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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.29)

 
                        甘美な香りを放つ



花の持つ様々な働き
 あなたが、父なる神から次のような預言、「あなたは、キリストの香りを放つ、一輪の花です。」という内容の「言葉」を戴いた場合、どのような「花」をイメージしますか?又、そのイメージする「花」から漂ってくる香りは、どのような「香り(匂い)」を想像しますか?


 自然界には、多種多様の「花」が咲き乱れています。その中には、「色彩(カラー)」をアピールする「花」があれば、又「香り(匂い)」をアピールする「花」もあります。このように、「花」によってアピールの仕方が様々に変化しています。例えば、普通の草花は「花」をカラフルに彩りますが、これは蜜蜂などの昆虫を「花」に魅きつけて受粉し、子孫(種子)を残していくために「カラー」を強調する植物です。それに対して、見た目は余り「色合い」が美しそうに見えない「花」であっても、「香り(匂い)」が強烈に強い「花」、つまり独特の「香り」を放つことで、昆虫を魅きつける植物があり、殆どの場合「果樹の花」がこれに当たります。


 春になったら、「サクラ」の「花」を観察してみて下さい。「花」が咲いている期間はとても美しく、樹としても立派に見えますが、散ってしまった後は何となく寂しく、そして虚しく見えないでしょうか?それに対して普通の草花は、各シーズン毎に実に小奇麗に「花」を咲かし続けます。その咲いている時間が長ければ長い程、見る人にとっては麗しく感じます。果樹の「花」は、ほんの一時期にしか咲きません。


 しかし果樹の「花」は、「甘美な香り」を風に漂わせ、遥か遠くにいる昆虫たちを誘い込むほど、強烈な「香り(匂い)」の力を持っています。ところで、「人」は今までどれ程の「香り」を、人工的に製造してきたのでしょうか?「香水」のエッセンスは、如何なるプロセスで製造するのか知りませんが、恐らく「良き香り」を放つ「花」のエキスを抽出し、それを濃縮したものもあるでしょう。しかし覚えて下さい!人工的な「香り」は、あくまで一時的なものであり長持ちはしません。


言葉にも香りがある
 前述の「預言の話し」に戻りますが、女性にこのような「預言」が与えられた場合、そのイメージする「花」は、恐らく女性的な麗しい花々を、簡単に想像することでしょう。しかし男性の場合、殆どの人が少々難しさを覚えます。聖書的には、「シャロンの花」がイメージとして最適でしょうが、日本人に一番ふさわしいイメージは、例えば奥深い谷間に咲いている、一輪の「白百合」ではないでしょうか!しかし覚えて戴きたいことは、神が私たちに望まれる霊的な「一輪の花」とは、「芳しく麗しい、甘美な香りを放つ花」です。


 父なる神にとって、「色彩(カラー)」は問題ではありません。例えば私たちの信仰生活には、様々な奉仕が用意されています。人目に付く奉仕もあれば、逆に決して目立たない「祈り」などの奉仕もあります。この時殆どのキリスト者が、人目に付く奉仕に視点を向け、「心」を奪われます。講壇の奉仕(説教、司会、聖歌隊など)の場合、これはとても素晴らしい奉仕に見えます。又、「言葉」として現れてくる奉仕(預言、教師、伝道者など)、これも「良き香り」を放つ代表的な、「特別の奉仕」に思われがちです。それに対して、「とりなしの祈り」や礼拝後の閑散とした会堂清掃は、「人目」から隠れたものであり、とても「良き香り」を放つとは考えにくいものと錯覚します。しかし覚えて下さい!「キリストを愛する香り」ほど、良きものはありません!そして、キリストへの「愛の香り」は、人に見せるものではありません。


 この「愛の香り」は、どのような香りでしょうか?実は「言葉」が、「香り」のような働きをすることをご存知でしょうか?ある「言葉」の中には、味覚的表現をする場合があります。例えば、「甘い言葉には気を付けなさい!」など。この場合、決して「辛い言葉に気を付けなさい!」とは言いません。この表現(言い回し)を使用する時、「言葉」が「甘いもの」の如くに人を魅了し、また上手に誘惑してくることを、私たちが知っているからです。真に「人」は、言葉に騙され易い存在です。サタンの投げかけた「甘い言葉」に、ものの見事に騙された第一人者がエバです。


