神経が連続反応を起こし、同じように子供に発音させていきますと、子供の耳が聴覚的に、犬の「絵」イコール「♪い!ぬ!・♪」という、「音声」言語として把握することが可能になります。


羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
                                                                                                      【ヨハネ福音書10章3節】


 羊はその声、要するに発音された「音声」を聞き分けて、誰が自分の羊飼いであるか、明確に区別しながら認識します。仮に、発音された「音声」がいつもと違う場合には、これは「よそ者(敵)」であると悟り、決して付いて行きません。それと同様に、私たちキリスト者にもたらされる「新しい言葉」、即ち「異言」という言葉も、唇からほとばしり出るその「音声」が、何らかの意味を持つ「言葉」であることは分ります。又、何らかの意味を持つ「認識言語」であるならば、その「音声」が何を訴え何を語っているかを、その「音声」を、聞く人々が如何にして自分の「耳」、つまり「聴覚」という五感の領域から、「霊の耳」の領域へと認識し受け留めていくのか?このプロセスは、はっきり申し上げて非常に難解なことです。


 相手の語る「異言」に対して、異言を「説き明かす」人が無い場合には、どのような内容の祈りや讃美、又預言やメッセージなどをしているのか、認識すること自体が難解です。ましてや私たちが、仮に「公けの場」で「異言」を語り出したとしたら、「又、かつての○○○真理教のように、新しい新興宗教でもできたのかしら?」などと狂信者扱いされ、敬遠されるでしょう。


 「異言」を「音声言語」として認識することは、非常に難解ではありますが、「聖霊の助け」がなければ認識できないことを謙虚に受け留め、かつ「異言」の語る内容を明確に認識できるよう、私たちが更に「聖霊の力」を求めていくことは、とても重要なことです。私たちが分らないからと言って、分らないまま諦めていたら、いつまで経っても霊的に「幼児期」です。しかし、必ず何らかの認識できる方法があり、聖霊によって上からの「知恵」と「洞察」を戴くのであれば、その人が何を「霊」で語り(祈り)、神に対して何を求めているのか、それを認識できるほど霊的にレベルアップすると、父なる神が約束して下さるとしたら、私たちは求めないでしょうか?勿論、自分の語る「異言」の内容も、私たちは明確に認識できません。しかし、聖霊様は「霊」の語らされるままに、何かを訴えていることは事実です。その人に現れた「霊のしるし」には、必ず何らかの意味があり、聖霊の「意志」の現れである「霊の言葉」として、何か意味ある(説明できる)ことを訴えています。


昼の十二時頃である。彼(ペテロ)は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペテロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペテロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」という声がした。しかし、ペテロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。・・・・・・・・翌日、ペテロはそこを発ち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイザリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。・・・・・・・・そこで、ペテロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分りました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。・・・・イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」ペテロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペテロは、「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と言った。
                                                                                                      【使徒行伝10章9〜48節】


ペテロの霊的性格
 コルネリウスとペテロの両方に働きかけた、「聖霊の導き」を比較してみますと、この二人は以前互いに会ったことも、その名も聞いたことがないにも関わらず、聖霊の不思議な「啓示」と「方法」により、霊的に結び合わされていくことが10章に記述されています。


 ペテロはご存知のように、聖霊によってもたらされた「五旬節革命」以後は、大胆にイエス・キリストの福音を語る者として、変革された使徒たちの中の「リーダー格」の一人でした。しかし、聖霊の大変革の恵みを受けた彼にも、「五旬節革命」の時から既に十年経過していたにも関わらず、ある種の「これだけは譲らない!」という、頑固な性格の一面が残っていました。聖霊は彼に、不思議な「幻」の啓示を通して、残っていた「頑なさ」を三度も示されました。


 彼の霊的「頑なさ」について、私たちも「知る」必要があります。先ず第一に、彼は「ユダヤ人」としての誇りに満ちていました。彼は他のユダヤ人同様、「自分は神によって、特別に選ばれた民の一人である!」という、強い自意識がありました。