 それに対して神の「御言葉」は、私たちが乳飲み子のように純粋に慕い求める時、それは私たちの「霊」にとって、甘美な「命の言葉」になります。しかし、滅びに至る者にとって神の「御言葉」は、霊的に「苦い言葉」になります。何故でしょうか?この時、私たちの霊的味覚を左右しているものは、イエス・キリストの「十字架」です。つまり、唯一の「ゲート」を通過できるか否か、それを左右するものが神の「御言葉」です。イエス・キリストを、自分の「救い主」と告白する者にとって、神から語りかけられる「御言葉」の全てが、神の尽きることの無い「ラブレター」であり、それを「霊的な糧」として永遠に食します。


 たとえ、ある「御言葉」がきつい命令のものであっても、自分の「霊」にとって何にも代え難い、麗しい甘美な「命の言葉」になります。しかし神の「御言葉」を拒絶する者は、自分の「信念(我が言葉)」を食し続けます。彼らの中には、ある一部分の「御言葉」、例えば自分の魂に聞き心地の良い、「先生(人)のメッセージ」には従っても、「主イエス・キリストに自分自身の全てを、捧げ尽くしなさい!」などの神の「御言葉」には、決して聞き従おうとしない、「世」に属するキリスト者も存在します。



神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせて下さいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めに誰がふさわしいでしょうか。私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
                                                                                             【Ⅱコリント書2章14~17節】


キリストの囚人
 「神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」(14節)
 この部分の御言葉を、新共同訳英語版から直訳すると、「キリストの勝利の行進に連なる私たちは、囚人(prisoner)として」という意味になります。つまり私たちは、キリストの「勝利の行進」にあずかる時、それは「囚人(捕われ人)」としてであると、パウロは明言しています。え!?私たちは鎖につながれた、「捕われ人」のような身分(状態)にあるのでしょうか?注意して戴きたいことは、確かに「囚人」という身分は、常に鎖につながれた状態にある訳ですが、霊的「捕われの身」にあることが何を意味しているかを、聖霊を通して知らされるべきです。


 パウロの言わんとする「鎖」とは、霊的に従順さを示す言葉です。そしてこの従順さには、「導かれる」という概念が、重要なキーワードです。「この世」に足を降ろしたキリスト者は、「キリストの囚人」ではありません。彼らは、ある時は「キリストの囚人」の振りを装いますが、又別のある時は「私は自由人です!」などと主張します。彼らは決して、キリストの言葉を百%受け入れることはなく、「我が言葉(信念、野心、ビジョンなど)も必要です!私は困った時だけ、あなたの言葉を必要とします!」などと語る傾向にあります。


 D・ウィルカーソンは、次のように問いかけます。「何故これ程のたくさんのクリスチャンが捕われの身になっているのでしょうか。それはキリストに対する飢え渇きをもって、主と共に歩みたいというところにまで至っていないからです。」(※)そうです!この世の君「サタン」に導かれる者は、常に「古い言葉」に支配された「サタンの囚人」です。


 私たちは「囚人」と呼ばれる時に、「キリストの囚人」になることを、何よりも願い求めますか?それとも「サタンの囚人」として、霊的に束縛されながら生きることを欲しますか?あなたは、どちらに属する「囚人」として、導かれることを選択しますか?私たちは常に、「神の囚人」と呼ばれることを求めようではありませんか!「キリストの囚人」と呼ばれることほど、何にも優って麗しいことはありません!何故なら、「キリストの囚人」のみが、「キリストの勝利の行進に連なる一員」として迎え入れられるからです。


 それ故私たちは、イエス・キリストに導かれることだけに、益々「捕われ」て行こうではありませんか!私たちが霊的に、「王の王イエス・キリスト」の支配下にあって、完全に従順な「キリストの兵士」として導かれる時、「囚人」としてこれほど喜ばしい「特権」はありません!それはあたかも、キリストの「麗しい(美しい)心」に捕われた、乙女(花嫁)の姿です。「キリストの心」に、完全に捕らえられた乙女は、「恋愛小説」に見られる、「私は、愛するあなたに心が奪われています!私は、あなたの捕われ人になりたいのです!私の全てを、あなたの美しい愛で覆って下さい!あなたの奴隷に、私はなりたいのです・・・・。」などの台詞のように、キリストの「麗しい(美しい)心」に完全に捕われるなど、霊的な「一体」関係を求めます。ですから、私たちはサタンの「甘い言葉」に導かれる、「世的な乙女」にではなく、常にイエス・キリストとの「親しい交わり」に導かれる、「キリストの花嫁」に変革されることを、更に求めようではありませんか!


キリストの良き香り
 「私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(15節)
 私たちは霊的に見た場合、キリストの「良き香り」を放つ、「一輪の花」なのでしょうか?答えは「然り!」。この「良き香り」は、英語で「sweet-smelling incense」と表現し、直訳すると「甘い味がする香り」のことです。


 ところで、この「incense」という言葉ですが、私たち(特にご婦人方)が使用している、「香水」を指す言葉ではありません。ちなみに、「香水」を意味する英単語は、「fragrance」と言います。「incense」とは「煙の香り」のことで、例えば日本の「線香」がこれに当たります。「良き香り」として使用される「芳香剤」も、この種の香りです。ですから15節の言葉は、文字通り「甘美な煙を出す香り」のことです。これは、ローマ書12章1節の御言葉に通じる言葉であり、私たちが神の御前に「全焼のいけにえ」として捧げられる時、私たちは聖霊(火)を通して、生きた聖なる「香り」を発する、貴い存在(器)であることを示しています。


 と言うことは、私たちが霊と真による礼拝を捧げる時、聖霊様が私たちを「全焼のいけにえ」として焼き尽くし、その時に発せられる「香り(煙)」が、父なる神を喜ばせるのです。ここに、私たちの生きる目的(召し)、つまり人生の意味付けが存在します。つまり、生きるにしても死ぬにしても、私たちは「神に属する者」、つまり神に捧げられる「全焼のいけにえ」であり、全ての「キリストの花嫁」が「真の礼拝者」として、花婿(イエス・キリスト)の御元に召し出されている(導かれている)のです!


 この最優先の「召命」を忘れて、私たちが「この世」へ導かれるなら、ある時は確かに「キリストの栄光」を掲げ、キリストに「良き香り」を捧げますが、次第に「私の香り」を意識し始めるなど、「神」にではなく「人」に対して、「私の香り」を漂わせようと試みて行きます。そのような人々は、まさしく「神の言葉を売り物にする者」であり、神の国の福音を「商売道具」として使用する、「世に属する者」です。神への「礼拝」は、イエス・キリストがエルサレム神殿で怒られたように、「商いの時」ではありません!真の礼拝は、霊的に「自我」に死す時です。決して、「私の香り」を放つ汚れた場所ではありません。


 私たちは自然と、アダム(エバ)の罪の結果、「私の香り」を放ちたい!という欲望に駆られます。「私を認めて欲しい!」、「私は長年、教会に真面目に出席しているにも関わらず、自分にふさわしい奉仕が与えられていないのでは?」などの思い、これらは全て「私の香り」の現れです。今一度覚えて下さい!イエス・キリストは、私たちに「何(どのような生贄)」を望まれているのでしょうか?それは只「全焼の生贄」、つまり自分自身の全てを捧げて尽くす、「真の礼拝者」を求めておられます。


神に属する者
 「このような務めに誰がふさわしいでしょうか。私たちは、・・・・誠実に、また神に属する者として」(16~17節)
 私たちは、「誠実な者であり、神に属する」身分の者であると、聖霊様は常に語って下さいます。「誠実さ」とは、「偽りのない、真直ぐ(ストレート)な心(態度)」のことです。ですから、聖霊様が求められる「誠実な者」とは、ストレートに神の御前に出る者のことです。例えばアベルですが、彼は神に命じられた通り忠実に、そしてストレート(素直)に「献げ物」を捧げました。神に喜ばれる「いけにえ」として、彼は自分の所有する中から一番大切な、「貴い子羊」を惜しみなく捧げました。


 彼にとってこの子羊は、神の喜ばれる「全焼の生贄」、つまり「自分自身の全て」を象徴しています。又賢い五人の乙女の場合、ご主人様の「言葉」を何一つ疑うことなく、ストレートに信じて待っていました。更に、イエス・キリストの親しい友人である妹マリヤは、姉マルタのミニストリー(奉仕)に全く興味を示さず、イエス・キリストと直々(ストレートに)交わることを求め、只御前に座しただけです。彼女は膝と膝を付き合わせ、「顔」と「顔」を向かい合わせ、イエス・キリストの語る「お言葉」を、純粋に慕い求めました。


 「誠実さ」という言葉には、何となく「気真面目に、勤勉に」などのニュアンスが含まれているため、「神のために一生懸命働く人」を連想しがちです。しかし神が求められる「誠実さ」とは、ストレートな関係を意味する言葉であり、神の御前に「すぐ馳せ参じる者」が持つ、直ぐな心のことです。又、神を求め飢え渇くことにおいて、たとえ障害物があろうとも「主よ、早く来て下さい!」と待ち続け、ひたすら恋焦がれる「賢い花嫁」の持つ姿勢(信仰)です。