 第二に彼は、かつてバプテスマのヨハネの弟子として、ヨハネの「精神革命」に共感していました。彼の願いは、常にイスラエルの「救国」であり、ローマ帝国だけでなくユダヤ国家以外の外国勢力は、彼にとって全て「敵」であり、自国を害する国家権力に対しては如何なる妥協もしないなど、強い精神力によって生きていました。このように、彼はイエス・キリストの弟子になる以前、バプテスマのヨハネの弟子として活動し、「愛国心」に満ち溢れていた人物でした。勿論、聖霊による変革以後は、「精神(肉)の力」によって国家再建を目指すことはなくなりました。


 聖霊の導きを受けながら、イエス・キリストの御国の福音を力強く証言することで、ユダヤ民族の全てが漏れることなく、イエス・キリストの「救い」にあずかり、イエス・キリストを信じるユダヤ人の群れが、イスラエルの地に満ち溢れるよう、日々使徒の務めを為していました。しかし、その宣教範囲の及ぶ所は、「ユダヤ人」に限られていました。「ユダヤ人の救い」にのみ焦点が向けられ、当然のことながら「異邦人」のことには無関心で、「救いの対象」として見ていませんでした。ただ「ユダヤの救い」という、愛国心に満ちていたからです。


 第三に彼は、イエス・キリストの「新約」に生きながらも、依然として「律法主義」という、「旧約」の教えに凝り固まっていました。この点に関しては、その後「新使徒」として迎えられる、パウロとの間にも論争が起こる程、「教え」の中身に関して激しい対立を生じるなど、霊的な「頑なさ」があったのです。ですから彼は、聖霊運動を推し進めながらも、古い「律法主義」に根ざした、「旧約」の教えを中心としていたのです。


コルネリウスの人柄
 それに対しコルネリウスという人物は、ペテロが一番嫌う「異邦人」のローマ人であり、カイザリアに駐屯していた、イタリア隊の「百人隊長」の一人でした。彼はローマ人でありながらも、「ユダヤ教」に非常に深く関心を持ち、父なる神を畏れていた信仰心の厚い人物でした。その後彼は、聖霊による不思議な導きによって、「ユダヤ人」ペテロを自分の家に招き入れ、彼らの指導を通して「聖霊のバプテスマ」を授けられました。それ以後、彼は「キリスト教」に改宗することで、家族全員が救われました。当然のことながら「百人隊長」という働きを通して、彼の多くの部下とその家族も、彼にもたらされた聖霊の大変革に影響を受けて、次々と救われました。


 「百人隊長」という身分は、普通エリート戦士としての称号(階級名)で、指揮系統に優れた軍事的能力を備えた人物、つまり将校(幹部)クラスですから、大抵勤務時間以外も変わらず、人を見下したり命令するような口ぶりで、威張り散らす人が多いのですが、彼だけは違っていました。彼はユダヤ教を信じていた時から、殆どの部下たちから尊敬され、又慕われる程の良き隊長でありましたが、キリスト教に改宗し「聖霊のバプテスマ」を受けた後は、以前にも増して「知恵」にたけ、家族愛をもって部下に仕えるなど、模範的なリーダーに変革されました。ですから、部下たちは益々彼の下で働くことを喜びとし、彼の中から放たれる「キリストの香り」に導かれ、次々と救われていくのです。「リーダー」としての彼は、ペテロとは対照的に「柔らか(柔軟性)」な、霊的性格を持っていた人物でした。


 10章を読み進めて行きますと、聖霊は不思議な導きをもって二人を出会わせ、共に聖霊の「良き器」として変革させるべく、更に霊的に取扱っていることが分ります。そして、この聖霊の取扱いには、霊的性格をも造り変える「力」があることを教えています。


霊的性格の変革
 先ず「第一の変革」は、ペテロに関することですが、自分の国家や民族だけが救われれば良いという、「愛国心」に満ちた彼の性格に対して、霊的に取扱われたことです。「自国」、「自民族」、「自己正義」、「自分の肩書き」、「自分の方法」などの、「自己中心」に基づく霊的頑なさ(私はこれをエゴ・ブランドと呼びますが)を、完全に廃棄しなさい!と聖霊は命じられます。このエゴ・ブランド意識は、私たちキリスト者の信仰生活の中に、或いはキリスト教の様々なグループの中に、必ず見受けられるものです。


 例えば、自分の信仰生活の領域においては、「私はかれこれ、聖霊を受けてから二十年になりますが、あなたは未だ一年足らずですか!・・・・」などのセリフ、これは「自分中心」の歴史を語る、エゴ・ブランド意識の現れです。又、「私たちの教会は、かれこれ三十年の歳月を経て、今や神の恵みにより、数百名に及ぶ礼拝出席を数える成長を遂げました!」などの証し(その種の思いも含む)に続き、「・・・・で、おたく(先生)の教会はいかがですか?・・・・え!まだ開拓中ですか?大変ですねー。まー、がんばって下さい。」などと、一見励ましているかのような口ぶりですが、既に「優越感」に浸りながら、上から下を見下ろすような視線に変り始めている時も、同様の現れです。仮にも語る相手の方が、全ての面において「自分」より優っている場合、急に態度を一変させ、「うやうやしく」振舞うようになるのも、エゴ・ブランド意識の特徴の一つです。


 世界的に見て過去において、ペンテコステ神学に立つ教役者の中には、「我らこそ、この国の福音宣教において、力強い聖霊運動に立つ信仰者の群れだ!」などと唱えながら、決して他の福音派の諸教会と一致しないまま、ミニストリーを推し進める傾向(風潮)がありました。今でこそ、大分柔軟にはなりましたが、これもエゴ・ブランドに他なりません。私たちの語る「言葉」や「思い」の中に、このような意識は必ず生じるものです。ですから、私たちは聖霊を通して、このエゴ・ブランドを廃棄して戴くよう、常に祈り求める必要があります。


私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲い入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
                                                                                             【ヨハネ福音書10章14〜16節】


 イエス・キリストが語られたこの「奥義」は、非常に重要な「教え」です。イエス・キリストはあえて、「私の声を知らない羊や、囲い入っていない他の羊」がいることを、弟子たちに悟らせるよう語りました。イエス・キリストは、直接的な表現こそ使用しませんでしたが、弟子たちの持っている「自国」そして「自民族」意識などの、「エゴ・ブランド」意識(思考)に対して警告を与えました。イエス・キリストは、自分の声を知っている羊たち(ユダヤ人)を、当然導かなければならないが、将来的には「自分の声を知らない羊たち(異邦人)」をも、「神の国」へ導かなければならないことを、彼らに告げ知らせたのです。


 この御言葉の「奥義」から内村鑑三は、「自分の教会」や「自分の宣教団体」、或いは「自分の教会員」さえ成長すれば良い!という、当時のリバイバル運動の流れ(風潮)に対して、あえてプロテストしながら、むしろ彼らエゴ・ブランド集団という、「囲い」から排除された人々、即ち教会(会堂)の無い羊たちの、「教師」として召し出された人物でした。この御言葉の奥義が、彼ら「無教会派」を産み出していく、原動力となっていくのです。


 既存の教会体制にマッチしない人々が、必ずどの時代にも存在します。福音派に限らず、今のカリスマ派の流れの中に見られるように、余りにも牧会神学が霊的に「固い」ため、或いは牧師主導の教会運営に反する人々が教会に居辛くなるため、「教会」間をさまよい続けたり、又既存の「教会」に受け入れてもらえない状況が続いています。真の牧者イエス・キリストを求めて、霊的に飢え渇く羊がいるにも関わらず、本当の麗しいキリストの花嫁「エクレシア」が殆ど無く、霊的に身を落ち着けることができない羊の群れ、即ち「囲い属さない羊」の数の方が圧倒的に多い、これが今のカリスマの流れの現状ではないでしょうか!