 「神に属する者」とは、英語で「servants of Jesus Christ」と表現し、文字通り「イエス・キリストの奴隷」です。この書簡を書き著したパウロは、数多く書き著した「書簡」の中で、自分のことを「キリストの奴隷」、「キリストの下僕」という表現で紹介しています。つまりパウロ自身、イエス・キリストを信じた後の人生が、「エリート」から一転して「下僕」となり、時には奴隷的扱いを強いられるなど、言わば「捕われの身(囚人)」を経験したからです。


 イエス・キリストを信じる以前の彼は、常に「リーダー」という、上から支配する(命令する)立場にある身分でした。しかし、イエス・キリストを「真の主君」として、仕える(serve)ようになってからの彼は、キリスト者の同朋者からも馬鹿にされるほど、奴隷中の奴隷に変革されました。キリスト者パウロは、決して自分の弁術などの才能(タラント)を誇ることはなく、只ストレートにキリストを宣べ伝え、「イエス・キリストの奴隷」であることを、「最高の誇り」としたのです。


 神の使者として、「キリストの奴隷」を選択した彼の人生は、まさしく「イエス・キリストの囚人」でした。彼はこの書簡を通じて、今に生きる私たちに「あなた方は、神にストレートな者でありなさい!そして神の奴隷として生きなさい!」と語りかけています。「神の奴隷」として生きることが、キリストの「甘美な香り」を放つ者に変革される上で、必要不可欠なことです。


 もう一度繰り返しますが、私たちは第一に「キリストの勝利の行進に連なる囚人」として、第二にキリストによって、神に捧げられる「良き香りを放つ者」として、そして最後にストレートに、神に対して飢え渇く「神の奴隷」として、召し出されていることを覚えようではありませんか!


香りが放たれた後に
 この三つの条件を基にして、パウロは17節で「神の御前でキリストに結ばれて語っています。」と述べています。この御言葉から第一に、私たちが「神の御前に在る者(in his presence)」、このことを常に覚えて下さい。私たちキリスト者の存在は、霊的にイエス・キリストを大幹とする、神の「命の木」の枝です。


 前述した普通の草花は、花の「色彩」が実にカラフルであり、一枚一枚の花弁の「色彩」が、決してモノトーン(単一色)ではありません。それに対して果樹の花は、「色彩」が決してカラフルではなく、はっきり言って綺麗であってもモノトーンです。しかし彼らには、私たちの目に見えなくとも、遥か遠くにまでその「匂い」を漂わせる、「甘美な香り」の力を持っています。


 例えば「梅の花」は、二月の冬の終わりの時期から「花」を咲かせるのですが、その花の「香り」が漂う頃になると、昆虫たちが長い冬の眠りから目を覚まします。そして生きる力の源「花の蜜」を求めて、未だエネルギーの満たない弱った体を振り絞って、ストレートに「花」へ集まって来ます。このように昆虫たちは、果樹の花の「香り(匂い)」が漂い始めますと、「春の到来」を敏感にキャッチし、死んだような冬眠状態から一気に生き返るのです。自然界に存在する「花の香り」は、実に不思議な「力」を持っています。


 私たちは霊的に、主イエス・キリストを大幹とする「ぶどうの枝」であり、「ぶどうの花」を咲かせる重要な「枝」です。そうです!主イエス・キリストは、一本の枝である「あなた」を必要とされ、その枝(あなた)を通してご自身の「栄光」、つまり花の「美」や花の「香り」を現そうと計画しているのです!


 「神の御前に在る者」とは、イエス・キリストを大幹とする、神の「命の木」の中に「枝」が存在することを指します。そして私たちは、常に大幹(イエス・キリスト)に結ばれているからこそ、「ぶどうの枝」として「ぶどうの花」を、常に咲かすことができるのではないでしょうか!


 何度も繰り返しますが、私たちはイエス・キリストに在って(つながれて)初めて、「ぶどうの実」を結ぶ「花」を咲かすことのできる存在です。私たちは、沢山の「ぶどうの枝」であっても、イエス・キリストに在る一つの花を咲かせる、つまり「ぶどうの花」を現すべく創造されていることを、覚えようではありませんか!