 「囲いに属さない羊」とは、異邦人のことを指していますが、私たちの主イエス・キリストは、前述した「霊的異邦人」に対しても、聖霊による変革運動を「今の時」に必ず起こされます!そして彼らの中から、ペテロとコルネリウスの出会いの如くに、聖霊の「不思議な導き」の中で、神の生ける肢体どうしが連結され、大いなる主イエス・キリストの花嫁、即ち真の「エクレシア」として誕生することでしょう!


神は人を分け隔てなさらないことが、よく分りました」(34節)
 ペテロは、コルネリウスとその家族の元へ導かれるまでは、神は「ユダヤ人」だけを選んで成長させて下さり、「神の国」の麗しい再建に召し出されるのだ!という、偏った考え方に凝り固まっていました。しかし、彼はコルネリウス家に迎え入れられた時に、自分たちが嫌っていたローマ人、とりわけ「軍隊の連中」という敵の中にも、麗しい神の救いが現れている、しかも家族全員が神の名の下に一致して、「聖霊のバプテスマ」を授かるという、天上の恵みにあずかる光景を、まざまざと見せ付けられ非常に驚いた訳です。


 ですからペテロのこの告白は、自分が予想もしなかった「神の救い」の御業を見て、宣言せざるを得ない「証言」になりました。ここに、彼にもたらされた「第二の変革」が現れています。即ち、彼がそれまで大事にしていた、「古い律法」という価値観を全て廃棄し、神の国の「新しい約束」を全面的に受け入れることで、神は決して分け隔てをなさらないこと、つまり彼の「霊的囲い(分断の壁)」そのものが、聖霊によって打ち破られたことを証明したのです。


聖霊によるライン
 ペテロに同伴してきた、弟子の一人が続けて証言しました。「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」(47節)。この証言からも導かれることですが、聖霊は人と人の間にある、「ライン(分離線、囲い、境)」を完全に打ち砕き、神の道に引かれた、只一つの「ライン(イエス・キリスト)」を求めて一致し、共に仕え合うようにすること、これが「第二の変革」です。


 人と人の間にあるラインは、アダム(エバ)の罪の結果生じました。このラインこそ、「分け隔ての壁」を意味します。彼らが罪を犯す以前は、互いにストレートに交わることができる、聖なる「一体関係」が成立していましたが、罪の結果互いの間に線を引いて、「一体」ではなく「分離したもの」として、相手(他者)を見るようになりました。人と人の間にあるラインは、悪魔サタンが引いたものです。人を見下したり、人を支配するために人を分け隔てたりすること、これらは全てサタンによる「ライン」です。


 しかし、聖霊が引かれる麗しい「ライン」は、「贖いの子羊」主イエス・キリストの、十字架から流れ出る「血潮のライン」のことです。このイエス・キリストの「血潮のライン」の元に、私たちが一致して共に仕え合っていく時、麗しい「神の国」が完成されていくのです。自国の民族だけが、羊飼い(イエス・キリスト)の「声(御国の福音)」を知れば良いという訳ではなく、自分たち以外の民族(異邦人)にも、麗しい神の「御声」が届けられ、共に導かれることで「一つの群れ(一体化)」になっていくこと、これが聖霊の為される大いなる「変革」の御業です。


 コルネリウスとその家族の中には、この「変革」が既に始まっており、「聖霊のバプテスマ」を授けられてから、一段と麗しい主イエス・キリストにある家族、イエス・キリストにある「百人隊長」として、「変革の波」が近隣へ部下たちへと波及して行きました。ペテロは「五旬節革命」以後、ユダヤ人同胞の中に見受けられた様々な家族の救い、又その時に起こる「聖霊の変革」の現れを見てきました。そして、「ユダヤ人」こそ聖霊の変革を受けるため、特別に選ばれた「約束の民」であると、いつしか自負するようになったのではないでしょうか。しかし、自分たちの知らないところ(宣教範囲外)で、しかもユダヤ人が派遣されなくても、「神の国」が次々と霊的に確立されるのを、実際に見ることになりました。ですから私たちは、「聖霊の為される変革は、常に人知を遥かに超えた次元で為される!」こと、この真理を知って下さい!


 ある有名なカリスマ・リーダーによって、素晴らしい説教(ミニストリー)をしたから、或いは大きな宣教団体が率先的に聖霊運動を推し進めたから、リバイバルが起きるという現象ではなく、誰も知らない場所で、名も無き人々の飢え渇きと祈りの結果、聖霊の「栄光の炎」が突然降り注がれる、これがコルネリウス家に起こった「聖霊の訪れ」であり、又「変革の恵み」だったのです。


 ペテロは、自分たちのコイノニア以上に、コルネリウス家族の中に聖霊様の深い「臨在」と、「親しい交わり」があること、そして主イエス・キリストの麗しい愛が、コルネリウスの中から部下たちにも流れているのを見て、驚嘆せざるを得ませんでした。そして彼は、実際に「異邦人」コルネリウスと出会うことで、自分の中にある古い「霊的頑なさ」が、完全に打ち砕かれました。


 彼はそれまで、「ユダヤ人」キリスト者だけが、天上にある霊的食物を食することができるなどの、エゴ・ブランド意識を抱いていましたが、何と「異邦人」にも同様に、「天の祝福」が与えられるのを見て、そのような意識が完全に廃棄されるに至りました。しかも、自分たちに与えられている霊的食物の方が、全て面で優っていると思っていたにも関わらず、「異邦人」コルネリウス家に与えられた、新しい霊的食物を「霊の口」に入れた瞬間、今までに経験したことがない、また何とも言い様のない、甘美に満ちた「新鮮な味わい」を体験したのです。


 日本のリバイバルについて触れますが、仮に今存在する大小を含めて多数の宣教団体、或いは教派組織、そして大教会による宣教(ミニストリー)の働きからではなく、名も無き少数の人々の飢え渇きから、神が突然に一方的な聖霊の「恵み」を降り注ぎ、そしてリバイバルが起きたとしたら?例えば、次のようなストーリー・・・・。


 ある日、突然に会社からリストラされ、家族離散の憂き目に会い、行き場のなくなった、ある中年男性「神尾モトム氏」(55歳)、彼はついに所持金が底を着き、一文無しになって新宿公園へと、いつの間にか足を運んでいた。時期が未だ、夏の終わりということもあり、その日は空腹であることも忘れるほど、彼は身も心も疲れ果て、いつしかベンチに横たわり眠ってしまった。


 そして数ヶ月が経つ頃には、彼はある「ホームレス」グループの一員となり、希望もないままその日暮らしをしていた。しかし、時は冬の始まりを告げ、次第にダンボールの家では、身が凍える程の辛さに、耐え切れなくなる予感がした。が、何もできない。只願うのは、昼間「お天とう様」が、寒さに震える自分の体を、少しでも暖めてくれること、それだけであった。


 年が明けた、とある日の晩、この冬一番の大寒波が関東に接近し、東京は大雪警報が発令された。大分以前と比べ、やせ細ってしまった彼は、最初の頃仲間たちと、避難場所(雪の積もらない場)を求めて、必死に公園周辺を捜したが、既に先輩たちが陣取っていた。動いている間は、何とか耐えていたが、ついに体力を消耗してしまい、もはや「凍死」寸前に至った「その時」、彼は今まで性格的に寡黙であり、自分の感情をストレートに、言い表すことができなかったにも関わらず、ついに彼は、今までの積もり積もった激しい感情を、自分の唇から一気に噴出(爆発)した。
「親父ー!俺を見捨てないでくれー!ウォー!(嗚咽)」
彼はその場に泣き崩れ、早くも30センチ積もった雪を、両手で何度も何度も叩きながら、見えない「誰か」に、怒りにも似た「懇願」をし続けた。