 パウロは更に、「キリストに結ばれて」と述べていますが、私たちが常に「イエス・キリストに結ばれている」こと、この素晴らしい「真理」をいつも覚えて下さい!「結ばれる」とは、私たちが「キリストの花嫁」として、「花婿」イエス・キリストとの、永遠の「愛の交わり」に迎え入れられていることを指します!そしてこの言葉は、「キリストを知るという知識の香り」(14節)に通じるものです。


 この「知る」ということが、キリストに結ばれる上での、「鍵」となる重要な言葉です。「知る」ことは、交わりを前提として出てくる言葉です。愛する相手を「交わり」を通して深く知ること、これが「一体化」の現れです。ですから、イエス・キリストとの「一体化」を通して、「知識の香り」が放たれるのです。聖霊様は、私たちが「キリストの花嫁」として、キリストの「良き香り」を放つよう、「花嫁の香り」を用意して下さいます。


 ところで、あなたは「花婿の香り」を知っていますか?私たちが、「花婿の香り」を知ること無くして、私たちの中から「キリストの香り」は出て来ません。愛する方の「香り」が、自分の全てを覆うなど「一体化」した時に初めて、自分も愛する方の「香り」に包まれ、それと同時に自分の内側からも、愛する方の「香り」が放たれるようになること、これが「知る」ということです。


 互いに「愛の交わり」を為す時、それは互いの「香り」を共有することです。ですから「花婿の香り」は、あなたが花婿イエス・キリストと、霊的に親しく交わることによって、至る所に「キリストの良き知識の香り」を放つことができるのです。交わること無くして、キリストの「良き香り」を放つことは不可能です。ですから私たちが、更に花婿の「良き香り」を放ちたいのであれば、「良き香り」の源イエス・キリストをストレートに追い求め、更に花婿を深く「知る」必要があります!


 聖霊様は、あなたに急き立てます!「もっとストレートに、主イエス・キリストの御前に出て来て、その臨在の中から放たれる、彼の芳しい甘美な香りを求めなさい!そうすればあなたは、命から命に至るイエス・キリストの、甘美な香りを帯びた美しい花嫁として、全てが整えられていくでしょう!」


 パウロは結びの言葉として、「語る(speak)」ことを命じています。私たちは、何故「異言」を語るのでしょうか?上からの「力」を得るために、「異言」は確かに必要な言葉です。しかし、何よりも私たちの内側から、花婿を求める本当の「愛の香り」が出て来る時に、イエス・キリストが常に私たちを支えて下さり、「キリストの枝」として必ず「良き花」を咲かせ、「良き香り」を放つ者へと造り変えて下さいます。そして、最終的に「ぶどうの実」を結ぶべく、霊的な確信と希望をもたらす「霊の言葉」を、常に天から注いで下さるのです。ですから、私たちは更に「神の御前でキリストに結ばれる」よう、この「新しい言葉」を語ろうではありませんか!


 花を咲かせた果樹は、いずれ「時」が来れば全ての花が散ります。しかし、その後に必ず「実」が残ります。「実を結ぶ」ために、「花」は(時が来たら)散らなければなりません。不思議なことに、果樹の花の場合、「花」の寿命はとても短いです。しかし「香り」は、「花」が散って終わる訳ではありません。確かに「花」としての香りは、「散ればそれで終わり!」などと思われるでしょう。ところが、その後に来る香り、即ち「実の香り」が新たに放たれるのです。


 そうです!私たちは、「キリストの花嫁」という「実の香り」を、人々に与えることのできる者に変革されるのです!私たちから放たれる「実の香り」によって、人々が「イエス・キリスト(命の実)」を食した時、「キリストの言葉が、私にとって如何に甘いものであり、又麗しい必要な言葉であるか、ようやく味わうことができました。あなたを通して、イエス・キリストの御前に導かれたことを感謝します!」などの救いの「証言」が、次々と起こされてくることを望みますか?


 聖霊様は、死から死へと至らせる、この世の「古い言葉」ではなく、命から命に至らせる、イエス・キリストの「命の言葉」を人々に語るべく、私たちの唇に霊的な「知識の言葉」を用意して下さいます!聖霊様は言われます。「あなたはキリストの花嫁であり、イエス・キリストの甘美な香りを放つ、ぶどうの枝として召し出されているのです!」麗しい主イエス・キリストとの、貴い「香り」を共有し合う「愛の交わり」の時が、益々豊かに与えられますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


※D・ウィルカーソ著『ただキリストを求めて』(角笛出版)77項から引用


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