 すると突然彼の耳の中に、今まで聞いたことがないほど、優しくはっきりとした、「誰かの声」が聞こえてきた。
私はあなたを、決して見捨てない!私はあなたの主であり、道であり、真理、そして命である。私があなたを召し出す。付いて来なさい!
彼は、不思議な「御声」を聞いたその日の晩、どうして死ぬことなく、安眠できたのかは分らなかったが、その「御声」に導かれるまま付いて行ったら、「暖かな場」が既に備えられていたことを、はっきりと覚えていた。


 彼はその後、ひたすら「御声」のみに従って行き、遂には「御声」の正体が、主イエス・キリストご自身であること、そして自分をイエス・キリストの元に導いた方が、聖霊様であることを知り、自分の「救い主」、「助け主」として受け入れた。それからの彼は、同じホームレスの仲間たちに、イエス・キリストの「証人」として、自らの体験を大胆に証言した。


 すると彼と同様に、霊的に飢え渇いていた仲間が次々と回心し、その数は日増しに増えていった。その結果、彼はホームレス・コイノニアのリーダーとして選び召し出された。やがて、彼らの住みかとする公園一帯に、麗しい「神の国」の臨在が満ち溢れるようになった。たとえ自分たちが集う会堂はなくとも、寒い冬空の下で、聖霊による熱い賛美と礼拝が捧げられる時、彼らは益々「霊」に燃え、互いに寄り添い合って、たくましく生き始めるまでに変革された。殆どの者は一般社会に復帰し、最終的には家族再建の道を、信仰をもって歩んでいった。


 そして、ある日遂に彼は、回心し救いの喜びにあずかった人々の中に、感涙にむせぶ愛する妻と、喜びに満ちた子供たちの顔を発見し、思わず駆け寄り、暖かく、そして力強く、抱擁するのであった。


 私は、このようなリバイバルが、「正夢」となる日を待ち望んでいます。本当のリバイバルとは、人間的に見て麗しい「大聖堂」や「大教会」の中から、或いは「大宣教団体」などのグループから起きるのではなく、むしろ「世間」や「社会」という「囲い」から、除外(のけものに)された人々、教会組織という枠組みから追いやられた人々、一般の人々が寄り付かないような、汚い場所に暮らす人々、そのような名も無き人々の飢え渇きを通して、聖霊の「栄光ある訪れ」が一方的に為されて、この世の未信者も彼らに臨んだ聖霊の「しるし」を見て、イエス・キリストは「真の救い主」であると信じるようになった時、これが真の「リバイバルの時」ではないでしょうか!講壇という「いと高き所」にあぐらをかいて、マニュアル化された牧会神学で、教会(組織)運営をする人々の中から、リバイバルが起きるのではありません!


 ペテロと弟子たちが、コルネリウス家に迎え入れられた時、どの位の人々が集まっていたかは、定かではありません。コルネリウス家族のメンバーとその親戚、そして彼の部下(恐らく幹部)とその家族の総数は、少なく見積もっても50人以上であったと思われます。恐らく百名に近い異邦人の群れが、ペテロたちが按手などのミニストリーを行わずとも、「聖霊のバプテスマ」を授けられました。そして「その時」、聖霊の約束の「しるし(証印)」として、彼らは一斉に「異言」を語り出しました。


 これを見た弟子たちは、何故驚いたのでしょうか?それは、彼ら「異邦人」にもたらされた聖霊の「しるし」が、彼ら同様に「異言」を伴っていたこと、このことはペテロたちが、「五旬節革命」に与えられた時と同様の「現れ」であったこともありますが、彼らは「聖霊」について殆ど無知であり、ましてや「異言」という聖霊の「しるし」に関しては、全く何も知りませんでした。しかし十年前に起こった、百二十人の弟子たちにもたらされた、聖霊体験の「証言」や聖霊による「礼拝」を、実際に聞いたことがないにも関わらず、彼ら「異邦人」が捧げる、「異言」を伴う礼拝の方が、自分たちが普段捧げている礼拝以上に、麗しく甘美なものに満ち溢れている、この有様に驚愕した訳です。


天的な交わりの流れ
 「五旬節革命」の時にもたらされた、聖霊の「しるし」である「異言」は、種類としては「諸外国語」でした。しかし、コルネリウス家にもたらされた「異言」は、「神の栄光」を崇める単純な「霊の言葉」となって、集まっていた人々の全員の唇から、清らかな「命の水」の流れの如くに、次々とほとばしり出るものであったと推測できます。まるでそれは、誰が演出した訳でもないのに、ある人の流す「異言」の音声の上に、次々と調和の取れた音声が重なり合って、あたかも「天上のオーケストラ」が、奏でられているかのように聞こえてきました。「神の国」の臨在が余りにも濃厚であり、しかも麗しい「天上の響き」の中に、集まっていた人々全員が包まれていく時、とても立ち続けることができない程の「天上の礼拝」が、聖霊の導きの中でペテロたちをも支配していたのです。


 つまり、何の妨げも無く「神の国」の麗しさ(美)が、彼ら「異邦人」の上にもたらされたのです。彼らの語る(賛美する)「異言」の音声そのものは、一つ一つの単語を明確に認識できるものではありませんでしたが、彼ら全員が奏でる「異言の賛美」は、救い主イエス・キリストをこよなく愛し、この方によって救われた喜びを素直に表明するなど、天的な「会話」と「礼拝(賛美)」が為されていることだけは、集っている人々だけでなく招待されたペテロたちも、「霊の耳」で認識できました。


 何故、ペテロたちは認識できたのでしょうか?それは、彼らも同じ「羊飼いの声」を知っていたからです。又、同じ「羊飼いイエス・キリスト」に対して、集っていた「異邦人」も共に、霊と真をもって礼拝を捧げていたからです。当然、愛する「羊飼い」が同一の方であるならば、「ユダヤ人」という羊も、「異邦人」という「囲いの外」の羊と共に、「神の国」の臨在に膝をかがめ、その「御声」を認識できるようになるのです。「異言」の、単語一つ一つの意味は認識できませんが、麗しい「救い主」イエス・キリストに対して語る、「愛の表現」であることは認識できるのです。


 神への「異言」は、更に新しい「異言」を呼び起こします。その「異言」どうしが、聖霊によって調和され重なり合う時に、「一つの方向」に流れて行きます。その方向とは、一つのライン「イエス・キリスト」です。このイエス・キリストの御名のもとに、何の分け隔て(囲い)や妨げも無く、互いに一致し協力して仕え合うようになること、これが聖霊による「変革」であることは、言うまでもありません。


 「異言」を強調し過ぎると一致どころか、かえって教会に混乱をもたらし、分裂騒ぎにもなり兼ねない!などの理由で、「公け」で語ることを禁じるペンテコステ教会があります。しかし、パウロは明確に宣言します。「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者の為のしるし」(第一コリント14章22節)であり、「異言を語ることを禁じてはなりません」(第一コリント14章39節)と。ですから「異言」そのものは、決して「分け隔ての壁」にならないことを、いつも覚えて下さい!


 そして神への「異言」は、必ず一つのライン(方向性)を指し示します!それは、主イエス・キリストの御名を崇め、そして更に「真の羊飼い」イエス・キリストの、「御声」を知ることを求める、つまりイエス・キリストの語られる「御声」に聞き従い、その「御心」をより深く知りたい!と欲する、「霊的飢え渇き」に導かれることです。


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